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2016年6月10日金曜日

かっこいい言葉の蝶々

自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「創造者の道」)

表題を「かっこいい言葉の蝶々」としたが、わたくしはかっこいい言葉を愛している。そして、いまニーチェを引用したけれどさ・・・

たとえば瀧口修造の詩ってのはかっこいいねえ、たまらんな

地上の星

鳥、千の鳥たちは 
眼を閉じ眼をひらく 
鳥たちは 
樹木のあいだにくるしむ。

真紅の鳥と真紅の星は闘い 
ぼくの皮膚を傷つける 
ぼくの声は裂けるだろう 
ぼくは発狂する 
ぼくは熟睡する。

鳥の卵に孵った蝶のように 
ぼくは土の上に虹を書く 
脈搏が星から聴こえるように 
ぼくは恋人の胸に頬を埋める。






絶対への接吻

…彼女は熱風のなかの熱、鉄のなかの鉄。 しかし灰のなかの鳥類である彼女の歌。 彼女の首府にひとでが流れる。 彼女の彎曲部はレヴィアタンである。 彼女の胴は、相違の原野で、水銀の墓標が妊娠する焔の手紙、それは雲のあいだのように陰毛のあいだにある白昼ひとつの白昼の水準器である。 彼女の暴風。 彼女の伝説。 彼女の営養。 彼女の靴下。 彼女の確証。 彼女の卵巣。 彼女の視覚。 彼女の意味。 彼女の犬歯。 無数の実例の出現は空から落下する無垢の飾窓のなかで偶然の遊戯をして遊ぶ。 コーンドビーフの虹色の火花。 チーズの鏡の公有権。 婦人帽の死。…





遮られない休息  瀧口修造

跡絶えない翅の 
幼い蛾は夜の巨大な瓶の重さに堪えている 
かりそめの白い胸像は雪の記憶に凍えている 
風たちは痩せた小枝にとまって貧しい光に慣れている 
すべて 
ことりともしない丘の上の球形の鏡


…………

若鷲のみ魂にさゝぐ  春とともに  瀧口修造

いまだ 還らず・・・
いまだ 還らず・・・
巨いなる空の涯て
雲は燃え
星はかがやけれど
君はつひに還らず

されど
故里に春はかへりぬ
水温るみ 餅草萌ゆる
あゝ その春のごとくに
ちちははの胸にかへらむ
さとびとの胸にかへりて
はげしくも炎と燃えむ
美まし國の護りとならむ

君は還りぬ

藤堂はTさんの戦時中の詩にこだわっていた。藤堂はTさんが死んで二年にもなるというのに、まだTさんのことを考えていた。……そしてこのところはっきりとしているのは、Tさんがあの詩を書いたのはどうしてなのか、またあの詩を書くことによって、Tさんがその後どんなに苦しい負担を担ってしまったか、ということをめぐって思いが寄って行くということだった。

Tさんは昭和十六年の三月、三人の警視庁特高警察に寝込みを襲われ、杉並区の留置場に連行されていた。取調べは週に一回程度で、内容は主として、日本のシュルレアリスム運動が国際共産党と関係があるかどうかの詮議にかけられていた……やがて夏になった。検事拘留となり、若い検事が取調べをやり直すことになるが、問題がシュルレアリスムの本質論と現実政治の関係になってくると、ことは複維となり、検事も困惑した表情を見せるようになる。Tさん自身、シュルレアリスムの政治的局面は得意とするところではなかったはずだ、と藤堂は思った。秋が更けて十一月中旬に、戦時下という時局に際し、今後慎重に行動するようにとの訓戒ののちに、Tさんは起訴猶予処分のまま釈放された。……

十二月八日、真珠湾の奇襲が起る。

多分その翌年の一月はじめに、Tさんは「大東亜戦争と美術」という二ページほどの評論を発表していた。そして多分その次の年の中頃に、「春とともにーー若鷲のみ魂にささぐ」という詩を書いた。それは十八年の十月出た戦争詩のアンソロジー『辻詩集』に求められての詩作だった。これは名高い詩集だった。ところがTさんの詳細をきわめた自筆の年譜にも、その詩を書き発表したことは記されていなかった。ましてTさん自身、こういう詩を書いたことがあると口にしたことは、Tさんと藤堂のつきあった二十五、六年の間一度もなかった。Tさんは決して口数の少ないほうではなかった……Tさんはこの上もなく自虐的なにがい気持で、「ええいと思って、」一種のしかたのない免罪符を買うつもりで「若鷲のみ魂にささぐ」を書いたのではなかったろうか。……「おれだってこういうとき弁明の詩を書くかも知れない。いや書くだろう」と藤堂は思った。そしてTさんは書いた。しかしこの詩が、以来小骨のようにTさんの咽喉にひっかかったのではなかったか。……

藤堂は「おれにも、無いと思いたい書きものや、行動はいくつもある」と冷静に思うことのできる年齢になっていた。

それにしてもTさんはこの詩にこだわったにちがいなかった。Tさんの戦中についてはよくこういう記述のされ方をした。「一九四一年の春、T氏は、シュルレアリスムと共産主義の関係に目をつけた官憲によって検挙される。この時、すでに美術統制ははぼ完了し、画壇は戦争画の花ざかりを迎えようとしていた。八カ月にわたる拘留ののち、T氏は釈放されるが、その後、雑誌からの原稿依頼も、友人の訪問も絶え、<深い孤独感>(自筆年譜のことば)の中で、敗戦を迎える。批評にかかわるT氏の夢は粉々に砕かれ、戦後にもちこされることになる。」しかし夢が砕かれたのは批評にかかわることにとどまらなかったのではないか。詩にかかわる夢も、一度粉々に砕かれてしまったのではないか。……「八月にわたる拘留ののち、釈放されるが、その後、雑誌からの原稿依頼も、友人の訪問も絶え、<深い孤独感>の中で、敗戦を迎える。」――その言い方の一部に、「止むを得ずして『春とともにーー若鷲のみ魂にささぐ』を執筆、発表」と書き入れるべきではなかったか。雑誌からの依頼もなく、というのは正しくない。重要な、困った、致し方ないというえば致し方ない、少なくとも二つないし三つの原稿依頼があったのではなかったか。そのことを記入すべきだった。そうすることによって、Tさんの思想と行動の一貫性の印象は失われ、傷つけられるかもしれないが、その傷からこそより深く、するどい痛感をともなった、別の何かが生れたのではなかったか。このところの藤堂は、何度も繰り返してそう思った。

Tさんはあの自分の詩を分析し、あの詩をめぐって百枚の論文を書くことによって、戦後の再出発をすることもできた。(飯島耕一「遠い傷痕」『冬の幻』所収)

…………

以下はみずからを凡人という谷川俊太郎の詩と、アランーーラカンが≪チョークの粉がつくる雲の中で教師然としているアラン≫と呼んだアランの「詩と散文」論である。


世間知ラズ  谷川俊太郎


自分のつまさきがいやに遠くに見える
五本の指が五人の見ず知らずの他人のように
よそよそしく寄り添っている

ベッドの横には電話があってそれは世間とつながっているが
話したい相手はいない
我が人生は物心ついてからなんだかいつも用事ばかり
世間話のしかたを父親も母親も教えてくれなかった

行分けだけを頼りに書きつづけて四十年
おまえはいったい誰なんだと問われたら詩人と答えるのがいちばん安心 
というのも妙なものだ 
女を捨てたとき私は詩人だったか 
好きな焼き芋を食ってる私は詩人なのか 
頭が薄くなった私も詩人だろうか 
そんな中年男は詩人でなくてもゴマンといる

私はただかっこいい言葉の蝶々を追っかけただけの 
世間知らずの子ども 
その三つ児の魂は 
人を傷つけたことも気づかぬほど無邪気なまま 
百へとむかう

詩は 
滑稽だ


私は詩人の作品を読むのが苦手だ。必然性のない韻、繰り返し、塞がれた穴が見えすぎるのだ。読んで貰つたら、もつとよく分かつた。さうすると、待つことのない動きに捉へられた。繰り返しを忘れて、それについて考へる時間さへなかつた。 韻は、その度に感じる小さな恐れによつて、どれも心地よかつた。聞こえてゐる詩をうまく終はらせることは、いつも、不可能だと思はれるのだから。この待つことのない動きは、 即興を思はせる。かうして私を旅へと導くものを、私は詩しか知らない。ここには前文もなく、 用心もない。私は自分が動き出すのを感じる。最初の言葉たちにも別れを告げる。リズムで、 私はやつて来るものを察する。述べてみよといふ呼び掛けであり、最高の詩は、これに応じる。

だが、もつと詳しく調べよう。詩の中では、いつでも二つのものが争つてゐる。規則的なリズムがあり、繰り返される韻を伴ふが、私はこれを常に感じてゐる必要がある。リズムに逆らふ物語りがあり、長い時間ではないが、時折そのためにリズムが隠れる。この芸は音楽家のもののやうだが、もつと分かりやすい。また、我々に自由な想像を許さないといふ点で、 より専制的なものでもある。その分、慰められることも少ない。しかし、音楽のときのやうに、 あちこちに、休息のやうな和解がある。リズムのある一節と、語られた一節とが一緒に終はる瞬間が 来るのだから。自然さ、言葉の単純さと意味の豊かさが、奇跡を起こすのはこの時だ。詩人がそれまでに少し苦労をしてゐることさへも、悪くはないのだ。落ちる真似をする軽業師のやうに。しかし、 それはいつでも、船での旅のやうに止まることがない。詩はさういふふうに受け取らねばならない。 この条件がないと、注意を引くリズムとリズムを外さうとする動きを調和させる力が全く理解できないだらう。

雄弁も、また、一種の詩である。そこには音楽的な何かが簡単に見つかる。言ひ回しの強弱、均整、 響きの調整、そして予告され、期待され、言葉が奇跡のやうにそれに応へる結末だ。だが、かうした極まりは隠されてゐる。思ひが脹らむと、演説家はこれに従はないことがよくある。残るのは、時間を 満たすといふ必要と、避けられない動き、心配と苛立つた疲れで、これはやがて聴衆に伝はる。しかし、 ここでも読むのではなく聞かねばならない。さうしないと、繰り返しやつなぎの言葉で嫌になるだらう。 だが、これは、特に演説家が議論を展開してゐるときには、必要なものなのだ。読むのでは、集まつた 人達の抑へた動きが見えない。書斎の静けさと二千人の沈黙には確かな違ひがある。そして、ソクラテスが、 大きな理由を述べてゐる。「君が話の終はりに来たときには、私は最初を忘れて了つた。」さらに、 全ての詭弁は雄弁である。また、さわぐ心はどれも、他の者にも、自分自身にも雄弁である。確信は、 時の歩みにより、また、証明が現れることで、強まる。それで、雄弁は不幸を予言するには、あるいは、 過ぎ去つた不幸を呼び起こすには、特に適してゐるのだ。この人間は、不幸な者が犯罪へと向かふやうに 結論に至る。終つた不幸に戻るといふのは、最悪の道行きだ。運命論的な考へがその証拠を手に入れるのは、 そのやうにしてなのだから。

散文は我々を解放する。それは詩でも、雄弁でも、音楽でもない。中断された歩み、後戻り、 突然の強い調子が、再読と熟考を命ずることからも感じられるやうに。散文は時間から解き放たれてをり、型どほりの議論からも自由である。かういふ議論は雄弁の一手段に過ぎない。真の散文は 私を急せかさない。繰り返しもない。 しかし、このため、人が私に散文を読んでくれるのは、 堪へられない。詩は、自然な言葉が、人々が言語を耳で聞いていた時代に、固定されたものだ。 しかし、今では、人はそれを眼で見る。小さな声に出しながら読むことは、少なくなる一方だ。 人間は殆ど変つてゐないと、私は思ふ。しかし、ここには重要な進展がある。この知的な対象を 眼が追ふのだから。眼はその中心を選び、そこに全てを持ち帰る。画家のやうに。組み直し、 自分で強調し、視点を選び、全ての頂に同じ日の光を求める。散歩する者はこのやうに歩むのだが、 いつでも早足すぎる。特に若く力があると、さうだ。脚が悪い者だけがしつかりと見る。かうして、 散文は、正義と同様に、脚を引きずりながら進む。(アラン「詩と散文について」『精神と情念に関する81章』所収)

…………

私はこれまでに時どき、詩人たちについてかなり手きびしく語ったことがある。雄弁家、それも非凡な雄弁家たちを、私はそれ以上に大して愛しているわけではない。いたって学識のある人が、そのことで私につっかかってきた。どんな話でも心底から出たものは雄弁の動きとリズムをおのずと帯びる。ただすぐれた詩においてのみ、このリズムは一そう規則立っているのだ、と彼はいう。彼はそこで実例をそらで引用したが、なかなかうまく択んだ。私は散文をしかるべく弁護するすべを知らなかった。散文は、読者が声を出して読むとかならず損なわれる。そして目の方がいっそうよく散文をとらえるように私は思う。散文には媚がない。耳の期待をうらぎる。散文は絶対に歌おうとはしない。あの巫女の痙攣など散文は知らない。どんな遠慮も知らず、いかなる宗教臭もない。これこそ、すっかりはだかになった人間性そのものである。筆致が道具のように喰い入るのだ。

ナポレオンはフランス野戦のとき、ソワッソンの町が二日も早く陥落したのち、しばし無言であったが、やがていった、「そんなことは偶発事にすぎぬ。だがあのときは幸運がほしかった。」これが、ほかの時にはまたみずから運命を作った人のことばである。ここには翼のはばたきがある。美辞をつらねる人々は、ためしにやることしかしないが、この人間は勝負に出るのだ。注目にあたいすることだが、訂正加筆をせぬこの術の他の実例を求めにゆくとすれば、ナポレオンと同時代、そして彼と同じ行動の人、スタンダールに、私はそれを求める。「彼は脚下に二十里四方の土地を見た。ハヤブサであろう、彼の頭上の大岩から飛び立った鳥が、いたって大きな輪を、音もなく、えがいているのがときどき彼の視界に入った。ジュリアンの目は、機械的にこの猛禽のあとを辿っていた。その落ち着いた、しかも力強い動きが、彼の心を打った。彼はあの力をうらやんだ。彼はあの孤立をうらやんだ。それはナポレオンの運命であった。いつの日か、それが彼の運命になるだろうか。」(『赤と黒』)

修辞と呼ばれているあの模倣の痕跡のごときを、私はここにはまったく見かけない。しかも、喜劇なきこの散文は、公定の芸術(散文)が美辞をつらねて弁じ立てていた一時代のものなのである。ここには、欲望というよりもむしろ意志が、姿をあらわしている。行動が感情をむさぼり食ってしまう。同様に、この散文は何巻もの詩をむさぼり食ってしまう。ちょうど土が水を吸いこむように。イメージは、ここではオペラの舞台装置とはちがう。イメージは動きであり、稲妻であり、とぶ鳥のかげなのだ。「えがく」というこの語が、二つの意味をもっているとは、すばらしい。動きをえがくことは、まさにその動きをすることである。それゆえ、一方で描写は比較する。しかし他方で、描写は象徴するのだ。

散文とは何か、散文は何をなし得るのか、散文はどうあるべきか。私はこれらを知っているとはまだとてもいえない。絵画について何かと書く芸術批評家たちに、私はしばしばおどろいた。なぜなら、絵画は散文よりもなお一そう隠されているからである。こんにちでは、私は詩と散文のあいだの対立関係に気づいている。詩は、ふとした出会いで集まったイメージを延べ拡げ、かつ成長させる。そしてある種の散文は、こうした装飾を徹底的に叩きのめすのである。しかしながら、ヴァイオリンの弾き方がまなばれねばならぬごとく、散文の弾き方も、まなばずしては体得されえない。スタンダールのなかに、装飾をあまりにうち倒してしまう一つの術を、私は見いだす。ところで一方、シャトーブリアンをまねるのは危険性なきにしもあらず、ということを私は知っている。逆に、スタンダールは、ひとりならずの若い天分を枯渇させるだろう。

スタンダールは、雄弁家から、ありうる限りにおいてはなれている。説教は大げさで冗漫なものである。説教は耳と一致させなばならない。いく度も耳を打ち、そして耳をひき戻さねばならない。用意しておき、前ぶれしておくこと。ともかく、雄弁家の力、抒情の力を作っているのは、期待なのだ。韻の期待、区切りの期待、声の抑揚の期待。一完結文とは、手はずをととのえられ、もつれ、そして解決を見る劇のようなものである。それは窓ごしに見られた嵐なのだ。他方、散文の芸術家は事物の空洞そのもののなかにいる。彼の足音の反響がきこえてくる。だが二度とこだましない。ただ一度きりなのだ。彼は道具を休めて空を仰ぐ。詩の一切が通りすぎてゆく。丘から丘にとどく音のように。あのはだかの文体の魔術、それは喜劇を見る子供のように待っているのではなく、ふりかえって自己のうしろを注視することである。目の一躍によって読みかえす。イメージをもう一度しっかり捉える。あの固定した線条があなたを駆けさせる。これに反して、雄弁の芸術は、坐ってじっとしているわれわれのために駆ける。このゆえに、一方の芸術は朗読されたがり、他方の芸術は彫り刻まれることを求める。散文、つねに片足に体をかける、ブロンズ製の、いそぎの使者。(アラン『プロポ集』井沢義雄/杉本秀太郎訳)

次の文もつけ加えておこう。≪あの「詩人」≫とはもちろんヴァレリーである。

ある日のこと、さながら地獄界に降るようにしてアトリエの階段をきたのは、あの「詩人」だった。いつも何か怒ったような顔をしている彼だ。しかし不機嫌はたちまちほぐれ、彼はにこやかになった。( ……)

こうするうちに、自分の技倆に深くたのむところのある詩人は、詩作というあの長期労働を引き合いに出した。必要なのは、辛抱づよさということだ。不成功におわることがいくらでもあるということ、半成功は不成功よりなおはるかに危険なものだということ、彼はそういった点を説明してくれた。「まさに一歩ごとに、あの何ひとつ書かれていない丸い表面をふり返らねばならない。そうしてあの表面にぴっちり貼りついているような装飾の軌跡を作り出すことは、まずむつかしい。だからこそ、厳密な定型詩でなければ、仕事というものも案出というものも、私には考えられない。定型詩というものを、私は海のあの水位というものにたとえたい。海水は諸大陸のあいだをめぐり、諸海洋を区分しているのに、海の水位は、何物とも一致しない。しかも水位がすべてを決定している。規則に寸分たがわぬ定型詩などというものは、一行たりともありはしないのだ。しかし規則というものは、あの切れ目なく、また歪めようもない海の表面にもひとしい。その表面にわれわれがちっぽけな山々を、つまり語というものになった第二の素材を肉付けするわけだ。それにまた、何もかも詩によって言いつくされるわけでもない。というのも、あの上塗りが、何か意味をおびぬことには、詩にはならないのだから。必要なのは、ただ辛抱づよさだけだ、そう痛感したことが私には何度もあった。しかも、そう痛感したのは、きまって自分に辛抱が掛けているときだった」(アラン『彫刻家との対話』 杉本秀太郎訳)

…………

詩の擁護又は何故小説はつまらないか  谷川俊太郎

ーー「詩は何もしないことで忙しいのです」ビリー・コリンズ(小泉純一訳)

初雪の朝のようなメモ帳の白い画面を
MS明朝の足跡で蹴散らしていくのは私じゃない
そんなのは小説のやること
詩しか書けなくてほんとによかった

小説は真剣に悩んでいるらしい
女に買ったばかりの無印のバッグをもたせようか
それとも母の遺品のグッチのバッグをもたせようか
そこから際限のない物語が始まるんだ
こんぐらかった抑圧と愛と憎しみの
やれやれ

詩はときに我を忘れてふんわり空に浮かぶ
小説はそんな詩を薄情者め世間知らずめと罵る
のも分からないではないけれど

小説は人間を何百頁もの言葉の檻に閉じこめた上で
抜け穴を掘らせようとする
だが首尾よく掘り抜いたその先がどこかと言えば、
子どものころ住んでいた路地の奥さ

そこにのほほんと詩が立ってるってわけ
柿の木なんぞといっしょに
ごめんね

人間の業を描くのが小説の仕事
人間に野放図な喜びをもたらすのが詩の仕事

小説の歩く道は曲がりくねって世間に通じ
詩がスキップする道は真っ直ぐ地平を越えて行く

どっちも飢えた子どもを腹いっぱいにしてやれないが
少なくとも詩は世界を怨んじゃいない
そよ風の幸せが腑に落ちているから
言葉を失ってもこわくない

小説が魂の出口を探して業を煮やしてる間に
宇宙も古靴も区別しない呆けた声で歌いながら
祖霊に口伝えされた調べに乗って詩は晴れ晴れとワープする

人類が亡びないですむアサッテの方角へ


………………

アランについてあまり知らない人たちのためにこうつけ加えておこう。

彼(小林秀雄)の批評の「飛躍的な高さ」は、やはり、ヴァレリー、ベルクソン、アランを読むこと、そしてそれらを異種交配してしまうところにあった。公平にいって、彼の読みは抜群であったばかりでなく、同時代の欧米の批評家に比べても優れているといってよい。今日われわれが小林秀雄の批評の古さをいうとしたら、それなりの覚悟がいる。たとえば、サルトル、カミュ、メルロ=ポンティの三人組にいかれた連中が、いま読むに耐えるテクストを残しているか。あるいは、フーコー、ドゥルーズ、デリダの新三人組を、小林秀雄がかつて読んだほどの水準で読みえているか。なにより、それが作品たりえているか。そう問えば、問題ははっきりするだろう。(柄谷行人「交通について」――中上健次との共著、『小林秀雄をこえて』所収)


アランが世に知られるきっかけとなったのは、ドレフュス事件(1894年)の際に、スパイ容疑をかけられたドレフュス大尉を擁護し軍部を攻撃する論陣を張ったことによるらしい。

ほかにも1936年に組織された反ナチズム知識人連盟の会長になっている。

ーーところで後年レイシズムなんたらと言っていないわけではない1901年生まれのラカンセンセはこの時期なにをしてたんだろ? 臨床家として「ひきこもって」いたのだろうか・・・

1938年に、ラカンは、パリ大学医学部のサンタンヌに収容されているアルトーを訪れ、「この男は決してふたたび書けないだろう」とかオッシャテいたらしいが(後年、アルトーの方から、docteur Lについて、あのおっちゃんは érotomanieだよ、と「診断」している)。

ひきこもりといえば、フロイトーーあの『集団心理学と自我の分析』で、ヒトラーの出現を予言したといえる彼もひきこもり系である。

フロイトの選挙投票の選好(フロイトの手紙によれば、彼の選挙区にリベラルな候補者が立候補したときの例外を除いて、通例は投票しなかった)は、それゆえ、単なる個人的な事柄ではない。それはフロイトの理論に立脚している。フロイトのリベラルな中立性の限界は、1934年に明らかになった。それは、ドルフースがオーストリアを支配して、共同体国家(職業共同体)を押しつけたときのことだ。そのときウィーンの郊外で武装した衝突が起った(とくにカール マルクス ホーフの周辺の、社会民主主義の誇りであった巨大な労働者のハウジングプロジェクトにて)。この情景は超現実主義的な様相がないわけではない。ウィーンの中心部では、有名なカフェでの生活は通常通りだった(ドルフース自身、この日常性を擁護した)、他方、一マイルそこら離れた場所では、兵士たちが労働者の区画を爆撃していた。この状況下、精神分析学連合はそのメンバーに衝突から距離をとるように指令していた。すなわち事実上はドルフースに与することであり、彼ら自身、四年後のナチの占領にいささかの貢献をしたわけだ。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

アランの話に戻れば、ボーヴォワールの日記を読むと、ふたつの大戦間、いかにアランが敬愛されていたかを知ることができる。ただし第二次世界大戦間際には、彼のオプティミズムは、ナチの侵攻に対しては通用しない、という意味のことを、サルトルかあるいは他の友人との会話が書かれていたはずだが、いま確めてみることはしない。





2015年7月16日木曜日

年だけいった大ども

けっきょくのところ、われわれに確信を与えているものは、確かな認識であるよりもむしろはるかにより多く習慣であり先例であること、しかもそれにもかかわらず少し発見しにくい真理については、それらの発見者が一国民の全体であるよりもただ一人の人であるということのほうがはるかに真実らしく思われるのだから、そういう真理にとっては賛成者の数の多いことはなんら有効な証明ではないのだ、ということを知った。(デカルト『方法序説』野田又夫訳)
こどもはまず、自分をとりまく人たち、自分にすべての禍福をもたらしてくれる人たちを観察する。すなわち彼はまず政治的に生きるわけだ。この柔軟な精神は、まず慣習や気まぐれや情念を反映する。真実のものよりも好都合のものを、知識よりも礼節をはるかに貴しとする習慣は、それゆえわれわれだれしものうちにあってもっとも古いものである。多くの無分別、頑迷、不毛の論議といったものは、こうしたところから説明できる。われわれのまわりにも年だけいった大どもにはこと欠かない。(アラン「外的秩序と人間的秩序」「プロポ集」井沢義雄・杉本秀太郎訳)

…………

法学者であり東京大学先端科学技術研究センター教授でもある玉井克哉なる人物が昨晩(2015.07.16)次のようなツイートをしている。

@tamai1961: 本当は、大学というのは、すべてを疑う、疑った上で自分で確かめる、そういう知的態度を身に着ける場なのです。リンゴが落ちるのに月が落ちないのはなぜか。同じ法則で説明できないか。そういう発想を伸ばすところなのです。空気に乗ってアジ演説をする者に給料を払うために存在しているのではない。

それにたいして山口二郎が次ぎのように返している。

山口二郎@260yamaguchi: 知ったふうなことを言うなよ。もっとも疑うべきは、権力者のプロパガンダとデマゴギーだろう。この人は法学部でも、政治学を勉強していないのだろうから、政治の初歩がわかっていないのだろうが。権力者のウソを疑うために私は給料をもらっているのだ https://t.co/U5qvs28ZIb

玉井氏が《すべてを疑う、疑った上で自分で確かめ》て発言しているのか、山口氏のいうように《もっとも疑うべきは、権力者のプロパガンダとデマゴギー》であるのかは知るところではない。どちらのほうが《われわれのまわり》にいる《年だけいった大ども》であるのかも保留しておこう。ただしこうは引用しておこう。

根源的悪とは、最も極端な場合、規範を乱暴に破ることではなく、パトローギッシュな理由(感性的動因による配慮(罰の恐れ、ナルシシスティックな満足、仲間からの賞賛等々:引用者)から規範に服従することなのである。間違った理由から正しいことを行うこと、自分の利益になるから法に従うということは、たんに法を侵犯するよりもはるかに悪いことなのだ。(ジジェク『メランコリーと行為』)

これはラカン派(の一部)がカントの倫理から読み取った考え方である。この文だけでは解りにくいかもしれない。この文の前後は「デモの猥雑な補充物としての「享楽」」の後半に抜き取りがある。核心は《間違った理由から正しいことを行うこと》とは、法の尊厳を侮蔑すること、《法の自己破壊、法の自殺行為》ということである。

さて、ふたりのやりとりを垣間見て、原発事故一周年の間もないことの2012年3月24日 立教大学総長 吉岡知哉による「卒業生の皆さんへ(2011年度大学院学位授与式)」の言葉を思い出した。《「考える」という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為です》と。もちろんこの《反時代的・反社会的な行為》を押し潰そうとする勢力が最近いっそう顕著になってきているのを知らないわけではないが。

では、大学の存在根拠とはなにか。

一言で言えばそれは、「考えること」ではないかと思います。

大学とは考えるところである。もう少し丁寧に言うと、人間社会が大学の存在を認めてきたのは、大学が物事を徹底的に考えるところであるからだと思うのです。だからこそ、大学での学びについて、単なる知識の獲得ではなく、考え方、思考法を身につけることが大切だ、と言われ続けてきたのでしょう。

現実の社会は、歴史や伝統、あるいはそのときどきの必要や利益によって組み立てられています。日常を生きていく時に、日常世界の諸要素や社会の構造について、各自が深く考えることはありません。考えなくても十分生きていくことができるからです。あるいは、日常性というものをその根拠にまで立ち戻って考えてしまうと、日常が日常ではなくなってしまうからだ、と言ったほうがよいかもしれません。

しかし、マックス・ウェーバーが指摘したように、社会的な諸制度は次第に硬直化し自己目的化していきます。人間社会が健全に機能し存続するためには、既存の価値や疑われることのない諸前提を根本から考え直し、社会を再度価値づけし直す機会を持つ必要があります。

大学は、そのために人間社会が自らの中に埋め込んだ、自らとは異質な制度だと言うことができるのではないでしょうか。大学はあらゆる前提を疑い、知力の及ぶ限り考える、ということにおいて、人間社会からその存在を認知されてきたのです。

既存の価値や思考方法自体を疑い、それを変え、時には壊していくことが「考える」ということであるならば、考えるためには既存の価値や思考方法に拘束されていてはならない。つまり、大学が自由であり得たのは、「考える」という営みのためには自由がなければならないことをだれもが認めていたからに他ならない。大学の自由とは「考える自由」のことなのです。

言葉を換えると、大学は社会から「考える」という人間の営みを「信託」されているということになると思います。


もちろん、われわれは加藤周一や大江健三郎の師匠筋であったユマニスト渡辺一夫の言葉を引用することもできる。

秩序は守られねばならず、秩序を乱す人々に対しては、社会的な制裁を当然加えてしかるべきであろう。しかし、その制裁は、あくまでも人間的でなければならぬし、秩序の必要を納得させるような結果を持つ制裁でなければならない。

更にまた、これは忘れられ易い重大なことだと思うが、既成秩序の維持に当たる人々、現存秩序から安寧と福祉とを与えられている人々は、その秩序を乱す人々に制裁を加える権利を持つとともに、自らが恩恵を受けている秩序が果たして永劫に正しいものか、動脈硬化に陥ることはないものかどうかということを深く考え、秩序を乱す人々のなかには、既成秩序の欠陥を人一倍深く感じたり、その欠陥の犠牲になって苦しんでいる人々がいることを、十分に弁える義務を持つべきだろう。(渡辺一夫「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」)

社会秩序が動脈硬化に陥っているとき、その既存秩序を破壊しよう、あるいはその秩序の座標軸を変えようとする行為は、その秩序にとっては「悪」とならざるをえないだろう。

行為とは、不可能なことをなす身振りであるだけでなく、可能と思われるものの座標軸そのものを変えてしまう、社会的現実への介入でもあるのだ。行為は善を超えているだけではない。何が善であるのか定義し直すものでもあるのだ。(ジジェク「メランコリーと行為」『批評空間』2001 Ⅲ―1所収)

そもそも殆んどのひとは、《パトローギッシュな理由(感性的動因による配慮(罰の恐れ、ナルシシスティックな満足、仲間からの賞賛等々)から規範に服従》しているだけではないか。

《すべてを疑う、疑った上で自分で確かめる、そういう知的態度を身に着け》たつもりになっている学者たちはどうか?

学者というものは、精神上の中流階級に属している以上、真の“偉大な”問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。(ニーチェ『悦ばしき知識』)

もちろんいまさらニーチェでもあるまい。かつまた例外もあるだろう。とはいえおおむねはいまだーーいや現在ではいっそうーー次ぎの通りではないか。

文学や自然科学の学生にとってお極まりの捌け口、教職、研究、または何かはっきりしない職業などは、また別の性質のものである。これらの学科を選ぶ学生は、まだ子供っぽい世界に別れを告げていない。彼らはむしろ、そこに留まりたいと願っているのだ。教職は、大人になっても学校にいるための唯一の手段ではないか。文学や自然科学の学生は、彼らが集団の要求に対して向ける一種の拒絶によって特徴づけられる。ほとんど修道僧のような素振りで、彼らはしばらくのあいだ、あるいはもっと持続的に、学問という、移り過ぎて行く時からは独立した財産の保存と伝達に没頭するのである。( ……)彼らに向かって、君たちもまた社会に参加しているのだと言ってきかせるくらい偽りなことはない。( ……)彼らの参加とは、結局は、自分が責任を免除されたままで居続けるための特別の在り方の一つに過ぎない。この意味で、教育や研究は、何かの職業のための見習修業と混同されてはならない。隠遁であるか使命であるということは、教育や研究の栄光であり悲惨である。(レヴィ= ストロース『悲しき熱帯』 Ⅰ 川田順造訳 p77-79)

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The time is out of joint: O cursed spite,
That ever I was born to set it right,(Hamlet 1.5.189-190)

この世の関節がはずれてしまったのだ。なんの因果か、
それを直す役目を押しつけられるとは!(シェイクスピア 福田恆存訳)
世界はまちがいもなく脱臼してしまっている。暴力的な動きによってのみ、それをふたたびはめ込むことができる。ところが、それに役立つ道具のうちには、ひとつ、小さく、弱くて、軽やかに扱ってやらなきゃならないものがあるはずだ。(ブレヒト『真鍮買い』)

さてここでいささか過激なジジェクの言葉を抜き出しておこう。おそらく玉井サンには思いもよらぬ主張であろう。

私たちがますますもって必要としているのは、私たち自身に対するある種の暴力なの だということです。イデオロギー的で二重に拘束された窮状から脱出するためには、ある種の暴力的爆発が必要でしょう。これは破壊的なことです。たとえそれが身体的な暴力ではないとしても、それは過度の象徴的な暴力であり、私たちはそれを受け入れなければなりません。そしてこのレヴェルにおいて、現存の社会を本当に変えるためには、 このリベラルな寛容という観点からでは達成できないのではないかと思っています。おそらくそれはより強烈な経験として爆発してしまうでしょう。そして私は、これこそ、 つまり真の変革は苦痛に充ちたものなのだという自覚こそ、今日必要とされているのではないかと考えています 。(『ジジェク自身によるジジェク』)
資本主義社会では、主観的暴力((犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。(ジジェク『暴力』)

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学者のおおくは専門家なのでありーーすぐれた学者ならの話だがーー、彼らの専門性に敬意を表するのに吝かではないつもりだ。だが、

プロフェッショナルというのはある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている。(…)プロフェッショナルは絶対に必要だし、 誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。 (蓮實重彦『闘争のエチカ』)

彼らは“Sie wissen das nicht, aber sie tun es” 、「彼らはそれを知らないが、そうする」(マルクス)のである。すなわち共同体の変容の可能性を抑圧するのだ。