自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「創造者の道」)
表題を「かっこいい言葉の蝶々」としたが、わたくしはかっこいい言葉を愛している。そして、いまニーチェを引用したけれどさ・・・
たとえば瀧口修造の詩ってのはかっこいいねえ、たまらんな
地上の星
鳥、千の鳥たちは
眼を閉じ眼をひらく
鳥たちは
樹木のあいだにくるしむ。
真紅の鳥と真紅の星は闘い
ぼくの皮膚を傷つける
ぼくの声は裂けるだろう
ぼくは発狂する
ぼくは熟睡する。
鳥の卵に孵った蝶のように
ぼくは土の上に虹を書く
脈搏が星から聴こえるように
ぼくは恋人の胸に頬を埋める。
絶対への接吻
…彼女は熱風のなかの熱、鉄のなかの鉄。 しかし灰のなかの鳥類である彼女の歌。 彼女の首府にひとでが流れる。 彼女の彎曲部はレヴィアタンである。 彼女の胴は、相違の原野で、水銀の墓標が妊娠する焔の手紙、それは雲のあいだのように陰毛のあいだにある白昼ひとつの白昼の水準器である。 彼女の暴風。 彼女の伝説。 彼女の営養。 彼女の靴下。 彼女の確証。 彼女の卵巣。 彼女の視覚。 彼女の意味。 彼女の犬歯。 無数の実例の出現は空から落下する無垢の飾窓のなかで偶然の遊戯をして遊ぶ。 コーンドビーフの虹色の火花。 チーズの鏡の公有権。 婦人帽の死。…
遮られない休息 瀧口修造
跡絶えない翅の
幼い蛾は夜の巨大な瓶の重さに堪えている
かりそめの白い胸像は雪の記憶に凍えている
風たちは痩せた小枝にとまって貧しい光に慣れている
すべて
ことりともしない丘の上の球形の鏡
…………
若鷲のみ魂にさゝぐ 春とともに 瀧口修造
いまだ 還らず・・・
いまだ 還らず・・・
巨いなる空の涯て
雲は燃え
星はかがやけれど
君はつひに還らず
されど
故里に春はかへりぬ
水温るみ 餅草萌ゆる
あゝ その春のごとくに
ちちははの胸にかへらむ
さとびとの胸にかへりて
はげしくも炎と燃えむ
美まし國の護りとならむ
君は還りぬ
藤堂はTさんの戦時中の詩にこだわっていた。藤堂はTさんが死んで二年にもなるというのに、まだTさんのことを考えていた。……そしてこのところはっきりとしているのは、Tさんがあの詩を書いたのはどうしてなのか、またあの詩を書くことによって、Tさんがその後どんなに苦しい負担を担ってしまったか、ということをめぐって思いが寄って行くということだった。
Tさんは昭和十六年の三月、三人の警視庁特高警察に寝込みを襲われ、杉並区の留置場に連行されていた。取調べは週に一回程度で、内容は主として、日本のシュルレアリスム運動が国際共産党と関係があるかどうかの詮議にかけられていた……やがて夏になった。検事拘留となり、若い検事が取調べをやり直すことになるが、問題がシュルレアリスムの本質論と現実政治の関係になってくると、ことは複維となり、検事も困惑した表情を見せるようになる。Tさん自身、シュルレアリスムの政治的局面は得意とするところではなかったはずだ、と藤堂は思った。秋が更けて十一月中旬に、戦時下という時局に際し、今後慎重に行動するようにとの訓戒ののちに、Tさんは起訴猶予処分のまま釈放された。……
十二月八日、真珠湾の奇襲が起る。
多分その翌年の一月はじめに、Tさんは「大東亜戦争と美術」という二ページほどの評論を発表していた。そして多分その次の年の中頃に、「春とともにーー若鷲のみ魂にささぐ」という詩を書いた。それは十八年の十月出た戦争詩のアンソロジー『辻詩集』に求められての詩作だった。これは名高い詩集だった。ところがTさんの詳細をきわめた自筆の年譜にも、その詩を書き発表したことは記されていなかった。ましてTさん自身、こういう詩を書いたことがあると口にしたことは、Tさんと藤堂のつきあった二十五、六年の間一度もなかった。Tさんは決して口数の少ないほうではなかった……Tさんはこの上もなく自虐的なにがい気持で、「ええいと思って、」一種のしかたのない免罪符を買うつもりで「若鷲のみ魂にささぐ」を書いたのではなかったろうか。……「おれだってこういうとき弁明の詩を書くかも知れない。いや書くだろう」と藤堂は思った。そしてTさんは書いた。しかしこの詩が、以来小骨のようにTさんの咽喉にひっかかったのではなかったか。……
藤堂は「おれにも、無いと思いたい書きものや、行動はいくつもある」と冷静に思うことのできる年齢になっていた。
それにしてもTさんはこの詩にこだわったにちがいなかった。Tさんの戦中についてはよくこういう記述のされ方をした。「一九四一年の春、T氏は、シュルレアリスムと共産主義の関係に目をつけた官憲によって検挙される。この時、すでに美術統制ははぼ完了し、画壇は戦争画の花ざかりを迎えようとしていた。八カ月にわたる拘留ののち、T氏は釈放されるが、その後、雑誌からの原稿依頼も、友人の訪問も絶え、<深い孤独感>(自筆年譜のことば)の中で、敗戦を迎える。批評にかかわるT氏の夢は粉々に砕かれ、戦後にもちこされることになる。」しかし夢が砕かれたのは批評にかかわることにとどまらなかったのではないか。詩にかかわる夢も、一度粉々に砕かれてしまったのではないか。……「八月にわたる拘留ののち、釈放されるが、その後、雑誌からの原稿依頼も、友人の訪問も絶え、<深い孤独感>の中で、敗戦を迎える。」――その言い方の一部に、「止むを得ずして『春とともにーー若鷲のみ魂にささぐ』を執筆、発表」と書き入れるべきではなかったか。雑誌からの依頼もなく、というのは正しくない。重要な、困った、致し方ないというえば致し方ない、少なくとも二つないし三つの原稿依頼があったのではなかったか。そのことを記入すべきだった。そうすることによって、Tさんの思想と行動の一貫性の印象は失われ、傷つけられるかもしれないが、その傷からこそより深く、するどい痛感をともなった、別の何かが生れたのではなかったか。このところの藤堂は、何度も繰り返してそう思った。
Tさんはあの自分の詩を分析し、あの詩をめぐって百枚の論文を書くことによって、戦後の再出発をすることもできた。(飯島耕一「遠い傷痕」『冬の幻』所収)
…………
以下はみずからを凡人という谷川俊太郎の詩と、アランーーラカンが≪チョークの粉がつくる雲の中で教師然としているアラン≫と呼んだアランの「詩と散文」論である。
世間知ラズ 谷川俊太郎
五本の指が五人の見ず知らずの他人のように
よそよそしく寄り添っている
ベッドの横には電話があってそれは世間とつながっているが
話したい相手はいない
我が人生は物心ついてからなんだかいつも用事ばかり
世間話のしかたを父親も母親も教えてくれなかった
おまえはいったい誰なんだと問われたら詩人と答えるのがいちばん安心
というのも妙なものだ
女を捨てたとき私は詩人だったか
好きな焼き芋を食ってる私は詩人なのか
頭が薄くなった私も詩人だろうか
そんな中年男は詩人でなくてもゴマンといる
私はただかっこいい言葉の蝶々を追っかけただけの
私はただかっこいい言葉の蝶々を追っかけただけの
世間知らずの子ども
その三つ児の魂は
人を傷つけたことも気づかぬほど無邪気なまま
百へとむかう
詩は
詩は
滑稽だ
私は詩人の作品を読むのが苦手だ。必然性のない韻、繰り返し、塞がれた穴が見えすぎるのだ。読んで貰つたら、もつとよく分かつた。さうすると、待つことのない動きに捉へられた。繰り返しを忘れて、それについて考へる時間さへなかつた。 韻は、その度に感じる小さな恐れによつて、どれも心地よかつた。聞こえてゐる詩をうまく終はらせることは、いつも、不可能だと思はれるのだから。この待つことのない動きは、 即興を思はせる。かうして私を旅へと導くものを、私は詩しか知らない。ここには前文もなく、 用心もない。私は自分が動き出すのを感じる。最初の言葉たちにも別れを告げる。リズムで、 私はやつて来るものを察する。述べてみよといふ呼び掛けであり、最高の詩は、これに応じる。
だが、もつと詳しく調べよう。詩の中では、いつでも二つのものが争つてゐる。規則的なリズムがあり、繰り返される韻を伴ふが、私はこれを常に感じてゐる必要がある。リズムに逆らふ物語りがあり、長い時間ではないが、時折そのためにリズムが隠れる。この芸は音楽家のもののやうだが、もつと分かりやすい。また、我々に自由な想像を許さないといふ点で、 より専制的なものでもある。その分、慰められることも少ない。しかし、音楽のときのやうに、 あちこちに、休息のやうな和解がある。リズムのある一節と、語られた一節とが一緒に終はる瞬間が 来るのだから。自然さ、言葉の単純さと意味の豊かさが、奇跡を起こすのはこの時だ。詩人がそれまでに少し苦労をしてゐることさへも、悪くはないのだ。落ちる真似をする軽業師のやうに。しかし、 それはいつでも、船での旅のやうに止まることがない。詩はさういふふうに受け取らねばならない。 この条件がないと、注意を引くリズムとリズムを外さうとする動きを調和させる力が全く理解できないだらう。
雄弁も、また、一種の詩である。そこには音楽的な何かが簡単に見つかる。言ひ回しの強弱、均整、 響きの調整、そして予告され、期待され、言葉が奇跡のやうにそれに応へる結末だ。だが、かうした極まりは隠されてゐる。思ひが脹らむと、演説家はこれに従はないことがよくある。残るのは、時間を 満たすといふ必要と、避けられない動き、心配と苛立つた疲れで、これはやがて聴衆に伝はる。しかし、 ここでも読むのではなく聞かねばならない。さうしないと、繰り返しやつなぎの言葉で嫌になるだらう。 だが、これは、特に演説家が議論を展開してゐるときには、必要なものなのだ。読むのでは、集まつた 人達の抑へた動きが見えない。書斎の静けさと二千人の沈黙には確かな違ひがある。そして、ソクラテスが、 大きな理由を述べてゐる。「君が話の終はりに来たときには、私は最初を忘れて了つた。」さらに、 全ての詭弁は雄弁である。また、さわぐ心はどれも、他の者にも、自分自身にも雄弁である。確信は、 時の歩みにより、また、証明が現れることで、強まる。それで、雄弁は不幸を予言するには、あるいは、 過ぎ去つた不幸を呼び起こすには、特に適してゐるのだ。この人間は、不幸な者が犯罪へと向かふやうに 結論に至る。終つた不幸に戻るといふのは、最悪の道行きだ。運命論的な考へがその証拠を手に入れるのは、 そのやうにしてなのだから。
散文は我々を解放する。それは詩でも、雄弁でも、音楽でもない。中断された歩み、後戻り、 突然の強い調子が、再読と熟考を命ずることからも感じられるやうに。散文は時間から解き放たれてをり、型どほりの議論からも自由である。かういふ議論は雄弁の一手段に過ぎない。真の散文は 私を急せかさない。繰り返しもない。 しかし、このため、人が私に散文を読んでくれるのは、 堪へられない。詩は、自然な言葉が、人々が言語を耳で聞いていた時代に、固定されたものだ。 しかし、今では、人はそれを眼で見る。小さな声に出しながら読むことは、少なくなる一方だ。 人間は殆ど変つてゐないと、私は思ふ。しかし、ここには重要な進展がある。この知的な対象を 眼が追ふのだから。眼はその中心を選び、そこに全てを持ち帰る。画家のやうに。組み直し、 自分で強調し、視点を選び、全ての頂に同じ日の光を求める。散歩する者はこのやうに歩むのだが、 いつでも早足すぎる。特に若く力があると、さうだ。脚が悪い者だけがしつかりと見る。かうして、 散文は、正義と同様に、脚を引きずりながら進む。(アラン「詩と散文について」『精神と情念に関する81章』所収)
…………
私はこれまでに時どき、詩人たちについてかなり手きびしく語ったことがある。雄弁家、それも非凡な雄弁家たちを、私はそれ以上に大して愛しているわけではない。いたって学識のある人が、そのことで私につっかかってきた。どんな話でも心底から出たものは雄弁の動きとリズムをおのずと帯びる。ただすぐれた詩においてのみ、このリズムは一そう規則立っているのだ、と彼はいう。彼はそこで実例をそらで引用したが、なかなかうまく択んだ。私は散文をしかるべく弁護するすべを知らなかった。散文は、読者が声を出して読むとかならず損なわれる。そして目の方がいっそうよく散文をとらえるように私は思う。散文には媚がない。耳の期待をうらぎる。散文は絶対に歌おうとはしない。あの巫女の痙攣など散文は知らない。どんな遠慮も知らず、いかなる宗教臭もない。これこそ、すっかりはだかになった人間性そのものである。筆致が道具のように喰い入るのだ。
ナポレオンはフランス野戦のとき、ソワッソンの町が二日も早く陥落したのち、しばし無言であったが、やがていった、「そんなことは偶発事にすぎぬ。だがあのときは幸運がほしかった。」これが、ほかの時にはまたみずから運命を作った人のことばである。ここには翼のはばたきがある。美辞をつらねる人々は、ためしにやることしかしないが、この人間は勝負に出るのだ。注目にあたいすることだが、訂正加筆をせぬこの術の他の実例を求めにゆくとすれば、ナポレオンと同時代、そして彼と同じ行動の人、スタンダールに、私はそれを求める。「彼は脚下に二十里四方の土地を見た。ハヤブサであろう、彼の頭上の大岩から飛び立った鳥が、いたって大きな輪を、音もなく、えがいているのがときどき彼の視界に入った。ジュリアンの目は、機械的にこの猛禽のあとを辿っていた。その落ち着いた、しかも力強い動きが、彼の心を打った。彼はあの力をうらやんだ。彼はあの孤立をうらやんだ。それはナポレオンの運命であった。いつの日か、それが彼の運命になるだろうか。」(『赤と黒』)
修辞と呼ばれているあの模倣の痕跡のごときを、私はここにはまったく見かけない。しかも、喜劇なきこの散文は、公定の芸術(散文)が美辞をつらねて弁じ立てていた一時代のものなのである。ここには、欲望というよりもむしろ意志が、姿をあらわしている。行動が感情をむさぼり食ってしまう。同様に、この散文は何巻もの詩をむさぼり食ってしまう。ちょうど土が水を吸いこむように。イメージは、ここではオペラの舞台装置とはちがう。イメージは動きであり、稲妻であり、とぶ鳥のかげなのだ。「えがく」というこの語が、二つの意味をもっているとは、すばらしい。動きをえがくことは、まさにその動きをすることである。それゆえ、一方で描写は比較する。しかし他方で、描写は象徴するのだ。
散文とは何か、散文は何をなし得るのか、散文はどうあるべきか。私はこれらを知っているとはまだとてもいえない。絵画について何かと書く芸術批評家たちに、私はしばしばおどろいた。なぜなら、絵画は散文よりもなお一そう隠されているからである。こんにちでは、私は詩と散文のあいだの対立関係に気づいている。詩は、ふとした出会いで集まったイメージを延べ拡げ、かつ成長させる。そしてある種の散文は、こうした装飾を徹底的に叩きのめすのである。しかしながら、ヴァイオリンの弾き方がまなばれねばならぬごとく、散文の弾き方も、まなばずしては体得されえない。スタンダールのなかに、装飾をあまりにうち倒してしまう一つの術を、私は見いだす。ところで一方、シャトーブリアンをまねるのは危険性なきにしもあらず、ということを私は知っている。逆に、スタンダールは、ひとりならずの若い天分を枯渇させるだろう。
スタンダールは、雄弁家から、ありうる限りにおいてはなれている。説教は大げさで冗漫なものである。説教は耳と一致させなばならない。いく度も耳を打ち、そして耳をひき戻さねばならない。用意しておき、前ぶれしておくこと。ともかく、雄弁家の力、抒情の力を作っているのは、期待なのだ。韻の期待、区切りの期待、声の抑揚の期待。一完結文とは、手はずをととのえられ、もつれ、そして解決を見る劇のようなものである。それは窓ごしに見られた嵐なのだ。他方、散文の芸術家は事物の空洞そのもののなかにいる。彼の足音の反響がきこえてくる。だが二度とこだましない。ただ一度きりなのだ。彼は道具を休めて空を仰ぐ。詩の一切が通りすぎてゆく。丘から丘にとどく音のように。あのはだかの文体の魔術、それは喜劇を見る子供のように待っているのではなく、ふりかえって自己のうしろを注視することである。目の一躍によって読みかえす。イメージをもう一度しっかり捉える。あの固定した線条があなたを駆けさせる。これに反して、雄弁の芸術は、坐ってじっとしているわれわれのために駆ける。このゆえに、一方の芸術は朗読されたがり、他方の芸術は彫り刻まれることを求める。散文、つねに片足に体をかける、ブロンズ製の、いそぎの使者。(アラン『プロポ集』井沢義雄/杉本秀太郎訳)
次の文もつけ加えておこう。≪あの「詩人」≫とはもちろんヴァレリーである。
ある日のこと、さながら地獄界に降るようにしてアトリエの階段をきたのは、あの「詩人」だった。いつも何か怒ったような顔をしている彼だ。しかし不機嫌はたちまちほぐれ、彼はにこやかになった。( ……)
こうするうちに、自分の技倆に深くたのむところのある詩人は、詩作というあの長期労働を引き合いに出した。必要なのは、辛抱づよさということだ。不成功におわることがいくらでもあるということ、半成功は不成功よりなおはるかに危険なものだということ、彼はそういった点を説明してくれた。「まさに一歩ごとに、あの何ひとつ書かれていない丸い表面をふり返らねばならない。そうしてあの表面にぴっちり貼りついているような装飾の軌跡を作り出すことは、まずむつかしい。だからこそ、厳密な定型詩でなければ、仕事というものも案出というものも、私には考えられない。定型詩というものを、私は海のあの水位というものにたとえたい。海水は諸大陸のあいだをめぐり、諸海洋を区分しているのに、海の水位は、何物とも一致しない。しかも水位がすべてを決定している。規則に寸分たがわぬ定型詩などというものは、一行たりともありはしないのだ。しかし規則というものは、あの切れ目なく、また歪めようもない海の表面にもひとしい。その表面にわれわれがちっぽけな山々を、つまり語というものになった第二の素材を肉付けするわけだ。それにまた、何もかも詩によって言いつくされるわけでもない。というのも、あの上塗りが、何か意味をおびぬことには、詩にはならないのだから。必要なのは、ただ辛抱づよさだけだ、そう痛感したことが私には何度もあった。しかも、そう痛感したのは、きまって自分に辛抱が掛けているときだった」(アラン『彫刻家との対話』 杉本秀太郎訳)
…………
ーー「詩は何もしないことで忙しいのです」ビリー・コリンズ(小泉純一訳)
初雪の朝のようなメモ帳の白い画面を
MS明朝の足跡で蹴散らしていくのは私じゃない
そんなのは小説のやること
詩しか書けなくてほんとによかった
小説は真剣に悩んでいるらしい
女に買ったばかりの無印のバッグをもたせようか
それとも母の遺品のグッチのバッグをもたせようか
そこから際限のない物語が始まるんだ
こんぐらかった抑圧と愛と憎しみの
やれやれ
詩はときに我を忘れてふんわり空に浮かぶ
小説はそんな詩を薄情者め世間知らずめと罵る
のも分からないではないけれど
小説は人間を何百頁もの言葉の檻に閉じこめた上で
抜け穴を掘らせようとする
だが首尾よく掘り抜いたその先がどこかと言えば、
子どものころ住んでいた路地の奥さ
そこにのほほんと詩が立ってるってわけ
柿の木なんぞといっしょに
ごめんね
人間の業を描くのが小説の仕事
人間に野放図な喜びをもたらすのが詩の仕事
小説の歩く道は曲がりくねって世間に通じ
詩がスキップする道は真っ直ぐ地平を越えて行く
どっちも飢えた子どもを腹いっぱいにしてやれないが
少なくとも詩は世界を怨んじゃいない
そよ風の幸せが腑に落ちているから
言葉を失ってもこわくない
小説が魂の出口を探して業を煮やしてる間に
宇宙も古靴も区別しない呆けた声で歌いながら
祖霊に口伝えされた調べに乗って詩は晴れ晴れとワープする
人類が亡びないですむアサッテの方角へ
………………
アランについてあまり知らない人たちのためにこうつけ加えておこう。
彼(小林秀雄)の批評の「飛躍的な高さ」は、やはり、ヴァレリー、ベルクソン、アランを読むこと、そしてそれらを異種交配してしまうところにあった。公平にいって、彼の読みは抜群であったばかりでなく、同時代の欧米の批評家に比べても優れているといってよい。今日われわれが小林秀雄の批評の古さをいうとしたら、それなりの覚悟がいる。たとえば、サルトル、カミュ、メルロ=ポンティの三人組にいかれた連中が、いま読むに耐えるテクストを残しているか。あるいは、フーコー、ドゥルーズ、デリダの新三人組を、小林秀雄がかつて読んだほどの水準で読みえているか。なにより、それが作品たりえているか。そう問えば、問題ははっきりするだろう。(柄谷行人「交通について」――中上健次との共著、『小林秀雄をこえて』所収)
ほかにも1936年に組織された反ナチズム知識人連盟の会長になっている。
ーーところで後年レイシズムなんたらと言っていないわけではない1901年生まれのラカンセンセはこの時期なにをしてたんだろ? 臨床家として「ひきこもって」いたのだろうか・・・
1938年に、ラカンは、パリ大学医学部のサンタンヌに収容されているアルトーを訪れ、「この男は決してふたたび書けないだろう」とかオッシャテいたらしいが(後年、アルトーの方から、docteur Lについて、あのおっちゃんは érotomanieだよ、と「診断」している)。
ひきこもりといえば、フロイトーーあの『集団心理学と自我の分析』で、ヒトラーの出現を予言したといえる彼もひきこもり系である。
フロイトの選挙投票の選好(フロイトの手紙によれば、彼の選挙区にリベラルな候補者が立候補したときの例外を除いて、通例は投票しなかった)は、それゆえ、単なる個人的な事柄ではない。それはフロイトの理論に立脚している。フロイトのリベラルな中立性の限界は、1934年に明らかになった。それは、ドルフースがオーストリアを支配して、共同体国家(職業共同体)を押しつけたときのことだ。そのときウィーンの郊外で武装した衝突が起った(とくにカール マルクス ホーフの周辺の、社会民主主義の誇りであった巨大な労働者のハウジングプロジェクトにて)。この情景は超現実主義的な様相がないわけではない。ウィーンの中心部では、有名なカフェでの生活は通常通りだった(ドルフース自身、この日常性を擁護した)、他方、一マイルそこら離れた場所では、兵士たちが労働者の区画を爆撃していた。この状況下、精神分析学連合はそのメンバーに衝突から距離をとるように指令していた。すなわち事実上はドルフースに与することであり、彼ら自身、四年後のナチの占領にいささかの貢献をしたわけだ。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)
アランの話に戻れば、ボーヴォワールの日記を読むと、ふたつの大戦間、いかにアランが敬愛されていたかを知ることができる。ただし第二次世界大戦間際には、彼のオプティミズムは、ナチの侵攻に対しては通用しない、という意味のことを、サルトルかあるいは他の友人との会話が書かれていたはずだが、いま確めてみることはしない。