2016年6月11日土曜日

きみたちの「燻製ニシンの虚偽」

ああ、「「うかうかと」「柄になく」多数者の生き方に合わせる不幸」かい?

そうだな。精神科医は自分の仕事の領分をやっていればいいのだろうよ。

政治や経済のことなんか考えなくてもさ、ヒトはそれぞれその器があるのだから。

とはいえ、かつての超自我社会でヒステリーと、そしてフロイト曰くのヒステリーの「方言」である強迫神経症が生まれたわけで、そのどちらもひどい症状は現代では稀になった。

で、フロイトが超自我社会における神経症の症状を説く試みは、その後の父権権威を難ずる「闘争」にそれなりに貢献したんじゃないか? 

あるいは、まだ若い頃のラカンは、『les complexes familiaux(家族複合)』(1938)にて、当時の家族と社会における父の家父長的なイマーゴの下落が精神病理の主な原因であるとしている。彼は精神分析はこの危機から生まれたとさえ言っている。やっぱり社会構造(その変化)に関心があったのだよ。

Serge Andre( “What Does a Woman Want? ”2000)なら、このラカンの言葉にシニカルなヒネリを加えてこう言う、《ヒステリーの主体は、主人の形象が必要である。これが精神分析を創作する手助けをした》と。

さらにまた、ラカンは後年、1968年の「父の死」を受けて、こう言ってる(参照:三つの「父の死」)。

もう遅すぎる……、危機、主人の言説のではない、資本家の言説、それは代替だが、それは開いてしまったouverte(ラカン ミラノ 1972/5/12)

日本でも中井久夫はほとんど同じ文脈として捉えうることを言ってる。

中井)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)

というわけで、現代の社会では社会構造の変化(象徴的権威の斜陽)によって、別の症状が生まれているというのはまぎれもない事実。それは主人の言説(超自我の言説)から資本の言説(現在なら典型的に新自由主義の言説)への移行にともなった新しい症状と言える。「寝椅子の時代の終わり」ってのは極論かもしれないけどさ。

少なくともこういったことを敏感に感じとるのが精神科医の重要な仕事のひとつじゃないのかね?

もっとも、ヴェルハーゲのように「新自由主義」だけをやり玉にあげるのが正しいのかどうかは議論の余地があるだろう。

……Mark Fisherが印象的に呼んだ「抑鬱的ヘドニア(快楽)depressive hedonia」だ。能力主義システムは、自らを維持するため、急速に特定のキャラクターを特権化し、そうでない者たちを罰し始めている。競争心あふれるキャラクターが必須であるため、個人主義がたちまち猖獗する。融通性がまた高く望まれる。だが、その代償は皮相的で不安定なアイデンティティである。孤独は高価な贅沢となる。その場は一時的な連帯が取って代わる。その主な目的は、負け組からよりも仲間からもっと何かを勝ち取ろうとすることだ。

仲間との強い社会的絆は、実質上締め出され、仕事への感情的コミットメントは殆ど存在しない。疑いなく、会社や組織への忠誠はない。これに関連して、典型的な防衛メカニズムは冷笑主義である。それは己れをコミットすることの失敗あるいは拒否を反映している。個人主義、利益至上主義とオタク文化me-cultureは、擬似風土病のようになっている。…表面の下には、失敗の怖れからより広い社会不安までの恐怖がある。

この精神医学のカテゴリーは最近劇的に増え、薬品産業は莫大な利益をえている。私は、若い人たちのあいだでの自閉症の診断の増大はこの結果だと思う。私の意見では、それは伝統的な自閉症とはほとんど関係がない。そうではなく、社会的孤立の増大の反映、〈他者〉によって引き起こされる脅威からの逃走の反映である。(Capitalism and Psychology Identity and Angst: on Civilisation's New Discontent(Paul Verhaeghe,2012、私訳)

ミレールのような観点だってあるだろうし。

◆LECTURE BY JACQUES-ALAIN MILLER — PARIS, 15.07.2014  L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT

精神分析は変貌している。 (……)

たとえば、ある断絶を我々は見逃すことはありえない。フロイトが精神分析を発明したのは、ヴィクトリア朝支配、セクシャリティ圧制の典型のいわば後ろ楯のもとでだ。他方、21世紀は、「ポルノ」よ呼ばれるもののとてつもない氾濫である。それは見せ物としての性交に到る。ウェブ上で、マウスの単純なワンクリックによって、誰にでもアクセス可能なスペクタクル。

ヴィクトリアからポルノへ。我々はただ禁止から許容へと移行したのではない。そうではなく、刺激・侵入・挑発・強制への移行だ。かつての幻想とは異なったポルノグラフィとは何だろう?あらゆる多様な倒錯性向を満足させるに充分なヴァラエティが映しだされるあのポルノは?

これは、セクシャリティにおいて、また社会制度において、新しい何かだ。若者のあいだでのその習得を促すパターンのなか、彼らはただひたすらこの道のりを歩み始める。

→続き:「ポルノグラフィによる精神分析の変貌


とはいえ、新自由主義とは「悪の陳腐さ」社会であることはほぼ間違いないだろう。

疑いもなく、エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性は人間固有の特徴である、ーー悪の陳腐さは、我々の現実だ。だが、愛他主義・協調・連帯ーー善の陳腐さーー、これも同様に我々固有のものである。どちらの特徴が支配するかを決定するのは環境だ。(Paul Verhaeghe What About Me? 2014 )

その社会で、悪に対する善、圧政に対する自由、快楽主義に対する道徳等々、ーー「誠実な」人びとは既存のイデオロギーのなかで、誰もが「善い」方を選択するだろう。だが、政治経済に関心がなく、自分のできることだけをするしかない、という立場は既存のイデオロギー、つまり新自由主義を強化してしまう(すくなくともそういった場合がある)。

要するに、「善い」選択自体が、支配的イデオロギーを強化するように機能する。イデオロギーが我々の欲望にとっての囮として機能する仕方を強化する。ドゥルーズ&ガタリが言ったように、それは我々自身の圧制と奴隷へと導く。(Levi R. Bryant PDF)

たとえば、ジジェクのビル・ゲイツ批判がある。

ビル・ゲイツには二つの顔がある。冷酷なビジネスマンとしての彼は競争相手を破滅させるか買収して、実質的な独占を目指す。目的を遂げるために商売上のあらゆる策略を練る。他方、人類の歴史上、最も偉大な博愛主義者としての彼は巧みに問いかける。「コンピュータを所有することは何に奉仕するというのだ、もし人びとが食べる物が充分になく、赤痢で死にかかっているのなら?」リベラルなコミュニスト的倫理において、利益の無慈悲な追及は慈善活動によって中和される。慈善活動は経済搾取の顔を隠すヒューマニストの仮面である。膨大な超自我の脅迫(疚しい良心)のなかで、先進国は後進国を、援助や借款などで「助ける」。それによって鍵となる問題を避けるのだ、すなわち後進国の悲惨な状況における共犯関係と共同責任を。(ジジェク『暴力』、私訳)


ビル・ゲイツらの慈善行為において肝腎な観点は、無慈悲な利益の追求という資本の論理がいまだその「至高の善意」の底に横たわっていること。そして慈善要素は真実を隠す方法、罪を宥める方法だということ。

資本主義社会では、主観的暴力((犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。(ジジェク『暴力』)

すなわち、ビル・ゲイツの博愛主義は、≪「客観的暴力」として機能している。現在の経済政治システムをスムーズな機能の温存のための完璧な「燻製にしんの虚偽」として機能している。≫(ジジェク)。

ビル・ゲイツの慈善行為が、資本の論理の悪から目を反らせる「燻製ニシンの虚偽 Red herring」として機能しているというジジェクの見解は、説得的だよ

で、きみらのやってることも「燻製ニシンの虚偽」として機能していないかどうか疑ったことないのかい?

これはイデオロギーを考えるときの基本。たとえば浅田彰はこう言っている。

資本主義的な現実が矛盾をきたしたときに、それを根底から批判しないまま、ある種の人間主義的モラリズムで彌縫するだけ。上からの計画というのは、つまり構成的理念というのは、もうありえないので、私的所有と自由競争にもとづいた市場に任すほかない。しかし、弱肉強食であまりむちゃくちゃになっても困るから、例えば社会民主主義で「セイフティ・ネット」を整えておかないといかない。(『可能なるコミュニズム』シンポジウム 2000.11.17 浅田彰発言)

もっと一般的、かつここでの話の流れにより則って言えば、次のようなこと。

「(デリダは)ある種の二重の戦略の必要性を力説しています。僕がよく挙げる例なのですが、 man(男)と woman(女)という二項対立があったとして、そこでは明らかに manが womanを暴力的に抑圧しているのだから、その二項対立を転倒し、 manに対して womanを復権しなければならない。  しかし、 manと womanは実は Man(人間=男)という土俵に乗っているのだ から、そこで優劣を転倒しただけでは、ニーチェの言うように勝利した女が  男になった自らを見出すだけという結果に終わりかねない。したがって、転倒と同時に、 Man(人間=男)という土俵自体を脱構築していかなければならない、というわけです」(浅田彰)
「もっと一般的な例では、同一性に対し差異を復権するのはいいけれど、それ らはいずれも実は同一性という土俵の上に乗っているので、その同一性とい う土俵自体を「差延」へと脱構築していかなければならないというわけですね。一方では転倒が、しかし同時に他方では脱構築が必要だ ー これがデリダの二重の戦略です」(浅田彰ーー理屈 「デリダ追悼」)

女/男        善/悪
ーーー →  ーーーーーーー
 男      悪(市場原理主義)


というわけで、市場原理主義という悪の母胎の上で、善を選択しているだけだということになりはしないか。

この母胎とは、ジジェクのいう「客観的暴力」であり、ヴェルハーゲのいう「エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性」だ(ここに異論があるなら話は別)。この母胎の上の分子で善い選択をすることは、Levi Bryant=Zizek の言うように、母胎を強化することになるとしたらどうだろう?

たとえば、ナンシー・フレイザーの「フェミニズムはどうして資本主義の侍女となってしまったのか」2013ってのは、この文脈で(も)読むことができる。

で、新自由主義の侍僕になったらおしまいだよ、精神科医が。


もっともジジェクもヴェルハーゲも、そして浅田彰も文句を言うだけでたいしたことはやってないという立場もあるかもな、としたらきみらと似たようなもんだ。

「災禍を見抜きもし、予言もし、警告もした」などというが、そこから行動が生まれたのでなければ、しかも行動が功を奏したのでなければ、そんなことは政治的に通用しない。(ヤスパース『罪責論』

ただし、あの三人は「燻製ニシンの虚偽」にはひどく敏感だよ。

ところで、ひょっとしてDSMってのは、精神科医や臨床心理士を新自由主義の奴隷にするシステムってことはないのかい?

DSMの診断は、もっぱら客観的観察を基礎とされなければならない。概念駆動診断conceptually-driven diagnosis は問題外である。結果として、どのDSM診断も、観察された振舞いがノーマルか否かを決めるために、社会的規範を拠り所にしなければならない。つまり、異常 ab – normal という概念は文字通り理解されなければならない。すなわち、それは社会規範に従っていないということだ。したがって、この種の診断に従う治療は、ただ一つの目的を持つ。それは、患者の悪い症状を治療し、規範に従う「立派な」市民に変えるということだ。(“Chronicle of a death foretold”: the end of psychotherapy. Paul Verhaeghe – Dublin, September 2007、PDF )

もしこの記述が正しいのなら、なぜ黙然と従っているのみなのだろう? いやこうではない、というのならわかる。もし正しいのなら、「闘争」すべきじゃないか。それは、「自分のできることだけをするしかない」の仕事の範囲ではないのか。

それとも精神医学共同体のたんなる仔羊系専門家なのかね。

プロフェッショナルというのはある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている。(…)プロフェッショナルは絶対に必要だし、 誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。 (蓮實重彦『闘争のエチカ』)