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2016年6月9日木曜日

「うかうかと」「柄になく」多数者の生き方に合わせる不幸

以下に引用するのは中井久夫の1980年に書かれた論文であり、いまから見れば古くなっているところは当然あるだろう(かつまた、ここで引用する2011年の文庫版は、当時は「分裂病」と記されていた箇所を「統合失調症」に変更しているはずだ)。

だが、たとえば、次のような文がある。

①≪統合失調症を病む人々は、「うかうかと」「柄になく」多数者の生き方にみずからを合わせようとして発病に至った者であることが少なくない。≫

②≪彼ら(うつ病者)は、生き方のいささか”不器用”な多数者側の人といえないであろうか。≫

わたくしは現在の日本で自閉症スペクトラムの時代と言われている内容について、まったく詳しくない。

とはいえ、自閉症者というのは、①にちかい形による発病(症状)なのだろうか、それとも②に近い形による発病(症状)なのだろうか。それともまったく別のあり方での症状なのだろうか(カナー的自閉症/アスペルガー的自閉症という区分があり、ここではその後者に限っていうが)。


さて、まず中井久夫の1980年の論文をかかげる。

考えてみれば統合失調を経過した人は、事実において、しばしばすでに社会の少数者(マイノリティ)である。そのように考えるとすれば、少数者として生きる道を積極的にさぐりもとめるところに一つの活路があるのではあるまいか。むろん、少数者として生きることは一般にけわしい道であり、困難な生き方である。私が、他によりよい選択肢がたくさんあって、なおそう主張するのではないことは、まず了解いただけると思う。

もっとも、多数者として生きることにもそれ自体の困難性があることは忘れてはならない。現にうつ病者は統合失調症患者に比して非常に少ないわけでは決してない。彼らは、生き方のいささか”不器用”な多数者側の人といえないであろうか。多数者として生きるために必要な何かがひどく不足する人もいるが、うつ病者のように(むろん相対的に、つまりその人にとってであるが)中毒量に達している人もあるわけだ。

そして、あえていえば、統合失調症を経過した人にとって、ある型の少数者の生き方のほうが、多数者の生き方よりも、もっとむつかしいわけではなさそうである。さらに言えば、統合失調症を病む人々は、「うかうかと」「柄になく」多数者の生き方にみずからを合わせようとして発病に至った者であることが少なくない。これは、おそらく、大多数の臨床医の知るところであろう。もとより、そのことに誰が石をなげうてるであろうか。彼らが、その、どちらかといえば乏しい安全保障感の増大を求めて、そこに至ったのであるからには。しかし、それは、彼らに過大な無理を強いた。再発もまた、しばしば「多数者の一人である自分」を社会にむかってみずから押しつけて承認させようとする敢為を契機としていないであろうか。

まったく、経験、それももとよりわが国だけの、そして狭い私の経験にたよって言うことだが、寛解患者のほぼ安定した生き方の一つはーあくまでも一つであるがー、巧みな少数者として生きることである、と思う。そのためには、たしかにいくつかの、多数者であれば享受しうるものを断念しなければならないだろう。しかし、その中に愛や友情ややさしさの断念までが必ず入っているわけではない。そして、多数者もまた多くのことを断念してはじめて社会の多数者たりえていることが少なくないのではないか。そして、多数者の断念したものの中に愛や友情ややさしさが算えられることも稀ではない。それは、実は誰もが知っていることだ。(中井久夫「世に棲む患者」1980年初出、ちくま学芸文庫 2011年)


冒頭にも記したが、まったく日本で語られる自閉症について無知の者として、今度は次のヴェルハーゲの文を掲げる。

Capitalism and Psychology Identity and Angst: on Civilisation's New Discontent(Paul Verhaeghe,2012)

どの社会秩序もアイデンティティの発展を決定づけるとともに、そのメンバーの潜在的な障害 disorders を決定づける。超-厳格な超自我の圧制下、(フロイトの時代の)ヴィクトリア朝社会は神経症の市民を生みだした。彼らは、集団として、つねに自らの家父長にためにーー他の集団の家父長に対してーー、戦う用意があった。

エンロン社会は、互いに競合する個々の消費者を生みだす。ラカンにとって、ポストモダンの超自我の命令は「享楽せよ!」である。

ヴィクトリア朝時代の病いは、あまりにも多く集団にかかわり、あまりにも少なく享楽にかかわることだった。ポストモダンの個人たちの現代の病いは、あまりにも多く享楽にかかわり、あまりにも少なく集団にかかわることである。

我々は狂ったように自ら享楽しなければならない。いやより正しく表現するなら、狂ったように消費しなければならない。数年前に比べて、享楽の限界は最低限にしなければならない。草叢の蛇(目に見えない敵snake in the grass)は、文字通りあるいは比喩としても、首尾よく捕まえなければならないーーそれは我々の義務であるーー、その捕獲方法は、もちろん絶えまない他者との競争にてである。このようなシステムはトーマス・ホッブズの不安angstを正当化する、すなわち、Homo homini lupus est(人間は人間にとって狼である)。

結果はMark Fisherが印象的に呼んだ「抑鬱的ヘドニア(快楽)depressive hedonia」だ。能力主義システムは、自らを維持するため、急速に特定のキャラクターを特権化し、そうでない者たちを罰し始めている。競争心あふれるキャラクターが必須であるため、個人主義がたちまち猖獗する。融通性がまた高く望まれる。だが、その代償は皮相的で不安定なアイデンティティである。孤独は高価な贅沢となる。その場は一時的な連帯が取って代わる。その主な目的は、負け組からよりも仲間からもっと何かを勝ち取ろうとすることだ。

仲間との強い社会的絆は、実質上締め出され、仕事への感情的コミットメントは殆ど存在しない。疑いなく、会社や組織への忠誠はない。これに関連して、典型的な防衛メカニズムは冷笑主義である。それは己れをコミットすることの失敗あるいは拒否を反映している。個人主義、利益至上主義とオタク文化me-cultureは、擬似風土病のようになっている。…表面の下には、失敗の怖れからより広い社会不安までの恐怖がある。

この精神医学のカテゴリーは最近劇的に増え、薬品産業は莫大な利益をえている。私は、若い人たちのあいだでの自閉症の診断の増大はこの結果だと思う。私の意見では、それは伝統的な自閉症とはほとんど関係がない。そうではなく、社会的孤立の増大の反映、〈他者〉によって引き起こされる脅威からの逃走の反映である。(私訳)


もし、このヴェルハーゲのいう自閉症診断が日本でもあてはまるなら、つまり≪〈他者〉によって引き起こされる脅威からの逃走≫によって自閉症が起こるなら、冒頭の中井久夫の文の①による発病に近似しているということになるのではないか。

その①の≪「うかうかと」「柄になく」多数者の生き方にみずからを合わせようとして発病に至った者≫が、現在の自閉症患者なら、≪巧みな少数者として生きること≫を目指すのがひとつのあり方だろう。

だが、現在のDSM診断基準はどうなのか。以下の文もヴェルハーゲの講演からだが、強いDSM批判の論客の一人でもある批判のさわりである(当時のDSM-Ⅳだけではなく、DSM-Ⅴについても似たような批判をしているようだが、ここでは2007年の論文から)。

DSMの診断は、もっぱら客観的観察を基礎とされなければならない。概念駆動診断conceptually-driven diagnosis は問題外である。結果として、どのDSM診断も、観察された振舞いがノーマルか否かを決めるために、社会的規範を拠り所にしなければならない。つまり、異常 ab – normal という概念は文字通り理解されなければならない。すなわち、それは社会規範に従っていないということだ。したがって、この種の診断に従う治療は、ただ一つの目的を持つ。それは、患者の悪い症状を治療し、規範に従う「立派な」市民に変えるということだ。(“Chronicle of a death foretold”: the end of psychotherapy. Paul Verhaeghe – Dublin, September 2007、PDF )

もし、こういう治療がなされてしまうなら、治療しても自閉症発病原因元に送り返していることになる。もちろん、現在の新自由主義的イデオロギーが蟠踞している日本では、≪巧みな少数者として生きる≫場などほとんどない、という議論もあるだろう・・・

今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。もはや「生き甲斐」の出番はなくなり、「アイデンティティ」概念も存在を脅かされているのではないか。80年代から弱々しい「自分探し」がさまよえる魂の呟きとなった。アイデンティティ追求の猶予である「モラトリアム」も得難くなって、それは無期限の「ひきこもり」になったかに見える。しかしこれらもやがて過ぎ去るであろう。先の見えない移行期に私たちはいる。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収)
我々の社会は、絶えまなく言い張っている、誰もがただ懸命に努力すればうまくいくと。その特典を促進しつつ、張り詰め疲弊した市民たちへの増えつづける圧迫を与えつつ、である。 ますます数多くの人びとがうまくいかなくなり、屈辱感を覚える。罪悪感や恥辱感を抱く。我々は延々と告げられている、我々の生の選択はかつてなく自由だと。しかし、成功物語の外部での選択の自由は限られている。さらに、うまくいかない者たちは、「負け犬」あるいは、社会保障制度に乗じる「居候」と見なされる。(ヴェルハーゲ「新自由主義はわれわれに最悪のものをもたらした Neoliberalism has brought out the worst in us"」Guardian(2014.09.29)ーーラカン派による「現在の極右主義・原理主義への回帰」解釈

…………

※付記

オイゲン・ブロイラーが生きていたら、「統合失調症」に賛成するだろう。彼の弟子がまとめたブロイラーの基本障害である四つのAすなわちAmbivalenz(両価性)は対立する概念の、一段階高いレベルにおける統合の失調であり、Assoziationslockerung(連合弛緩)は概念から概念への(主として論理的な)「わたり」を行うのに必要な統合の失調を、Affektstorung(感情障害)は要するに感情の統合の失調を、そして自閉(Autismus)は精神心理的地平を縮小することによって統合をとりもどそうと試みて少なくとも当面は不成功に終わっていることをそれぞれ含意しているからである。ブロイラーがこのように命名しなかったのは、よいギリシャ語を思いつかなかったという単純な理由もあるのかもしれない。「統合失調症」を試みにギリシャ語にもとずく術語に直せば、syntagmataxisiaかasyntagmatismusとなるであろう。dyssyntagmatismusのほうがよいかもしれない。「統合失調症」は「スキゾフレニア」の新訳であるということになっているが無理がある。back translation(逆翻訳)を行えばこうだと言い添えるほうが(一時は変なギリシャ語だとジョークの種になるかもしれないが)結局は日本術語の先進性を示すことになると思うが、どうであろうか。(中井久夫『関与と観察』、2002)


※自閉症/統合失調症の相違についての議論があるのを知らないわけではないが(参照:鼎談「自閉症スぺクトラムの時代」(内海健・千葉雅也・松本卓也)、ここではそれをあえてはずして、ヴェルハーゲ曰くの、現在の自閉症は、≪伝統的な自閉症とはほとんど関係がない≫という記述を当面信用して記した。