2016年6月8日水曜日

通いなれた道

須賀敦子さんに90年代にイカレタことがあるのだが、わたくしは95年に日本を出ているので、日本に住んでいた最後の時期ということになる。

あれはたんなる女学生の作文だよ、などという批評を読んだこともあるのだが、いいさ、オレは女学生が好きなのさ、と居直っていたし、今でも居直るつもりだ。

とはいえ、須賀敦子さんのエッセイが好きだと大っぴらに言うのは、この批評を読む以前から、どこか気恥ずかしい感がなきにしもあらずで、当時はひっそりと読んでいた。

で、須賀さんの文章を今から引用するが、やっぱり今でもどこか気恥ずかしい心持がないではない。

その心持は、いささか文脈は異なるが、吉本隆明が堀辰雄や立原道造をめぐって、次のように言う感じと似通ったところがあるかもしれない。

おまえはもっともらしい貌をして、難しく厳しく裁断するがじつは、おまえは少女たちの甘心を買うためにそういう姿勢をしはじめたのではなかったか。遠いアドレッセンスの初葉の時に。そう云われていくぶんか狼狽するように、これらの自然詩人たちへのかつての愛着を語るときに狼狽を感じる。(吉本隆明歳時記「夏の章――堀辰雄」)

いや90年代のあのころは少女たちの甘心を買うために読んでいたわけではないが、堀辰雄や立原道造にイカレタ青少年期の心持とどこか通じるところがあるとはいえる(実際、わたくしは中学から高校時代、八ヶ岳にしばしば訪れた)。

いまでも次のような写真にツイッターで出会うとクラクラしてしまう。





というわけで、先に言い訳を書いておくが、彼女の文章にしばしば出てくるダヴィデ・マリア・トゥロルド神父の写真を拾うことができたので、それと併せてのヤムエズの引用である。

…………

いちめんの白い雪景色。そのなかで、黒い、イッセイ・ミヤケふうのゆるやかな衣服をつけた男が数人、氷の上でスケートをしている。まんなかのふたりの人物は、たのしそうに笑いながら、ひとりはこちらを向いて、もうひとりは、横顔をみせ、ふたりのマントが、ふしぎな三角形をえがいて風に吹かれている。右端のずっとうしろに、これも黒い、先端にポンポンのついた毛糸の帽子をかぶった男が、ほとんどふたつ折れになった恰好で、むこうに滑っていく。




(……)白黒写真のそんな絵はがきを、大学の同僚の研究室の本棚に見つけたのは、夏休みに入ってまもないころだった。写真の構図や角度もたしかにおもしろいが、いったいこの男たちがどういう種類の人間なのか、それがいかにも不可解で、私はアメリカ人の同僚に、絵はがきの由来をたずねた。え? と彼女はいって、うらを見てごらん、卒業してスイスに帰った学生が送ってきたのよ、とつけくわえた。へえ、といいながら裏面を見て、はっとした。そこには、マリオ・ジャコメッリという写真家の名につづいて、

わたしには手がない
やさしく顔を愛撫してくれるような・・・・・・

という、私のよく知っている、通いなれた道のように私のなかに生きつづけている詩行が読めたからである。それは私たち夫婦にとって、かけがえのない友人だった、ダヴィデ・マリア・トゥロルドの処女詩集の冒頭の部分だった。

絵はがきをもういちどよく見ると、イッセイ・ミヤケふうとみえたのは、修道士の法衣で、その絵はがきの、笑ってはいるけれど、ちょっとこわそうに足もとを見ているこちら向きの人物はまぎれもなく(私の知らない)若い頃のダヴィデで、横を向いた眼鏡の男は、彼の親友のカミッロ・デ・ピアツにちがいない。(須賀敦子「銀の夜」『コルシカ書店の仲間たち』)


TUROLDO PADRE DAVID MARIA


1957, Milano, casa Santucci. Con i predicatori della Missione cittadina (da s. p. Antonio Lupi, p. Ernesto Balducci, p. Davide Turoldo, don Divo Barsotti, Michele Santucci, p. Nazareno Fabbretti, p.Camillo, Agnese Santucci trattenuta da don Primo Mazzolari, Luigi Santucci.(参照

ダヴィデ・マリア・トゥロルド。司祭で詩人。イタリアでは、かなり名を知られた人物である。一九一六年、北伊フリウリ地方の貧農の農家に、九人兄弟の末っ子に生まれた。とうもろこしのパンにつける塩が買える日はよかった、というほどの貧しさだったらしい。そんな家の子が学問をするには、修道院に入るしかなかった時代だった。成人してミラノのカトリック大学に学び、そのころから友人の輪が広がっていく。戦争末期には、ドイツ軍に占領されたミラノの、知識人が中心になって組織した地下活動をおこし、戦後、親友のカミッロ・デ・ピアツといっしょに、数人の若者をまじえて、都心にあるサン・カルロ教会の場所を借りうけ、コルシア・デイ・セルヴィ書店をはじめた。

神を信じるものも、信じないものも、
みないっしょに戦った

フランスの抵抗運動のそんなが、戦後の風景のなかで遠い焚火のようにかがやいていたころのはなしである。せまいキリスト教の殻にとじこもらないで、人間のことばを話す「場」をつくろうというのが、コルシア・デイ・セルヴィ書店をはじめた人たちの理念だった。(……)

A sinistra padre David Maria Turoldo, al centro padre Camillo De Piaz


ずっとわたしは待っていた。
わずかに濡れた
アスファルトの、この
夏の匂いを、
たくさんをねがったわけではない。
ただ、ほんのすこしの涼しさを五官にと。
奇跡はやってきた。
ひびわれた土くれの、
石の呻きのかなたから。


一九四五年、四月二十五日、ファシスト政権と、それにつづくドイツ軍による圧制からの解放をかちとった、反ファシスト・パルチザンにとっては忘れられないその日のこみあげる歓喜を、都会の夏の夕立に託したダヴィデの作品である。こんな隠喩が、屈辱の日々の終焉をひたすら信じ、そのために身を賭してたたかった世代の男女と、彼らにつづく「おくれてきた」青年たちを、酔わせ、ゆり動かしていたのが、一九五〇年代の前半という時代だった。そのなかで、コルシア・デイ・セルヴィ書店は、そんな人たちの小さな灯台、ひとつの奇跡だったかもしれない。




あれは私たちが結婚してどれくらい経ったころのことだろう。ある冬の夜、食事に招いた友人たちが帰ったあと、台所のかたづけも終って、さあ、もう寝ようというときだった。一時はとっくにすぎていただろう。ふと、一階に住んでいた私たちの窓の下で、だれかが、呼んでいるような気がした。はじめは空耳とおもったのが、だんだんはっきりと、ペッピーノォ、ペッピーノォと聞こえてくる。友人が忘れ物をしたにしては、時間がたちすぎている。だれだろうといぶかりながら窓をあけると、そこにうっそりとダヴィデが立っていた。

疲れて、疲れて。入ってくるなり、そう彼は言った。今晩、泊めてくれないか。あっという間に、彼は台所まで侵入し、おなかがすいたという彼のために、私は残りものを探した。あんな寒い夜の、あんな時間に、どこを、どうほっつき歩いていたのだろう。大きな黒いノラ猫が迷いこんだようでおかしくもあった。夫も私も、どうして修道院にかえって寝ないのかとは、たずれそびれるようなものが、あの夜のダヴィデにはあった。ほとんど町はずれに住んでいた私たちの家にむかって、彼はどこからか、ずっと歩いてきたにちがいなかった。あの日、彼は、「だまって」話をきいてくれるペッピーノの家で、ただ眠りたかったのかもしれない。


いま、桃やオレンジの
このかおりが、
おまえをまどわせ、
菩提樹の
ものうさが、おまえをいざない、
なにも考えずに、この街を
ただ歩きたいと、
なにも忘れて、
群れ咲くこどもたちの仲間に入れたらと思う。


こんなダヴィデの詩があるが、司祭として、もてはやされ、人々の先頭に立って歩きつづけるのが、ほんとうにつらくなる瞬間が、あったにちがいない。




山の修道院のダヴィデは、やっと安住の地をみつけたようだった。あいかわらず、講演や説教をたのまれて、国中を旅していたが、そこに帰れば、彼の王国だった。鐘楼の、大きなガラス窓いっぱいにロンバルディア平野をみおろす部屋でダヴィデは仕事をしていた。秘書がわりの若い修道士が、軽やかな足どりで、電話をとりつぎ、来客を告げに来て、また出ていった。ときには、どこに人がいるのだろう、と思うほど静寂にみちたこの修道院で、ダヴィデは、おごそかな上長、というのではなく、いばっている、という感じで君臨していた。印刷屋はいつ、ゲラをもってくるのか。テレビ局はいつ写真をとりにくるのか。いいか、おれはその日は午前中しかあいていないと、念をおしたろうな。夜はフィレンツェの講演だぞ。声はあいかわらず、大きかった。



(……)夫が死んだあと、はじめて私がひとりで修道院をおとずれたとき、ダヴィデは教会でミサの最中だといわれた。鐘楼のいわば根もとに建った、北イタリアでもめずらしい、簡素で本質的な十三世紀のゴシック建築の、その教会に入っていくと、修道士たちが私に気づいて、道をあけてくれた。目がなれると、くらい蝋燭のひかりに照らされて祈っているダヴィデの背がみえた。ながいこと見なかった、ダヴィデのしずかなうしろ姿だった。

あかるいしずかな日々、銀の夜。
小川は、森と畑を縫う真珠のくさり。
もう土はパンと血に匂っている。



一九七一年の夏の終り、私は日本に帰ることになって、わかれを告げに山の修道院に彼をたずねた。鐘楼のあたりには、日曜日の来客がひしめいていて、彼とふたりになれたのは、すっかり日が暮れてからだった。日本のこと、書店のこと、夫のこと、ピーノのこと、ロンドンのこと、ローマではじめて会ったときのこと、記憶と現在が錯綜して、話は尽きなかった。

おそくなるから、そう言って、車をとめてあった教会のまえの広場に出ると、鐘楼にかかった、うそのような満月が皓々と照っていて、そこまで送ってくれたダヴィデの大きい影を、くっきりと石畳に映しだしていた。ダヴィデの黒い法衣にも、月のひかりが反射していた。(同上 須賀敦子「銀の夜」)


◆Mario Giacomelli





……このような、やわらかで、しかも凛とした文体に1990年に出会うとは、奇蹟のようであった。そして、過不足のない文の運びがあった。ピトレスクな文章でないのに、読むにつれて過不足のないイメージがわいてきて、穏やかな現場感とでもいうべきものが私の中に満ち満ちるのであった。

まもなく、私の二十年来の友人が須賀敦子さんを”発見”した。私たちは、少年が秘密の宝を共有するように、須賀さんの作品について、声をひそめるような感じで語り合った。ひとにはむしろ触れ回りたくなかった。(中井久夫『須賀敦子さんの思い出』)

(1940年、銀座で。左から良子(妹)、敦子、万寿(母))


《あるとき「日本へ帰って十年間はどん底だったわよ」「私、くず屋をしてたこともある」とだしぬけに言い出し、目をくりくりさせた。》(森まゆみ 須賀敦子追悼集より)

エマウス運動というのは、一九四九年、第二次世界大戦が終ったばかりのパリで、通称アベ・ピエールとよばれる神父さんたちが、当時、巷に溢れていた浮浪者の救済、更正対策として、かれらと共に廃品回収をはじめたのに端を発している。なにかの理由で社会の歩みからはみ出してしまった人たちが集まって、廃品回収をしながら共同生活を営み、その労働から得た収益の一部を、自分たちよりも更に貧しい人たちの役に立てようと努力しているのが、この運動の主体となっているエマウス・コミュニティーである。日本では、神戸と大阪で二十年来活躍している暁光会のクズ屋さんたちがこれにあたる。(須賀敦子「エマウス・ワーク・キャンプ」(須賀敦子『宮代』1973・21号初出、聖心女子大学同窓生会宮代会)





日本ではロベール・バラード神父が、“蟻の町のマリア”といわれたスラムの活動家北原怜子と出会って多くを学び、昭和三十一年、神戸生田川のほとりに小屋をたて、屑拾いの仕事をしながら共同生活をはじめた。暁光会と名付けられている。聖心を卒業したころすでに、この暁光会に参加を申し出たが、「女の子はいらない。文学をやりなさい」と追い返されたという。(「カトリック新聞」昭和四十八年十一学十八日付)

このインタヴューには五十代の写真とはまるでちがう、無造作なロングヘアーにブルージーンズという、いかにも活動家らしい写真が載っている。そして、
「聖心の学生は、二つのタイプがあるわね。まったくのお姫さまで何事にも従順なタイプと、きびしい規則の中で、なんとかしようと反骨心おう盛なタイプ。どちらも箱入りおじょうさんだけど……」なととインタビューに応えている。(森まゆみ「「心に伽藍を建てるひと」――須賀敦子の人生」)

森まゆみさんが「心に伽藍を建てるひと」と評するのは、次の文にかかわる。

建築成った伽藍内の堂守や貸椅子係の職に就こうと考えるような人間は、すでにその瞬間から敗北者であると。それに反して、何人にあれ、その胸中に建造すべき伽藍を抱いている者は、すでに勝利者なのである。勝利は愛情の結実だ。……知能は愛情に奉仕する場合にだけ役立つのである。(サン=テグジュペリ『戦う操縦士』堀口大学訳)

ーー須賀敦子はこの文を引用して、次のように書いている。

自分が、いまも大聖堂を建てつづけているか、それとも中にちゃっかり坐りこんでいるか、いや、もっとひどいかも知れない。座ることに気をとられるあまり、席が空かないかきょろきょろしているのではないか。(『遠い朝の本たち』)