蓮實)散髪台の上の男が自分の顔を鏡に映してみることなく、きまって横から撮られてた画面しかない(……)
ヴェンダース)それは私が強度の近眼で、床屋で眼鏡をはずすと、もう目の前の鏡に映っている顔がまったく識別不能になってしまうからです(笑)。
蓮實)ああ、偉大な映画作家は、やはりみんな近眼なのだ。フォードも、フィリッツ・ラングも、そしてあなたも(笑)。(蓮實重彦『光をめぐって』)
我が家は、台所の流し場と調理場がL字型になっている端に一メートル強の長さの卓子をバー状に設置してある。その全体ではコの字型になった一角でふだんは食事をとるのだが、南向きの流し場の窓を開けると、インドそけいの古木がみえる。裏扉から三メートルは離れていない場所に日よけのためもあって数年前植え替えたのだが、その幹の逞しい曲がりぐあいが一段と美しくなってきた。ただし幹にはシミがところどころある。眼鏡をとると、それが気にならなくなってフォルムの美だけが際立つ。
《美しいものは裸の女神よりも/裸の樹の曲がり方だ。》(西脇順三郎「一月」)
この古木の枝には、紫色の花が好きな妻が植木鉢を三つ吊るしていて、そのなんという名が知らないが可憐な草花が藤のように垂れさがって日に輝き風に揺れる。インドそけいの葉叢もかすかに揺れ、白い花のふさもたわわにうごめく。
ーーお前さんは曲がっている、インドそけいの木よ
《タバコをやめたから/ダンヒルのパイプを河原のすすきの中へ/すててヴァレリの呪文を唱えた/「お前さんは曲がつている。すずかけの木よ」》(西脇順三郎「第三の神話」)
晩年の西脇順三郎の樹々や生垣の詩にひどく魅せられるのだが、「神々を貫通する光線」はふとしたきっかけで、どこにでも遭遇しうる。≪なぜ生垣の樹々になる実が/あれ程心をひくものか/神々を貫通/する光線のようなものだ。≫ (「山櫨の実」)
古木・巨木を愛する人といえば、わたくしにとってはまず藤枝静男である。
章は、戦後になってから、地方の観光案内とか噂とかを頼りに、方々の古い巨木を訪ねて歩くことを楽しみにするようになっている。
その多くは神社の境内にあったり、名前を持ったりして天然記念物になっているけれど、なかには近くの部落の人がどこそこに大木が生えていると教えてくれるだけで、由来も何もなく、ただ古くて大きいばかりというのもある。
こういう類のものを探して行って、人気のない湿った山の奥で、高い高い梢のあたりを透かして見あげたり幹のまわりをめぐったりしていると、まったく幸福で飽きるということがない。(藤枝静男「木と虫と山」)
七月の初めの蒸し暑い午後、昼寝を終えて外に出た。
台風の前触れで、時折りの晴れまはあったが俄雨と突風の夕方になっていた。庭木の枝が飽和点まで水をふくんで項を垂れ、重くたわめた身体を左右に緩く揺すっている。いつもは二階の窓の半分をふさいでいるユーカリの大木が今は視界全体をさえぎるほどに膨張している。庭に降りると小枝まじりの葉が一面に散り敷いていて、拾った掌で揉むと特有の芳香が鼻を刺した。黒い小粒の固い実が無数に落ちてあたりの泥にまみれている。
ユーカリの花は九月すえ十月はじめ秋の入り口に咲 く。枝という枝の先きに、葉と同色の小人のトンガリ 帽みたいな固い蕾が群がりつき、やがて淡黄に変わ り、そして帽子の部分がすっぽり抜け落ちると、ちょうど鞘をはずした筆の穂先きのように圧迫され縮んでいた白色の雄蕊と、中心に突出する淡緑の雌蕊とが、 露出し翻転して花弁の如くいっせいに開くのである。 やがて雄蕊は羸弱し、綿毛となって間断なく高い梢から地上に舞い、徐々に腐蝕され乾いて、結局は黒胡麻のようになって散るのである。( 藤枝静男『田紳有楽』)
浜松住まいだった藤枝静男の小説を好むのは、馴れ親しんだ地名がひんぱんにでてくるせいもある。
章は思い出して、
「三河の猿投神社にも大きなやつが、三、四本あったね。ありゃ見事だったね」
と云った。彼はあそこにももう一度行って見なければならんな、と心に思っていた。
「方々に女をつくって歩く人があるが、あんたのはそれが木だから可笑しいよ」 とTが云った。
「女だって木だって同じことだ。恰好がちがうだけだ」
「木は騙さないから都合がいいね」
「都合がいいよ」
と章は云った。 (藤枝静男「天女御座」)
三河鳳来寺町の山奥にある自分の好きな阿寺の七滝に行ってみた。もう五、六回は訪ねている。僅か数年前に東京からの友人を誘って来たとき「もう生きているあいだにここに来ることはないだろうなあ」と嘆くように云われたが、今は約八百メートルくらい手前までは車で行ける。しかし夏以外には人影は稀である。(……)
八百メートルは坂とも云えぬ程度の平坦な道で、左右の崖上は暗い森に覆われ、道の左側に沿って幅五メートルほどの浅く澄んだ渓川が、細かい魚の列をうかべながら流れ下っている。(藤枝静男「悲しいだけ」)
鳳来寺町とは、小学校から高校までにかけての、いくつかあった遠足先のひとつだった。