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2016年6月14日火曜日

神の宿る所と中央構造線

前回引用した藤枝静男の「天女御座」には≪三河鳳来寺町の山奥にある自分の好きな阿寺の七滝に行ってみた≫という文があった。





この「阿寺の七滝」から東へ6~7㎞行くと、「百間滝」というのがある(参照:新城市観光協会)。





この滝は、中央構造線に沿って落ちている滝とのこと。「滝つぼのところには、はっきりと断層が通っています」とある。





中央構造線とは熊本地震で言及されもした日本最大級の断層系である。もっとも 「九州に中央構造線はない」という見解もあるようだが(地質調査総合センター、2016年5月13日)。


いくらか調べてみた範囲では、鳳来寺町の中央構造線の存在はほぼ間違いないようだ。

中央構造線は、佐久間から先は豊橋へ向かいます。中央構造線沿いにJR飯田線が通っています。中央構造線を侵食しているのは、愛知県東栄町までは、天竜川の支流の大千瀬川ですが、鳳来町から豊橋までは豊川です。その先は渥美半島の北岸沿いを通りますが、半島先端の立馬崎と伊良湖岬の間を通っていることが、ボーリング調査から分かっています。

紀伊半島では伊勢神宮外宮のほぼ真下を通ります。伊勢平野では、平野を埋めた堆積物の下に埋まっています。伊勢平野の南縁から勢和村に入ります。多気勢和インターのあたりで、再び地表に顔を出します。そこから奈良県境の高見峠までは、櫛田川が中央構造線沿いに谷を掘り下げています。奈良県に入ると、中央構造線沿いの川は紀の川になります。和歌山市から淡路島の南岸をかすめ四国へ続きます。

四国では、徳島から阿波池田までは吉野川になります。その先は石槌山地と海岸平野の間の一直線の山麓線になります。その先は、奥道後の山々と石槌山地の間が低くなっているのが分かるでしょう。松山平野の南縁から砥部町を通り、双海町から海へ出ます。佐田岬半島のすぐ沖合いを半島沿いに西へ進み九州へ続きます。四国では、徳島自動車道と松山自動車道が、ほぼ中央構造線沿いに走っています。(河本和朗「中央構造線読み方案内」PDF






上の図にあるように、中央構造線の上に、天竜川、豊川、櫛田川、紀ノ川、吉野川がきれいに並んでいる。

なおかつ意想外にも、名高い神の社も、その中央構造線の上にある。





ところで日本にはもうひとつ大きな構造線がある。上の図のフォッサ・マグナーー「この地域は数百万年前までは海であり、地殻が移動したことに伴って海の堆積物が隆起し現在のような陸地になったとされる」(Wiki)ーーの西側の線がそれにあたるようだ。

日本列島は糸魚川一静岡構造線を境に、西南日本弧と東北日本弧にわけられている。この大断層の西側は中・ 古生代の古い基盤岩類、東側は中新世以降の火山岩類主体の地層からなり、南部地域では西側の西南日本弧の古期岩類が東側に衝上している。

西南日本はさらに中央構造線によって北側の内帯と南側の 外帯にわけられている。中央構造線は1億年以上前に活動を開始し、現在まで段階的に活動し続けている。現在は右横ずれ断層である。中央構造線の北側には高温・低圧型の領家変 成岩類が分布し、南側の結晶片岩からなる三波川帯に衝上し ている。(「地球学入門」、酒井治孝著、東海大学出版社、2003,PDF)


≪大断層の西側は中・ 古生代の古い基盤岩類、東側は中新世以降の火山岩類主体の地層≫とあるが、ここで数年前にはじめて読んでわたくしには思いがけなかった和辻哲郎の指摘を掲げておこう。

東京の新緑が美しいといってもとうてい京都の新緑の比ではないが、しかし美しいことは美しい。やがて新緑の色が深まるにつれ、だんだん黒ずんだ陰欝な色調に変わって行くが、これも火山灰でできた武蔵野の地方色だから仕方がない。樹ぶりが悪いのは成長が早すぎるせいであろう。一体東京の樹木は、京都のそれに比べると、ゲテモノの感じである。ゲテモノにはゲテモノのおもしろみがある。などと、自分で自分を慰めるようになった。(和辻哲郎「京の四季 」)

 これは、古い基盤岩類の土地の糸魚川一静岡構造線の西とは異なり、火山岩類主体の地層(≒糸魚川一静岡構造線の東)では、樹木の成長が早く「ゲテモノ」が育つ傾向にある、と言っているように読んでいいだろう。

わたくしは東京に5年、京都に10年強(その前に大阪と京都の中間地に数年)、そして鳳来寺町近くの東三河が本来の故郷であり、12年住んだ(6歳までは、父の仕事の地、尾張地方で育ったが、父母ともに東三河が故郷だ)。

和辻哲郎に言われて思い起こせば、故郷の町の樹木も、京都の樹木も、東京のものより樹ぶり・枝ぶりがよい。東京の樹木は黒ずんで陰鬱である・・・と比較して断言するほど、多くの樹木をみたわけではないが、なんとなくそんな印象は残っている。


ここで、≪神の宿る所≫、すなわち≪山脈の両側を区切る明確なしるしがあって、どちらの側の人間も、このあたりを自分らの人間世界のへり≫を越えると、≪暗い地形・樹木のたたずまいもいくらか穏やかになる≫とする大江健三郎の叙述を抜き出しておこう。高知空港から、故郷の土地(内子町)へバスで向かうなかでの「僕」の説明である。






高知空港に着き、(……)松山への長距離バスの始発駅に廻っても、なお陽は高く淡い青空で、バスを降りる際のタクシーの手配を駅員にかけあう気にならない。バスは空いてもいる。次男だけが運転手と隣り合う最前列に掛け、残りの家族はなかほどにかたまって掛けて、さて市街を出はずれると、すぐさま深い山襞のなかにバスは入り込んで行き、明治の元勲が幾人も出た村落の豊かな蓄積が見える谷や、藩の殖産政策に着実に応えた窒業で知られる、坂になった街すじを過ぎ、あらためて傾斜の急峻な山襞を両側に見あげるところへ出ると、西の空に陽は赤く、ところどころ残っている紅葉した照葉樹が燃えるようだ。しかし夕焼けは空の高みにのみあって、すぐにも冬枯れた陰気な色合の落葉した雑木、くすぼったい暗い緑の杉山・檜山の眺めとなる。九十九折の道をバスが向きをかえるたびに、なお赤い輝きの照りはえる山稜が眼に入るのではあるが……

――サクちゃんはオリエンテーリングの会場に使われそうな、あまり高くない丘だけ熱心に眺めて、それより上も下も見ないわ、と娘が妻に話していた。それにパパも、松山からお祖母ちゃんの家に向う時は熱心に風景を見るのに、高知からだと、なんだか冷淡なのね。(……)

実際、たちまち暗くなってしまった窓の向うに黒い樹木のたたずまいのみがあり、かつは深くなった渓谷の底の水面のわずかな反映が眼をとらえるのみであるようになっても、僕はあまり失望しなかったのである。地形にも植物相にもとくに大幅なちがいがあるというのではないが、やはりこのあたりの風景は、山のむこう側のそれだったから。(……)



それでも僕はすっかり夜になって辿りついた、県境近くの、左に深い谷の気配と右にそそりたつ崖があり、その岩の根にえぐりこんで社と茶店が建てられている場所で長距離バスが小休止をとる駅では、妻と子供らに進んで説明したのだ。――この高い崖の上に覆いかぶさっている黒いかたまりは、昼の光のなかで見てもね、榎や檜や杉や、それに蔦だらけでいちいちの樹幹は見わけられない、大昔からの稠密な森なんだね。そこが神の宿る所なのさ。この低い所に置かれている社は、森の社の代理。昔から、ここに山脈の両側を区切る明確なしるしがあって、どちらの側の人間も、このあたりを自分らの人間世界のへりと見ていたんだよ。だから近くに住家もないこういう所に、いまもわざわざ茶店を経営していて、バスが行程半ばでしばらく停まるんだ……

そこを過ぎ去るとバスの窓の向うの暗い地形・樹木のたたずまいもいくらか穏やかになるようで、黙り込んでいる妻も子供たちも、境界点を越えたことをよく感じとっていたはずだ。くだり勾配となり果てしなく闇の底に沈んで行く、しかし落ち着いたバスの走行が続き、高知と松山を結ぶ中間点の、そこからT字形に村の方向へくだる、大きい盆地の駅でバスを降りようと、僕は家族に準備を指示していた。当の町に入って行く手前の、まだ高地の斜面なかばと感じられる駅で、バスの進行を妨げかねぬ仕方に車が駐められているのを見た。その脇には、海員のような黒いコール天の帽子とやはり海員風の半外套を着て、深いポケットに両手を入れた頑丈な首から肩の中年男が立っていた。

――ギー兄さんが迎えに来てくれた、ひとつ前の駅で降りよう! と僕は自分の耳にも気負い立って聞こえる声を出したのだ。……(大江健三郎『懐かしい年への手紙』PP.47-49)

上に四国の中央構造線と内子町の位置の図をかかげたが、残念なことに「神の宿る所」は、中央構造線からはわずかにずれて、むしろ 仏像構造線に近いように思えるが、詳しいことはわからない。いずれにせよ、どちらかの構造線を越えると、地質が変わっているはずだ、とわたくしは思い込みたい・・・


…………

※付記

上に和辻哲郎の記述にのっとっていささか図式的に東京(武蔵野平野)ではゲテモノの樹木が育つ土地としたが、より細部にわたって微妙な差異を感じとる中井久夫の次のような叙述を引用することもできる。

最初の記憶のひとつは花の匂いである。私の生れた家の線路を越すと急な坂の両側にニセアカシアの並木がつづいていた。聖心女学院の通学路である。私の最初の匂いは、五月のたわわな白い花のすこしただれたかおりであった。それが三歳の折の引っ越しの後は、レンゲの花の、いくらか学童のひなたくささのまじる甘美なにおいになった。

家が建て込むにつれてレンゲは次第に私の家のあたりから影をひそめたが、家々がきそって花壇をつくるので、ことに三月下旬の初めごろの散歩は、次々にちがう花のかおりに祝われた祝祭となった。色彩も夕暮にはアネモネの赤が沈み、レンギョウの黄がはげしい自己主張をした。

青年時代の京都の生活は、腐葉土のかもしだす共通感覚、すなわち、いくばくかのキノコのかおりと焦げた落葉のにおいと色々の人や動物の体臭のごときものとを交え、さらに水の流れなくなってまだ乾かないうちの石づくりの流水溝の臭気を混ぜたうえで、冷気としめり気とをあたえてひんやりさせ、地を低くはわせたときの共通感覚と切り離すことができない。もっとも同じ京都とはいえ、嵐山のあたりは少しちがって、ある歯切れのよさがある。定家の晩年の歌にはそれを反映したものがあると私は思う。また西山の竹林の竹落葉には少しちがったさわやかさがあって私の好みではあるが、触発される思考の種類さえ京都の東部とは変わってしまう。

これに対して中年期の東京の私の記憶は、何よりもまず西郊の果樹の花のかおり、それも特に桃と梨の花の香と確実にむすびついている。蜜蜂の唸りが耳に聞こえるようだ。むろん、風の匂いは鉄道沿線によって少しずつ異なる。おそらく、その差異の基礎は、土のかおりのちがいであろう。国分寺崖線を境に土の匂いがはっきり異なって、私は、その南側のかおりの記憶のほうに親しみを感じる。国立、小平の家の庭の土と、調布上石原のあたりの土のかおりの差を感じないひとはあるまい。

立川段丘は地元で「ハケ」と呼ばれ、狛江から始まって、特に谷保のあたりでは立派な森になっている。樹種が多いのはむかしの洪水によって流れついたものの子孫だからであろう。ハケ下の小さな、今ではほとんど下水になっている流れが二千年前の多摩川である。川越からその北にかけてのさまざまな微高地の上に生えていた(今でもあるであろうか)樹々のつくる森とは、同じ腐葉土でも、かおりが決定的にちがう。秋にはハケの上の茂みにアケビが生った。珍しい樹種に気づいて驚くこともあった。私の住んだ団地の植栽はずいぶん各地から運んだらしく、ついてきて、頼まれないのに生えている植物を、日曜日ごとに同定してまわったら、六〇種を越えた。ハケの森の樹種はもっと多種だろう。

嗅覚はよくわからない、と首をかしげられる方は視覚のほうなら納得されるだろう。

まず中央線沿線の最初の印象は、長い水平の線が多いということだった。縦の線は短く、挿入されるだけである。これはたしかに譜面の与える印象に近い。京王線では、何よりもまず、葉を落とし尽した欅の樹がみごとな扇形を初冬の空に描いている。もっとも、分倍河原駅を出て多摩川を南西に越えると、匂いも視覚も一変する。

小田急線は、多摩川を越えて読売ランドの南側の「多摩の横山」を背にした狭隘地を抜けると次第に匂いが変化して、京王線の西部のかおりに近づく。

もっとも、小田急線は長く、さまざまの文化を通過し、車窓の風の香もつぎつぎに変化する。本線が小田原に向かって大山を背に南下するところ、酒匂川が豊かな水量の布を盛大に流している、二宮尊徳の生家の東がわの、見えない海のかおりが、もうかすかに混じるのを感じさせるところに来るとほっとする。

塩味のまったくない空気は、どうも私を安心させないらしい。鎌倉の最初の印象は、“海辺にある比叡山”であった。ふとい杉の幹のあいだの砂が白かっただけではない。比叡の杉を主体とした腐葉土の匂いが、明らかに海辺の、それもほとんど瀬戸内海の夏の匂いでしかありえないものとまじるのが驚きのもとであった。もっとも、比叡山のかおりにも、杉とその落葉のかおりにまじって、琵琶湖の水の匂いが、なくてはならない要素である。この水の匂いゆえに、京都時代の私は、しばしば、滋賀県に出て屈託をいやした。比良山は、六甲山に似て、草いきれがうすく、それでいてわびともさびともちがう、淡いながらに何かがたしかにきまっているという共通感覚をさずけられるのが好きであった。好ましく思うひとたちとでなければ登りたくない山であった。

ふつうは「匂いの記号論」とよばれるであろうか、実はそれを問題にしたところの個人史の一部をここに終る。本稿もこれで終りである。近畿のひとには、神社の森ごとにちがうかおりを語ればいちばんわかってくださるであろう。(中井久夫「世界における索引と徴候」)