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2015年7月12日日曜日

くらがりにうごめく「得体の知れないもの」

《批評というものが不可能になったとか、力がなくなったとか言われるけれども、僕の理屈では、むしろ消費者や素人ほど批評家であらざるをえない。(略)彼らがデータとして頼りにできるものは、最低限、自分の身体的な反応しかないわけで、それに対して疑いを持ちつつ、どうそれを解釈、判断し、それに賭けるか。それが日常生きていく上で常に強いられる。これは基本的に批評の原理そのものでしょう。》(岡崎乾二郎)

レストランを選ぶのだって「批評」だからな、
日々ひとは「批評」を生きている
では女を選ぶのは? 
あれは選ぶのではない、唐突にくる
あれは「批評」ではない、あれだけは違う。

では音楽に惚れるのは?
やっぱり「得体の知れないもの」のせいだよ
あなたのなかにあってあなた以上のものせいだよ
対象aのせいだよ

――男性のファンタジーはどんな具合なのですか?

最初の一瞥で愛が見定められることがとても多いのです。ラカンがコメントした古典的な例があります。ゲーテの小説で、若いウェルテルはシャルロッテに突然の情熱に囚われます、それはウェルテルが彼女に初めて会った瞬間です。シャルロッテがまわりの子どもたちに食べ物を与えている場面です。女性の母性が彼の愛を閃かせたのです。ほかの例をあげましょう。これは私の患者の症例で次のようなものです。五十代の社長なのですが、秘書のポストの応募者に面接するのです。二十代の若い女性が入ってきます。いきなり彼は愛を表白しました。彼はなにが起こったのか不思議でなりません。それで分析に訪れたのです。そこで彼は引き金をあらわにしました。彼女のなかに彼自身が二十歳のときに最初に求職の面接をした自分を想いおこしたのです。このようにして彼は自分自身に恋に陥ったのです。このふたつの例に、フロイトが区別した二つの愛の側面を見ることができます。あなたを守ってくれるひと、それは母の場合です。そして自分のナルシシスティックなイメージを愛するということです。(ミレール 「愛について」(Jacques-Alain Miller: On Love:We Love the One Who Responds to Our Question: “Who Am I?”より

女の愛はどうだって?
そんなことしるか、オレは女じゃない

でもものづくりの側はそんなことを言っていてもはじまらない
惚れ続けているのならやはりその形式性に眼を配らなくちゃ

……この音楽のなかで、くらがりにうごめくはっきりしない幼虫のように目につかなかったいくつかの楽節が、いまはまぶしいばかりにあかるい建造物になっていた。そのなかのある楽節はうちとけた女の友人たちにそっくりだった、はじめはそういう女たちに似ていることが私にはほとんど見わけられなかった、せいぜいみにくい女たちのようにしか見えなかった、ところが、たとえば最初虫の好かなかった相手でも、いったん気持が通じたとなると、思いも設けなかった友人を発見したような気にわれわれがなる、そんな相手に似ているのであった。(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)

《くらがりにうごめくはっきりしない幼虫》に震えるのはいいさ
だが《せいぜいみにくい女たちのようにしか見えなかった》のに
どうして惚れるのか、どうしてあれが《思いも設けなかった友人》になるのか

欲望の対象と欲望の対象-原因(対象a)のギャップというのは決定的なんだな、その特徴が私の欲望を惹き起こし欲望を支えるんだから。この特徴に気づかないままでいるかもしれない。でも、これはしばしば起っていることだが、私はそれに気づいているのだけれど、その特徴を誤って障害と感じていることだね。たとえば、誰かがある人に恋に落ちるとする、そしてこう言うんだな、「私は彼女をほんとうに魅力的だと思う、ただある細部を除いて。――それが私は何だかわからないけれど、彼女の笑い方とか、ジェスチュアとかーーこういったものが私をうんざりさせる」。でもあなたは確信することだってありうるんだ、これが障害であるどころか、実際のところ、欲望の原因だったりするのを。欲望の対象-原因というのはそのような奇妙な欠点で、バランスを乱すものなのだけれど、もしそれを取り除けば、欲望された対象自体がもはや機能しなくなってしまう、すなわち、もう欲望されなくなってしまうのだ。こういったパラドキシカルな障害物だ。(“Conversations with Ziiek”(Slavoj Zizek and Glyn Daly)私訳)

◆捨てられた女中さん(シュワルツコフ)




……ヴォルフの歌曲、私は自分の好きな曲に数えて良いかどうか、知らない。嫌いというのではないが、これをきいていて楽な気持、楽しい気持になったことは、ほどんどないのである。

しかし、歌の中のある部分、ある旋律の描く線、あるいは伴奏と歌の声部とのからみあいの具合、そこから生まれてくる和声の流れ、時々きいていて気がつくフレーズの組立ての不規則さの非常な微妙さ、それから言葉を旋律にのせる上での比類をみないほどの精緻なリズムの扱い、音楽全体の歩みの中から放射されてくる光と影の移行の仕方、あるいは交錯の仕方の霊妙さ……こういったものの中には、私をひきつけてはなさないものがあるのは事実である。

そうして、彼の歌は、まるで思いがけない時に、私を襲う。いや、襲うというのは少し強すぎる言葉だ。しかし、まるでちがうことをしている時、私は自分の耳の中で、彼の「音」、彼の「ふし」が鳴っているのに気がつくのである。

こんなわけでヴォルフで、私にいちばん親しいのは、彼の歌の全体というより、細部であり、音楽の中のある局面である。そこでは彼の歌は、ほかにくらべるもののないくらい、美しい。しかも、その美しさは、何かぞっとするような妖気を含んでいることが多い。(吉田秀和「ヴォルフ 《アナクレオンの墓》『私の好きな曲』1977)

さて何の話だったかーー
形式性の話だったな

岡崎氏は言う。《だからぼくの立場はやはり形式主義ということになります。そんな得体の知れないものが対象としてあるように見えて、実際は掴むこともできないのはわかっている。よってそれを捉まえるよりも、具体的に手にすることのできる道具や手段でそれ---その現象を産みだすにはどうすればよいのか、そういうレヴェルでしか技術は展開しない。》

これは決して「得体の知れないもの」を軽視しているのではなく、逆に得体の知れないものの「得体の知れなさ」を熟知しているからこその態度なのだ。「得体の知れないもの」の「得体の知れなさ」を固定化してそれにに溺れてしまうことは、その「得体の知れないもの」に触れている時の「経験」の本質を取り逃がしてしまうことでしかないのだ。《だからイメージに取り憑かれて、つまりそう見えてから分析をはじめていてはすでに手後れであると僕は思います。いわば、そう見えなかったものが、そう見えるようになったこの転換こそを、記憶術たらしめるいわば想起の問題として捉まえなければならないと思うのです。》(岡崎乾二郎に関するテキスト 古谷利裕

◆シンポジウム「日本近代絵画の核心」(浅田彰・岡崎乾二郎・高島直之・松浦寿夫)についての古谷利裕氏のまとめ(2004)より

…松浦氏が、「鏡」という比喩を持ち出し、我々が観ることが出来るのは「鏡像」のみであって「鏡」そのものは観られない、という岡崎氏の発言に触れる。そして、鏡像を成立させている物であるにも関わらず観ることの出来ない「鏡」そのものを、なんとか露呈させようとするのがモダニズム=リアリズムの営みなのではないかと口にした後、たんに「鏡像」と戯れているだけの日本的なポップに対する強い嫌悪を表明する。

それに対し浅田氏が、クールベの「現実的アレゴリー」という言葉を引きつつ、イメージというのは結局アレゴリーとしてしかあり得ず、それはクールベにおいてもそうなのであって、問題はそのような鏡像 (アレゴリー)でしかないものを確信犯的に使いつつ、どうそれを「現実的」なものにまで突き抜けさせることが出来るのかという点にあるのであって、だからポップであること(マンガみたいであること)は、近代美術の規定的な条件としてあるのではないか、と応じる。

さらに岡崎氏は、絵なんていうものはどう描いても結局マンガみたいにしかならず、そのことは少しでも絵をまともに描いたことのある奴なら知っているはずで、だからこそ逆に、絵をろくに知らない奴こそが平気で「あえてマンガ的なものを導入した」などと言うのであって、そんなことを言う奴はマンガに対して失礼だ、と、かなり強い調子で言い、しかし同時に、例えばデュシャンや熊谷守一が、自分の作品が意図せざるスキャンダルを起こして評判になってしまうと嫌になって作品の発表をやめてしまう、というような意味でのポピュリズムへの断固たる拒否(観客を選ぶという態度)が、モダニズムにははっきりとあるのだということも言う。

このマンガの話はなにも絵画だけではないので
あらゆる芸術はマンガからはじまる
《それを「現実的」なものにまで突き抜けさせる》形式を探さなくちゃ

鑑賞者だけであるなら、「得体のしれないもの」やら「深淵」やらと言っていればいいさ
(オレもどちらかというとすこしまえまではその口だったが)
ーーああなんと深い!、なんとデモーニッシュだ! やらと
くりごとのように言っていればいいさ、
マヌケまるだしでな

彼らは、芸術作品に関することになると、真の芸術家以上に高揚する、というのも、彼らにとって、その高揚は、深い究明へのつらい労苦を対象とする高揚ではなく、外部にひろがり、彼らの会話に熱をあたえ、彼らの顔面を紅潮させるものだからである。そんな彼らは、自分たちが愛する作品の演奏がおわると、「ブラヴォー、ブラヴォー」と声をつぶすほどわめきながら、一役はたしたような気になる。しかしそれらの意志表示も、彼らの愛の本性をあきらかにすることを彼らにせまるものではない、彼らは自分たちの愛の本性を知らない。しかしながら、その愛、正しく役立つルートを通りえなかったその愛は、彼らのもっとも平静な会話にさえも逆流して、話が芸術のことになると、彼らに大げさなジェスチュアをさせ、しかめ顔をさせ、かぶりをふらせるのだ。(プルースト「見出された時」)

じつはラカンのJA→JȺ ってのもこれにかかわるのさ
深淵派から表層派(表面のズレ)に
超越的から超越論的に、な

最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoensと Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 ( Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesa)
われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』2012)

"Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu" (Lacan, Seminar XXIII)
《現実界は全きゼロの側に探し求められるべきだ。》

これが比較的後期の仕事だと思われているラカンのセミネールⅩⅩ(アンコール)から
セミネールⅩⅩⅢ(サントーム)における転回(移行)さ

現実界という「得体のしれないもの」は
形式の非一貫性にしかない
わかるか? そこの「深淵派」のボウヤよ

物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない(柄谷行人ーー「超越論的享楽(Lorenzo Chiesa)」)

《現実は現実界のしかめっ面である》(ラカン『テレヴィジョン』)

現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être)

とはいえ、オレが深淵派に徹したっていいだろ
寿命がつきるまじかの鑑賞者だからな
いまさら音楽を分析するなんてとんでもないぜ

「ああ、なんと深いのでしょう!」

バーンスタインは、音楽における意味を四種のレベル、すなわち

1)物語的=文学的意味 
2)雰囲気=絵画的意味 
3)情緒反応的意味 
4)純粋に音楽的な意味 

に分類したうえで、 
4)だけが音楽的な分析を行うに値すると述べて、
「音楽を説明すべきものは音楽そのものであって、
その周囲に寄生虫のように生じた、
音楽以外のもろもろの観念ではない」とする

おまえ、若いうちから「寄生虫」派やるなよ