ーー《現実界は全きゼロの側に探し求められるべきだ。》
超越的、すなわち、ときにラカンのセミネールⅩⅩ(アンコール)では、「神」概念と結びつけられる女性の享楽は否定されなければならない。それはセミネールⅩⅩⅢ(サントーム)を読めば明らかだ、--という Lorenzo Chiesaの見解である。それは”Subjectivity and OthernessA Philosophical Reading of Lacan”に詳しいが、いまはその前論文のいくつかからである。
最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoensと Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 ( Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesa)
この若い哲学的かつ政治的なラカン派Lorenzo Chiesaのいくつかの論を、ジジェクもその代表作である二つの大著『パララックス・ヴュー』(2006)で三度ほど、『LESS THAN NOTHING』(2012)で一箇所引用していることからも窺われるように、ジジェクのお気に入りの若きラカニアンとしてよいだろう。
Slavoj Žižek: 'The Animal Doesn't Exist' with Lorenzo Chiesa |
われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』2012ーーフロイトの欲動二元論と一元論をめぐって)
ーーここにあるのは、一見、フロイトの快原則の彼方(あるいは前中期ラカン、セミネールⅩⅦ以前のラカン)の否定である。
人は言うことができる、セミネールⅩⅦのラカンにとって、享楽とはシニフィアンのそれ自身に対する不十分性inadequacyにあると。すなわち、無用な剰余を生み出すことなしに、“純粋に”機能することの不可能性inabilityであると。(ジュパンチッチAlenka Zupancic”WhenSurplus Enjoyment Meets Surplus Value" 2006ーー
「一見」と記したが、ただの一見ではないのかもしれない。それをめぐっては、「フロイトの欲動二元論と一元論をめぐって」にいくらか(曖昧なままに)記した。
ここでも曖昧なままLorenzo Chiesaに戻る。
◆“Lacan with Artaud: j'ouïs-sens,
jouis-sans, jouis-sens”(Lorenzo Chiesa)より。
享楽は「痛みにおける快楽pleasure in pain」である。もっとはっきり言えば、享楽は対象aの享楽と等しい。後者aは、象徴界に穴を引き裂いて作る現実界の残余である。〈他者〉におけるリアルな穴real hole としての対象aは、剰余-残余のリアルの現前としての穴でもあり、かつ、全体のリアルWhole Real(最初の場には、そこに決していない原初のリアルprimordial Real)の不在、すなわち享楽の不在としての穴である。
リアルrealな残余のこの現前は、実際のところ、何を構成しているのか? その最も純粋なものとしては、剰余享楽(部分欲動)としての「a」の享楽は、享楽の欠如を享楽することのみを意味する。というには、享楽するものは他になにもないのだから。
「享楽の欠如を享楽する」、ーーこれが享楽(剰余享楽)だ、とLorenzo Chiesaは言っている。もちろんここで我々は、ニーチェの『道徳の系譜』の最後のパッセージを抜き出すこともできる。
私が最後にもう一度繰り返すならばこうであるーー人間は欲しないよりは、まだしも無を欲するものである、と……
ラカン後期のセミネール、そのなかでも最も注目に値するのはセミネールXXIIIにて、ラカンは少なくとも四つの異なった享楽概念の形態を活用しているが、にもかかわらず、私の意見では、直接的あるいは間接的に、すべて対象aに繋がっている。(Subjectivity and Otherness A Philosophical Reading of Lacan” 2007)
そして女性の享楽 jouissance feminine とは、アンコールのセミネールでは、他の享楽JAであったものが、ジョイス(サントーム)のセミネールでは、JȺになったとしている。JȺとはsinthomeサントームのことでもあり、Chiesaの本来の議論の核心は、政治的サントームをめぐる。
おそらく、それはジジェクの次の叙述にかかわっており、そこにミレールの享楽論Les six paradigmes de la jouissance批判(吟味)があるのだが、いまはその話題ではない。
ーーいまは、これについては(いまだ未消化のため)触れない。
冒頭の《最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した》をめぐって、柄谷行人によるカント読解を付す。
※附記
おそらく、それはジジェクの次の叙述にかかわっており、そこにミレールの享楽論Les six paradigmes de la jouissance批判(吟味)があるのだが、いまはその話題ではない。
主人のシニフィアンは、無意識のサントーム、享楽の暗号である。主体はそのシニフィアンに、知らないままで主体化されている。(ジジェク『パララックス・ヴュー』ーーラカン派の二種類のサントーム・症状)
Chiesaが注目するのは、セミネールⅩⅩⅡの最初に表れた「ボロメオの輪」からセミネールⅩⅩⅢにおけるそれとの移行である(JA → JȺ)(“Subjectivity and OthernessA Philosophical Reading of Lacan”より)。
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ーーいまは、これについては(いまだ未消化のため)触れない。
上にその断片を掲げたLacan with Artaud: j'ouïs-sens, jouis-sans, jouis-sens”(Lorenzo Chiesa)をもう少し長く引用(おぼつかない私訳で)しておく。
…さて、私は今、享楽にかんして、一連の基本的な命題を明確に述べよう。セミネールXXIII (1975-1976)の特権的な視点に立って、である。私の意見では、この仕事において、ラカンは最終的に、「〈他者〉の〈他者〉はいない」という事実の十全な結果を引き受けた。
我々は思い出す必要がある、「象徴的な〈他者〉の他者はいない」という金言を。この本質的な意味は、象徴的な〈他者〉はいかなる〈他〉の外部の引受人(たとえば、父の名の普遍的〈法〉)によっても正当化されない、かつまた象徴界は非-全体である、ーーこの限りで、象徴界にかんするリアルな他者性はもはや可能でないということだ。
言い換えれば、セミネールVIIに対して、最後のラカンにとっては、象徴界によって「殺害された」原初の〈一者〉は存在しないということ、すなわち象徴界の内部の現実界ーーすなわち、(想像界とつながった)象徴界に「穴を開ける」現実界ーーの局面を超えた「純粋な」原初のリアル(「本当のリアル」)は存在しないということだ。
さらに、強調されねばならないことは、ラカンにとって、「原初の〈一者〉primordial One」ーーあるいは「本当のリアルreal Real」ーーは、非-一者not-One である、まさに、バディウが言うように、それは〈一〉と数えられないものである限りで。すなわち、実際には、それはゼロに一致する。
セミネールXXIIIからの鍵となるパッセージにて、ラカンは指摘している、「現実界は全きゼロの側に探し求められねばならない」と。というのは、燃え盛る火 [享楽の「巨塊」] は、ただ現実界の仮面なのだから。我々は、このゼロを、ただ「偽の」象徴界的/想像界的な〈一者〉(ラカンが呼ぶところの「見せかけsemblant」の場からのみ遡及的に考えうる。もうすこし上手くいうなら、我々は、このゼロを、あたかも〈一者〉ーー典型的〈一者〉ーーがあるかのようにして、この「偽の」〈一者〉の場からのみ、遡及的に考えうる。
別の言い方をしよう。ゼロはそれ自体、無である。とはいえ、「偽の」〈一者〉の限定された視野からみたら何かなのである。物自体はそれ自体、無-物no-thing である(ラカンがl'achoseと言ったように)。言い換えれば、ゼロは、本当のリアルの、つねに-既に喪われた神話的な享楽と同じものである。すなわち、「偽の」〈一者〉は、「〈一者〉を作る」ーー象徴構造における穴を塞ぐcork the holeーーために、対象aという「偽の」享楽が必要なのである。このようにして、遡及的に、元来から喪われている全き享楽の錯覚を創造する。
享楽は「痛みにおける快楽pleasure in pain」である。もっとはっきり言えば、享楽とは対象aの享楽と等しい。後者aは、象徴界に穴を引き裂いて作る現実界の残余である。〈他者〉におけるリアルな穴real hole としての対象aは、剰余-残余のリアルの現前としての穴でもあり、かつ、全体のリアルWhole Real(最初の場には、そこに決していない原初のリアルprimordial Real)の不在、すなわち享楽の不在としての穴である。
リアルrealな残余のこの現前は、実際のところ、何を構成しているのか? その最も純粋なものとしては、剰余享楽(部分欲動)としての「a」の享楽が意味するのは、享楽の欠如を享楽することのみである。というには、享楽するものは他になにもないのだから。
これは、セミネールXVII (1969-1970) にてラカンが次のように言った理由を説明してくれる、「人は、剰余享楽 [例えば、対象aの享楽]があると見せかけている[faire semblant] 。多くの人はいまだこの考えに囚われている」。享楽は苦しんでいる、なぜならそれはjouis-sans (享-無し)だから。ーーこの新造語を使うが、私が知り得るかぎり、これはラカンが作ったものではない。享楽の欠如を享楽することは、これゆえ、〈物〉の欠如を苦しむ/享楽することを意味する。〈物〉とは、無-物no-thing(l'achose)なのだ。
精神分析の主要な仕事の一つは、主体に欠如としての「a」を受けいれさせることだ。享楽が享-無jouis-sansであるなら、「もっとたくさん」あるいは「より少なく」享楽することは、享楽の存在presenceを決め込んでいる倒錯的位置からのみ意味をもつ。ここで作用するのは唯一ただ基礎的な相違のみである。すなわち、享-無jouis-sansである欠如を受けいれるかそうでないか。
主体の基本的な幻想(障害物としての)がきっぱりと解体されたときでさえーー精神病の場合に起こるようにーー、そこで問題になっているのは、享楽の「増加」ではなく、潜在的に破壊的な享-無jouis-sansである享楽の欠如を、うまく処理しえない象徴界の不能である。
言い換えれば、享楽を積み上げることはできない。というのはそれは欠如に頼っているのだから。すなわち、客観的に欠如を積み上げれない。我々が、– 1が完全な欠如以上の「何か」だと想定したときのみ、(–1) + (–1) = – 2と言うことができるだけだ。もし、最初から、欺瞞的に– 1 を + 1に変換していたら…。ラカンによれば、資本家の言説は、倒錯を典型的に表す、まさにそれがリアルの「a」(欠如)を蓄積された享楽として楽しむふりをする限りで。
享楽は、欲動と欲望のあいだにある分離できない関係の必要条件である。もっと正確にいえば、欲動は、無意識の欲望の部分的「マゾヒスティックな」満足を供給する。まさに享-無jouis-sansの不満足を通して、である。結果として、享楽は、一般的に、言語で欲望する存在としての人間の必要不可欠な前提条件である。
最も重要なのは、(対象aの)享楽は、言わば、避けがたくシニフィアンを「伴ない」つつ、しかもシニフィアンから分離したままであるだけではない。享楽はまたシニフィアン自体に出現する。言い換えれば、欲動は言葉で言い表さないものではない。それは、意味-享楽jouis-sensの偽装にて、シニフィアンのなかで「それ自身を発する」。享楽(より正確には、その欠如)は、また意味-享楽enjoy-meantなのだ。享-無Jouis-sansはまた意味senseの言語的欠如、象徴的知自体の固有の限界を示す。というのは、定義上、象徴的知は、無意識における非-全体だから、それはまた、「享楽の手段」として見なされるべきだ。
…………
冒頭の《最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した》をめぐって、柄谷行人によるカント読解を付す。
『純粋理性批判』を出版した後、カントは、同書における記述の順序に関して、現象と物自体という区分について語るのは、弁証論におけるアンチノミーについて書いてからにすべきだったと述べている。
実際、現象と物自体の区別から始めたことは、彼のいわんとすることを、現象と本質、表層と深層というような、伝統的な思考の枠組みに引き戻す結果を招いてしまった。カント以後に物自体を否定した者は、そのようなレベルで考えているのである。また、ハイデガーのように物自体を擁護した者はそれを存在論的な「深層」として見いだしている。
しかし、物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。それは自分の顔のようなものだ。それは疑いもなく存在するが、どうしても像(現象)としてしか見ることができないのである。したがって重要なのは、「強い視差」としてのアンチノミーである。それのみが像(現象)でない何かがあることを開示するのだ。
カントがアンチノミーを提示するのは、必ずしもそう明示したところだけではない。たとえば、彼はデカルトのように「同一的自己」と考えることを、「純粋理性の誤謬真理」と呼んでいる。しかし、実際には、デカルトの「同一的自己はある」というテーゼと、ヒュームの「同一的自己はない」というアンチテーゼがアンチノミーをなすのであり、カントはその解決として「超越論的主観X」をもちだしたのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』p81)
物自体に何ら神秘的な意味合いはない。カントは次のように警告している。
《一般に観念論の主張することろではこうである―――思考する存在者のほかには、いかなるものも存在しない、我々が直観において知覚すると信じている他の一切の物は、この思考する存在者のうちにある表象にすぎない、そしてこれらの表象には、思考する存在者の外にあるいかなる対象も実際に対応するものではない、というのである。
これに反して、私はこう主張する。―――物は、我々の外にある対象であると同時に、また我々の感官の対象として我々に与えられている。しかし物自体が何であるかということについては、我々は何も知らない、われわれはただ物自体の現れであるところの現象がいかなるものであるかを知るにすぎない、換言すれば、物が我々の感官を触発して我々のうちに生ぜしめる表象が何であるかを知るだけである。それだから、私とて、我々の外に物体のあることを承認する》(『プロレゴメナ』篠田英雄訳、岩波文庫)。
つまり、カントは世界も他我もわれわれが作ったものでなく、われわれに関係なく存在し生成していることを認めている。言い換えれば、われわれが「世界内存在」であることを。彼が物自体をいうのは、主観の受動性を強調するためである。 『トランスクリティーク』(岩波書店)第一部注p467)
※附記
思惟するこの自我、あるいは彼、あるいはそれ(物)によって表象されるのは、もろもろの思考の超越論的主観=Xに他ならない。この超越論的主観は自らの述語である思考によってのみ認識される。またこの超越論的主観については単独には我々は決していささかの概念も持ち得ない。だから、我々はこの主観をめぐって絶えざる循環のうちをさ迷わねばならい。というのも、この超越論的主観について何かあることを判断するためには、我々はつねにすでにこの超越論的主観の表象を用いなければならないからである。これが、自我の表象から分かちえない不都合さである。(『純粋理性批判』岩波版全集)