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2015年8月26日水曜日

「私」とは他者である ''JE est un autre.''( ランボー)

ラカン派の三種類の他者、あるいはデリダの猫」に引き続く。いやそこにおいて欠けているものの補遺。

…………

《「私」とは他者である ''JE est un autre.''》 ( ランボー)

《私は他者だ ''Je suis l'autre''》 (ネルヴァル)

人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。

かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にしてーー自分自身に語りかけることを覚えたのだ。

自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。
(ポール・ヴァレリー『カイエ』二三・七九〇 ― 九一、恒川邦夫訳、「現代詩手帖」九、一九七九年)



詩人たちはこのように「他者」を語った。それぞれその意味するところのニュアンスの相違はあるだろう。

いくつかの応答はこうだ。

《自我は自分の家の主人ではない“dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus”》(フロイト)

※参照:「私が語るとき、私は自分の家の主人ではない


《欲望は他者の欲望le désir se révèle comme désir de l'Autre 》(ラカン)

唯一ヘーゲルだけである、欲望の根源的で構成的な「再帰性reflexivity」を考慮したのは(欲望とはいつも-すでに欲望の欲望、欲望のための欲望である。すなわちその用語のありとあらゆるヴェリエーションの下の「〈他者〉の欲望」である。私は私の〈他者〉が欲望することを欲望する。私は私の〈他者〉によって欲望されたい。私の欲望は大文字の〈他者〉――私が埋め込まれている象徴的領野――によって構造化されている。私の欲望はリアルな〈他者―モノ〉の深淵によって支えられている)。 (ZIZEK『LESS THAN NOTHING』2012 私訳)
要するに、私たちのもっとも近くにあるものが、私たちのまったくの外部にあるのです。ここで問題となっていることを示すために「外密extime」という語を使うべきでしょう。(ラカンS16)
おそらく対象aを思い描くに最もよいものは、ラカンの造語"extimate."である。それは主体自身の、実に最も親密なintimate部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外exに現れ、捉えがたいものだ。(Richard Boothby)
Ex-sistenz のEx はaus,heraus,hinaus を、即ち「外に出る」ことを意味している。ハイデガー自身の説明によればーー「存在の真理のなかに出で立つこと」 Hinausstehen in die Wahrheit des Seins と言い、Das stehen in der Lichtung des Seins nenne ich die Wahrheit des Seinsと言っている。(塚越敏)

以下の文を訳そうと思ったが、最近英文献を訳してばかりでややウンザリしてきたので、そのまま貼付する。

◆Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE (Paul Verhaeghe 1998)

An animal without language is part and parcel of its reality. It has no chance of the self-reflection or distance that we achieve through language. After the introduction of language, distance and mediation follow, and therefore difference. This applies first and foremost with regard to the other person who really has become an 'other', the (m)other, but it equally applies to oneself, since this is how an identity is created that can be reflected upon in terms of language. T think, therefore I am' demonstrates this dis-tance. Rimbaud expressed it much more poetically: 'Je est un autre' (I is someone else). It is said that language is a bridge, but it is a bridge that at the same time creates the chasm it bridges, and what lies under the bridge is lost. Language is not so much a means of communication, as it is a means of achieving identity. Through language, every person acquires a certain identity, with related rules: you are the mother of, daughter of, father of, son of. Thus the original real division of birth is symbolically consolidated within the Oedipal structure, where everyone is assigned their rightful place through words. At this point we become human, leaving nature behind for good. The rest of this dividing operation is nothing other than desire. It is also the explanation of the continually shifting nature of desire. You 'desire' something from another person, either something vague or something specific, but it is never enough, and you continue to desire, beyond this something, the other person's self, but when this other person gives himself, even that doesn't really satisfy ... So what is it you really want? What you really want is the sense of unity that has been lost forever, the enjoyment of the totality that once existed. This is what keeps people going initially in the primary relationship with the mother and later on in all other relationships.


◆new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex PAUL VERHAEGHE 2009

Today it is more or less generally accepted that as children we identify with the mirroring reactions of the other and thereby acquire an identity of our "own." Despite the discovery of the so-called mirror neurons, how this identitlcation works is not yet clear. A similar process was originally described by Freud in terms of incorporation and introjection, when he was discussing the idea of negation (Freud, 1978 [1925h]).

Lacan's theory of the mirror stage alld subject formation provides a further elaboration. Developmental psychology and attachment theory are reframing the investigation, and the surprising conclusion is that our identity comes from the other.

In the Lacanian approach , the accent has to a great degree been put on the idea of alienation, following the words of the poet Rimbaud " I is another" (Je est un autre) . There is no original identity in the infant itself; but, under normal circumstances, an external identity awaits, embedded in the personal history of the father and the mother, and often revealed first of all in the infant's given name, which is almost never neutral.

For Lacan, the mirror presented by the Other reflects much more than the infant's arousal; it reflects as well what he calls the discourse of the Other, meaning that the Other's history will be fully present in it. Human identity is constructed by way of identitlcation with the signitlers of the desire of the other. Stressing this impact of the other on identity, Lacan refers to this process as alienation.

Yet in focusing so strongly on this structurally determined alienation, the Lacanian approach tends to ignore that such mirroring mayor may not correspond to what the child is experiencing in its own body and that the child always brings a kind of drive regulation. Indeed, the mirror stage installs a kind of bodily identity as well, through which the component drives first become ordered. It is through this shift that the role distribution and social "cunning" described by Lacan will become possible.

ここで最後に黒字強調した身体としての欲動の制御をめぐっては次ぎのラカンの文をめぐってメモされている「ラカンの三つの身体」を見よ。

主体が囚われているのは意識ではない、身体である。(ラカン「哲学科の学生への返答」(1966 私訳)

"Ce n'est pas à sa conscience que le sujet est condamné, c'est à son corps."(Réponses à des étudiants en philosophie sur l'objet de la psychanalyse Jacques Lacan, 1966)


さらには、《〈他者〉は身体である》(ラカン、セミネールⅩⅣ)をめぐっては、「享楽への道とは死への道(ラカン)」を見よ。

これは jouissance de l'Autre にかかわるのだが、現在のラカン派内でもーーわたくしの知る限り日本だけでなく海外でもーーこの概念をはっきりとつかみとっているひとは稀である。

L'Autre, à la fin des fins et si vous ne l'avez pas encore deviné, l'Autre, là, tel qu'il est là écrit, c'est le corps ! (10 Mai 1967 Le Seminaire XIV)

というのはラカン自身の叙述がその晩年になってひどく揺れ動いているからだ。

享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「〈他者〉の享楽」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の〈他者〉、まさに同じ表現(「〈他者〉の享楽」)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる〈他者〉the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、〈他者〉の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに汚染があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての〈他者〉を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる〈他者〉the (m)Otherとしての〈他者〉があり、シニフィアンの媒介としての享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一〈他者〉から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。これが説明するのは、なぜ母なる〈他者〉the (m)Otherが「享楽の席the seat of enjoyment」なのか、その〈他者〉に対して防衛が必要なのに、についてである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2009、私訳)

《我々のリアルな有機体は、最も親密な異者》とあるように、ヴェルハーゲの叙述から読み取ったわたくしの今のところの理解では、フロイトのFremdkörper(異物としての身体)が核心である。

Fremdkörper, a foreign body present in the inside but foreign to this inside. The Real ex-sists within the articulated Symbolic.(Paul Verhaeghe "Mind your Body ")

これは上に引用したがラカンのex-timite(外密)にかかわる(参照:「ラカンのExtimité とハイデガーのExsistenz」)

かつまた、ラカンの「サントーム」のセミネールⅩⅩⅢの、”un corps qui nous est étranger”は「異物としての身体Fremdkörper」として理解できるだろう。

l'inconscient n'a rien à faire avec le fait qu'on ignore des tas de choses quan qu'on sait est d'une toute autre nature. On sait des choses qui relèvent du signifiant. (...) Mais l'inconscient de Freud (...) c'est le rapport qu'il y a entre un corps qui nous est étranger et quelque chose qui fait cercle, voire droite infinie - qui de toutes façons sont l'un à l'autre équivalents - quelque chose qui est l'inconscient." (Seminar XXIII, Joyce - le sinthome, lesson of 11th May 1976

こうしてもう一人の詩人の言葉に出会うことができる、《身体は身体だ/他になにもない/器官などいらない/身体は決して有機体ではない/有機体は身体の敵なのだ》 

人間に器官なき身体をつくってやるなら、人間をそのあらゆる自動性から解放して真の自由にもどしてやることになるだろう。(アントナン・アルトー  「神の裁きと決別するため」)
…………
いまや勝利を得るには、語-息、語-叫びを創設するしかない。こうした語においては、文字・音節・音韻に代わって、表記できない音調だけが価値をもつ。そしてこれに、精神分裂病者の身体の新しい次元である輝かしい身体が対応する。これはパーツのない有機体であり、吸入・吸息・気化といった流体的伝勤によって、一切のことを行なう。これがアントナン・アルトーのいう卓越した身体、器官なき身体である。(ドゥルーズ『意味の論理学』「第十三セリー」)
われわれはしだいに、CsO(器官なき身体:引用者)は少しも器官の反対物ではないことに気がついている。その敵は器官ではない。有機体こそがその敵なのだ。CsOは器官に対立するのではなく、有機体と呼ばれる器官の組織化に対立するのだ。アルトーは確かに器官に抗して闘う。しかし彼が同時に怒りを向け、憎しみを向けたのは、有機体に対してである。身体は身体である。それはただそれ自身であり、器官を必要としない。身体は決して有機体ではない。有機体は身体の敵だ。CsOは、器官に対立するのではなく、編成され、場所を与えられねばならない「真の器官」と連帯して、有機体に、つまり器官の有機的な組織に対立するのだ。(『千のプラトー』)P182

ドゥルーズの「器官なき身体」の説明を読めば、われわれはラカンの晩年の概念ララングを想起することもできる。

lalangue(ララング)とはまず、喃語lalationと関連づけられ、当然、乳幼児に認められるものだが、母親がこれに加わる。母親も自分の赤ん坊には、「大人のことば」以外にも、赤ん坊が喋る喃語を真似てやはり喃語を喋る。母親は赤ん坊の欲望(ここでは、まずは、敢えて、要求とか欲求ということばを用いないで説明したい)を叶えようとする一方で、その母国語を教える。lalationからla langueへ入ってゆく、そこにlalangueができあがるとしてもよいであろう。(荻本芳信 ラカン『ラ・トゥルワジィエーム』 La Troisième

ここではさらに、「言語のリアルReal-of-language」をめぐるLorenzo Chiesaの叙述を抜き出しておく。

子どもは、エディプスコンプレックス(その消滅)を通して象徴界への能動的な入場active entryをする前に、文字letterとしての言語、言語のリアルReal-of-languageに関係する。人は原初の肝所を思い描くことを余儀なくされる、肝所、すなわちペットのように言語のなかに全き疎外されている状態を。これはたんに神話的な始まりを表すだけに違いないとはいえ、それにもかかわらず、子どもは、いかに話すかを学んだのちも、(文字としての)言語によって話されbe spoken by language続ける。

精神病者は、もし諸シニフィアンのシニフィアンsignifier of signifiers (父の名)が排除されているなら、いかに意味作用あるいは意味されるものを生み出すのだろうか? 私は、精神病にて《S2sはそれら自身のあいだに関係をもつ》(B. Fink, The Lacanian Subject [1995])について十分に議論されていないと信じている。

もし、精神病にて、S2sのあいだの関係が、言語のリアル(文字)の領野を超えてゆくのなら、もし、精神病者がしばしば潜在的(非発病)で、その主体は意味作用の生産をなんとかやっているのなら、ある数のシニフィアンーーS2sを越えたものでありながら正当なS1の地位を獲得していないいくつかのシニフィアンの手段によってのみ、そうし得る。

これは次のラカンの言明を説明するだろう、《人間にとって、「正常normal」と呼ばれるためには、彼は「最低限の数」の縫合点 “a minimal number” of quilting points を獲得しなければならない》(The Seminar Book III, pp. 268‒269)。

言い換えれば、精神病者は縫合点がないわけではない……精神病者は、原初の(そして質的にはより重要な)縫合点、父性隠喩によって生み出された縫合点を排除している。とはいえ、それにもかかわらず、精神病者は(量的に不十分な数の)他の縫合点を持っている。それは定義上、S2の地位におとしめることはできないものだ。もしこれがそうでなかったら、彼はシンプルに「完全な狂人」だろう、彼は我々の言語を話さない……(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa. 2007 )

※参照:「ラカン派の「象徴界から排除されたものは現実界のなかに回帰する」の意味するところ