2016年5月10日火曜日

ファルス(+)/(-)

ラカンの命題が孕んでいるもの…その命題によれば、「原初的に抑圧されている」ものは、二項シニフィアン binary signifier (Vorstellungs-Repräsentanz 表象-代表のシニフィアン)である。すなわち象徴秩序が締め出しているものは、(二つの)主人のシニフィアン Master-signifiers、S1ーS2 のカップルの十全な調和的現前 full harmonious presence である。S1 – S2 、すなわち陰陽(明暗、天地等々)、あるいはどんなほかのものでもいい、二つの釣り合いのとれた「根本原理」だ。「性関係はない」という事態が意味するのは、まさに第二のシニフィアン(女のシニフィアン)が「原初的に抑圧されている」ということであり、この抑圧の場に我々が得るもの、その裂け目を満たすもの、それは「抑圧されたものの回帰」としての多数的なもの multitude、「ふつうの」シニフィアンの連続 series である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012 、私訳)

やあ、じつに不思議だね、
ーーたまには素朴な問いを発してみるけれど
どうして女のシニフィアンって原初から抑圧されてんだろ?
どうして下にミレールがいうようなことが起こるんだろ?

存在するのは女達 les femmes、一人の女そしてもう一人の女そしてまたもう一人の女...です。(……)

女は存在しない。われわれはまさにこのことについて夢見るのです。女はシニフィアンの水準では見いだせないからこそ我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。(ミレール“El Piropo”)
無意識には女についての男の無知そして男についての女の無知の点があります。それをまず次のように言うことができます。二つの性は互いに異邦人であり、異国に流されたものである、と。

しかし、このような対称的表現はあまり正しいものではありません。というのも、この無知は特に女性に関係するからです。他の性について何も知らないからなのです。ここから大文字の他の性 Autre sexs というエクリチュールが出て来ますが、それはこの性が絶対的に他であるということを表わすのです。実際、男性のシニフィアンはあります。そしてそれしかないのです。(……)

科学があるのは女性というもの la femme が存在しないからです。知はそれ自体他の性についての知の場にやってくるのです。(ミレール「もう一人のラカン」)

ここで言っているのは、〈女〉のシニフィアンが存在しないのだから
男たちにとってと同じように、女たちにとっても〈女〉は存在しないことだ

そして科学があるのは〈女〉が存在しないせいだったら、
いま、きみやオレがなにやらやっているのも、
全部、〈女〉が存在しないせいだ、
〈女〉が存在したら、(二つの)主人のシニフィアン Master-signifiers、
つまり、S1ーS2 のカップルの十全な調和的現前があるのだから
人間はこんな間の抜けたなことを日々やっていないさ

フロイトは芸術や学問は昇華だっていったけど、
芸術や学問だけでなく、なんでも昇華だよ、オレたちのやってることは

そもそも「剰余享楽は昇華」(ミレール、2014)だ

じゃあ昇華でない享楽ってなんだろ?
やっぱり母なる大地との融合=死しかないんじゃないか。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。[le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance ](S.17)ーー睡眠=母胎内への回帰(エロス)

人生は、自己流儀の死への廻り道なのさ
大抵の場合、急いで目標に到達しないだけだよ

…c'est que la vie n'y retourne que par des chemins, toujours les mêmes, qu'elle a une fois bien tracés(S.17)

これは安永浩ー中井久夫のファントム理論と合致するな



安永と、生涯を通じてのファントム空間の「発達」を語り合ったことがある。簡単にいえば、自極と対象極とを両端とするファントム空間軸は、次第に分化して、成年に達してもっとも離れ、老年になってまた接近するということになる。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収、参照

ところで、ラカンの名高い「昇華」 la sublimation の定義、
《物の尊厳への対象の昇化[l'objet, ici, est élevé à la dignité de la Chose]》(S.Ⅶ)
というのがあるけれど、またこうも言ってるんだよな。

〈物〉 la Choseは、本質的に、〈他の物〉Autre choseである。(S.7)

ふつう、いつも-常に喪われた〈物〉としての〈母〉との融合と言われるんだけど、
近親相姦というのは大文字の〈母〉とヤルわけではないので、
つまり小文字の母とヤルわけで、〈物〉との融合じゃない。
とすれば、あの小文字の他者=母も〈他の物〉 Autre chose だ
剰余享楽の対象-原因だな

ーーああ、つまらん、無理してヤッとかなくてよかった・・・

あおむけに達男は山の茂みの中にたおれ,オリュウノオバは達男の上に重なり,ふと達男が笑みを浮かべもしない真顔で自分を見ているのを知り,恐ろしくなった。達男がオリュウノオバの乳をまさぐり,丁度腹の下に巌のようにふくれ上った一物が当たったのに気づいて,オリュウノオバは自分から達男に触れたのを忘れたように身をふって金切り声をあげ,起き上ろうとして組み敷かれた。

十五の達男の流した汗が黄金の光りから鉛に変り,輝きがとれるたびに若い衆の刃鋼のような体が現われ,オリュウノオバは産んだわが子と道ならぬ事をやり, 畜生道に堕ちるように心の中で思う。 (中上健次『千年の愉楽』ーー中上健次と「父の名」


で、最初の問いに戻れば、どうして女のシニフィアンって抑圧されてんだろ?

フロイトの理論によると、両性の準拠となるシニフィアンは一つだけしかありません。ファルスがそうです。(ミレール、“El Piropo”)

ファルスのせいかね、ほんとに?

ラカンはファルスはおちんちんのことじゃない、としきりに強調してるが、
やっぱりファルスはおちんちんでもあるところがあるんじゃないかね、はあん?

…ファルスは、この徴の特権化されたシニフィアン signifiant privilégié である。このファルスにおいて、ロゴスの役割が欲望の出現 l'avènement du désir と結ばれる。

人は言うことができる、このシニフィアンは、 性交の現実界 le reel de la copulation sexuelle のなかで把握できるもののうちで最も目立ったもの le plus saillant として選ばれた、と。

同様に、用語の文字通りの(印刷技術上の typographique)意味において、最も象徴的なもの le plus symbolique として選ばれた、と言いうる。というのは、(論理的)繋辞 copule (logique) と等価であるためである。

また、その膨張性 turgidité によって、世代をわたって伝えられていく生命的な流れのイメージ l'image du Bux vital であると言いうる。(ラカン、ファルスの意味作用、E692)


ここには、ファルスの現実界・象徴界、・想像界〔イメージ)の定義が順にあるけれどさ

第一の《性交の現実界 le reel de la copulation sexuelle のなかで把握できるもののうちで最も目立ったもの》に注目してみれば、これは性交だけでなく、やっぱりファルスは目立ったものなんだな

彼女は三歳と四歳とのあいだである。子守女が彼女と、十一ヶ月年下の弟と、この姉弟のちょうど中ごろのいとことの三人を、散歩に出かける用意のために便所に連れてゆく。彼女は最年長者として普通の便器に腰かけ、あとのふたりは壺で用を足す。彼女はいとこにたずねる、「あんたも蝦蟇口を持っているの? ヴァルターはソーセージよ。あたしは蝦蟇口なのよ」いとこが答える、「ええ、あたしも蝦蟇口よ」子守女はこれを笑いながらきいていて、このやりとりを奥様に申上げる、母は、そんなこといってはいけないと厳しく叱った。(フロイト『夢判断』 高橋義孝訳)

やっぱり蝦蟇口はソーセージにくらべて目立たないんだよな


古代の彫刻みてもファルスつきの作品ばかりが目立つからな
ファリックマザーだってあるさ





古代から、われわれはオカアチャンのおちんちんを渇望してたんだよ
その結果じゃなくてなんだっていうんだ、ファリックマザーって?

子供が去勢コンプレックスの支配下に入る前、つまり彼にとって、女がまだ男と同等のものと考えられていた時期に、性愛的な欲動活動としてある激しい観察欲が子供に現われはじめる。子供は、本来はおそらくそれを自分のと比較して見るためであろうが、やたらと他人の性器を見たがる。母親から発した性愛的な魅力はやがて、やはりペニスだと思われている母親の性器を見たいという渇望において頂点に達する。ところが後になって女はペニスをもたないことがやっとわかるようになると、往々にしてこの渇望は一転して、嫌悪に変わる。そしてこの嫌悪は思春期の年頃になると心的インポテンツ、女嫌い、永続的同性愛などの原因となりうるものである。しかしかつて渇望された対象、女のペニスへの固執は、子供の心的生活に拭いがたい痕跡を残す。それというもの、子供は幼児的性探求のあの部分を特別な深刻さをもって通過したからである。女の足や靴などのフェティシズム症的崇拝は、足を、かつて崇敬し、それ以来、ないことに気づいた女のペニスにたいする代償象徴とみなしているもののようである。「女の毛髪を切る変態性欲者」は、それとしらずに、女の性器に断根去勢を行なう人間の役割を演じているのである。(『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』1910)

で、きみたち、ーーいささか話が飛ぶがーー
たいていは善人ぶってフェミニストであることを装っているきみたちは、
赤ちゃんががうまれたとき、
ーー最近では、胎児のときからエコーで判定するなどもあるがーー
おちんちんを目印にして、あら男の子! あら女の子! なんて判定するなよな
あれは、ファルスプラスとファルスマイナスの思考圏域に囚われの身
の人物がすることだぜ、別の目印探せよ

ようはそんな判定したら、ファルス規範の男根主義者だと認定するね、オレは