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2016年4月26日火曜日

言語による世界の整合化と貧困化(中井久夫とラカン)

父の名(複数の父の名) 、それは、何かの物を名付けるという点での最初の諸名 les noms premiers のことだ。[…c'est ça les Noms-du-père, les noms premiers en tant que ils nomment quelque chose](ラカン、セミネール22,.R.S.I., 3/11/75)

このラカンの父の諸名は、その言葉の印象からくるのとは違って、母にかかわるだろうことをすこし前みた。

法の病理は、法との最初の遭遇から、主体のなかに生み出される。私がここで法と言っているのは、制度的あるいは司法的な意味ではない。そうではなく、言語と結びついた原初の法である。それは、必然的に、父の法となるのだろうか? いや、それは何よりもまず母の法である(あるいは、母の代役者の法)。そして、ときに、これが唯一の法でありうる。

事実、我々は、この世に出るずっと前から、言語のなかに没入させられている。この理由で、ラカンは我々を「言存在」と呼ぶ。というのは、我々は、なによりもまず、我々を欲する者たちの欲望によって「話されている」からだ。しかしながら、我々はまた、話す存在でもある。

そして、我々は、母の舌語のなかで、話すことを学ぶ。この言語へに没入によって形成され、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。(Geneviève Morel、2009,私訳ーー参照

もっとも「母性のオルギア」(距離のない狂宴)、つまり母の享楽の徴から分離しようとする父の機能のヴァリエーションーーラカンの père-version (父のヴァージョン・倒錯)ーーという面はあるので、一概に「父の諸名」が、「母の法」にかかわるとしてしまうのは疑わしい。

Ce n'est pas que soient rompus le Symbolique, l'Imaginaire et le Réel qui définit la perversion, c'est que ils sont déjà distincts, et qu'il en faut supposer un quatrième… qui est le sinthome en l'occasion …qu'il faut supposer tétradique ce qui fait le lien borroméen, que « perversion » ne veut dire que « version vers le père », et qu'en somme le père est un symptôme ou un sinthome, comme vous le voudrez.(S.23)

だが、原初の刻印は母親役の人物から来るのはまちがいない。最初の徴、trait unaire(「一」の徴)は、《徴のもっともシンプルな形であり、厳密に言って、シニフィアンの起源》であり、そして 《享楽の侵入の記念物commémore une irruption de la jouissance》でもある(S.17)。(参照

「父の諸名 les Noms-du-père」とは、母から受動的に侵入・刻印された原初の徴とそこから逃れようとする個人の能動的な徴(名付け)の両方を表しているのではないか。後者は神経症者におけるような「父の名」(父の法)が介入する以前の父の代りの倒錯ヴァージョンpère-version ではないか。

きみたちは、私が何度もくり返したことを聞いたはずだろう、精神分析は、新しい倒錯を発明することさえ成功できていない、と。ああ何と悲しいことだ!

Vous m'avez entendu très souvent énoncer ceci : que la psychanalyse n'a même pas été foutue d'inventer une nouvelle perversion. C'est triste !(ラカン、セミネールⅩⅩⅢ)


…………

以下の中井久夫の文には、晩年のラカンと同じように「名付け」と「母」という語が同時に出てくる。

◆中井久夫「発達的記憶論」2002より

「断続平衡論的発達観」にもとづけば最初の大きな断続=飛躍は出産である。この新しい世界の分節化に対応して空間開拓が開始される。それは、外界の開拓でもあるが、自己身体の空間開拓でもあり、心理的空間の開拓でもある。さらに時間の空間化・分節化もはじまる。これには内的なリズムと、それに応じた母親役の対応によって進行する。空間の開拓は日本の哲学者坂部恵、市川浩らが「みわけ」「ことわけ」として強調するように世界の分節化である。これと関連し並行的に進む過程があり、それは「名付け」naming である。「名付けること」によって、それ以前の混沌としたマトリックス的な世界の中にただよっているものが区分され明確となる。この過程をバリントは「物質」matter から「対象」object への移行と述べている。ここで「基盤」としてのマトリックス(語源的に「母」である)がなければ、空間開拓もありえないことを付言しておこう。

名付けることによって、人は世界を分節化する。

ラカン曰く、人が「昼と夜」と言えるようになる前には、昼と夜はない。 ただ光のヴァリエーションがあるだけだ、と。

世界に「昼と夜」というシニフィアンが導入されたとき、何か全く完全に新しいものがうまれる。 (ミレール、The Axiom of the Fantasm、 Jacques-Alain Miller、2013)

だが、中井久夫=バリントによれば、そのとき「物質」から「対象」の世界へと移行する、ともある。これを前期ラカンは、言語による「物の殺害 meurtre de la chose」(E.319)と呼んだ。

中井久夫はこれを言語化による「貧困化」としている。

言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 p.66)

言語にはこのように両面がある。《世界の整合化と因果関連化》(同中井、P.61)する面と、世界を貧困化する面と。

これは、ラカンによって、次ぎのように言われたことにもかかわる。

……われわれは、思考にとって「AはAである」ということが昔からいかなる困難を引き起こしてきたかを知っている。「AはAである」というとき、AがかくもAならば、なぜAを自分自身から切り離し、すぐに置き戻すのであろうかというものである。(ラカン『同一化セミネール』)

かつまたその変奏はいくらでもある(参照:“A is A” と “A = A”

ハイデッガーにとって、 “A is A” が “A = A”に還元されることは許されない。むしろ、そうしてしまうことがプラトン以来の「存在喪失」に帰着することになる。(柄谷行人「非デカルト的コギト」(初出 1992)『ヒューモアとしての唯物論』所収 P.96)  

存在喪失は、「物質」から「対象」の世界への移行によって起る。

ラカンの存在欠如 manque à être とは、言語の遡及的な rétroactif 効果 effet から生じる。《L'effet du langage est rétroactif précisément en ceci que c'est à mesure de son développement qu'il manifeste ce qu'il est à proprement parler de manque à être.》 (S.17)

ジジェクならこう言う。

ヘーゲルが何度も繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。もっとパセティックな言い方をするなら、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが次のように言うのを好んだように。つまり、私は話しているのではない。私は言語によって話されている、と。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。すなわち、主体が「聖餐式における全質変化 transubstantiation」のために支払わなければならない代価。ダイレクトな動物的生の代理人であることから、パッションの生気から引き離された話す主体への移行である。〔ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

ここにも、中井久夫=バリントの《「物質」から「対象」の世界へと移行》があるといってよいだろう。

若きニーチェはすでにこう言っている。

なおわれわれは、概念の形成について特別に考えてみることにしよう。すべて語というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、直ちにそうなるのである。つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験に対して、何か記憶というようなものとして役立つとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合も同時に当てはまるものでなければならないとされることによってなのである。

すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである。一枚の木の葉が他の一枚に全く等しいということが決してないのが確実であるように、木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性を任意に脱落させ、種々相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには「木の葉」そのものとでも言い得る何かが存在するかのような観念を呼びおこすのである。つまり、あらゆる現実の木の葉がそれによって織りなされ、描かれ、コンパスで測られ、彩られ、ちぢらされ、彩色されたでもあろうような、何か或る原形というものが存在するかのような観念を与えるのである。(「哲学者に関する著作のための準備草案」1872∼1873)

さて、ここでふたたび中井久夫に戻ろう。

この「名付け」による対象化によって、対象極が形成される。正確には「自極」と「対象極」の分化である。

これは安永浩のファントム理論の用語である。安永と、生涯を通じてのファントム空間の「発達」を語り合ったことがある。簡単にいえば、自極と対象極とを両端とするファントム空間軸は、次第に分化して、成年に達してもっとも離れ、老年になってまた接近するということになる。



われわれは、このようにして老年に近づいてゆくと、自極と対象極は、幼少時のように接近してゆく。すぐれた詩人が、少年期と老年期に傑作を生むのもこれに由来するのではないか。

《詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、散文とはその図式的側面を主にした使用である》(中井久夫『現代ギリシャ詩選』一九八五年、序文ーー「ラカン派の「象徴界から排除されたものは現実界のなかに回帰する」の意味するところ」)

徴候感覚は、自極と対象極が接近していないければ、現われがたい。

真の詩人は、言語によって貧困化された「敷居」を超えなければならない。

しかし心得てほしい。われわれの語るところは、物たち自身が内々、おのれのことをそう思っているだろうところとは、けっして同じではないのだ。恋人たちの心に迫って、その情感の中で何もかもがこの世ならぬ恍惚の相をあらわすように仕向けるのも、滅多には語らぬ現世の、ひそかなたくらみではないのか。敷居はある。たとえ恋人たちがそれぞれ昔からある自家(いえ)の戸口の敷居をいささか、踰えることによって擦り減らしたところで、二人にとって何ほどのことになる。以前の大勢の恋人たちに後(おく)れて、以後の恋人たちに先立って、自身も痕跡を遺すだけのことではないのか……かすかに。リルケ「ドゥイノの悲歌」古井由吉訳)

さて、「発達的記憶論」より、もう一パラグラフだけ続ける。

 「名付け」による対象化の過程は「自極」の成立の過程でもある。また「名付け」は他者から与えられる。「自己は他者からの贈り物である」という新トマス学派ののカトリック哲学には聴くべきところがあると私は思う(エミール・ブレイエによる紹介の、記憶による引用)。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)

《「名付け」は他者から与えられる》とあるように、ここにはラカンにはまったく囚われないままで、ラカン理論の核心のひとつが示されている、といってよい。ラカンにとって最初の同一化=疎外は、母とのそれである(末尾にヴェルハーゲによるその詳細説明を附記する)。

たとえば、われわれは、母なる他者から与えられる一人称単数代名詞、「アタシ、ボク」や、自分の固有名をえる。これらの名付けは、ラカン派では、S1 と呼ばれる。

S1、最初のシニフィアン、フロイトの境界語表象、原シンボル、原症状“border signifier”, “primary symbol”, “primary symptom”とさえいえるが、それは、主人のシニフィアンであり、欠如を埋め、欠如を覆う過程で支えの役割をする。最善かつ最短の例は、シニフィアン〈私〉である。それは己のアイデンティティの錯覚を与えてくれる。(ヴェルハーゲ、1998)

このS1によって、世界は整合化されるが、世界は貧困化されもする。ラカンはそれを疎外とも呼ぶ。

Car c'est là l'aliénation la plus profonde du sujet de la civilisation scientifique et c'est elle que nous rencontrons d'abord quand le sujet commence à nous parler de lui(E.281)

すなわち、「主体が己れについて語りはじめるとき最も深く疎外されてしまう」、というのは誰でもが本当は知っているはずだ。もっとも、〈私〉という一人称単数代名詞の統合化機能の欺瞞を愚かにも信じ込んで生を送っている人間も多いには違いないが。

どんなケースにせよ、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、ということが起こるならば、われわれは服従する者としては、強制、拘束、圧迫、抵抗などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになるのである。しかし他方でまたわれわれは〈私〉という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「欲する」ということに関してまつわりついてきたのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』)


…………

※附記

◆“Sexuality in the Formation of the Subject”(ポール・ヴェルハーゲ 、2005)より(参照:原文


【原自我と世界】
…はるかにいっそう興味深いのは、フロイト理論のほとんど忘れられてしまった箇所だ。それは我々に、主体と他者のあいだの相互作用を通したアイデンティティの発達のよりよい理解を与えてくれる。この点にかんして、フロイトは、『快感原則の彼岸』(1920)と『否定』(1925)にて、「原自我」(原初の快自我primitiven Lust-Ichs)、「リアル自我 Real-Ichs」、さらには外部の世界に遭遇した細胞についてさえ語っている。

発達過程は、原自我と外部の世界のあいだの相互作用にて始まる。それが自我にもたらすのは、この外部の世界を三つの異なった局面に差異化をすることである。すなわち、快感を生むもの/不快を生むもの/無関心なままのものだ。

注意しておこう、我々はここで「満足」と「緊張の増減」に関わっていることを。フロイトはこの過程を、その多寡はあれ、生物学的に、さらには動物行動学的にさえ語っている。すなわち、原初における進化する有機体、細胞が文字通りに外部の世界の部分を取り入れることをめぐって。


【取り込みと吐き出し】
快が見出されたものは何もかも内部に取り入れる。不快を生み出すものは何もかも外部に送り返す。これが意味するのは、緊張と緊張の解除の経験は、アイデンティティの発達自体をもたらす、ということだ。そしてこのアイデンティティは全的に外部から来る。発達途上の原自我は、外部の世界に直面し、文字通りにその世界の部分を取り込む。

不快な部分は、可能なかぎりすばやく吐き出される。したがって初期の段階では、外部の世界と悪い非-私は同じものである。逆に、快を与える部分は内部に残ったままだ。その意味は、原自我と快は同じものということだ。それをフロイトは「原初の快自我」と呼んだ。

この「取り込み incorporation」と「吐き出し expulsion」は、先駆者、ーー後に生じる「判断」における知的機能の前身である。知的判断においては、肯定 ( Bejahung)は「取り込み」の代用品であり、否定(Verneinung)は「吐き出し」の後継者である。

注意しておこう、フロイトにとって、「肯定」はエロスと融合の側にあり、「否定」はタナトスの側にあることを。死の欲動の特質、それは分離と分解へと向かう傾向をもつ(フロイト『否定』)。

《判断は、もともと快感原則にしたがって生じた自我への取り入れ、ないしは自我からの排除の合目的に発展した結果生じたものである。その両極性は、われわれが想定している二つの欲動群の対立性に呼応しているように思われる。結合の代用としての肯定はエロスに属し、排除の継承である否定は破壊衝動(タナトス)に属している。》(フロイト『否定』著作集3 p.361)


【母の乳房から母の舌へ】
すべての過程は、快と不快の経験によって方向づけられる。すなわち興奮の上下動に。人間の発達において、文字通りの「取り入れ」と「吐き出し」は、すぐに知覚的イメージの取り入れと吐き出しによって代替される。

この点において、イメージは言葉と繋がる。交流にかかわる人間にとって本質的なものが始まるのだ。この発達段階の大きな一歩が意味するのは、この点以降、我々はもはや有機体と外的世界とのあいだの交換を扱うのではなく、主体と他者とのあいだの交換を扱う、ということだ。

具体的に言うなら、母の乳房から母の舌への移行である。この理由で、ラカンの〈他者〉、大文字の他者は、「具体的な他者」と「他者が子どもに言ったこと全体」の両方を示すのだ。

言葉とイメージの使用は、アイデンティティ形成過程は同じままで、別のメカニズムを導入する。快を与える「外部」を文字通りに取り入れする代わりに、我々は今では〈他者〉のシニフィアンに同一化するようになる。不快をもたらす「外部」を文字通りに吐き出す代わりに、不快を生み出すものを抑圧するようになる(フロイト『欲動とその運命』1915)。


【ラカンの「a」】
ここでラカンのほうに顔を向けるなら、フロイト理論はラカンの鏡像段階理論にて容易に裏づけることができる。簡単に要約するなら次の通り。最初に、幼児は部分欲動から来る興奮を何か外的なものとして経験する。それは“ラカン派では”、文字「a」によって示される。

幼児はこの欲動を統御できない。この欲動を、全体としての身体自体に帰するものとして経験することさえできない。唯一、母の反応を通してのみ、子どもは、心理的には、自分の身体にアクセス可能なのだ。というのは、それが何で「ある」かのイメージを子どもに現わすのは母なのだから。

ラカンはこれを、光学器械からの一枚の鏡の構成として知られるもので描写した。凹面鏡と実際の花束、その下にある実際の花瓶をもっての工夫に富む構築の手段にて、花瓶のイメージは、花束の周りに投影される。

ここでの花束は部分欲動を表す。花瓶は容器を表すーーすなわち、欲動がその中で作用する幼児の全体としての身体である。光学器械の実験が示すのは、反射過程を通して、鏡は次のことを引き起こすのだ。すなわち、容器/身体の表面によって文字通りに包み込まれて、花束/部分欲動が現れる(incorporate[包み込む]のcorpusはラテン語で“身体”を意味する)。




【〈他者〉がメッセージを書き込む紙としての身体】
精神分析的観点からは、これは、母が幼児にその原アイデンティティを構築するイメージを現わすことを意味する。そのようなイメージは決して中立的なものではない。というのは、母は子どもの興奮を解釈する必要があるのだが、この解釈において、彼女自身の欲望と部分欲動への立場が中心的な役割を演じるからだ。ともかくも、アイデンティティの基礎的な層は、〈他者〉によって現わされたイメージに帰着する。そのイメージを子どもは取り込んだり拒絶したりはするが。フロイトにとっても(『自我とエス』1923)、自我は、まずは身体の表面であり、心理的な内容物は後からそこへ付けられる。

これは思いがけない結果をもたらす。我々自身の最も親密な部分、「我々自身の」身体が、〈他者〉によって我々に手渡されるのだ。ラカンによれば、無意識は言語のように構造化されている。この観点において、明らかなのは、身体は最初の紙の一枚として機能することだ、その上に〈他者〉がメッセージを書き込む紙として。

最初の〈他者〉、標準的には母は、要求と欲望を通して、幼児の身体のなかに〈他者〉の欲望を注ぎ込む。そうこうしているうちに、幼児は「自らの」欲望を通して「自らの」身体を持つという意識を獲得する(ラカン『セミネールⅧ 転移』)。結果的に、主体はヒステリー的な身体のイメージを得る。すなわち、〈他者〉のシニフィアンによって徴示された signified 身体のイメージである。

これは奇妙にみえるかもしれないが、ラカン理論のこの側面は、日常生活のなかにもひどく容易に認められる。社会的レヴェルでは、常に〈他者〉が身体の装いや外観を決定づける(ファッション、ジェンダーの役割、アート、ヘルスケア等々)。だが、それだけではない。とりわけいかに楽しむかを決定づける(身のこなし、食べ物、飲み物、エロティシズム)。ミクロレヴェルでは、両親、すなわち最初の〈他者〉と第二番目の〈他者〉は露骨に、見かけと楽しみの両面において、主体の身体の形式を躾ける。それ自体、この身体のイメージはアイデンティティの基礎的レイヤーを形作る。……

…………

最後に注意しておかねばならないのは、ラカンとバリントは幼児の世界の捉え方が異なることだ。中井久夫は『発達的記憶論』から上に引用した文では、バリントに依拠しつつも、ラカンの「幼児の世界は悲惨である」という観点と、バリントの「幼児の世界は至福である」という観点のどちらの立場も「表面的には」取っていないようにみえる。だが、中井久夫が幼児期の構造的な心的外傷を語るときーー《幼児型記憶と外傷性記憶が相似している》(参照)ーー、それはむしろラカン派の観点に近づいているように、わたくしには思える。

たとえば同じ発達的記憶論には次のような文がある。

成人世界に持ち込まれる幼児体験は視覚映像が多く、稀にステロタイプで無害な聴覚映像がまじる。嗅覚、味覚、触覚、運動覚、振動感覚などはほとんどすべて消去されるのであろうか。いやむしろ、漠然とした綜合感覚、特に母親に抱かれた抱擁感に乳の味覚や流れ入る喉頭感覚、乳頭の口唇触覚、抱っこにおける運動感覚、振動感覚などが加わって、バリントのいう調和的渾然体 harmonious mix-up の感覚的基礎となって、個々の感覚性を失い、たいていは「快」に属する一つの共通感覚となって、生きる感覚(エロス)となり、思春期を準備するのではなかろうか。

これに対して、外傷性体験の記憶は「成人世界の幼児型記憶」とはインパクトの点で大きく異なる。外傷性記憶においては視覚の優位重要性はそれほど大きくない。外傷性記憶は状況次第であるが、一般に視覚、聴覚、味覚、触覚、運動覚が入り交じる混沌である。視覚的映像も、しばしば、混乱したものである。すなわち「共通感覚的」であり「原始感覚的」でもある。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』P57~58)

ここにある《視覚、聴覚、味覚、触覚、運動覚が入り交じる混沌である。視覚的映像も、しばしば、混乱したもの》とは、乳幼児の「本源的な欲動のアナーキー(l'anarchie de ses pulsions élémentaires)」(ラカン)のことではないだろうか。

この「原始感覚」は、母の舌語の介入、あるいは言語によって、整合化・貧困化されなければならない。いや、その宿命にある、とだけいっておこう。

だが、はたして世界の整合化とは、母の舌語(ララング)・言語によるものだけなのか。「母親に抱かれた抱擁感」でさえ欲動の整合化の機能があるのではないだろうか。これも「身体の出来事=サントーム」(ラカン、オートルエクリ)、つまり身体の上の欲動の「原固着」あるいは「刻印」の一種と捉えられないのだろうか(参照)。このあたりが、わたくしには曖昧なままである。

いずれにせよ、この原初の固着や刻印があった後、はじめてエロス欲動やタナトス欲動がうまれる、という立場を、わたくしは最近ーーなんとなくーー取りつつある(参照:人間に「死の欲動」があるのは、言語を使うせいじゃないか?)。

つまり、乳幼児の「本源的な欲動のアナーキー」とは、いまだエロスでもなくタナトスでもない、と。それは、上の中井久夫の文にも、ある介入があって後はじめて、《個々の感覚性を失い、たいていは「快」に属する一つの共通感覚となって、生きる感覚(エロス)となり…》とあるように。

原初 primaire は最初 premierのことではない。(ラカン、S.20「アンコール」、摘要)

原初と思われているエロスとタナトスとは、事後的(遡及的 nachträglich )に見出されるものではないか。

核心となる問いはこうだ。すなわち、固着されるのは欲動なのか、あるいはこの固着が欲動の表象の原形式なのか? さらなる問いは、刻印の形式などあるのか? フロイトはそれを「Kern unseres Wesen (我々の存在の核)」、「mycelium(菌糸体)」と呼んだが、また躊躇ってもいる。(Mind your Body & Lacan´s Answer to a Classical Deadlock. In: P. Verhaegheーー話す存在 l'être parlant / 話す身体 corps parlant

ここに、いささか雑に記したのは、フロイト・ラカン派や中井久夫の観点からいえばーーかつ大袈裟に言ってしまえばーー、言語を使用する人間という動物である「我々の存在の核(Kern unseres Wesen)」、我々の存在の臍とは何かという問いである。