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2015年8月5日水曜日

“A is A” と “A = A”

論理学は、現実の世界にはなにも対応するものがないような前提、たとえば同等な物があるとか、一つの物はちがった時点においても同一であるというような前提にもとづいている。数学についても同じことがいえる。もしひとがはじめから厳密には直線も円も絶対的な量もないことを知っていたら、数学は存在しなかっただろう。(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』)

――若きニーチェはすでにこんなことを言っている。重ねてニーチェによる「哲学者に関する著作のための準備草案」1872∼1873を引用してもよいが(参照)、くどくなるので目先を変えてラカンから抜きだすことにしよう。

……われわれは、思考にとって「AはAである」ということが昔からいかなる困難を引き起こしてきたかを知っている。「AはAである」というとき、AがかくもAならば、なぜAを自分自身から切り離し、すぐに置き戻すのであろうかというものである。(ラカン『同一化セミネール』)
『一般言語学講義』の中でソシュールはシニフィアンの輪郭をはっきりさせることによって同一化の機能を究明しようとする。そして同一化に関するひとつの重要なイメージ、10時15分の急行の例、を出す。10時15分の急行といったときその同一性ははっきり定義されている。それは物質的素材の観点からは明らかに異なった急行であるにもかかわらず、それは毎日同じ時間に出発するやはり同じ10時15分の急行である。10時15分の急行のような存在が成立するには語られた存在を通して現実界の中への大々的なシニフィアン的組織の連鎖の介入を前提としているのである。これはシニフィアン的同一化としての同一化の法を例証してくれるものである。(同上)



――と引用しているのは実は、次の文を読んだからである。

ハイデッガーにとって、 “A is A” が “A = A”に還元されることは許されない。むしろ、そうしてしまうことがプラトン以来の「存在喪失」に帰着することになる。(柄谷行人「非デカルト的コギト」(初出 1992)『ヒューモアとしての唯物論』所収 P.96)  
ハイデガーが「存在者と存在の差異」というのは、たんに文法的にいえば、概念になりうるものと、概念になりえないのみならず、あらゆる概念(主語と述語の位置におかれる)をつなぎ支えるものとの差異である。(同「非デカルト的コギト」p.91)

柄谷行人はここで何を言っているのか、存在喪失やら存在の差異やらーーおそらく「存在の深淵」をも含めーー、これらをを可能なかぎり形式的に捉える試みとしてよいだろう。

この当時の柄谷行人の解釈が正統的なものかどうかは知らない。現在のハイデガー研究者なら勿論別の観点もあるだろう。ただし柄谷曰くは《分析哲学者は、ハイデガーの問いは、西洋文法にもとづく哲学的誤謬=ノンセンスにすぎないとみなした》(p.93)ともある。

ここでラカンはファルスとはシニフィアンとシニフィエのあいだにある横棒のようなものだ、と言っていることを想起しておこう、《barreの機能はファルスと関係ないわけではない》と。

la fonction de la barre n'est pas sans rapport avec le phallus. (Séminaire XX ENCORE Staferla 版 p.51)

これは柄谷行人のいう《あらゆる概念をつなぎ支えるものとの差異》とほぼ似たようなことを言っているのではないか。

ラカンは、Sとsの表記法にバー(横棒)を付加することは、既にいくらか余分で無益とさえ言える、という意味のことさえ言っている。

c'est que le fait d'ajouter la barre à la notation S et s… qui déjà se distinguent très suffisament …

Y ajouter la barre a quelque chose de superflu, voire de futile, et qu'en tout cas, comme tout ce qui est de l'écrit, comme tout ce qui est de l'écrit se supporte que de ceci (Séminaire XX ENCORE Staferla 版 p.46)

もちろん横棒とは次のように記されるときの横棒である(上段:シニフィアン、下段:シニフィエ)。



…………

柄谷行人の仕事をすこし遡ってみよう。

すべての人間史の第一の前提はもちろん生きた人間個体の生存である。したがって確認される第一の事態はこれら個人の身体的組織と、そしてこの身体的組織によってあたえられる、その他の自然へのかれらの関係とである。(……)

人々は動物から人間を意識、宗教その他お望みのもので区別することができる。人間自身はかれらが生活手段を生産しはじめるやいなや、すなわちかれらの身体的組織によって義務づけられている処置を講じはじめるやいなや、みずからを動物から区別しはじめる。(マルクス『ドイツ・イデオロギー』)

柄谷行人はすでに70年代にこのマルクスの文を引用して「起源」への問いをマルクスの「関係」「空=間」」――後に「交通空間」と言いなおされるがーーと「翻訳」して次ぎのようにいっている。

マルクス・ニーチェ・フロイトは、いずれも「身体的組織」における欠如・無力性から出発し、そこに、表象・欲望・言語の発生をみいだすことにおいて、共通している。だが、そのような発生論的視点ではなく、逆に現象学的な遡行をもってしても、われわれは同じ地点に到達するだろう。ソシュールがいうように、言語とは示差的な体系である。つまり、意味は、語(シニフィアン)と語(シニフィアン)との「間」に生じる。根源的な意味作用は、こうした「空=間」に生れるのだ。それは、ジャック・デリダのいい方でいえば、差延化(遅延化・差異化)にほかならない。時間および空間は、そこから生じる。

マルクスが人間の「身体的組織」としてのべたこと、「身体的組織」によって歴史が生じるといったことは、より厳密に検討すれば、このような認識をはらむのである。

だが、何がそのような差異化・遅延化をもたらすのかを問うことはできない。もし問うならば、神または自然が「主体」として「原因」として表象されるだろう。しかし、それらは「意味」なのであり、根源的な意味作用の原因ではなく、結果なのである。重要なのは、そのような「起源」への問いーーそれ自体が形而上学に導くーーではなく、マルクスがここにおいて、人間の意識または「意味」がアプリオリに存するのではなく、感性的な受苦性(受動性)においてはじめて存するという考えをつらぬいていたことである。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』文庫 pp.111-112)

これはジジェクが次ぎのように後期ラカンを解釈するのとひどく近似している。

ラカンが「知と享楽のあいだに、波打ち際 littorale がある」と言うとき、jouis‐sense の 喚起を聞かねばならない。サントーム、享楽のシニフィアン化する形式 signifying formula of enjoyment に還元された文字の jouis‐sense を、である。

ここに後期ラカンの最終的な「ヘ ーゲリアン」の洞察がある。二つの相容れない領域(現実界と象徴界)の一つへの収束 convergence は、まさに不一致 divergence によって支えられている。というのは差異は己れが差異化するものを構成しているのだ。あるいはもっと形式的用語で言うなら、二つの領野のあいだのまさに横断点が、二つの領野を構成しているのだ。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING)

※より詳しくは「波打ち際littorale」と「横棒としての象徴的ファルスΦ」を参照のこと。

さて、もちろんここで(曲りなりにも)問うているのは現実界とは何かということである。それは「存在の深淵」やら「物自体」でもよい、

『純粋理性批判』を出版した後、カントは、同書における記述の順序に関して、現象と物自体という区分について語るのは、弁証論におけるアンチノミーについて書いてからにすべきだったと述べている。

実際、現象と物自体の区別から始めたことは、彼のいわんとすることを、現象と本質、表層と深層というような、伝統的な思考の枠組みに引き戻す結果を招いてしまった。カント以後に物自体を否定した者は、そのようなレベルで考えているのである。また、ハイデガーのように物自体を擁護した者はそれを存在論的な「深層」として見いだしている。

しかし、物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。それは自分の顔のようなものだ。それは疑いもなく存在するが、どうしても像(現象)としてしか見ることができないのである。したがって重要なのは、「強い視差」としてのアンチノミーである。それのみが像(現象)でない何かがあることを開示するのだ。

カントがアンチノミーを提示するのは、必ずしもそう明示したところだけではない。たとえば、彼はデカルトのように「同一的自己」と考えることを、「純粋理性の誤謬真理」と呼んでいる。しかし、実際には、デカルトの「同一的自己はある」というテーゼと、ヒュームの「同一的自己はない」というアンチテーゼがアンチノミーをなすのであり、カントはその解決として「超越論的主観X」をもちだしたのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』p81)

ハイデガーの「深層」に終始異議を表明している柄谷行人は上のように言っている。それはジジェク組にも見出される(参照:超越論的享楽(Lorenzo Chiesa))。

“Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu”(Lacan, Seminar XXIII)

ーー《現実界は全きゼロの側に探し求められるべきだ。》

ここでロラン・バルトによるゼロ度の定義を挿入しておこう、《ゼロ度とは、厳密に言えば、何もないことではない。ないことが意味をもっていることである》(『零度のエクリチュール』1964)

ハイデガーの「存在の深淵」とはこのようなゼロ度のようなものであるのか、わたくしは知るところではない。

最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoensと Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 ( Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesa) 
われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』2012)

「超越論的」をめぐっては次ぎのカントの文を挿入しておこう。

思惟するこの自我、あるいは彼、あるいはそれ(物)によって表象されるのは、もろもろの思考の超越論的主観=Xに他ならない。この超越論的主観は自らの述語である思考によってのみ認識される。またこの超越論的主観については単独には我々は決していささかの概念も持ち得ない。だから、我々はこの主観をめぐって絶えざる循環のうちをさ迷わねばならい。というのも、この超越論的主観について何かあることを判断するためには、我々はつねにすでにこの超越論的主観の表象を用いなければならないからである。これが、自我の表象から分かちえない不都合さである。(カント『純粋理性批判』)


さてこのようにジジェク組みの見解を引用したからといって、この見解が正しい、というつもりは毛頭ない。だがこれが彼らの強調点であることは間違いない。この観点を疑う立場もあるだろう(参照:二重に重なる享楽の喪失(Paul Verhaeghe))。だが柄谷行人の説明を読んで、「形式的には」ジジェク組の立場取りうることが改めて納得できる。そして後期ラカンもこの観点から読みうるとしてよい。

…………

以下、捕捉。

【1、柄谷行人の「交通空間」】

そこで、蓮實さんがいわれた生産と交通という話に戻ると、僕は、生産は、「共同体的」であり、交通は「社会的」であると考えています。共同体とは、共通のコードをもって閉じられたシステムであり、社会とは、共通のコードをもたない他者との交通において成立するような空間です。これを僕は「交通空間」とよんでいますけれど、これはどこかに実体的に在るものではなく、絶えず結合され分断されながら無方向に広がるようなネットワークのようなものです。(柄谷行人『闘争のエチカ』より)
……たとえば、ハイデガーがプラトンを攻撃し、ヘラクレトスやパルメニデスをもちあげるとき、私は疑いをもつ。

「この二人のギリシャの思想家が、思想家たるの道を初めて切り開いたこの二人が、存在者の存在の中に立たずに、一体どこに立つはずがあろうか」と、ハイデガーは言う(『形而上学入門』)。

しかし、「存在者の存在の中」というような存在論とこじつけめいた語源学のたぐいは、ある肝心な事柄を見失わせる。それは、彼らが「立った」のは、共同体の外だということだ。

ヘラクレイトスは「対抗する動揺の集約態」としての「存在」を見、パルメニデスはそこに、「対抗して争うものの相関性」としての「同一性」を見たと、ハイデガーはいう。

しかし、それは同一の規則をもった共同体においてではなく、まさに多様な交通空間としての「世界」において考えたということを示している。

そもそも「思想家たるの道を初めて切り開く」ことは、共同体の内部からではありえない。しかし、それは、「ユダヤ的なもの」を排除し農民的でゲルマン共同体の回復を志向するような哲学者が関知しないことだ。プラトン哲学において「存在喪失」があるとすれば、それは外部性・他者性の喪失にほかならない。(柄谷行人『探求 Ⅱ』p.249)

ここで柄谷行人がハイデガー批判をしつつ、《「存在者の存在の中」というような存在論とこじつけめいた語源学のたぐいは、ある肝心な事柄を見失わせる。それは、彼らが「立った」のは、共同体の外だということだ》と言っているが、これはハイデガーの語彙のひとつ Ekstase にかかわる(参照)。

ラカンのex-sistence (外ー存在)は、ハイデガーのSein und Zeit(存在と時間)の仏訳から。ドイツ語ではEkstaseであり、ギリシャ語ではekstasis(外に立つこと)(フィンク,The Lacanian Subject)

後期ラカンはEkstaseの仏訳語である ex-sistence を現実界の定義とした。

現実界 [ le réel ] は外立 [ ex-sistence]である。(Séminaire XXII R.S.I.1975年2月18日)

ex-sistenceは、たとえば「現実界は分節化された象徴界の内部に外立ex-sistする」(Paul Verhaeghe)という形で使われる。

これはpas-tout(非全体の論理)とも関係する。すなわち境界を欠いた〈非全体〉の表層における〈矛盾(非一貫性)のアンチノミーである(参照)。しばしば指摘されてきたように、これはカントの無限判断と相同的である(参照:「〈他者〉の〈他者〉は外-存在する」)。

この非全体の論理は、ジジェクによれば、ヴィトゲンシュタインの「家族的類似性」にもかかわる(参照)。

ラカンは、性差を構成する非一貫性を、「性差の式」にて詳述した。そこでは、男性側は、普遍的な機能とその構成要素である例外とによって定義される。そして女性側は“すべてではない”(pas‐tout)のパラドックスによって定義される(例外はなく、そしてまさにその理由によって、すべてではない、すなわち、非-全体化される)。想いだしてみよう、ウィトゲンシュタインの語り得ぬものの移りゆく地位を。前期ヴィトゲンシュタインから後期ヴィトゲンシュタインの移動(家族的類似性)とは、「すべて」(例外を基盤とした普遍的全体の領域)から、「すべてではない」(例外なしでその理由で非-普遍的、非-全体の領域)への移動である。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING)

柄谷行人がマルクスから概念化した「交通空間」の定義、《どこかに実体的に在るものではなく、絶えず結合され分断されながら無方向に広がるようなネットワークのようなもの》とは、ヴィトゲンシュタインの家族的類似性と限りなく近似しているとしてよい。

ウィトゲンシュタインが反対するのは、複数的な規則体系を、一つの規則体系によって基礎づけることであるといってよい。しかし、数学の多数体系はまったく別々にあるのではない。それは相互に翻訳可能だが、共通の一つをもたないだけである。彼は、そうした「互いに重なり合ったり、交差し合ったりしている複雑な類似性の網目」を「家族的類似性」と呼ぶ。《われわれが言語と呼ぶものすべてに共通な何かを述べる代わりに、わたくしは、これらの現象すべてに対して同じことばを適用しているからといって、それらに共通なものなど何一つなく、――これらの現象は互いに多くの異なった仕方で類似しているのだ、と言っているのである。そして、この類似性ないしこれらの類似性のために、われわれはこれらの現象すべてを「言語」とよぶ》(『哲学研究』)――(柄谷行人『トランスクリティーク』P106)


【2、“A = A”をめぐって】

“A = A”は、象徴秩序内においてのみ起こり得る。そこでは、Aの同一化は「唯一の特徴unary feature」によって支えられ構成されているのだ。その「唯一の特徴」は、その核心にある空虚を徴づけている(その空虚の代わりとなっている)。「あなたはジョンだ」は意味するのは次ぎのことである。あなたのアイデンティティの核心は、あなたの名前で示された言葉で言い表わせないje ne sais quoi深淵なのである。だからどのアイデンティティも、つねに挫折させられ、実質がなく、虚構である(ポストモダンの「脱構築主義者」の呪文のように)だけではない。アイデンティティそれ自身が、厳密な意味で stricto sensu、その反対物の徴、それ自身の欠如の徴、自己アイデンティティとして主張される実体は十全のアイデンティティを喪失しているという事実の徴なのである。(ジジェク LESS THAN NOTHING 私訳)
ヘーゲルが『論理の科学』で、悪戯っぽく言ってる、もしAがそれ自体と同じなら、どうして反復する必要があるんだい?と。“A = A” のような同語反復の同一の反復は、実際はそれ自体との非-同一の徴を示している。(Levi R. Bryant、The Democracy of Objects、2011
象徴界と現実界を分ける棒線は、厳密に象徴界の内部のものである。というのは、その棒線が、象徴界が「それ自身になる」のを妨げるのだから。シニフィアンにとっての問題は、現実界に触れ得ないことではなく、「それ自身に到達する」ことが出来ないことだ。シニフィアンに欠けているものは、特別な言語の対象ではなく、「シニフィアン」自身、棒線を引かれない、何物にも邪魔されない〈一者〉である。(ジジェク『為すところを知らざればなり』For They Know not What They Do; Enjoyment as a Political Factor - Slavoj Žižek 1996 私訳)

ここでの〈一者〉(〈一〉)をめぐっては、「Y a d'l'Un〈一〉が有る」と「il y a du non‐rapport (sexuel)(性の)無-関係は有る」を参照のこと。

なお次ぎのような指摘もある。

象徴秩序、主人のシニフィアン、ファルスのシニフィアン、〈一者One〉を同じものとするラカンの考え方は、読者には不明瞭かもしれない。私は次のように理解している。システムとしての象徴秩序は、差異をもとにしている(ソシュール参照)。差異自体を示す最初のシニフィアンは、ファルスのシニフィアンである。それ故、象徴秩序は、ファルスのシニフィアンを基準にしている。一つのシニフィアンとして、空虚であり、(例えば)二つの異なるジェンダーの差異を作ることはない。それが作るのは、単に〈一者〉と非一者である。これが象徴秩序の主要な効果である。それは二項対立の論拠、ある者かそのある者でないか、を適用することによって、一体化の形で作用する。(ポール・ヴェルハーゲPaul Verhaeghe、Lacan's Answer to the Classical Mind/Body Deadlock 2002 私訳)