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2015年8月7日金曜日

「見えない世界を照らしだした閃光とともに、意味の光が消えてゆくとき」

以下は前投稿「人間の思考はその人間の母語によって決定される」の補遺ーーいやそのほとんどは前投稿を記すうちに長くなりすぎたので削ったものだが、いくらか思い起すままに別途引用文を挿入したため、ひどくまとまりのない文になってしまった。

 …………

ロラン・バルトがはじめて日本を訪れたのは、一九六六年五月のことだった。フランス政府派遣文化使節として一か月ほど日本に滞在し、東京や京都でいくどか講演をおこなっている。このとき彼は日本で目にしたものすべてに魅せられて、たちまち日本に「恋」をしたのだった。そして、翌六七年の三月にも日本を訪れて一か月ほど滞在し、さらに同じ年の十二月にも三度目の滞在をする。二年たらずのあいだに三か月間も日本ですごしたのである。(……)

この作品が日本をめぐって書かれていることから、日本ではさまざまな批評がなされた。たとえば日本研究者のドナルド・キーンは、二週間の訪問客が直感的に「わかった」ことを書いた本にすぎず、時代遅れの日本論である、と批判した。バルトの愛読者たちは、日本趣味的なものにとまどいつつも、とにかく美しく魅力的な書物であるとたたえた。だがどちらの意見も、この作品を「日本論」としてとらえている点では同じであった。ところがバルト自身は、これは日本についての本ではなく、エクリチュールについての本だと語っていたのである。(ロラン・バルト『記号の国』の訳者石川美子氏による「まえがき」)

『記号の国』とは、かつては『表徴の帝国』(宗左近訳)と訳された。原題は“L'Empire des signes”であり、「表徴」が「記号」であるのはかまわないが、L'Empireとは「帝国」のほうがより近い訳かもしれない。だがあっさりとした『記号の国』という題名ーーバルトらしいとさえいえるーーに文句をつけるつもりは毛頭ない。

「夢とはこうしたものだ」と、あるユートピア旅行記『表徴の帝国』の冒頭にロラン・バルトはこう記している。「自分の知らない外国語(そして奇異なる国語)に通暁しながら、しかもそれを理解しないでいるということ。つまり、その国語のうちの差異を感知しながら、その差異が、伝達や通俗的理解といった言語の表層的な社会組織によっていささかも標定されることがあってはならない。未知の国語のうちに実質として屈折しているフランス語の不可能性を認知すること。想像しがたいものの体系性を学ぶこと。他の切断法、他の統辞論の効果のもとで、われわれにとって現実的なものを崩壊させること。言表行為のうちに思ってもみなかった主体の位置を発見し、その地誌学を転移せしめること。ひとことでいうなら、翻訳可能なるものの中へと降下し、われわれの内部で西欧の総体が動揺し、父親たちからうけついだ国語がぐらりと揺れるにいたるまで、翻訳不能なるものの振動を感知し、それを決して減衰させずにおきたいという夢である。」

ここで一つの言語的理想郷として語られている「自分の知らない外国語(そして奇異なる国語)」がたまたま日本語であったという点はさして重要とも思われないが、『物語の構造分析』や『S/Z―バルザック「サラジーヌ」の構造分析』、あるいは『記号学要理』といった論文や著作によって、構造主義的熱病が蔓延した後のフランスにいやというほど生み落された「体系」の人の一人ぐらいに考えられているロラン・バルトが、実はその発話行為の場そのもので語ろうとしている自分を犯している西欧「文化」の総体を、言葉を奪いその自由な流通を疎外するいまわしき装置としてあばきたて、それを完全に破壊しつくすことはできぬにしても、その捉えがたい構造をまざまざと触知しうる環境を夢みることなしにはいられない「夢」の人だという点を、見落とすことがあってはならない。「批評」をめぐって書こうとするとき、「批評とは何か?」、「何故、批評なのか?」といったてあいの疑問符を捏造しながら、たかだか根源的なと呼ばれる程度の問いを口にして書くことの不自由を曖昧にやり過ごすのではなく、「批評」について書きつらねられようとする言葉そのものを途方もなく希薄化し、遂には凡庸な匿名性へと埋没させてしまう力が何であるか、その機能するありさまを事件として生きうるには、言葉の「夢」にことのほか感じやすくあることが必須の条件だとバルトが語るとき、「批評」たろうとする言葉は、書くことがおのずとその対象を消すことにつながる夢を夢みるものでなければならぬというのもまた当然だろう。(蓮實重彦「言葉の夢と「批評」」『表層批判宣言』所収) 


この文でまず注目しておきたいのは、《たかだか根源的なと呼ばれる程度の問いを口にして書くことの不自由を曖昧にやり過ごす》という表現だ。いかにも当時の蓮實重彦らしい「いやみ」ったらしいとも取れる言い方であり、江藤淳や大江健三郎批判もこの口調でなされた。

江藤氏の想像力が「海」、大江氏のそれが「森林」というイメージをほとんどロマンチックなまでに希求し、いわば、いまここにはない失われた風景としての「海」と「森林」とを背景として、「航海者」と「狩猟者」の相貌を浮きあがらせずにはいないのだから、二人の言葉の類似ぶりはただごととも思えないのだが、実はそうした類似するさして重要なものではない。真に驚くべき類似は、にもかかわらず江藤氏と大江氏とがたがいに違ったことを語っていると信じ込み、しかもその確信において、才能の点で自分たちより遥かに劣っているはずのあまたの「批評家」や「小説家」たちといともたやすく馴れあって、薄められた「貧しさ」としての「戦後文学」のうちに埋没してしまう自分に無自覚だという類似であろう。書こうとする個体の意志や欲望にさからいもなくしなだれかかり、馴致されつくしているかとみえる言葉が、実は素直さを装って気軽に存在を招き寄せ、そのしなやかな可塑的流動性によっていとも円滑に筆に乗るかとみせて人目を欺き、かえって言葉への至上権をかすめとって、その洞ろな内面に充実ぶりの錯覚をそっとまぎれこませてしまうという危険を顧みることもなく、書けば書けてしまうという事実のうちに「作家」の特権的視座が確立しうると思いこむことの類似性、それが今日の「文学」的頽廃をあたりに蔓延させているのだが、そんな頽廃を江藤氏も大江氏もまぬがれていないのだ。誰もがそれなりに二つや三つは存在の暗部に隠し持っているだろう「切実な主題」をめぐり、「文学」がたえず捏造してやまない幾つもの疑問符に言葉を妥協させ、前言語的地熱の程よい高まりが、「普遍的」かつ「現代的な課題」と折合いをつけるのを待つといった怠惰な作業が、それにしてもいつから、書くことなどと信じられてしまうようにいたったのか。(同『言葉の夢と「批評」』

もちろんわれわれはアドルノやデリダなどによるハイデガー批判の文脈での《深遠な理念であれ、深さを誇るならすぐさまいかがわしいものと堕する》という言葉を思い起すこともできる(ジャック・デリダ「異邦人の言語」)。

かつてはこのようにしてしばしば「深淵」やら「彼方」やらを口に出す連中を、今ここにあるテキストや「表層」に面と向き合うことを忘れてしまうヤカラなどという形で嘲弄することもあったわけだ。

平坦さがあたりに波及させるあの単調さの印象、そこからくる廃棄された運動感、視野の凪ともいうべき静止の雰囲気が、人びとを平坦なる表層への無視、 軽蔑からさらにはその陵辱へと向わせる過程が、 日常的な思考と 「学問」 を自称する思考とに共通な構造を露呈しているという事実こそが、 きわめて重要なのだ。(蓮實重彦「表層の回帰と「作品」 」)

もちろんロラン・バルトからも似たような文を拾うことができる、《記号とは裂けめでありそれを開いてもべつの記号の顔がみえるだけである》(『記号の国』p.76)。

あるいは宮川淳ならどうか。

背後のない表面。のみならず、われわれを決して背後にまで送りとどけることのない表面。われわれは表面をどこまでも滑ってゆく、横へ横へ、さもなければ上へ、あるいは下へ、それとも斜めに? だが決して奥へ、あるいは底へではない、アリスの冒険について、ジル・ドゥルーズがいみじくも指摘しているように、表面の背後はその裏がわ、つまりまたしても表面なのだ。(宮川淳『紙片と眼差とのあいだに』)

さて話をもとに戻せば--何の話だったかこうやって引用していると分からなくなるがーー、蓮實重彦はのちにロラン・バルト追悼文のなかで次のように書いている。

個人的な手紙では、親しい友人と呼びかけてくれる仲ではあったが、そこには、フランスにおける書簡形式の伝統が踏襲されているだけのことであり、私自身はあくまで異物であった。その異物としての私自身と、異物を前にしていくぶん戸惑いつつある彼自身への平等に分配されるいたわりの心、そしてその調和ある均衡ぶり、それこそ中庸の紳士の記号としてのロラン・バルトが社会に向ける表情である。そのことをいま、この一枚の写真を前にして、いくぶんか郷愁に湿ったやさしさとともに、改めて思いだす。というのも、この写真のよるべない講演者が、そのフレームの外に注いでいる視線の直接の対象となっているのは、この私自身にほかならないからである。講演者は、自分のパロールを中断してその中にわって入り、彼自身には理解しえない言葉へと翻訳してゆく一つの異物を瞳にとらえている。だから私自身は、この一枚の写真にあって、バルト的な退屈の主題の不可視の中心なのである。

実際、それがどれほど雄弁なかたちで展開されようと、講演という退屈な儀式にあって、その倦怠を講演者以上に生なましく感じとることのできるのは、通訳しかいない。通訳の唯一のつとめは、倦怠をとことん倦怠させずにあやし通すことで、その居心地の悪い不安定な状況を引のばすことであろう。異質な言葉どうしの戯れをいかに納得のゆくかたちで組織しえた場合であろうと、そうなのだ。私は。そのことを公共の場ではじめて演じた通訳の折に実感した。そして、その最初の機会が、たまたま、一九六六年に来日された、ロラン・バルト氏の講演だったのである。(蓮實重彦「倦怠する彼自身のいたわり」『表象の奈落』所収)

本来ならここで、《この写真のよるべない講演者が、そのフレームの外に注いでいる視線の直接の対象となっているのは、この私自身にほかならない》とされる『彼自身によるロラン・バルト』のなかの一枚の写真を貼付するところだが、ウェブ上には見当たらない(その写真を本から写しとってここに貼り付けるほどの甲斐性はわたくしにはない)。かわりに若きバルトの「しあわせそうな」家族写真を掲げよう。


Roland Barthes ( à droite) avec sa mère et son frère Michel

《バルトの父は漁船改造の哨戒艇の艇長として詳しい戦史に二行ばかり出てくる無名の小海戦(第一次大戦)で戦死》(中井久夫)しており、弟は義父の子どもである。

…………

ところで、前投稿にも引用したがロラン・バルトはこう記している。

いつの日か、わたしたち自身の蒙昧の歴史を明らかにして、西欧のナルシシズムがいかに濃密であるかをしめす必要があるだろう。ときおり耳にしえた、差異を求めるいくつかの声や、さけがたく続いてきたイデオロギー的な取り込みを、数世紀にわたって調べあげる必要があるだろう。その取り込みによって、いつの時代も、既知の言葉で解釈することで、アジアにかんする無知をやわれげようとしてきたのだから(ヴォルテールや、『アジア評論』、ロティ、エール・フランスの東洋のように)。現在、東洋から学ぶべきことはたしかに数かぎりなくあって、理解のためのたいへんな作業が必要であるし、これからも必要となるだろう(その作業が遅れているのは、イデオロギー的な隠蔽の結果にほかならない)。しかし同時に、巨大な影の領域(資本主義的な日本、アメリカ的になった文化、技術的な発展など)を周囲に残していることは認めつつ、細いひとすじの光によって、象徴的なものの裂けめそのものをーー西欧とは異なる象徴でをではなくーーさがしだすことも必要なのである。(同 p.10)

ここでバルトは「細いひとすじの光」や「象徴的なものの裂けめそのもの」という表現で何を言おうとしているのか。

たとえば「細いひとすじの光」であるなら、「ゆらめく閃光」、沈黙のなかの叫びという言葉を想起することができる。 バルトはその遺著で、《私が名指すことのできるものは、事実上、私を突き刺すことができないのだ。名指すことができないということは、乱れを示す良い徴候である》としつつ、こう記している。

その効果は切れ味がよいのだが、しかしそれが達しているのは、私の心の漠とした地帯である。それは鋭いが覆い隠され、沈黙のなかで叫んでいる。奇妙に矛盾した言い方だが、それはゆらめく閃光なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)


また「象徴的なものの裂けめそのもの」であるなら、ラカンの言葉、「裂け目の光のなかに保留されているもの」やら「現実は現実界のしかめっ面である」やらを想起できもするし、かつまたラカン派の次のような文を引用することもできる。

現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être

だがここはやはりバルトに戻ろう。彼は《西欧はすべてのものを意味で湿らせてしまう》としつつ、俳句への羨望を語っている。

俳句は、羨望をおこさせる。どれほど多くの西欧の読者が夢みたことだろうか。手帳をたずさえて、あちこちで「印象」を書きとめながら歩きまわることを実生活でしてみたいものだ、と。その「印象」記では、簡潔さは完璧さを保証するものとなり、素朴さは深遠さを証明するものとなるだろう。(……)

俳句においては、意味は一瞬の閃光、光の浅い傷跡にすぎない。シェイクスピアは「見えない世界を照らしだした閃光とともに、意味の光が消えてゆくとき」と書いていたが、俳句の閃光にはなにも照らしださないし、明らかにもしない。(ロラン・バルト『記号の国』)

※ここでの「シェイクスピア」は訳者石川美子さんによれば、実際はワーズワースの自伝詩『序曲――詩人の魂の成長』から。

かつまた「裂け目」であるなら次のような文を拾うこともできる。

断章は(俳句と同様に)《頓理》である。それは無媒介的な享楽を内含する。言述の幻想、欲望の裂け目である。文としての思考、という形をとって、断章の胚種は、場所を選ばず、あなたの念頭に現れる。それはキャフェでかもしれず、列車の中かもしれず、友だちとしゃべっているときかもしれない(それは、その友だちが話していることがらの側面から突然出現するのだ)。そういうときには、手帳を取り出す。が、その場合書きとめようとしているものは、ある一個の「思考」ではなく、何やら刻印のようなもの、昔だったら一行の「詩句」と呼んだであろうようなものである。 何だって? それでは、いくつもの断章を順に配列するときも、そこには組織化がまったくありえないとでも? いや、そうではない、断章とは、音楽でいう連環形式のような考えかたによるものなのだ(『やさしき歌』、『詩人の恋』)。個々の小品は、それだけで充足したものでありながら、しかも、隣接する小品群を連結するものでしかない。作品はテクストの外にしか成立しない。断章の美学を(ウェーベルン以前に)もっともよく理解し実践した人、それはだぶんシューマンである。彼は断片を「間奏曲」と呼んでいた。彼は自分の作品の中に、間奏曲の数をふやした。彼がつくり出したすべては、けっきょく、《挿入された》ものであった。しかし、何と何の間に挿入されていたと言えばいいのか。頻繁にくりかえされる中断の系列以外の何ものでもないもの、それはいったい何を意味しているのか。 断章にもその理想がある。それは高度の濃縮性だ。ただし、(“マクシム〔箴言、格言〕”の場合のように)思想や、知恵や、真理のではなく、音楽の濃縮性である。すなわち、「展開」に対して、「主調」が、つまり、分節され歌われる何か、一種の語法が、対立していることになるだろう。そこでは《音色》が支配するはずである。ウェーベルンの《小品》群。終止形はない。至上の権威をもって彼は《突然切り上げる》のだ! (『彼自身によるロラン・バルト』)




バルトが日本に恋したのは、西欧文化が囚われているシステムの裂け目を開く「閃光」として日本文化が機能したためと先ずは言い得る、ーー蓮實重彦の言い方を使えば《発話行為の場そのもので語ろうとしている自分を犯している西欧「文化」の総体を、言葉を奪いその自由な流通を疎外するいまわしき装置としてあばきたて》(『表層批判宣言』)る象徴界の裂け目を日本に見出したのだ。

現在、世界資本主義で、どこもかしこも(すくなくとも先進諸国の都市部では)アメリカ文化の出店のようになってしまっているとき、この己れの文化システムの裂け目を見出せる「ユートピア」国への旅行体験はますます僥倖となってきているといってよいだろう。

…………

最後に、没後発表された『偶景』からロラン・バルトの「俳句」をいくつか抜きだしておこう(「スカートの内またねらふ藪蚊哉」より)。


【モロッコにて、最近のこと……】

・列車のバーテンダーが、ある駅で降り、赤いジェラニウムの花を摘み、水を入れたコップにさして、汚れた茶碗やナプキンを放り込んでおくかなり汚い物入れとコーヒー沸しの間に置いた。
・二人のアメリカの老婦人が背の高い盲目の老人を力づくでつかまえ道を渡してやる。しかし、このオイディプスはお金の方を好んだであろうに。金、金、相互扶助ではなく。
・手はもうすでに少し分厚いが、華奢で、ほとんどなよなよした少年が、突然シャッターのようにすばやく、男であることを表す仕草――爪の裏でたばこの灰を落とすーーをする。
・一人の立派なハジ。短い灰色のひげをよく手入れし、手も同様に手入れし、真白い上質のジェラバを優雅にまとって、白い牛乳を飲む。
しかし、どうだ。鳩の排泄物のように、汚れが、きたないかすかなしみがある。純白の頭巾に。

花輪光氏は、「偶景」について、『彼自身によるロラン・バルト』、あるいは『新=批評的エッセー』の叙述から、次のようにまとめている。(ロラン・バルト『偶景』 解題代わりの小論「小説家ロラン・バルト?」より)

偶景(incident)――偶発的な小さな出来事、日常の些事、事故(アクシダン)よりもはるかに重大ではないが、しかしおそらく事故よりももっと不安な出来事、人生の絨毯の上に木の葉のように舞い落ちてくるもの、日々の織物にもたらされるあの軽いしわ(プリ)、わずかに書きとめることができるもの、何かを書くために必要となるちょうどそれだけのもの、表記のゼロ度、ミニ=テクスト、短い書つけ、俳句、寸描、意味の戯れ、木の葉のように落ちてくるあらゆるもの。