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2015年7月21日火曜日

現実の裂け目としての自由=リアル

《現実は現実界のしかめっ面である》(ラカン『テレヴィジョン』)

現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être)

…………

ラカンにとって、不安は欲望の対象=原因が欠けているときに起るのではない。不安を引き起こすのは対象の欠如ではなく、反対に、われわれが対象に近づきすぎて欠如そのものを失ってしまいそうな危険が、不安を引き起こす。

ここで説明抜きで唐突にこういっておこう、「寝言は寝てから言え」と。さて何の話だろうか?

ドストエフスキーは人々は「自由」など望んでいないといったが、同様に、“精神”であることを人は望んでいない。自分はめざめて、現実を直視し、ほかの人は幻想に支配されていると説くあの連中のように、夢をみていることを望むのである。(柄谷行人『探求Ⅱ』P95)


以下、『ジジェク自身によるジジェク』の結論部分から私訳するが、その前に最近のミレール批判としても読めるので、その文を先に掲げておこう。

◆LESS THAN NOTHING(2012)CHAPTER 9 Suture and Pure Differenceより

ミレールにとって(彼はここでラカンに従っている)、不安は、我々を騙すことのない唯一の情動である(フロイトがすでに言ったように)。この意味は、〈大義〉のためのどの(政治的)熱狂も、想像的な誤認の要素だということだ。ミレールは、この最近の数年、ことさら主張しているのだが、政治は、想像的あるいは象徴的同一化の領野であり、それ自体イリュージョンだと。

このような立場は、必然的に、ある種の冷笑的悲観主義に終わる…。すなわち全ての集団的熱狂のアンガーシュマンは屑に終わる。真理は、悲壮な誠意の自己盲目的行動において、瞬時のあいだのみ経験されるだけである……。

こういった瞬間は永遠に維持できはしない。だから我々に出来る唯一のことは、「(社会的)ゲームをする」ことだけだ、と。政治的行動は、究極的にイリュージョンの単なる遊戯でしかないと気づきつつ。

バディウは、我々を、この高尚化された悲壮な冷笑主義から抜け出すことを可能にしてくれる。すなわち、熱狂は、不安よりも、すこしも「真正」でないわけではない、と。集団的な政治のアンガーシュマンは、その事実だけで、想像的誤認であるわけではない。

この相違は、今日、全く決定的である。政治的な死と生の相違であり、支配的なポスト政治的な冷笑主義への是認と、ラディカルな解放運動のための勇気の集結のあいだの相違である。

ーーより詳しくは、「デモの猥雑な補充物としての「享楽」」を見よ。

さて、『ジジェク自身によるジジェク』(原典2004)からである。

ラカンの現実界の標準的な読み方は、リアルとは超越論的ア・プリオリな障害物ーーそれは偶然的な外部の障害物として間違って表象されるーーというものだ。ここでの現実界の不可能性は、出来事が起こるのは不可能だという意味で理解されている。これは現実界の歪像的観点だ。そこではあなたが出来ることのすべては二次的な近似物、部分的な接近等々にすぎないというわけだ。すなわち現実界はわれわれが直接に接近することに出来ない中心的な物ということだ。たとえば現実界としての性的行為は決して十全にリアルな〈モノ〉ではないということを意味する。現実界についてのこの観点は、ラカン理論をある種の失敗の昇華として提示する。すなわち我々の出来る全ては、正当的な形での失敗(の試み)であり、我々は決して〈モノ〉自体を得ることは出来ない、と。

しかし私が『信じるということ』で主張したように、これはラカンの現実界の究極の地平ではない。ある意味で、不可能としての現実界が意味するのは、それが起こり得るということだ。ラカンにとって奇跡は起こる、そしてそれがラカンの現実界だ。現実界が不可能なのは、ただそれを象徴化できないこと、あるいは受け入れることができないという意味にすぎない。例えば、あなたが気狂いじみた何かをする。そう、英雄的な行動のような振舞いを。それはあなたのあらゆる利益に反している。まさにこのとき現実界は起こるのだ、ーーあなたはそれの十分な根拠を示すことも説明することもできない。だからラカンの現実界は、それが起こらないとか決して遭遇できないいう意味での不可能としての現実界ではない(この核心はまた、アレンカ・ジュパンチッチによって(『リアルの倫理』)巧みに叙述されている。

おわかりだろうか、違うんだ、それは起こるのだ。けれどもそれはひどくトラウマティックなので人は想定できないのだ。言わせてもらえば、倫理的行為はリアルだ。もし不可能としてのリアルを基本的な意味での失敗として読むなら、そのときカントのタームでは我々は本当にはリアルな物事をしたことは全く確かでない。リアルな物は本当のところは自由な行為なのだ。カントが言うように、我々のどんな行為も本当に倫理的行為であるかどうかは全く確かでない。常に疑いがある、我々はその倫理的行為をあるパトロジカルな理由でしたのではないかと。あなたが本当に生命を賭けたにしろ、おそらくあなたはナルシシティックな幻想を抱いているのかもしれない、いかにあなたはその後に賞賛されるか等々と。だからあなたは全く確かでない。これが初歩的な意味での不可能としての現実界だ。

けれど私が考えるに、正当な考え方はまさにそれをひっくり返すことだ。すなわち、我々はリアルなモノ、自由な行為を実践しうる。しかしそれを受け入れるにはあまりにトラウマティックだということだ。それが象徴的な用語で理論化しようとする理由だ。だがリアルは起こる。これはまた人間の死にいたる病という観点のキルケゴールの反転にもかかわる。真の恐怖は私が死を免れえないことではない。真の恐怖はむしろ私が不死であることであり、私はそこから逃れようとする。そしてドイツ観念論において、人間が直面する最も恐るべき事は、自由意志のこの深淵だと言ったのはカント、そしてとりわけシェリングだ。それは誰かがシンプルに自由意志から行動したときに遭遇する。そしてそれを受け入れるにはひどくトラウマティックなのだ。

人はまた生物-遺伝子学的な還元主義の恐怖をこの線に沿ってひっくり返すべきだ。ふつう我々が生物学的/遺伝子学的に条件づけられた対象に還元されるたら怖ろしいと考える。しかし私が考えるには真の不安は我々が自由な行為をしたことに気づくことによって引き起こされる、ーーそれが受け入れるには最も困難なことなのだ。ラカンは失敗(の試み)の詩人のたぐいではない。真のトラウマティックな事態とは奇跡が起こることだ、宗教的な意味ではなく自由な行為の意味での奇跡が。しかしそれは言葉では言い表しがたい。さあ、だから我々は失敗の考え方など蹴散らすべきだ。ラカンにとって、現実界は我々が接近できない物自体ではない。現実界はむしろ現実の織物における根源的な裂け目としての自由なのだ。(『ジジェク自身によるジジェク』私訳)

途中、「パトロジカルな理由」という表現が出てくる。あるいはジュパンチッチの『リアルの倫理ーーカントとラカン』の名も出てくる。この書も邦訳はわたくしの手許にはない。ジジェクが朋友ジュパンチッチとの会話から生みだされた次の叙述を『批評空間』2001 Ⅲ-1に掲載されている「メランコリーと行為」より抜き出しておく。

カントの倫理に関する標準的な誤読は、次のような理論にカントの倫理を還元してしまうというものだ。その理論とは、真の倫理的行為とたんなる法的行為との差異は主体の内面的姿勢のみにかかわるとでも言うかのように、行為の倫理的性格を判断する唯一の基準として、主体の意図の純粋な内面性を措定する理論である。法的行為において、私は、パトローギッシュな(感性的動因による)配慮(罰への恐れ、ナルシシスティックな満足、仲間からの賞賛)から法に従うのだが、他方で、義務を尊重する純粋な気持ちから同じ行為を行いさえすれば、つまり、義務がその行為を成し遂げる唯一の動機であるならば、私の行為は本当の道徳的行為となりうる、というわけだ。この意味で、本当の倫理的行為とは二重に形式的なのだ。つまり、そうした行為が法の普遍的形式に従うというだけでなく、この普遍的形式がその行為の唯一の動機でもある、ということだ。しかしながら、〔法の〕新たな内容そのものが、そうした形式の二重化からのみ現れうるとしたらどうだろう。形式主義(形式的法規範)の枠組みを事実上粉砕する真に新たな内容が、形式の自己反省を通してのみ現れうるとしたらどうだろうか。法とのその侵犯という点から言えば、本当の倫理的行為とは、法規範の侵犯――たんなる法律違反とは対照的に、法規範を破るだけではなく、何が法規範であるか定義し直すような侵犯行為――である。道徳律は善に従うのではない。何が善であるか、その新しい形を作り出すものなのだ。

ここで重要な問題に直面することになる。次のような素朴な疑問が生じるのだ。なぜそうなのか? 主体が義務感からのみ行うようなやり方で既存の倫理規範をそのまま現実化する、そういう倫理的行為はなぜ可能ではないのか? この問題にこれとは反対の側からアプローチしよう。新たな倫理規範はどのようにして現われるのか? 規範の既存の枠組みとこうした規範が適用される経験的内容との相互作用からは、この疑問には答えられない。状況があまりにも複雑になるか激変するかして、旧来の規範では対応しきれなくなり、新たな規範を作らねばならなくなる(旧来の規範をそのまま適用すると行き詰ってしまうクローン技術や臓器移植の場合のように)ということではない。さらなる条件が満たされねばならないのだ。既存の規範を適用するにすぎない行為は合法的なだけだが、これに対して、何が倫理規範であるか定義し直す行為は、ただ合法的なだけの身振りとしては成し遂げられず、先に述べたような言葉の二重の意味での形式的な身振りとして実現されなければならない。つまり、そうした行為は義務のために完遂されねばならない、ということでもあるのだ。なぜ? という疑問が再び生じる。なぜそうした倫理的行為は、新たな現実に既存の規範を当てはめる行為としては完遂されえないのだろうか。

現実が発する新たな要求に応じるために法規範を変えるならば(たとえば、カトリック穏健派が「現実主義的」になり、新時代に対して部分的に譲歩し、夫婦間の性交渉にかぎって避妊を認めるという場合のように)、法からその尊厳をア・プリオリに奪うことになる。なぜなら、そのときわれわれは、功利主義的なやり方で、パトローギッシュな利益=関心(幸福)に関する満足度を増大させうる道具として法規範を扱っているからだ。これが意味しているのは、法をめぐる厳格な形式主義(どれほど犠牲を払うことになろうと、無条件に、事情の如何にかかわらず、法の文言を厳守すべきだ)と、プラグマティックで功利的な日和見主義(法規範には柔軟性がある。法は生活の必要に応じて修正すべきだ。法は、それ自体が目的なのではなく、生活する生身の人間の要求を満たすものでなければならない)とは、同じコインの裏と表であるということだ。というのは、この両者はどちらも、義務のために果たされる倫理的行為として規範を侵犯する、という考え方を排除していることで成立しているからである。さらに言えば、根源的悪とは、最も極端な場合、規範を乱暴に破ることではなく、パトローギッシュな理由から規範に服従することなのである。間違った理由から正しいことを行うこと、自分の利益になるから法に従うということは、たんに法を侵犯するよりもはるかに悪いことなのだ。直接的な侵犯行為はたんに法を破るだけで、法の尊厳はそのまま保たれるが、他方、間違った理由から正しいことを行うことは、法を尊重されるべきものとして扱わず、法を人間のパトローギッシュな利益=関心のための道具にまで貶めることであって、法の尊厳をその内側から掘り崩すことなのだーーそれはもはや法の外部からの侵犯ではなく、法の自己破壊、法の自殺行為である。言いかえると、悪の形式をめぐる伝統的な位階序列は次のように転倒されねばならない。一番の悪は、外面的な合法性、パトローギッシュな理由から法を遵守することである。次にくるのは、たんなる法律違反、法を無視することだ。最後に、間違った(パトローギッシュな)理由から正しい(倫理的な)ことを行うこととは正反対の行為がくる。それはつまり、正しい理由から間違ったことを行うこと、倫理規範を、パトローギッシュな理由からではなくただその規範のために破るという行為である(カントはこうした行為をーーそれが行われる可能性は否定したけれどもーー悪魔的悪と呼んだ)。そのような悪を、形式的に善から区別することはできないのだ。

したがって、倫理的行為は、義務感から成し遂げられる行為であるばかりか、アクチュアルな効果を与えるものでもあり、現実に介入するものでもある、というだけではない。アクチュアルな結果をもたらすという意味で、現実への介入以上のことをするのである。つまり、倫理的行為は何が現実であるのか定義し直すものである、ということだ。本当の道徳的行為において、内面と外面、内的意図と外的結果は一致する。それらは同じコインの裏と表なのだ。(ジジェク「「メランコリーと行為」鈴木英明訳)