私にも二十代には、驟雨が屋根を叩いて走るのを耳にするだけで、情欲が八方へ静かにひろがり出し、命あるものであろうとなかろうと、ありとあらゆる物音にひそむ忍び笑いと忍び泣きと、それから恐怖に、はてしもなく、苦しめられる、そんな時期があった、と何とはなしに思い出した。(古井由吉『哀原』雫石)
共寝の床の中で、常の女の存在から、生気が肌の内へ静まり、個の表情が洗い流され、女体そのものというような裸像があらわれることがある。美しい、と男はつかのまながら思う。それにひきかえ常の存在を訝り疎むこともある。そんな時、私は、あの裸像のひしめきを思う。(『哀原』池沼)
ラカンにC'est ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire(書かれぬことを止めぬ)という言葉がある。一般に「現実界」(象徴化できない事態)との遭遇が、「書かれないことを止めない」ものとされるが、その代表としてはトラウマとの遭遇だろう。
古井由吉は1937年11月19日生まれであり、東京大空襲のときは、七歳だったことになる。彼はどこかでなぜ書きつづけるか、と問われて、「復讐」のためというようなことを言っていたはずだが、今その文を見いだせない。
僕は作品でエロティックなことをずっと追ってきました。そのひとつの動機として、空襲の中での性的経験があるんですよ。爆撃機が去って、周囲は焼き払われて、たいていの人は泣き崩れている時、どうしたものか、焼け跡で交わっている男女がいます。子供の眼だけれども、もう、見えてしまう。家人が疎開した後のお屋敷の庭の片隅とか、不要になった防空壕の片隅とか、家族がみんな疎開して亭主だけ残され、近所の家にお世話になっているうちにそこの娘とできてしまうとか、いろんなことがありました。(古井由吉『人生の色気』)
この《焼け跡で交わっている男女がいます。子供の眼だけれども、もう、見えてしまう》というのが正確にトラウマと呼ばれるべきものかどうかは知らない。また、ああそうだったのか、といまさらながら感じ入るのは、「作家」という存在に日頃たいして思いを馳せたことのない者の迂闊さにすぎないだろう。思い返せば、中上健次もそうだろうし、坂口安吾もそうだ。むしろ「すぐれた」作家ならそうでない者がありうるのかと問うべきなのだ。あるいは詩人の吉岡実だってこう言っている。
或る別の部落へ行った。兵隊たちは馬を樹や垣根につなぐと、土造りの暗い家に入って、チャンチュウや卵を求めて飲む。或るものは、木のかげで博打をす る。豚の奇妙な屠殺方法に感心する。わたしは、暗いオンドルのかげに黒衣の少女をみた。老いた父へ粥をつくっている。わたしに対して、礼をとるのでもなけ れば、憎悪の眼を向けるでもなく、ただ粟粥をつくる少女に、この世のものとは思われぬ美を感じた。その帰り豪雨にあい、曠野をわたしたちは馬賊のように疾 走する。ときどき草の中の地に真紅の一むら吾亦紅が咲いていた。満人の少女と吾亦紅の花が、今日でも鮮やかにわたしの眼に見える。〔……〕反抗的でも従順 でもない彼ら満人たちにいつも、わたしたちはある種の恐れを抱いていたのではないだろうか。〔……〕彼らは今、誰に向って「陰惨な刑罰」を加えつつあるのか。
わたしの詩の中に、大変エロティックでかつグロテスクな双貌があるとしたら、人間への愛と不信をつねに感じているからである。(吉岡実『わたしの作詩法?』――小林一郎氏「吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈」から)
砕かれたもぐらの将軍
首のない馬の腸のとぐろまく夜の陣地
姦淫された少女のほそい股が見せる焼かれた屋根
朝の沼での兵士と死んだ魚の婚礼
軍艦は砲塔からくもの巣をかぶり
火夫の歯や爪が刻む海へ傾く
死児の悦ぶ風景だ
しかし母親の愛はすばやい
死児の手にする惨劇の玩具をとりあげる(吉岡実「死児」)
半病人の少女の支那服のすそから
かがやき現われる血の石(〈珈琲〉)
ぼくがクワイがすきだといったら
ひとりの少女が笑った
それはぼくが二十才のとき
死なせたシナの少女に似ている(〈恋する絵〉)
コルクの木のながい林の道を
雨傘さしたシナの母娘
美しい脚を四つたらして行く
下からまる見え(同上)
物書きとは本来、こういったことのみをーー書かれぬことを止めぬもののみをーー書くべきなのだろう。
公団が爆発的に流行したのは、人の耳に入らない密閉された空間で交わりたいという男女の熱い思いがあった。団地以前は、閉ざされた空間の中でのセックスではなく、人の耳をはばかりながら交わっていました。しかしまたそこにエロティシズムがあったんです。周りから保護された性的な関係は、最初は作家も奔放なことを書けるけれども、次第に書きようがなくなっていきます。晩年の中上健次は、日本家屋がなくなって困った代表でしょう。(古井由吉『人生の色気』)
ここで《隣の声は襖一枚の隔てを筒抜けだった》と引用することもできる。
……もとより、騒音の中で生きて来た者である。子供の頃には一時期、都電通りから路地を入ったすぐ奥のところに住んでいた。表を電車の通りかかるそのたびに、家は地から揺すられる。大震災よりも前の普請になる古家は内廊下のつきあたりの、手水場の窓の上で梁がはっきりと傾いていた。しかも二階を載せいてた。同じ屋根の下に何人も身を寄せいていて隣の声は襖一枚の隔てを筒抜けだった。(古井由吉『蜩の声』)
「……どうしたの、そんなところで」
突拍子もない母親の声に春子が寝床の中で目をあけると、枕のすぐそばに大きくふやけたような男の顔がこちらを向いて眠っていた。(……)川崎は…蒲団の中から片手を哀れっぽく差し出して、口もきけぬという顔つきで、天井を何度も何度も指さした。しばらくした母親がクスクスと笑い出したかと思うと、「いやだわ」と若い娘みたいな声を立てて隣の部屋へ逃げこんだ。笑いに息たえだえの話し声が襖の陰でして、それから父親が空惚けた顔をこちらへ出した。川崎は目をあけず、まだ天井のほうをせつなそうに指先で訴えていた。
「川崎君、えらいご災難だそうだね」
「熱烈で熱烈で、はたのほうが、もう身がもたなくて」 (古井由吉『女たちの家』)
そういえば、丹生谷貴志氏はかつて中上健次を語るなかで、「現実を利用することで自分史を書きあげるタイプの作家」と「現実を利用したことは一度 もなく現実は押し寄せてくるというタイプ」の作家を対比させていたが(「個人史を巡る旅:中上健次を巡る旅」)、押し寄せてくる現実とは、典型的には「幼少の砌の髑髏」であるに相違ない。
頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平生は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦に付いてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。
小児性を克服できずに育った、とこれを咎める者もいるだろうが、とても、当の小児にとっても後の大人にとってもおのれの力だけで克服できるようなしろものではない、小児期の深傷〔ふかで〕というものは。やわらかな感受性を衝いて、人間苦の真中へ、まっすぐに入った打撃であるのだ。これをどう生きながらえる。たいていはしばらく、五年十年あるいは二十年三十年と、自身の業苦からわずかに剥離したかたちで生きるのだろう。一身の苦にあまり耽りこむものではない、という戒めがすくなくとも昔の人生智にはあったに違いない。一身の苦を離れてそれぞれの年齢での、家での、社会での役割のほうに付いて、芯がむなしいような心地でながらく過すうちに、傷を克服したとは言わないが、さほど歪まずとも受け止めていられるだけの、社会的人格の《体力》がついてくる。人の親となる頃からそろそろ、と俗には思われているようだ。
しかし一身の傷はあくまでも一身の内面にゆだねられる、個人において精神的に克服されなくてはならない、克服されなくては前へ進めない、偽善は許されない、という一般的な感じ方の世の中であるとすれば、どういうことになるだろう。また社会的な役割の、観念も実態もよほど薄い、個人がいつまでもただの個人として留まることを許される、あるいは放置される世の中であるとすれば。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』)
…………
徳田秋声の『足迹』。葬式の、納棺の場面がある。そろそろ葬儀屋が棺をしめる折、《「さあ皆さん打っ着けてしまいますよ。」葬儀屋の若いものと世話役の安公とが、大声に触れ立てると、衆〔みんな〕はぞろぞろと棺の側へ寄って行った。》女たちがもめる、死者が生前に好んだ人形、色々の着物を縫って着せるのが楽しみだったそれを棺に入れるかどうか。《「入れないそうです。」と、誰やらが大分経ってから声かけた。衆〔みんな〕が笑い出した。》
「《衆〔みんな〕が笑い出した。》と、変に印象に残る一行であった、と文芸時評家の流儀に従えば、それで済みもすることなのだが。」ーーそのように『東京物語考』の古井由吉は書き、続けて《まず、通夜とか葬式の席で人はあんがいに笑う、ちょっとした齟齬をきっかけにとかくだれかたような笑いを洩らすものだ、とは一般的に言える。いよいよ納棺の、気の張りつめた間際に、人形のことで、まだ決まりのつかぬことが出てきた。……》とする。
この変に印象に残るものを表現したいと願うのもまた作家なのだろう。それはまさしく「人生の色気」である。
「男に色気がない、と感じるのは、たとえば通夜やお葬式の席です。年配者の姿を見ていると、お焼香の姿がサマになっていないんですよ。不祝儀の場の年寄りの振る舞いに、男の色気は出るものなんです。稚いというか、みんな形を踏まえていない、しわくちゃな振る舞いになっています。あれじゃあ、女性も面白くないでしょう。…儀式の場などでは、肉体が純化される時があるでしょう。その時、人の性的な部分もはっきりと現れるものなんです。女にしても男にしても、そうした場での振舞いがむさいと、まことに色気がない社会になってしまいます。言葉のなかにも・・・」(古井由吉『人生の色気』)
《僕も、文学が残る、やがて必要とされるとかたく信じていますけれども、差し当たっては厳しい。人がそれほど強く求めていないということは確かです。
だけど、今の世の中は行き詰まると思う。日本だけではありません。世界的に。そのときに何が欠乏しているか。欠乏を心身に感じるでしょう。そのときに文学のよみがえりがあるのではないかと僕は思っています。》(古井由吉「群像」2015年7月号 堀江敏幸対談)
最後に蓮實重彦によって40年ほどまえ書かれた文、いまではひどく「挑発的」ににみえるかもしれない小説顕揚文を掲げておこう。
もしかりに、ヨーロッパが真の反省的思考に目覚める瞬間があるとするならば、そのときヨーロッパが描きあげるだろうその自画像は「小説」を中心にした構図におさまることになるだろう。あるいは逆に「小説」を構図の中心に据えたヨーロッパ像が想定されぬ限り、ヨーロッパはその自意識を獲得することはなかろうというべきかもしれない。「小説」を視界におさめなかったが故に、デカルトは真の反省的思考を実践しえなかったし、マルクスも、またニーチェも、そしてフロイトも、「小説」を曖昧にとり逃がしてしまったが故に、ヨーロッパ的な現実を周到に描きつくすにはいたらなかったのだ。階級闘争も、永劫回帰も、無意識 も、「小説」に対してはひたすら無効の身振りしか演じてはいない。そしてその事実を自覚する瞬間に、ヨーロッパは初めて真の反省的な思考を獲得することに なるだろう。またそうでない限り、ヨーロッパは、ルイ十四世の時代と質的にはほとんど変わらぬ仕草で思考をめぐらせ続けるほかあるまい。(蓮實重彦「小説の構造」(初出=「国文学」1977年)