このブログを検索

2015年8月4日火曜日

感性的であるということは、受苦的であるということ(マルクス)

他者に対する情熱を公に示す事には恐ろしく暴力的なところがあるというのは当たり前ではなかろうか。情熱は定義からしてその対象を傷つける。相手が情熱の対象の位置を占めることに徐々に同意したとしても、畏怖と驚きを経ずして同意することは絶対にできない。(ジジェク『ラカンはこう読め』)P175)

ーーとは次の叙述の後に記されている。

「嫌がらせ〔ハラスメント〕」は、明確に定義された事実を指しているように見えながら、じつはひじょうに両義的に機能し、イデオロギー的なごまかしをしている語のひとつである。いちばん基本的なレベルでは、この語はレイプや殴打のような残酷な行為や他の社会的暴力を指す。いうまでもなく、そうした行為は容赦なく断罪されるべきだ。しかし、現在流通しているような「嫌がらせ」という語の使い方では、この基本的な意味が微妙にずれて、欲望・恐怖・快感をもった他の現実の人間が過度に近づいてくることに対する批難になっている。二つのテーマが、他者に対する現代のリベラルで寛容な姿勢を決定している。他者が他者であることを尊重して他者に開放的であることと、嫌がらせに対する強迫的な恐怖である。他者が実際に侵入してこないかぎり、そして他者が実際には他者でないかぎり、他者はオーケーである。ここでは寛容がその対立物と一致している。他者に対して寛容でなければならないという私の義務は、実際には、その他者に近づきすぎてはいけない、その他者の空間に闖入してはいけない、要するに、私の過度の接近に対するその他者の不寛容を尊重しなくてはいけない、ということを意味する。これこそが、現代の後期資本主義社会における中心的な「人権」として、ますます大きくなってきたものである。それは嫌がらせを受けない権利、つまり他者から安全な距離を保つ権利である。(ジジェク


とはいえ、今メモしておきたいのは、ハラスメントの話ではない。《情熱は定義からしてその対象を傷つける》の話だ。以前からどこかで読んだ文と似ているな、と感じていたのだが、昨晩ようやくその文に巡りあった。《感性的であるということは、受苦的であるということ》というマルクスの文だ。

感性的であるということ、すなわち現実的であるということは、感覚の対象であること、感性的な対象であることであり、したがって自分の外部に感性的な諸対象をもつこと、自分の感性の諸対象をもつことである。感性的であるということは、受苦的であるということである。

それゆえ、対象的な感性的な存在としての人間は、一つの受苦的〔leidend〕な存在であり、自分の苦悩〔leiden〕を感受する存在であるから、一つの情熱的〔leidenschaftlich〕な存在である。情熱、激情は、自分の対象にむかってエネルギッシュに努力をかたむける人間の本質力である。(マルクス「経済学・哲学草稿」第三草稿 城塚・田中訳)

とはいえ、マルクスのメモだけではなく、せっかくジジェクを引用したのだから、ハラスメントについてもメモっておこう。

@skdwm 女子大生へのセクハラアンケート。セクハラで一番多かったのが「キモい男からの告白や好意」。女子大生へ好意を向けることはセクハラに当たります。男子学生は十分に注意してください。

ジジェクを再掲すればこういうことであろう。

他者に対して寛容でなければならないという私の義務は、実際には、その他者に近づきすぎてはいけない、その他者の空間に闖入してはいけない、要するに、私の過度の接近に対するその他者の不寛容を尊重しなくてはいけない、ということを意味する。これこそが、現代の後期資本主義社会における中心的な「人権」として、ますます大きくなってきたものである。それは嫌がらせを受けない権利、つまり他者から安全な距離を保つ権利である

大学生だか高校生だかの若い女性たちに「愛」を告白しそうになったのだが、やめておかなければならない。




ラカンによる愛の定義 ――「愛とは自分のもっていないものを与えることである」 ――には、以下を補う必要がある。「それを欲していない人に」。誰かにいきなり情熱的な愛の告白をされるというありふれた体験が、それを確証しているのではないか。愛の告白に対して、結局は肯定的な答を返すかもしれないが、それに先立つ最初の反応は、何か猥褻で闖入的なものが押しつけられたという感覚だ。 (ジジェク『ラカンはこう読め!』P83)





「自制」のためには次のようなツイートをも読んでおくべきだろう。

@aki21st:ややこしい事をいうと…百田尚樹さんの永遠の0を読んで感動して泣いてたみたいな高校の後輩が、デモの先頭に居たりするわけでして…。百田尚樹読んでデモ行くって…なんというか、どう説明していいか分からん事が起こってる。

ーー誤解のないように断わっておくが、このツイートはここに貼り付けた若い女性たちとは無関係である。





ここに写っている女性のどれかが「礒崎首相補佐官を論破した18歳女子」のはずだが、どの女性がどうであるのかはこの際どうでもよろしい。

どこかに美しい人と人の力はないか
同じ時代をともに生きる
したしさとおかしさとそうして怒りが
鋭い力となって たちあらわれる(茨木のり子