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2014年12月25日木曜日

写真の本質の飼い馴らし、あるいは白痴が微笑む世界

私が想像するには(私は写真家ではないから、私にできるのは想像してみることだけである)、「撮影者」の本質的な行為は、ある事物または人間を(部屋の小さな鍵穴から)不意にとらえることにあり、したがってその行為は、被写体が知らぬまにおこなわれるとき、はじめて完璧なものとなる。(……)写真の《衝撃》は(……)精神的外傷を与えることよりも、むしろ、非常にうまく隠されているため、当事者さえも知らないかまたは意識していない事柄を、暴露することにあるからだ。(……)

写真は、それがなぜ写されたのかわからなくなるとき、真に《驚くべきもの=不意を打つもの》となる。(ロラン・バルト『明るい部屋』p46-48)

写真の本質が、もしバルトのいうように、《被写体が知らぬまにおこなわれるとき、はじめて完璧なものとなる》とすれば、被写体に了承をとってから写さなければならないという現代の倫理は、写真の本質に悖ることになる。もっとも不意を捉えることは、仮に了承を取った後にもさまざまな手段があるだろう。被写体に絶え間ない動きを促しその瞬間を捉えるとか、被写体の関心を撮られることから逸らすために撮影者はジョークを繰りだすとか。

わたくしには、荒木経惟の写真を眺めているとき、彼の饒舌が聞えて来るような気分になるときがある。荒木のモデルの女たちのまなざしは、撮影者だけをみつめている。他の写真家の作品では、モデルとなった女のまなざしは撮影者だけでなく、その背後にある写真をみるだろう限りなく多数の無名の目による視線に向けられている。荒木経惟の写真にはそれがない、すくなくともその多くは、――と「錯覚」に閉じこもり得ることが多い。




もっとも他の写真家たちの作品を多く、まんべんなく、みることはないから、あまりエラそうなことは言えない。

ところで中井久夫に「顔写真のこと」というエッセイがある。そこには《こどもの時から写真をとられるのが苦手であった》と冒頭にあり、写真を撮るという攻撃性にすこぶる敏感な、ひどく繊細な感性な溢れる言葉をもって、書きすすめられてゆく。


私がとった風景写真には、ふしぎな特徴があると友人はいう。要するにみごとに人がいないのである。私は意識していないのだが、かなりの雑踏でも人の途絶える瞬間があって、その時をねらってシャッターを押すらしい。(……)

写真をとるということは、機関銃に似た固い物体を相手にむけるという行為である。写真をとることにも、とられることにも、私に抵抗があるのは、このためもあるらしい。つまり、私の心の中にある対人恐怖に、相手から攻撃されること、人を攻撃してしまうことの恐怖が加わって、写真というものを苦手にしているらしい。

カメラを介しての人間関係には独特なものがある。肖像画を描いてもらう時とはずいぶん違うだろう。冷たい機械を間にはさんで直接向き合う対人場面は他にはめったにあるまい。しかも、ここには絶対的な不平等がある。写す者と写される者との不平等である。さらに、集団写真といっても、焦点は誰かに合っている。基本的には一対一の関係、それも焦点をしぼった鋭い関係である。そして、非言語的関係である。沈黙が強要され、しぐささえも一瞬の静止を求められ、自己身体のイメージが前面に出る。写真機の前で緊張する人は、この独特な状態に自分の病理をしぼり出される。私など、その最たるものであろう。(中井久夫「顔写真のこと」『記憶の肖像』所収)

続けて、この写真恐怖症とも言える中井久夫が《専門家に肖像写真をとってもらう機会》について書いている。一度目のカメラマンは、英国仕込みという触れ込みの若手で、いちどきに三百枚ほどとった、とある。写真家は「最初五十枚ほどとられてしまうと写される快感が生じてきますよ」、という。だが中井久夫にはその快感が訪れない、《写される快感とはどういうものであろうか。素朴なナルシストのものであろうか。被虐的な快楽であろうか》。

二度目は、初老の職人肌の人であった。「自宅に朝うかがいます」といわれ、待っていると、ひょうひょうとした人があらわれ、挨拶をかわしているうちに家人を巻き込んで雑談にはいった。そのまま、「ちょっと一枚二枚」といって、しきりに手のかたちを問題にしはじめた。「妙に手にこだわる人だな、そんなものかな」と思っているうちに、撮影は終わった。

出来上がりをみて、私はさとった。あの人は、まず、朝のいちばん疲れていない時、くつろいだ場を選んだ。そして、家族と話をしている時の自然な表情を探した。私が少数の親しい人の前以外ではひどく緊張する人間であることを察してのことか、あるいはそういう人が一般に多いという、この人の撮影体験の長い歴史によることか。

そして、手のかたちに私の注意を集中させた。集団写真の時に私の体の居ずまいをがたがたにさせる、あの意識はことごとく手に向かって、ふつうの撮影の時には居すわっているはずの顔や首という場からすっかり出払ったのである。これは、詩について、かねがね感心しているエリオットの言葉を思い出させる。エリオットは、詩の意味とは、読者の注意をそちらのほうにひきつけ、油断させて、その間に本質的な何ものかが読者の心に滑り込むようにする、そういう働きのものだという。それは、この場合、手への意識集中である。

最近、インタヴューを受けた時に現れたのも、この人であった。再会である。(……)今度は私の仕事部屋での撮影だった。氏は短い会話によって、私の顔を「ほどく」ことに成功した。それから私にいろいろな本を読ませたが、読む著者によって変わる私の表情を氏は敏感に捉えた。それは、予感から余韻に速やかに変わってゆく陽炎のような瞬間〔いま〕を捉えて鮮度を落さずにさっと料理する板前さんであった。私は「(エビの)おどり(食い)の板さん」という名を氏に進上したくなった。(中井久夫「顔写真のこと」1991)

この中井久夫の文章は《被写体が知らぬまにおこなわれるとき、はじめて完璧なものとなる》(バルト)、その工夫が書かれている。エリオットの言葉をもじれば、すぐれた写真とは、被写体の注意を油断させて、その間に本質的な何ものかを捉えることであるとしてもよい。

ところでロラン・バルトの写真論だけとは見なされがたい『明るい部屋』の最後の章の題は、「「飼い馴らされた「写真」」である。そこでは《社会は「写真」に分別を与え、「写真」を眺める人に向かってたえず炸裂しようとする「写真」の狂気をしずめようとつとめる》( p142)とまずは書かれるが、この「狂気」とは、その前々章「まなざし」、前章「「狂気」、「憐れみ」」にその説明がある。いまは一つの文だけを抜き出すことにしよう、《まなざしというものは、それが執拗にそそがれるとき(ましてやそれが、写真によって「時間」を越え持続するとき)は必ずや潜在的に狂気を意味する》と。

われわれ後期資本主義の社会では、この写真の「狂気」を飼い馴らそうとする。まずは盗写はひどく忌み嫌われる。被写体に了解をとってから撮影しなくてはならないのは、すでに「常識的な」社会規範であろう。われわれは、バルトのいう写真の本質、《被写体が知らぬまにおこなわれるとき、はじめて完璧なものとなる》などはまったく許されなくなりつつある「苦情の文化」の住人である。

「嫌がらせ〔ハラスメント〕」は、明確に定義された事実を指しているように見えながら、じつはひじょうに両義的に機能し、イデオロギー的なごまかしをしている語のひとつである。いちばん基本的なレベルでは、この語はレイプや殴打のような残酷な行為や他の社会的暴力を指す。いうまでもなく、そうした行為は容赦なく断罪されるべきだ。しかし、現在流通しているような「嫌がらせ」という語の使い方では、この基本的な意味が微妙にずれて、欲望・恐怖・快感をもった他の現実の人間が過度に近づいてくることに対する批難になっている。二つのテーマが、他者に対する現代のリベラルで寛容な姿勢を決定している。他者が他者であることを尊重して他者に開放的であることと、嫌がらせに対する強迫的な恐怖である。他者が実際に侵入してこないかぎり、そして他者が実際には他者でないかぎり、他者はオーケーである。ここでは寛容がその対立物と一致している。他者に対して寛容でなければならないという私の義務は、実際には、その他者に近づきすぎてはいけない、その他者の空間に闖入してはいけない、要するに、私の過度の接近に対するその他者の不寛容を尊重しなくてはいけない、ということを意味する。これこそが、現代の後期資本主義社会における中心的な「人権」として、ますます大きくなってきたものである。それは嫌がらせを受けない権利、つまり他者から安全な距離を保つ権利である。

(……)あるいは、「悪は、まわりじゅうに悪を見出す眼差しそのものの中にある」というヘーゲルの言明をふたたび言い換えるならば、〈他者〉に対する不寛容は、不寛容で侵入的な〈他者〉をまわりじゅうに見出す眼差しの中にある。(ジジェク『ラカンはこう読め』P173-174)

だがこの社会、すなわち《不寛容で侵入的な〈他者〉をまわりじゅうに見出す眼差しの中》に暮らさざるええないわれわれは、《日常的な意識のうちに認めざるをえない、吐き気のしそうな倦怠感……差異のない(無関心な)世界をつくり出している》(バルト)――こうバルトが書いたのは、もう三十年以上前だが、それがますますひどくなっている社会であるに相違ない。いやむしろ病膏肓に入ってその吐き気さえ感じる感性を失ってしまった新しい人類が生れつつあるとしてもよい。

狂気をとるか分別か? 「写真」はそのいずれをも選ぶことができる。「写真」のレアリスムが、美的ないし経験的な習慣(たとえば、美容院や歯医者のところで雑誌のページをめくること)によって弱められ、相対的なレアリスムにとどまるとき、「写真」は分別のあるものとなる。そのレアリスムが、絶対的な、もしこう言ってよければ、始原的なレアリスムとなって、愛と恐れに満ちた意識に「時間」の原義そのものをよみがえらせるなら、「写真」は狂気となる。(ロラン・バルト『明るい部屋』p145)

もちろんこのバルトの論は1980年に出版されたものであり、いまでは時代錯誤的と言える箇所もあるだろう。だが《愛と恐れに満ちた意識に「時間」の原義そのものをよみがえらせる》刻限、ゆらめく閃光の狂気とあなたがたは無縁とでもいうのか。であるなら勝手にするがよい。

いずれにせよ、いまではこういう「正しい」指摘が渦巻く時代である。

‏@nt1chk
街中でスナップ写真を撮像して、そこに写り込む群衆の顔を一つ一つ識別し、そこからFacebookのアカウントに紐付ける、ということは既に実現された技術であり、写真論云々の批判はそういう技術的展開にまで及ばないなら片手落ちだ(2014.12.25)

ツイッターではことあるごとにこういった「道徳的な」発言――要するに写真を飼い馴らそうとする分別ある発言、そしてそれはもちろん写真だけの話ではない――が溢れかえるのだが、それらの眺めるたびに、わたくしはひどく居心地の悪い思いをしてしまう。

毛利 嘉孝 @mouri · 20時間 20時間前
写真家と被写体をめぐる議論は、人類学や社会学の調査者とインフォーマントの関係とパラレル。かつては、中立性を装って勝手に聞き取り調査を行い、ろくに確認もせずに論文を出すなんてことが行われたが、今ではそんなことは基本的にありえない(はず)。

(承前)したがって、いちばん面白い情報は論文にできないなんてことは日常茶飯事。けれども、インフォーマントと合意を取ることによって人類学や社会学のレベルが下がったわけではない。むしろ自己言及/批判的になって、ある部分は理論的に刷新された。なぜアートや写真にそれができないのか。

撮影の対象者の基本的人権も守れず、写真機の持つ暴力に無自覚なものだけがアートだとしたら、そんなアートは単に時代遅れのくだらないものだ。そのアートがわかるものが特権的で、専門的な批評家だとしたら、この世の中に専門家は必要ないだろう

ましてや東京藝術大学准教授(社会学者、文化研究/メディア研究)なる毛利 嘉孝という方までがこのような「道徳的な」発言に終始しているのをみると(これはこのところツイッター上で賑わっている大橋仁批判の文脈であり、他の場合の発言ではどうなのかはまったく知らない身ではあるが)、では「認識的判断」――写真の本質――はどこにいったのかと問い返してみたくなる誘惑にかられてしまう。

もし仮に、バルトのいうように、対象者を不意撃ちするのが、写真の本質であるとしたら、《撮影の対象者の基本的人権も守れず、写真機の持つ暴力に無自覚なものだけがアートだとしたら、そんなアートは単に時代遅れのくだらないものだ》などと発言できはしまい。とするなら毛利氏にとっての写真の本質とはなんなのか、暴力性を取り払ったあとに、どんな写真の本質があるのかを示すべきではないかとは思う。まさか写真を飼い馴らすことばかりに汲々としているわけではあるまい。要するに、認識的判断と道徳的判断をそれぞれ分けて考えるのが、ときには必要があるはずだが、それがここではなされていない。

カントは、ある対象に対するわれわれの態度を、これまでの伝統的区別にしたがって、三つに分けている。ひとつは、真か偽かという認識的な関心、第二に、善か悪かという道徳的な関心、もうひとつは、快か不快かという趣味判断。(……)

カントが趣味判断のための条件としてみたのは、ある物を「無関心」において見ることである。無関心とは、さしあたって、認識的・道徳的関心を括弧に入れることである。というのも、それらを廃棄することはできないからだ。

しかし、このような括弧入れは、趣味判断に限定されるものではない。科学的認識においても同様であって、他の関心は括弧に入れられねばならない。たとえば、外科医が診察・手術において、患者を美的・道徳的に見ることは望ましくないであろう。また、道徳的レヴェル(信仰)においては、真偽や快・不快は括弧に入れられなければならない。こうした括弧入れは近代的なものである。それはまず近代の科学認識が、自然に対する宗教的な意味づけや呪術的動機を括弧に入れることによって成立したことから来ている。ただし、他の要素を括弧に入れることは、他の要素を抹殺してしまうことではない。(柄谷行人「建築の不純さ」)

道徳的判断に終始しているのか、それともすべては道徳判断をまずは基準としなければならないという考え方なのかは窺知れないが、ときに道徳的判断を括弧に入れて、写真の本質(認識的判断)を示さないままでの議論は空しい。

(ここでは敢えて悦楽(=享楽jouissance)の領域へ進むもの、われわれの文化的土台を揺るがすものが「芸術」の役割の大きな側面ではないかという議論はしないでおく(いくらかの参照:「悦楽は常にすべてのことの永遠ならんことを欲する」))。

ところで、蓮實重彦は『凡庸な芸術家の肖像』の主人公、マクシム・デュ・カンの物語には次のようにある。

……われわれの興味を惹くのは、彼の写真への関心が、狩猟の快楽を知ったのとほぼ同じ時期に芽萌えているということだ。彼は動物めがけて銃弾を撃つように、廃墟や歴史的建造物にレンズを向けているのである。(……)

撃つことにも通ずる撮ることという主題は、写真技術の飛躍的な進歩を達成した二十世紀に入ってから神話化されることになろうが、その原初的なかたちが無意識ながらマクシムによって実践されている点に注目しようではないか。遥かな距離にある対象物に照準を合わせること、そして指の微妙な動きが成功と失敗とを分けへだてるという物理的な類似にとどまらず、ある攻撃的な衝動なしには達成されがたい振舞いとして、撃つことと撮ることとの心理的な類縁性が、すでに写真の発生期に、狩猟の快楽に目覚めたばかりの旅行家によって実践されている点に、われわれは改めて興味をおぼえる。ある種の征服欲の発現なしには、撃つことも撮ることも真の目的を遂げえないだろう。(『凡庸な芸術家の肖像』p607)

《ある種の征服欲の発現なしには、撃つことも撮ることも真の目的を遂げえないだろう》とあるが、やはりここでも写真のもともとの根は、〈他〉を狩ることであり、ラカン派的にいえば、究極の大文字の〈他〉は〈女〉であるならば、女を狩ることが写真の本質ーーそれは写真だけではないのだがーーであるとすることができるのではないか。



Robert Mapplethorpe


写真を撮るとは、このロバート・メイプルソープの作品が表現した振舞いではないか。

無意識には女についての男の無知そして男についての女の無知の点があります。それをまず次のように言うことができます。二つの性は互いに異邦人であり、異国に流されたものである、と。

しかし、このような対称的表現はあまり正しいものではありません。というのも、この無知は特に女性に関係するからです。他の性について何も知らないからなのです。ここから大文字の他の性Autre sexsというエクリチュールが出て来ますが、それはこの性が絶対的に他であるということを表わすのです。実際、男性のシニフィアンはあります。そしてそれしかないのです。(ミレール「もう一人のラカン」)
女は存在しない。われわれはまさにこのことについて夢見るのです。女はシニフィアンの水準では見いだせないからこそ我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです(ミレール“El Piropo”)

クンデラは「存在の絶えられない軽さ』にて、その女性主要登場人物のひとり画家サビナに、暴力のない世界、攻撃衝動のない世界、いわゆる「理想的な」世界がもし実現されたのなら耐えられない、という意味のことを語らせ、《その白痴が微笑むその世界では、彼女には彼らと交わすべき一語もないであろうし、一週間のうちに恐怖で死んでしまうであろう》としている。

分別ある「識者」の見解は、写真の暴力性を飼い馴らして、「白痴が微笑む世界」にでもしようとすることではまさかあるまい、ましてや「芸術」を研究しているひとがそんな振舞いに出でもっともらしい顔をしているなどということは。

ところでマクシム・デュ・カンは、蓮實重彦によって「凡庸な」と称されているが、ボードレールの『悪の華』第二版の最後を飾る「旅」は、デュ・カンへ捧げられているし、またフローベールの長年の友人でもあり、ナポレオン大公の狩猟仲間、マチルド大公妃のサロンの常連、後年はアカデミー・フランセーズの会員になっているわけで、しかもナダールに先んじて仏国で最初の写真集を出した人物である。

他方、われわれの時代は、「凡庸にもなりえない」人びとが、なにやらネット上で識者ぶってお説教を撒き散らしている時代である。《きわめて厄介なえせ芸術家》(中野重治)、《学者でもタレントでもない「きわめて厄介な」ヌエのような存在》(柄谷行人)であるだろう似非知識人の猖獗。それはネット文化としてやむえないことではあれ、あまりにも庶民的正義派が多すぎる。

ーーというわけで「凡庸にもなりえない」人びとのなかの一員であるに相違ないわたくしは、ときにこうやって、世間を真に受けぬための積極的な仕草をしてみたくなる。

【瞞着Mystification】

もっぱらこっけい味のある欺瞞を指すものとして、リベルタン精神の横溢する十八世紀のフランスにあらわれた、それ自体おもしろおかしい(神秘〔ミステール〕という言葉に由来する)新語。ディドロはとてつもない悪ふざけをたくらんで、クロワマール侯爵に、ある不幸な若い修道女が彼の保護を求めていると、まんまと信じこませてしまうが、このときディドロは四十七歳。数ヶ月のあいだ、彼はすっかり感動した侯爵に宛てて、実在しないこの女のサイン入りの手紙を書き送る。『修道女』――瞞着の果実。ディドロと彼の世紀とを愛するための、さらなる理由。瞞着とは、世間を真に受けぬための積極的な方法である。(クンデラ「七十三語」(『小説の精神』)所収)

…………

※附記:ネット上で批判される大橋仁がタイの娼窟の撮影禁止の場での振舞いは、「男女300人の絡みを撮影...知性と理性を吹っ飛ばせて見えた境地とは【大橋仁 INTERVIEW】」にある。その批評(吟味)は、各人勝手にやったらよろしい。




上の画像は大橋仁の作品ではないことに注意を促しておこう。また大橋仁のインタビューにあるタイの「金魚鉢」(=風俗店で客を待つ女の子たちが待機するガラス張りの部屋)が林立するエリアはあまり好まないほうだが、バンコクのストリートの客待ち女性の姿には魅了されたことがないではない、ともしておく。






いい「まなざし」撮ってるじゃん。オレはこの写真見て、荒木経惟の次の写真をすぐさま想起したな。




男がこんなまなざしみせて被写体になること滅多にないんじゃないか。ここではフロイトの『マゾヒスとの経済的問題』のおける女性的マゾヒズムの叙述を引用するのはあえてやめておき、上に引用した中井久夫の言葉を反芻するだけにしておくよ、《写される快感とはどういうものであろうか。素朴なナルシストのものであろうか。被虐的な快楽であろうか》と。

荒木のヌード写真を支えているのは、”撮られる側の欲望”であり、それは「女を撮られたい」ということである。ヌード写真を批判する議論として、それが男の性的欲望に奉仕する”女”を強制的に演じさせられているからという言い方がある。しかし、実のところ自分の中に確実にうごめいている”女”の「エロス」をまっすぐに見つめて欲しいという欲望こそ、ヌード写真がこれほどまでに大量に撮られ続けている最大の理由なのではないか。(飯沢耕太郎)

《男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」ということである》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)

ーーワルカッタね、庶民的正義派フェミニストのみなさん! オレはひどく時代錯誤的かつ日本的社会規範の「常識」からひどく外れてて。

男は自分の幻想の枠にフィットする女を欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底的に男のなかに疎外する(男のなかに向ける)。女の欲望は男に欲望される対象になることである。すなわち男の幻想の枠にフィットすることであり、女は自身を、他者の眼を通して見ようとするのだ。“他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?” という問いにたえまなく煩わせられている。しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ないのだ。というのは彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、ギャップ自体、パートナーからの距離なのだから。そのギャップ自体に、女性の享楽の場所がある。(ジジェク『Less Than Nothing』2012 私訳)