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2014年12月23日火曜日

坂口安吾と小林秀雄

小林は骨董品をさがすやうに文学を探してゐる。そして、小さな掘出し物をして、むやみに理屈をつけすぎ、有難がりすぎてゐる。埃をかぶつて寝てゐる奴をひきだしてきて、修繕したり説明をつけて陳列する必要はないのである。西行だの実朝の歌など、君の解説ぬきで、手ぶらで、おつぽり出してみたまへ。何物でもないではないか。芸術は自在奔放なものだ。それ自体が力の権化で、解説ぬきで、横行闊歩してゐるものだ。(坂口安吾「通俗と変貌と 」初出:「書評 第二巻第一号」1947(昭和22)年1月1日発行)
小林秀雄は、作家は何を書いたか、といふことよりも、何を書かなかつたか、といふことの方に意味があるといふ。そんな馬鹿げた屁理窟があるものか。(同上)

小林秀雄がどこでこういっているのかは分からないが、たぶんニーチェ起源ではないか。

書物はまさに、人が手もとにかくまっているものを隠すためにこそ、書かれるのではないか。……すべての哲学はさらに一つの哲学を隠している。すべての意見はまた一つの隠れ家であり、すべてのことばはまた一つの仮面である。(ニーチェ『善悪の彼岸』 289番)

だがいまは小林秀雄の話ではない。坂口安吾の小林秀雄ヤッツケ文の話だ。

あまり自分勝手だよ、教祖の料理は。おまけにケッタイで、類のないやうな味だけれども、然し料理の根本は保守的であり、型、公式、常識そのものなのだ。(「教祖の文学――小林秀雄論――」初出:「新潮 第四四巻第六号」1947(昭和22)年6月1日発行)
花鳥風月を友とし、骨董をなでまはして充ち足りる人には、人間の業と争ふ文学は無縁のものだ。(同上)

安吾の作品はいままでわずかしか読んだことがなく、だがついこのところそのかなりのものを読んでみた。青空文庫に440作品あまりあるものは目を通した。といっても長い小説や探偵小説の類はかなりすっとばして掠め読むというイイカゲンな読み方にすぎないが、安吾に今でも愛着をもつ作家たちがいるのはよく分かる気がしてきた。また「教祖の文学」以外にも、小林秀雄をヤッツケているのを知ったのはようやくこの機会のことだ。

ところで、「教祖の文学」には次の文がある。

だから坂口安吾といふ三文々士が女に惚れたり飲んだくれたり時には坊主にならうとしたり五年間思ひつめて接吻したら慌ててしまつて絶交状をしたゝめて失恋したり、近頃は又デカダンなどと益々もつて何をやらかすか分りやしない。もとより鑑賞に堪へん。第一奴めが何をやりをつたにしたところで、そんなことは奴めの何物でもない。かう仰有るにきまつてゐる。奴めが何物であるか、それは奴めの三文小説を読めば分る。教祖にかゝつては三文々士の実相の如き手玉にとつてチョイと投げすてられ、惨又惨たるものだ。

ところが三文々士の方では、女に惚れたり飲んだくれたり、専らその方に心掛けがこもつてゐて、死後の名声の如き、てんで問題にしてゐない。(「教祖の文学」)

これは安吾の自伝的小説のいくつかの叙述にかかわるのだろう。たとえば「二十七歳」。以前、「坂口安吾と童貞」というメモにいくつかの自伝小説から抜き出したのだが、「教祖の文学」は、以前に読んでいたにもかかわらず、上の叙述のことはすっかり失念していた。

その接吻の夜、私は別れると、夜ふけの私の部屋で、矢田津世子へ絶交の手紙を書いたのだ。もう会ひたくない、私はあなたの肉体が怖ろしくなつたから、そして、私自身の肉体が厭になつたから、と。そのときは、それが本当の気持であつたのかも知れぬ。その時以来、私は矢田津世子に会はないのだ。彼女は死んだ。そして私はおくやみにも、墓参にも行きはしない。

その後、私は、まるで彼女の肉体に復讐する鬼のやうであつた。私は彼女の肉体をはづかしめるために小説を書いてゐるのかと疑らねばならないことが幾度かあつた。私は筆を投げて、顔を掩うたこともある。(坂口安吾「二十七歳」)

 さてここで再度「教祖の文学」から拾う。

常に物が見えてゐる。人間が見えてゐる。見えすぎてゐる。どんな思想も意見も彼を動かすに足りぬ。そして、見て、書いただけだ。それが徒然草といふ空前絶後の批評家の作品なのだと小林は言ふ。これはつまり小林流の奥義でもあり、批評とは見える眼だ、そして小林には人間が見えすぎてをり、どんな思想も意見も、見える目をくもらせず彼を動かすことはできない。彼は見えすぎる目で見て、鑑定したまゝを書くだけだ。
生きてゐる奴は何をしでかすか分らない。何も分らず、何も見えない、手探りでうろつき廻り、悲願をこめギリ/\のところを這ひまはつてゐる罰当りには、物の必然などは一向に見えないけれども、自分だけのものが見える。自分だけのものが見えるから、それが又万人のものとなる。芸術とはさういふものだ。歴史の必然だの人間の必然などが教へてくれるものではなく、偶然なるものに自分を賭けて手探りにうろつき廻る罰当りだけが、その賭によつて見ることのできた自分だけの世界だ。創造発見とはさういふもので、思想によつて動揺しない見えすぎる目などに映る陳腐なものではないのである。

 このように書いているのは以前から印象に残っていた。これは、その批評のスタイルとしては、後に高橋悠治や蓮實重彦、岡崎乾二郎などによる小林秀雄批判の嚆矢のようなものだ。

批評は文学であり、「批評の方法も創作の方法と本質上異なるところはあるまい」と言う。このねたましげな表現にかくれて、小林秀雄は作品に対することをさけ、感動の出会いを演出する。その出会いは、センチメンタルな「言い方」にすぎないし、対象とは何のかかわりもない。(高橋悠治『小林秀雄「モオツァルト」読書ノート』1974年
……だが、多少とも具体 的な夢へと立ち戻りうる者になら、人が「未知」の何かと「偶然」に遭遇したりはしないという点が素直に理解できるだろうし、そればかりか、むしろ「出会 い」を準備しうる環境と徐々に馴れ合い、それを通じて出会うべき対象をかりに無意識であるにせよ引き寄せ始めていない限り、遭遇などありえはしないとさえ 察知しうるはずだ。つまり、小林秀雄は、大学における専攻領域の選択、交遊関係などにおいて、詩人ランボーの書物と「出会い」を演じて決して不思議ではな い環境にあらかじめ住まっていた「制度」的存在なのであり、そのときすでに、ボードレールもパルナシアンの何たるかも知らされてしまっていたのだ。そうで なければ、「メルキュウル版の『地獄の季節』の見すぼらしい豆本」を「ある本屋の店頭で、偶然見付け」るといったペダンチックなメロドラマは起こったりし まい。いずれにせよ、こちらがそれらしい顔でもしていない限り、「見知らぬ男」が都合よく「僕を叩きのめし」てくれるはずがなく、だからあらゆる「出会 い」は「制度」的に位置づけられ準備され組織された遭遇なのであって、その位置づけられ組織されたさまを隠蔽するために、人は「出会い」を擬似冒険的な色 調に塗りこめ「文学」と「青春」との妥協に役立てずにはいられないのだ。(蓮實重彦「言葉の夢と批評」『表層批評宣言』所収
岡崎乾二郎)どういうわけかわからないけれど、この私にだけ見えちゃったっていう人がいるわけね。あるいはそれによって事後的に私という主体性を支えている、そういう話になっちゃう。本人は、私が、とは主張していない。受動的であるかのように装ってしまう。(グリーンバーグ講義ノート1

 これらの批判が胸に染みている世代の作家たちは、センチメンタルやメロドラマに陥ることを避けようとし、また花鳥風月に耽溺し「人間の業」に我関せずの文章を恥じるようになった時期があるのかもしれない。

ところで明らかに安吾派であるだろう中上健次の友人柄谷行人はこう言っている。

文学の地位が高くなることと、文学が道徳的課題を背負うこととは同じことだからです。その課題から解放されて自由になったら、文学はただの娯楽になるのです。それでもよければ、それでいいでしょう。どうぞ、そうしてください。それに、そもそも私は、倫理的であること、政治的であることを、無理に文学に求めるべきでないと考えています。はっきりいって、文学より大事なことがあると私は思っています。それと同時に、近代文学を作った小説という形式は、歴史的なものであって、すでにその役割を果たし尽くしたと思っているのです。(柄谷行人『近代文学の終り』)

今の若い人びとの多くには思いもよらぬかもしれないこの発言、あるいはたいした文学読みではないが、日本文学のなかで5人選ぶとするなら、永井荷風と西脇順三郎がどうしても欠かせないわたくしのような人間にも、おい、柄谷さん!と呟きたくなる発言なのだが、これはおそらく、日本のある時期には、文学者が思想家の役割を担ったことへのノスタルジーの言葉としてあるとすることができるかもしれない。

比喩的にいえば、日本では哲学の役割まで文学が代行し、中国では文学さえも哲学的になったのである。(加藤周一『日本文学史序説』)

さてここでもう一度安吾に戻れば、彼は小林秀雄について次のように書いてもいるのだ、《僕自身は尊敬し、愛する人のみしかヤッツケない。僕が今までヤッツケた大部分は小林秀雄に就てです》と。

私は雑誌はめつたに読まない性分だから、新人などに就て何も知らず差出口のできないのが当然なのだが、戦争中「現代文学」といふ同人雑誌に加はつていたので、平野謙、佐々木基一、荒正人、本多秋五などといふ評論家を知つてゐた。みんな同人だつたからだ。さもなければこれら新鋭評論家に就て、その仕事に就て、概ね無智の筈であつた。福田恆存などといふ傑れた評論家に就ても一ヶ月前までは名前すら知らなかつた。たまたま、某雑誌の編輯者が彼の原稿を持つてきて、僕にこの原稿の反駁を書けといふ。読んでみると僕を無茶苦茶にヤッツケてゐる文章なのだ。けれども、腹が立たなかつた。論者の生き方に筋が通つてゐるのだから。それに僕は人にヤッツケられて腹を立てることは少い。編輯者諸君は僕が怒りんぼで、ヤッツケられると大憤慨、何を書くか知れないと考へてゐるやうだけれども、大間違ひです。僕自身は尊敬し、愛する人のみしかヤッツケない。僕が今までヤッツケた大部分は小林秀雄に就てです。僕は小林を尊敬してゐる。尊敬するとは、争ふことです。(坂口安吾「花田清輝論」)

では、荷風や漱石、志賀直哉を無茶苦茶にヤッツケたのは、あれはどうなるのだろう。

(おそらくそのうち続く)


…………

※附記:坂口安吾による小林秀雄への親しみのこもった文章をいくらか抜いておく。

川端康成さんの碁が同じように腕力派で、全くお行儀が悪い。これ又、万人の意外とするところで、碁は性格を現すというが、僕もこれは真理だと思うので、つまり、豊島さんも川端さんも、定石型の紳士ではない腕力型の独断家なのでお二人の文学も実際はそういう風に読むのが本当だと思うのである。

 更に万人が意外とするのは小林秀雄で、この独断のかたまりみたいな先生が、実は凡そ定石其ものの素性の正しい碁を打つ。本当は僕に九ツ置く必要があるのだが、五ツ以上置くのは厭だと云って、五ツ置いて、碁のお手本にあるような行儀のいゝ石を打って、キレイに負ける習慣になっている。

 要するに小林秀雄も、碁に於て偽ることが出来ない通りに、彼は実は独断家ではないのである。定石型、公理型の性格なので、彼の文学はそういう風に見るのが矢張り正しいと私は思っている。

 このあべこべが三木清で、この人の碁は、乱暴そのものゝ組み打ちみたいな喧嘩碁で、凡そアカデミズムと縁がない。(「文人囲碁会」)
フツカヨイをとり去れば、太宰は健全にして整然たる常識人、つまり、マットウの人間であった。小林秀雄が、そうである。太宰は小林の常識性を笑っていたが、それはマチガイである。真に正しく整然たる常識人でなければ、まことの文学は、書ける筈がない。(「不良少年とキリスト」)
私が精神病院へ入院したとき小林秀雄が鮒佐の佃煮なんかをブラ下げて見舞いにきてくれたが、小林が私を見舞ってくれるようなイワレ、インネンは毛頭ないのである。これ実に彼のヤジウマ根性だ。精神病院へとじこめられた文士という動物を見物しておきたかったにすぎないのである。一しょに檻の中で酒をのみ、はじめはお光り様の悪口を云っていたが、酔いが廻るとほめはじめて、どうしても私と入れ代りに檻の中に残った方が適役のような言辞を喋りまくって戻っていった。「安吾巷談 07 熱海復興」
小林さんと私とのツキアイと云えば、そういうところで、酔っぱらッて、からんだり、からまれたりしていただけのことだ。特別のツキアイというものはなかった。いくらか印象に残っているのは、ウィンザアの横の道で小林さんと並んで立小便していて、小林さんだけ巡査につかまった。巡査が、お前は何をしていた、という。住所姓名を名のれ、という。何を云われても彼は答えない。そこで私が、この男は拙者の友達で二人は目下並んで立小便をしていたのだ、というと巡査はそうかと云って立ち去った。彼の頭髪ボウボウたる和服姿が左翼とまちがわれたのだろう。

また、私が越後の親戚へ法要に赴くとき、上野駅で彼に会った。彼は新潟高校へ講演に行くところであった。彼は珍しくハカマをはいていた。私は人のモーニングを借り着していたのである。

 大宮から食堂車がひらいたので、二人で飲みはじめ、越後川口へつくまで、朝の九時から午後二時半まで、飲みつづけたね。二人ともずいぶん酔っていたらしい。越後川口で降りるとき、彼は私の荷物をひッたくッて、急げ急げと先に立って降車口へ案内して、私を無事プラットフォームへ降してくれた。ひどく低いプラットフォームだなア。それに、せまいよ。第一、誰もほかに降りやしない。駅員もいねえや。田舎の停車場はひどいもんだと思っていたが、バイバイと手をふって、汽車が行ってしまうと、私はプラットフォームの反対側の客車と貨物列車の中間に立たされていたのだね。私がそこへ降りたわけじゃなくて、彼が私をそこへ降したのである。親切に重い荷物まで担いでくれてさ。小林さんは、根はやさしくて、親切な人なんだね。(「小林さんと私のツキアイ」)