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2014年12月21日日曜日

柄谷行人の「二つの死」(アンティゴネー=ラカン)

われわれの意識にとっては他人の死だけが存在すると、ハイデッガーはいっている。が、私はそういう現象学的見方も疑わしいと思う。だれかが不在であることと、死んでいることとの違いは、われわれの意識にとっては厳密に区別されないからである。未開人はまず死者をおそれる。それは死者がまだ生きているということであるが、われわれの葬式もなおその観念をとどめている。もともと仏教のようにラディカルな個人主義的宗教は葬礼とは関係ないのだが、それを許容するほかに社会的に存続できなかったのである。

他人の死が、不在ではなく確実に死であるためには、なにかべつの条件が必要なのであり、したがって死は、たんに物理的な問題でもなければ観念の問題でもない。死はいわば制度の問題である。葬制をもたない社会は存在しない(ヴィーコ)という事実がそれを証し立てている。ある人間が死ぬことは、彼がその一点を占めていた諸関係に空白ができることであり、生き残った者はそれを埋め、彼をしめだして新たに諸関係を再編成しなければならない。そうでない間は死者はまだ生きているのだ。

私の数少ない経験では、葬式には残酷なところがある。私はそれを葬式が形骸化してきたせいだと思っていたが、本当はそうではなかった。死者を悼むとか悲しむとかいった、人類史におて比較的近代に属する観念のずっと底に、葬式がもっている本質がかくされている。それは死者を本当に死なしめること、いわば死者を生きている者の世界から追放することである。だから、死は物理的に考えられる瞬間の事実でもなく、生き残った者の悲哀や喪失といった意識的事実でもなく、一定の幅をもった共時的な出来事である。それは、一つの関係の体系がべつの体系に変形される過程の全体をさす。ひとが死に、そのあとで葬礼がるのではなく、葬礼も死の一部なのである。われわれは時とともに、悲しみを忘れてそのひとの不在になれていく。が、そのときにはじめて「死」が完了するのだ。死者はもはや不在者とことなり、生きている者が再編成した関係の体系のなかに入りこむ余地がなくなっている。(柄谷行人「歴史についてーー武田泰淳」『マルクスその可能性の中心』所収)

この武田泰淳論は初出1977年冬号 季刊藝術であり、当時柄谷行人は、イェール大学で日本文学を教えている(そこでポール・ド・マンと出合ったのはよく知られている)。1941年生まれの柄谷行人であり、当時36歳である。

いま上の文を引用したのは、以前にはなにげなく読んだに過ぎなかったこの文章には、既に、ラカンの「二つの死」、あるいは「二番目の死」についての問題が示唆されている、--そのことに驚いたからだ。

二つの死は、ソフォクレスのアンティゴネー(テーバイの王女)にかかわる。先王オイディプス(アンチゴネーの父)の死後の紛糾後、王座に就いたクレオンは、国家に対する反逆者であるアンティゴネーの兄ポリュネイケスの埋葬や一切の葬礼を禁止し、見張りを立ててポリュネイケスの遺骸を監視させる。だがアンティゴネーは禁令を破り、自ら城門を出て、市民たちの見ている前でその顔を見せて兄の死骸に砂をかけ、埋葬の代わりとした。《わかりました。何をおっしゃろうとも、何も変わりません。私はあくまでも私が決めたことを行います》。

Philippe Lacoue‐Labartheは、ラカンのアンディゴネー解釈とハイデガーのそれとを分けるギャップをとても的確に位置づけた(ラカンは他の面ではハイデガーへの豊富な言及があるのだが)。ハイデガーにおいてまったく欠けているものは、享楽の現実界の領域だけではない。とりわけ「二つの死の間between‐two‐deaths」(象徴的な死と現実界的な死)の領域である。「二つの死の間between‐two‐deaths」とは、アンティゴネーがクレオンによってポリスから追い出された後のアンディゴネーの主体的ポジションを示している。兄ポリュネイケスーー現実には死んだが象徴的死、葬儀を否定されたことーーとまさに対称的に、アンディゴネーは自らが象徴的には死んだことも見出す、すなわち生物学的かつ主体的にはまだ生きていながら象徴的共同体から締め出された。アガンベンの用語なら、アンティゴネーは自らを“剥き出しの生”、ホモ・サケルのポジションに貶められたことを見出すのだ。“剥き出しの生”、ホモ・サケルの二十世紀における事例は、強制収容所の囚人の例である。ハイデガーの手落ちの賭金はひどく高い。というのは二十世紀の倫理-政治的な核心、極限の布置における“全体主義的な”カタストロフィにかかわるからだ。こういうわけで、この手抜かりは、ハイデガーのナチスへの誘惑に抵抗する不能性にまったく首尾一貫している。(ジジェク 私訳)

Philippe Lacoue‐Labarthe located very precisely the gap that separates Lacan’s interpretation of Antigone from Heidegger’s (to which Lacan otherwise abundantly refers): what is totally missing in Heidegger is not only the dimension of the Real of jouissance, but, above all, the dimension of the “between‐two‐deaths” (the symbolic and the Real) which designates Antigone’s subjective position after she is excommunicated from the polis by Creon. In an exact symmetry with her brother Polynices, who is dead in reality but denied the symbolic death, the rituals of burial, Antigone finds herself dead symbolically, excluded from the symbolic community, while biologically and subjectively still alive. In Agamben’s terms, Antigone finds herself reduced to “bare life,” to a position of homo sacer, whose exemplary case in the twentieth century is that of the inmates of the concentration camps. The stakes of this Heideggerian omission are thus very high, since they concern the ethico‐political crux of the twentieth century, the “totalitarian” catastrophe in its extreme deployment. The omission is thus quite consistent with Heidegger’s inability to resist the Nazi temptation:……(ジジェク『LESS THAN NOTHING』 2012)