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2014年12月20日土曜日

路地につもったねばつく時間

路地を通り抜ける時試に立止つて向うを見れば、此方は差迫る両側の建物に日を遮られて湿つぽく薄暗くなつてゐる間から、彼方遥に表通の一部分だけが路地の幅だけにくつきり限られて、いかにも明るさうに賑かさうに見えるであらう。殊に表通りの向側に日の光が照渡つてゐる時などは風になびく柳の枝や広告の旗の間に、往来の人の形が影の如く現れては消えて行く有様、丁度灯火に照された演劇の舞台を見るやうな思ひがする。夜になつて此方は真暗な路地裏から表通の灯火を見るが如きは云はずとも又別様の興趣がある。川添ひの町の路地は折々忍返しをつけた其の出口から遥に河岸通のみならず、併せて橋の欄干や過行く荷船の帆の一部分を望み得させる事がある。此の如き光景は蓋し逸品中の逸品である。(永井荷風『路地』)

こういった文章を読むと今更ながら荷風はなんとしても捨て難い。《路地を通り抜ける時試に立止つて向うを見れば》とあるがわたくしはしばしばこれをやる。その光景が逸品中の逸品であるかどうかは時と場合によるが、なぜか名残惜しい気分になっている。中上健次や古井由吉がまずは代表的な路地の作家であるに相違ない。が、荷風も路地をさ迷い路地にある娼家や妾宅を書いた作家であり、路地の作家というなら、わたくしの場合、まずは荷風をあげたくなる。

路地は一種云ひがたき生活の悲哀の中に自から又深刻なる滑稽の情趣を伴はせた小説的世界である。而して凡て此の世界の飽くまで下世話なる感情と生活とは又この世界を構成する格子戸、溝板、物干台、木戸口、忍返なぞ云ふ道具立と一致してゐる。この点よりして路地は又渾然たる芸術的調和の世界と云はねばならぬ。(『路地』)
本堂の前を過ぎ庫裏と人家との間の路地に入るに、迂回して金剛寺坂の中腹に出でたり。路地の中に稚き頃見覚えし車井戸なほあるを見たり。(『礫川徜徉記』)
雷がごろごろと鳴ると、女はわざとらしく「あら」と叫び、一歩後れて歩こうとするわたくしの手を取り、「早くさ。あなた。」ともう馴れ馴れしい調子である。「いいから先へお出で。ついて行くから。」 路地へ這入ると、女は曲るたび毎に、迷わぬようにわたくしの方に振返りながら、やがて溝にかかった小橋をわたり、軒並一帯に葭簀の日蔽をかけた家の前に立留った。(『濹東綺譚』)
正月は一年中で日の最も短い寒の中の事で、両国から船に乗り新大橋で上り、六間堀の横町へ来かかる頃には、立迷う夕靄に水辺の町はわけても日の暮れやすく、道端の小家には灯がつき、路地の中からは干物の匂が湧き出で、木橋をわたる人の下駄の音が、場末の町のさびしさを伝えている。(『雪の日』)
かかる裏長屋の路地内には時として巫女が梓弓の歌も聞かれる。清元も聞かれる。盂蘭盆の燈籠や果敢ない迎火の烟も見られる。(『日和下駄 一名 東京散策記』)
泉鏡花の小説……「註文帳」は廓外の寮に住んでいる娼家の娘が剃刀の祟でその恋人を刺す話を述べたもので、お歯黒溝に沿うた陰欝な路地裏の光景と、ここに棲息して娼妓の日用品を作ったり取扱ったりして暮しを立てている人たちの生活が描かれている。研屋の店先とその親爺との描写はこの作者にして初めて為し得べき名文である。(『里の今昔』)
断膓亭日記巻之二大正七戊午年  荷風歳四十

十二月廿二日。築地二丁目路地裏の家漸く空きたる由。竹田屋人足を指揮して、家具書筐を運送す。曇りて寒き日なり。午後病を冒して築地の家に徃き、家具を排置す、日暮れて後桜木にて晩飯を食し、妓八重福を伴ひ旅亭に帰る。此妓無毛美開、閨中欷歔すること頗妙。

十二月廿五日。終日老婆しんと共に家具を安排し、夕刻銀座を歩む。雪また降り来れり。路地裏の夜の雪亦風趣なきにあらず。三味線取出して低唱せむとするに皮破れゐたれば、桜木へ貸りにやりしに、八重福満佐等恰その家に在りて誘ふこと頻なり。寝衣に半纒引きかけ、路地づたひに徃きて一酌す。雪は深更に及んでます/\降りしきる。二妓と共に桜木に一宿す。

《閨中欷歔すること頗妙》だって? 《水べを渉る鷭の声に変化した女の声を聴く》(吉岡実)

これだって路地の話だ。

《実際、パリを「遊歩」するとは彼(ベンヤミン)にとって、巨大な女体の秘部をまさぐることでもあった。内蔵の中にいると私たちがどれほど安堵するものかということを知りたければ、眩惑されるままに、暗いところが娼婦の股ぐらにひどく似ている街路から街路へ入り込んでいかねばならない》(松浦寿輝)ーーとあるように、路地とは股ぐらの奥さ。

神経症者が、女性器はどうもなにか不気味だということがよくある。しかしこの女性器という不気味なものは、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器、あるいは母胎であると見ていい。したがって不気味なものとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの、昔なじみのものなのである。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴unは抑圧の刻印である。(フロイト『不気味なもの』)

表通りのラーメン屋より路地で麺をすするのがよほどいいということは、今の日本ではあまりないのかもしれない。まだあるのは屋台のラーメンぐらいか。そういえば博多には路地に趣きのあるラーメン屋がたくさんあったな。

フォーだってこうやって食べるのがいいに決まってる。





路が岐かれている
えたいの知れない方をえらんでしまう
路地につもったねばつく時間
生活の残りがそこいらにぶちまかれ
まども洗濯物もはずかしい
ここには残酷であかるい生活の原質がある
知る、とは生まれてくるということだろうか
躰のなかまで触れにくる
ひかりのことをいうのだろう

松岡政則「口福台湾食堂紀行」




ここで金井美恵子のアンモニアの臭いにする女の性器のような路地を掲げよう。

霧はいつの間にか晴れていたが、運河の水面から立ちのぼる湿気が空気を水っぽく重くしていたし、腐敗したなまり色の水のにおいを、日の光があたためて、余計に耐え難いものにしていた。においの粒子を太陽が繁殖させ、入り組んだ狭い路地の奥にいたるところまで、水と腐敗した水藻のなまぐさいにおいが、執念深い微生物のようにびっしりと繁茂し、運河の水が湿った石造りの岸に打ちあたる水音は、睡気をもよおさせる気怠い官能に溶けかかっている女の性器のたてる音のようだったし、それをあやつる見えない指がこの街を愛撫している様子は、とてつもなく淫らで、わたしは、なまり色の水の中に、悪い汗を背筋に滲ませながら、苦くて強い酸の味のするの咽喉をひりひり焼く胃液を吐く。溶けてねばねばした粘液状のチョコレートの混じった黄色い水が、なまり色の運河の水面に落ち、それはしばらくの間、水に吞み込まれずに、黄色とチョコレート色の滲んだ縞模様になって水の表面に浮かび、やがて、水に溶けて沈んでいった、蒼黒い緑色の水苔に覆われたほとんど水中に沈みかけている石の階段に、半透明な灰色の汚れた水が波打ちながらぶつかり、また淫らな音を、絶間のない御喋りのように繰りかえす。(……)

腐敗した水のにおいだけではなく、路地の家々の壁には小便のにおいがしみついていて、粘り気のある有機質のにおいに混じったきな臭いアンモニアのにおいが充満してもいるのだ。腐敗した牛乳の匂いに似た、皮膚の表面から分泌する、汗や脂や腋臭の粘り気のあるにおいと、食物が腐敗して行く死の繁茂のにおいが建物の中庭に咲いているジャスミンと薔薇のにおいと混じりあり、甘ったるい吐き気のする睡気になって私の身体を包囲する。(金井美恵子『沈む街』)


この金井美恵子の文は、いかにもフロイト的な路地であり、かなりイケル。彼女がにおいをめぐって書くときの文章はすばらしい。路地とはあまり関係がないが、古い車輌のソファのあの《人々の体臭や汗のしみ込んで、それが蒸されて醗酵したような不快な汚物のようなにおい》ってあるだろ? 

(この中年男の)機械的に熱中ぶりを操作しているといったふうな長広舌が続いている間、わたしは濡れた身体を濡れた衣服に包んで、それが徐々に体温でかわくのをじっと待っていたが、部屋の空気は湿っていたし、それに、すり切れた絨毯や、 同じようにすり切れてやせた織糸の破れ目から詰め物とスプリングがはみ出ているソファが、古い車輌に乗ったりすると、時々同じようなにおのすることのある、人々の体臭や汗のしみ込んで、それが蒸されて醗酵したような不快な汚物のようなにおいを発散させていたので、その鼻を刺激する醗酵性のにおいに息がつ まりそうになり、わたし自身の身体からも、同じにおいを発散させる粘り気をおびた汗がにじみだして来ては、体温の熱でにおいをあたりに蒸散させているよう な気がした。(金井美恵子『くずれる水』)

わたくしが文章家として敬愛する鈴木創士氏は、金井美恵子がキライらしいが、近親憎悪じゃないか。とはいえ氏は丘の上のひとであり、乾いた風が吹く。路地でさえ乾燥している。ひょっとして海辺の町で風に吹かれて育ったせいかもしれない。北関東のうっとうしそうな土地で育った金井美恵子。そこにある湿/乾の異和が鈴木氏に嫌悪感をもたらすということはありうる。

道には壁がずっと続いていた。ところどころ古びて変色したコンクリートが剥げ落ちて、中の煉瓦が丸見えになっている。壁にはスイカズラの蔓が垂れて、五月頃になると白い花をつけた。時々、花を無造作にいくつか失敬して、子供の頃にやったように蜜を吸った。路地じゅうにいつも強く甘い香りがしていた。スイカズラは忍冬と書くくらいだから、冬をも耐え忍ぶ強い草であるからだろうか、そこを通ると、花の咲かない冬でも鼻を突く香りでむせ返るような感覚に襲われる。

 道はいつもひっそりとして、人とすれ違うことはまったくない。鳥の囀(さえず)りが遠くでしているだけだ。鳥の姿はなかった。ずっと続く壁からは生い茂った樹々しか見えず、家屋は見えなかったし、このかなり広大な屋敷が誰の住む屋敷なのかは知る由もなかった。私はただ速度を緩めてそこを歩く。けっして何も見てはいないのに、見えるのはいつもほんのわずかにざわめく梢(こずえ)だけだ。〔鈴木創士「誰でもない人 異名としてのフェルナンド・ペソアを讃える」)
どの街角でもいい。名もない街角でもいい。「それはオンセの菓子屋の街角かもしれない。死の影に怯えるアルゼンチンの作家マセドニオ・フェルナンデスが、死はわれわれの身に起こり得るもっとも些細なことだと説いた」あの街角でもいい。自分が木であることを、そして人々に涼しげな木陰を提供していることなどつゆ知らない一本の木が、短い影を投げかける街角。木も見当たらない街角。どこまでも広がる、目が痛くなるような青空、くっきりとした黒い影。素晴らしいコントラスト。正午を少しだけ過ぎた街角……。

 どこでもいい。住民への相談などなしに最近無駄に植え替えられ移転されてしまった、巨大で力強い大木があった(われわれはそれを京都のバオバブの木と呼んでいたが、木はすっかり元気をなくしてしまった)。その木がひっそりと聳える京都東山の入り組んだ路地の奥にある誰も知らない街角。どこかで群青色か薔薇色に染まる街角。それともそこで人が死に、手向けられた花も枯れてしまった表通りの埃だらけの街角。昼の日なかにはかつてそこが処刑場の一角であったことすら忘れられた薄汚れた街角であってもいい。(同「正午を探す街角」)

このあと《ボルヘスは、街角とは、それはどこの街角ででもあり得るのだから、目には見えない「原型」なのだと言っていた》と続く。--そう、街角でも横町でも路地でもいい、そこにわれわれの原型があるのだ。それは「口福台湾食堂紀行」の松岡政則が《ここには残酷であかるい生活の原質がある》と謳ったように。

…………
京都の町のまん中、いわゆる下京古町には、殊に図子〔ずし〕が多い。図子といのは、縦横整然と、碁盤目に引かれた表通りの内へひっこむ小道のことだが、たどってゆくと、むこうの表通りへ抜けているものをいう。これとは別に、行きどまりの袋路になっている細い小道は路地〔ろうじ〕といって、図子とはいわない。そこで、京ことばでは、図子を抜けきった表通りに面する家を指して、うらんちょう(裏町)の何々さんといい、路地の中の家を指して奥の何々さんとか突当たりの何々さんなどという。図子には奥とか突当たりというものはないわけで、図子はかならず突抜けているものである。もっとも、路地でもお寺の境内に通じているときは、図子と呼ぶことがある。結局むこうへ抜けられるからだ。(杉本秀太郎『洛中生息』)

図子は辻子とも呼ばれる。京都では路地〔ろうじ〕と呼ばれるのが、袋小路のようだが、おそらくふつうは路地〔ろじ〕とされて、それは通り抜けられる小道をいうのだろう。露地、横町、小路、小径、小道、狭路、等々いろんな呼び方、漢字があるが、正確に使い分けたことは、わたくしはない。ただ十年あまり住んだ京都の町なかの小路を歩き回るのを好んだ時期はある。小路ひとつごとに左に折れ右に折れながら町中を歩く。ああこんなところに京格子の家が残っているとか、江戸時代の儒者や歌人、茶人などの旧居跡を示す石標にぶつかったりする。錦小路で漬物や干物を買ったりする。イノダ珈琲の三条店のカウンターで、いささか気取ってパイプ煙草をふかしながらミルクコーヒーを飲む。今では重要文化財に指定された杉本秀太郎邸の前を通る。彼の名はアランの翻訳者として少年時代から親しんでいた。


……一年を通じて、この店の間がもっともあかるいのは、十一月の中、下旬、陰暦十月の小春と呼ばれている時期、および冬至をなかにして、これと対応する二月の中、下旬である。そのころ、京格子は上から下までいっぱいに、陽ざしを浴びている。格子の内側の障子をあけ放つと、たたみの上には規則正しい縞柄の日陰が横たわる。障子をしめていると、表の軒近くをとおる人影が、あらかじめ障子にえがき出された格子の縞のなかを通過する。そういう影のたわむれが、ふと目をうばうようなとき、ヴァレリーの一節が、私には思い出される。

木立の枝にとらわれた  かりそめの虜囚
並行する この細い鉄柵を ゆらめかせる入海……

「かりそめの虜囚」である人影は、たやすくこの格子の影、質量をもたないこの牢獄の柵からすり抜ける。「細い鉄柵」は、ヴァレリーにとっては睫毛の隠喩であった。それなら、京格子のつくる影は、カメラの暗箱にとりつけられた美しい人工の睫毛というべきかもしれない。そして南面に格子をもっている店の間こそあかるいが、間仕切りの襖のむこう、さらにもう一枚の襖をあけると奥座敷に通じる中の間は、四季を通じて暗箱のように暗いのが、京都の町のなかの住居の特色である。(杉本秀太郎『洛中生息』)

学生時代にも路地を歩くことを好んだ。谷中の墓地あたりに向かう道がことさらお気に入りだった。言問い通りから北側に入り込む路地なのだが、ひっそりした垣根がつらなる路を沿っていくと、洋館風の建物から美少女が出てきたりーー当時は女はだいたい美女にみえたーー、猫に睨まれたり、腰の曲った老婆に挨拶されたり。《なぜ生垣の樹々になる実が/あれ程心をひくものか神々を貫通/する光線のようなものだ。》(西脇順三郎)だったな。

南側には上野の森の方へ向かう路地があり、あのあたりには連れ込み宿が何軒かある。最初に昔風の温泉マークつき宿を利用したのは、その散歩の途次だね、18歳の紅顔の少年は、玄関でいささか居心地にわるい数分を過ごした思出がある。「ごめんください」と何度も呼んでも音沙汰がなく、傍らの女友達と互いに顔を見交わせて、さてどうしよう、ひきかえそうか、あるいは、別の客が入ってくるんじゃないか、などと背後の引戸の向うの気配にさえ敏感になって、ーー《旅館の玄関に立って、案内を乞うと、遠くで返事だけがあってなかなか人影が現れてこなかった。少女と並んで三和土に立って待っている時間に、彼は少女の軀に詰まっている細胞の若さを強く感じた。そして、自分の細胞との落差を痛切に感じた。少女の頸筋の艶のある青白さを見ると、自分の頸の皮が酒焼けで赤黒くなっており、皮がだぶついているような気持になった。》(吉行淳之介『砂の上の植物群』)という具合で、冷汗が滲んだ何分かの後に、廊下を近づいてくる足音がきこえて、遣手婆風の渋い和服をきた初老の女が現われ、こちらの顔をじろりと見回しながら悠長な挨拶をされるのにビビッってしまうなどという具合だった、ーーもっとも吉行の書くのとは違ってオレの細胞は傍らの少女と同様若かったし、玄関でいくら委縮しても、たちまち勃然とする若さがあった。

この頃、東大生でもないのに、弥生町という弥生土器で由緒ある名の、東大本部と工学部のあいだの下宿屋に一年半ほど住んでいたわけで(わたくしの小学校時代の友人の祖父が経営しており、二十なん部屋あるうちの、わたくしと友人だけが東大生でなかった)、古めかしい黒光りした柱や天井、ギシギシいう廊下や階段をもつ、二階建ての共同便所風呂なしの四畳半で、漱石の小説に出てきそうな佇まいだ。このあたりは谷根千などといってそれなりに賑わうようになったらしいが、もちろんそれよりもずっと昔のこと。地下鉄利用のため弥生坂(言問い通り)を下りたり、根津の交差点近くにある風呂屋に行ったり路地にある大衆食堂で食事をする。途中、工学部の敷地を斜めに抜けることが多かった。初夏の宵闇にはその敷地内のくちなしの花が白く浮かびあがり、薫り高く匂った。《白い花は梢でゆさゆさ揺れていた》のであり、《わたしはわたしの夢の過剰でいっぱいだった》(大岡信)。

東京下町の銭湯には当初驚き、そして暫く後よく馴染んだ。番台のおばちゃんの無愛想さと愛嬌のよさを綯い交ぜにしたような顔と声。無頓着に湯代の小銭を受け取り釣りを返すのだが、風呂上りに牛乳をたのめばひどく愛想がよい。

粋な老人たちのみごとな禿頭や白髪、あるいは初老職人風のごま塩頭、二の腕のしたの皮膚がたるんでいるやせこけてしなびた古翁やら、いかにも酒飲み風なつやつやした肌を誇るでっぷりした好々爺。

そして倶梨伽羅悶々のおにいさんやおじさんたちもいた。《たくましい男のそれがちんちくりんのカタツムリのように見え、やせた男のが長大で図太くて罪深い紫いろにふすぼけて見える。それは何百回、何千回の琢磨でこうなるのだろうかと思いたいような、実力ある人のものうさといった顔つきでどっしりと垂れている。嫉妬でいらいらするよりさきに思わず見とれてしまうような逸品であった。》(開高健「玉、砕ける」)

ーー銭湯だって路地の一種さ。


というわけで「蚊居肢」というブログ名にしたのだから、この類のことをたまには書かなくちゃな、いや専念すべきだろうか


亜麻色の蜜蜂よ きみの針が
いかに細く鋭く命取りでも、
(……)
刺せ この胸のきれいな瓢を。
(……)
ほんの朱色の私自身が
まろく弾む肌にやってくるように!

素早い拷問が大いに必要だ。(ヴァレリー「蜜蜂」中井久夫訳)