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2016年7月7日木曜日

「多恵子、かずこたちの詩」

ふと、手元のアンソロジーのなかにある富岡多恵子の詩を読んで、なんだか急に気にいってしまったのだけれどーーつまり昔は素通りしていた詩だーー、吉岡実が彼女について何か言っていたな、と思いだし探ってみると、タエコとマスオ(池田満寿夫)に小説家を書くように勧めたとある。これは憶えていた。

それとは別に、《多恵子、かずこたちの詩》ともあり、こっちのほうは失念していた。

というわけで、「現代日本でいちばん不道徳な、いちばんエロティックな いちばんグロテスクな、いちばん犯罪的な、…詩を書く詩人」(澁澤龍彦)の〈私の好きなもの〉を掲げる。

ラッキョウ、ブリジット・バルドー、湯とうふ、映画、黄色、せんべい、土方巽の舞踏、たらこ、書物、のり、唐十郎のテント芝居、詩仙洞、広隆寺のみろく、煙草、渋谷宮益坂はトップのコーヒー。ハンス・ベルメールの人形、西洋アンズ、多恵子、かずこたちの詩。銀座風月堂の椅子に腰かけて外を見ているとき。墨跡をみるのがたのしい。耕衣の書。京都から飛んでくる雲龍、墨染の里のあたりの夕まぐれ。イノダのカフェオーレや三條大橋の上からみる東山三十六峰銀なかし。シャクナゲ、たんぽぽ、ケン玉をしている夜。巣鴨のとげぬき地蔵の境内、せんこうの香。ちちははの墓・享保八年の消えかかった文字。ぱちんこの鉄の玉の感触。桐の花、妙義の山、鯉のあらい、二十才の春、桃の葉の泛いている湯。××澄子、スミレ、お金、新しい絵画・彫刻、わが家の猫たち、ほおずき市、おとりさまの熊手、みそおでん、お好み焼。神保町揚子江の上海焼きそば。本の街、ふぐ料理、ある人の指。つもる雪(吉岡実〈私の好きなもの〉一九六八年七月三一日)。

…………

《二十才の春》にも反応しよう。 「昭和16年(1941)夏満州に出征」だから、1919年生まれの吉岡実の出征は、二十二歳であり、「支那」での出来事は、それ以降のどれかの年のことで、《二十才の春》とは、実際には別の話なのかもしれないが、《それはぼくが二十才のとき/死なせたシナの少女に似ている》と《粟粥をつくる少女に、この世のものとは思われぬ美を感じた》という文が、わたくしには強い印象が残っている。


半病人の少女の支那服のすそから
かがやき現われる血の石(〈珈琲〉)

ぼくがクワイがすきだといったら
 ひとりの少女が笑った 
それはぼくが二十才のとき 
死なせたシナの少女に似ている(〈恋する絵〉)

コルクの木のながい林の道を
 雨傘さしたシナの母娘 
美しい脚を四つたらして行く 
下からまる見え(同上)

或る別の部落へ行った。兵隊たちは馬を樹や垣根につなぐと、土造りの暗い家に入って、チャンチュウや卵を求めて飲む。或るものは、木のかげで博打をする。豚の奇妙な屠殺方法に感心する。わたしは、暗いオンドルのかげに黒衣の少女をみた。老いた父へ粥をつくっている。わたしに対して、礼をとるのでもなければ、憎悪の眼を向けるでもなく、ただ粟粥をつくる少女に、この世のものとは思われぬ美を感じた。その帰り豪雨にあい、曠野をわたしたちは馬賊のように疾走する。ときどき草の中の地に真紅の一むら吾亦紅が咲いていた。満人の少女と吾亦紅の花が、今日でも鮮やかにわたしの眼に見える。〔……〕反抗的でも従順でもない彼ら満人たちにいつも、わたしたちはある種の恐れを抱いていたのではないだろうか。〔……〕彼らは今、誰に向って「陰惨な刑罰」を加えつつあるのか。

わたしの詩の中に、大変エロティックでかつグロテスクな双貌があるとしたら、人間への愛と不信をつねに感じているからである。(吉岡実『わたしの作詩法?』)。


オレは、吉岡実という人間がひどく好きなんだろうな、その詩と同じくらい。

〈私の好きなもの〉から受ける感じは、金井美恵子が下に記している吉岡実像とそっくりだ。さらに《吉岡さんは、いつも、…平板で平明な昼の光のなかにいて、言葉で人を傷つける、いや、言葉の残酷さを、あばきたててしまう》という印象さえ受ける〈私の好きなもの〉の数々だ・・・

……すると、詩人は、身を乗り出すようにして眼を大きく見開きーー自分の言葉と言うか、あらゆる開かれた、外の言葉というものに対する貪欲な好奇心をむき出しにする時、この詩人は身を乗り出して眼を大きく見開くのだがーーロリータねえ、うーん、ロリコンってのは今また流行っているんだってね、と言って笑うのだが、吉岡さんとは長いつきあいではあるけれど、いつも、このての、普通の詩人ならば決して口にはしない言葉、ロリコンといったような言葉を平気で使われる時――むろん、私はロリータ・コンプレックスと、きちんと言うたちなのだーーいわば、自分の使い書いている言葉が、ロリコンという言葉の背後に吉岡実の「詩作品」という、そう一つの宇宙として、それを裏切りつつ、しかし言葉の生命を更新させながら、核爆発しているようなショッキングな気分にとらえられる。吉岡実は、いや、吉岡さんはショッキングなことを言う詩人なのだ。また別のおり、これは吉岡さんの家のコタツの中で夫人の陽子さんと私の姉も一緒で、食事をした後、さあ、楽にしたほうがいいよ、かあさん、マクラ出して、といい、自分たちのはコタツでゴロ寝をする時の専用のマクラがむろんあるけれど、二人の分もあるからね、と心配することはないんだよとでも言った調子で説明し、陽子さんは、ピンクと白、赤と白の格子柄のマクラを押入れから取り出し、どっちが美恵子で、どっちが久美子にする? 何かちょっとした身のまわりの可愛かったりきれいだったりする小物を選ぶ時、女の人が浮べる軽いしかも真剣な楽し気な戸惑いを浮べ、吉岡さんは、どっちでもいいよ、どっちでもいいよ、とせっかちに、小さな選択について戸惑っている女子供に言い、そしてマクラが全員にいき渡ったそういう場で、そう、「そんなに高くはないけれど、それでも少しは高い値段」の丹念に選ばれた、いかにも吉岡家的な簡素で単純で形の美しいーー吉岡実は少年の頃彫刻家志望でもあったのだし、物の形体と手触りに、いつでもとても鋭敏だし、そうした自らの鋭敏さに対して鋭敏だーー家具や食器に囲まれた部屋で、雑談をし、NHKの大河ドラマ『草燃える』の総集編を見ながら、主人公の北条政子について、「権力は持っていても家庭的には恵まれない人だねえ」といい、手がきの桃と兎の形の可愛いらしい、そんなに高くはないけど気に入ったのを見つけるのに苦労したという湯のみ茶碗で小まめにお茶の葉を入れかえながら何杯もお茶を飲み、さっき食べた鍋料理(わざわざ陽子さんが電車で買いに出かけた鯛の鍋)の時は、おとうふは浮き上がって来たら、ほら、ほら、早くすくわなきゃ駄目だ、ほら、ここ、ほらこっちも浮き上がったよ、と騒ぎ、そんなにあわてなくったって大丈夫よ、うるさがられるわよ、ミイちゃん、と陽子さんにたしなめられつつ、いろいろと気をつかってくださったいかにも東京の下町育ちらしい種類も量も多い食事の後でのそうした雑談のなかで、ふいに、しみじみといった口調で、『僧侶』は人間不信の詩だからねえ、暗い詩だよ、など言ったりするのだ。

もちろん、たいていの詩人や小説家や批評家はーー私も含めてーー人間不信といった言葉を使ったりはしない。

なぜ、そうした言葉に、いわば通俗的な決まり文句を吉岡さんが口にすることにショックを受けるのかと言えば、それは彫刻的であると同時に、生成する言葉の生命が流動し静止しある時にはピチピチとはねる魚のように輝きもする言葉を書く詩人の口から、そういった陳腐な決り文句や言葉が出て来ることに驚くから、などという単純なことではなく、ロリコンとか人間不信といった言葉、あるいは、権力は持ったけれど家庭的には恵まれなかった、といった言い方の、いわばおそるべき紋切り性、と言うか、むしろ、そうではなくあらゆる言葉の持つ、絶望的なまでの紋切り性が、そこで、残酷に、そしてあくまで平明な相貌をともなう明るさの中で、あばきたてられてしまうからなのだ。吉岡さんは、いつも、それが人工的なものであれ、自然なものであれ、平板で平明な昼の光のなかにいて、言葉で人を傷つける、いや、言葉の残酷さを、あばきたててしまう。(「「肖像」 吉岡実とあう」ーー『現代の詩人Ⅰ 「吉岡実」(中央公論社1984)』所収)


この金井美恵子の文もとってもお気に入りなのだけれど、その原因のなかには、失われたものを懐かしむ心持ちもいくらか混じっている、ーー炬燵での家族団欒の鍋は、母が50歳(1982)で死んだあとにあっただろうか、と。

そもそも、あれ以降、畳のある家に住むことがなくなった。実家もふだんは洋式のテーブルで食事をしたのだけど、大晦日と正月だけは日本間での家族親族の団欒がーーあの前にはーーあった。


2016年5月20日金曜日

奴隷の韻律

これは万葉集の場合に限つたことではないが、凡そ歌――短歌といふものは、三十一文字のそれ自らの詩形から、私の見るところでは、主題として恋愛を取扱ふのに最も適してゐるやうに思はれる。この詩形にあつては、詩語がある音楽的な週期的な繰返しを以て、不思議に情緒に纏繞してくるやり方で、それの語意によつてよりもそれの語感の感触で、一篇のポエジイを成立たしめてゐるのである。詩歌に於ける詩語の機能が、語意によりも寧ろ語感に依存してゐる――といふのは、もとより何も短歌の場合に限つた事情ではないが、しかしまた短歌の場合ほど端的に、純粋に、しかも効果的に、右の事情を我々に感ぜしめる例は、わが国の詩歌にあつては、他に類例がないといつてもよいやうに思はれる。

短歌と並立して我国の最も普遍的な詩歌の伝統をなしてゐる俳諧に就て見ても、そこでは右の事情がやや趣を異にしてゐるのを、何人も容易に看取されることであらう。そこでは詩語の語意が、――それの明示性に依るよりもそれの暗示性に依るが故になほそれは詩的であるが――短歌に於てよりもずつと遥かに重要な機能を、負担を負はされてゐるのは、何人の眼にも明かな事実であらう。さうしてここで序でに、俳諧――俳句に於ては恋愛が恰好な主題とはなり得ない、考へ方によつてはいささか奇妙な消息を併せて考察してみるならば、先に私が、短歌がそれの詩形から主題として恋愛を取扱ふのに適してゐるといつた意味も、半ばは明らかになることだらう。短歌のあの五七、五七と繰りかへして最後に更に七とつけ加へた、短小ながら確乎として音楽的形式を踏んだ、嫋嫋とした詩語の纏繞性は、他の如何なる主題を撰んだ場合よりも、恋愛を歌ふに適当してゐるといつても、必ずしも牽強の言ではあるまい。(三好達治『万葉集の恋歌に就て』)

このところ、いままでほとんどまともに読んだことがなかった万葉集をゆっくりと読んでいるのだが、短歌というのは、たしかに ≪詩歌に於ける詩語の機能が、語意によりも寧ろ語感に依存してゐる≫ので、剽窃がしやすい、ということがある(その巧拙は別にして)。

その逆に俳句というのは、剽窃がしにくい(すくなくともわたくしにとって)。それは三好達治のいうように、≪詩語の語意が、――それの明示性に依るよりもそれの暗示性に依るが故になほそれは詩的であるが――短歌に於てよりもずつと遥かに重要な機能を、負担を負はされてゐる≫せいなのだろう。

ところで、谷崎潤一郎が似たようなことを言っている。

それは、流麗な文(和文調)と簡潔な文(漢文調)――源氏物語派と非源氏物語派――に分けて文章の美を説く箇所で、谷崎潤一郎自身は流麗な調子を好み、《この調子の文章を書く人は、一語一語の印象が際立つことを嫌います》としている。他方、志賀直哉の文が一語一語が際立つ簡潔な名文の代表とされて、次のように書かれている。

他の蜂が皆巣に入つて仕舞つた日暮、冷たい瓦の上に一つ残つた死骸を見る事は淋しかつた。(志賀直哉「城の埼にて」)

とありますが、初心の者にはなかなかこうは引き締められない。

日が暮れると、他の蜂は皆巣に入って仕舞って、その死骸だけが冷たい瓦の上に一つ残って居たが、それを見ると淋しかった。

と云う風になりたがる。それを、もうこれ以上圧縮出来ないと云う所まで引き締めて、ようやく前のようなセンテンスになるのであります。(谷崎潤一郎『文章読本』)

たぶん、慣れ親しんでしまえば、流麗な文のほうが模倣しやすいのではないか、短歌がそうであるだろうように(すぐれた俳句や志賀直哉のような凝縮した文は、わたくしには真似することさえむずかしい)。

この≪詩語の機能が、語意によりも寧ろ語感に依存してゐる≫短歌形式をひどく嫌う書き手がいる。小野十三郎はかつて「奴隷の韻律」と言った。金井美恵子なら次のように言う。

短歌との巡りあわせが悪かったせいで、詩を書こうという欲望は持ったが、短歌を作ろうとも読もうとも、長いこと思わなかった。簡単にいえば、凡庸な田舎歌人が身近な身内と親戚にいたので、最初から敬遠する気分が強く(……)。形式というものそのものが、あるいはグロテスクなものであるのかもしれないのだが、短歌という、広大なすそ野に広がる無数の作者群を持つ詩的形式は、その、あまりにも親しいリズム(日本語のなかにすっかり喰い込んだ一種脅迫的韻律というべきだろうか)とともに、悪しき夢でもあるかのように、どうやら、私たちの耳にこびりついてしまうものらしいのだ。(金井美恵子「愛の歌」)

≪形式というものそのものが、あるいはグロテスクなものであるのかもしれない≫とある。さて、そうなのだろうか。ここで逆にこう引用しておこう、≪「軽薄にソネットを扱いそこにピタゴラス的な美をみないのは馬鹿げている」(ボードレール)。ピタゴラス的な美とは、"現実"や"意味"と無関係に形式的な項の関係のみで成り立つものである。≫(柄谷行人)


そもそも金井美恵子の上の文は、≪凡庸な田舎歌人が身近な身内と親戚にいたので、最初から敬遠する気分が強く≫とあるように、近親憎悪の吐露いうふうに読みうるだろう。彼女のひどく魅惑的な文は、底に横たわる語感に依存しがちな「あまりにも親しいリズム」になんとか抵抗しつつ書かれた文章だ、とわたくしは感じてしまう。

なまあたたかい涙が頬をつたい、顎から首を濡らし、顔を横にそむけると、涙は眼尻から溢れて耳殻にそって流れ、やがて耳の穴のなかに入って、なまあたたかくむずがゆいような感触に身体が少し震える。それから、もうずっと昔のことのように思えるのだが、ある女が、好んで示したしぐさを、だしぬけに思い出す。女の全体をではなく――それはもう、すっかり忘れてしまっている――肉体の一部分だけの触覚と、その触覚を形づくっているしぐさだけを思い出しているという奇妙さに軽く戸惑いながら、しかし、耳たぶをやわらかく咬む歯と唇、尖った舌の先が耳殻のなかで動くたびになまあたたかく溢れる唾液とを、唐突に思い出す。いわば、耳を濡らす唾液にまつわる物語――わたしは彼女に会い、おそらくは恋をして、そして、別れる、いや、別れた――を忘れたままで(というか、思い出しもせず、あるいは、思い出すことが出来ずに)、あるしぐさだけが、触覚としてよみがえることの奇妙さに、わたしの唇は少し開かれて――いくうらか痴呆的に――思わず笑いを浮かべる。(金井美恵子『くずれる水』)

ここには五七調とはいえないまでもある心地よいリズム、あるいはすくなくとも語感に依存した文章の流れがあるといってよい。しかも彼女は敢えてやっているのはずだが、この短い文のなかに、「なまあたたかい」「なまあたたかく」「なまあたたかく」と三つがリズムをとっている。さらに「やわらかく」も「なまあたたかく」と同じ母音の構成だ(aaaa…u)。

そのエッセイでは辛辣な批判精神横溢の金井美恵子を引き合いに出したあとこのように言うのはなんだが、こういった流麗調の文体の作家や歌人とは、批評精神がなくても、場合によっては、人を惹きつける作品を書きうる。それは、少なくとも「ほどよくすぐれた」読み手をも魅了することがある。

「君」と「父」「母」、「弟」、「生徒」、そして「万智ちゃん」からなる、朝日新聞の「ひととき」欄のように、ほっと心なごむささやかな歌集をはじめて読んで驚いたのは、「万智ちゃん」であり「我」や「吾」や「私」とも表記される若い女性の、わが眼を疑うような媚び方だった。紋切り型に「父」と「母」が娘を心配し、陳腐そのものに、その「父」と「母」はふとしたはずみに「男」や「女」であることをかいま見せるのは、何もそれが短歌という土人の言葉によって韻律化されているからというわけではない。サラダの味を恋人に、この味がいいね、と言われて有頂天になり、「君」がケチャップ味が好きなことをメモに書きとめ手製のタマゴ・サンドが食べ残されるのを気に病み、「君」がアスパラガスが嫌いなことを発見して心を騒がせ、失恋することをおびえつつ、しかし失恋して「見る前に翔ばず何を見るのかもわからずけれどつるつる生きる」と考え、「我が膝に胎児の重み載せながら無頼派君が寝息をたてる」のを聴いている若い娘の世界は、短歌に詠まれる以前から、おしなべて他者への媚びと「つるつる生きる」ことの鈍重な自足とに韻律化されていることに、改めて愕然とさせられる。歌集に寄せられた、荒川洋治、高橋源一郎、小林恭二という三馬鹿青年たちのスイセンの言葉の、歌集そのものに輪をかけた退廃ぶりは、1988年の339版の裏表紙に、心得顔やしたり顔のスイセン者の方が名前を知られていない、という奇妙な事態をひきおこしたが、その程度のことで、この3人は反省ということをするとは思えない。(金井美恵子『本を書く人読まぬ人とかくこの世はままならぬ』)


ここでの話題からはずれるが、かつて浅田彰は、金井美恵子に「映画の趣味が悪い」とか「背が伸びなかったし(笑)」とかのたぐいをさんざん言われたせいか、次のように彼女を評している。

若くしてデビューした頃の彼女はきらめくような才能をもった作家で、少女小説をそのまま現代文学にしたような作品を書いていた。彼女がそのままのびのびと書き続けていたらどうなったかはわからない。問題は、彼女がインフェリオリティ・コンプレックスの塊で、精一杯虚勢を張ってすべてをバカにしてみせながら、実は、日本でいちばん賢くてセンスがいい(と田舎者には見える)おじさまに依存せずにはいられないということだった。

賢くてセンスがいいといえば、やっぱりフランス文学者、たとえば蓮實重彦。こうして彼女は、おじさまに褒めてもらいたい一心で、必死に勉強し、スタイルを変えていった。「こう書けば、蓮實さんなら、私がジャン・ルノワールを観ているってわかってくれるはず」。そしておじさまの反応が冷たいと、「いや、蓮實さんより私のほうがルノワールのことを本当に分かっているのよ」。もちろんルノワールの映画は素晴らしいが、ルノワール通であることを仄めかすために書かれた小説は絶望的に退屈で、自分も「通」であることを示したい貧乏な田舎者のグルーピーが喜んで読むだけだ。悲惨な話ではある。彼女は最近「噂の娘」という小説を出版したという噂だが、私はもはやそれを手にとってみようとさえ思わない。私はかつてジャーナリスト専門学校で講演したとき、阿部和重を含む聴衆に、「田舎者のひとつの定義は『蓮實重彦に幻惑される人間』だ」と言ったことがある。噂のオールドミスの哀れな姿は、そんな人間の末路を赤裸々に示している。(浅田彰「噂のオールドミス」)

さて、最後に金井美恵子の浅田彰を引用しつつの短歌評を掲げておこう。

言うまでもないことだが、短歌というものは天皇を頂点とする文化のヒエラルキーにつらなる言葉によって形成される詩形で、浅田彰風に言うならば、さだめし、「土人の詩」ということにでもなろうか。 (金井美恵子「文学界」1989年7月号)

浅田彰風とはかくのごとし。

連日ニュースで皇居前で土下座する連中を見せられて、自分はなんという「土人」の国にいるんだろうと思ってゾッとするばかりです。(浅田彰「文学界」の1989年2月号)

ーーと引用して唐突に思い出したが、2015年8月30日の国会前大規模デモは、あれはひょっとして「土人のデモ」ではなかったのだろうか。

・おひさしぶりだというのに、あまりにも唐突で恐縮ですが、あの醜いブチハイエナは、ちょっと嗅ぎでもしたらたちまち失神するか、あなたが虚弱体質のばあい、ころりと死にいたるほど、とんでもなくくさい屁をするのだ。食性はいうまでもなく肉食で、ものすごいアゴの力で骨までばりばりと嚼みしだく。並はずれた体力と(無)神経をもち、10数種類の鳴き声をときにおうじて器用に鳴きわける。英名はspotted hyenaだが、ひとをこばかにして「アハハハ…」「へへへへ…」「ヒヒヒヒ…」などとよく笑うことから、 laughing hyenaともよばれる。いまとくに注目すべきは、メス個体で、陰核がふだんでもペニス状に肥大しており、政治的に昂揚したり怒ったり発情しりするとさらにエレクトし、そのデカさゆえに、しばしばファルスとみまがう(ex.inada gas-hyena)。ブチハイエナは雌雄ともいっぱんに無用のけんかをこのまないが、いったんしかけられたら、集団であいてを傷めつくし殺しつくすまでたたかう。しかるのちに敵を食いつくし、みなで放屁しながら「アハハハ…」「アへへへへ…」「アヒヒヒヒ…」と笑うのである。ブチハイエナは、つまり、本質的には超過激で超強力な暴力集団であることをわすれてはならない。話などつうじるものではないのだ。さて、数十頭の群れ(クラン)からなるブチハイエナ集団を覆滅するにはどうすればよいのか。それが問題だ。そろいの字体のプラカードをぶらさげた無害なヒツジさんたち数万頭で、ブチハイエナたちをミンシュテキに包囲し、メ―メ―メ―メ―鳴けばよいというのか。メ―メ―メ―メ―・オマワリサン・ケフモ・オツカレサマ・コンバンモ・ゴクロウサマ!まいどおなじみ大江健三郎たちに、やくたいもないスピーチをさせて、メ―メ―メ―メ―、無傷でもりあがろうってか!?おい、大江、このクニに戦前も戦後もいちどだって民主主義なんてありえたためしがないことぐらい知っているだろうが。まもるものなんてヘチマもない。ならば、大江よ、なぜそう言わないのだ。なぜこうなったのかをかたらないのか。このていたらくのわけを。血のいってきもながさずに、無傷ではなにもできはしない、虫がよすぎる、と。たとえ50万いや100万のヒツジさんたちが、ペンライトをケツの穴から夜空に照らして、メ―メ―メ―メ―、ミンシュテキに鳴いてみたところで、takaichi gas-hyenaの屁いっぱつ、たちまち異臭さわぎで全員気絶だぜ。おい、大江、もうちょっとましな演説ができないのかね。あんたも、もうかるくいっぱつ、頭にかまされたんとちがうか。なに?オナラは暴力ではない?あくまでミンシュテキに、ボウリョク・ハンタイだと?……ああ、見解のそういですな。ひつようなのは、laughing hyena集団の国家暴力をはばむ対抗暴力のイメージだ。やかましい、メ―メ―メ―メ―鳴くんじゃない、きたるべきアイコク・ヒツジさんたちよ、さっさとブチハイエナどもに骨ごと食われてしまえ。いでよ、ふかき憎悪もて、群れず、ひとり闇をさまようもの。暗きうちを歩みて、おのが往くところを知らず、これ暗黒がその眼をくらましたればなり……。されど、いでよ!( 辺見庸、 2015/09/15

松浦寿輝は、2012年に、高見順賞受賞者二人(2011年受賞者金時鐘、2012年受賞者辺見庸)を、「現代詩ムラの他者」と呼んでいる。

高橋睦郎も次のように評している。

辺見さんは詩人を信じていない。それは壮絶な孤独な深さから来るのではないか。真の詩は排除された者から生まれるが、詩人の多くは詩人ムラで打算的に傷をなめ合っている。大切なのは詩であって、自分の名誉のために詩を使う詩人ではない。今日は貴重な反省の機会をありがとうございました。



2014年12月20日土曜日

路地につもったねばつく時間

路地を通り抜ける時試に立止つて向うを見れば、此方は差迫る両側の建物に日を遮られて湿つぽく薄暗くなつてゐる間から、彼方遥に表通の一部分だけが路地の幅だけにくつきり限られて、いかにも明るさうに賑かさうに見えるであらう。殊に表通りの向側に日の光が照渡つてゐる時などは風になびく柳の枝や広告の旗の間に、往来の人の形が影の如く現れては消えて行く有様、丁度灯火に照された演劇の舞台を見るやうな思ひがする。夜になつて此方は真暗な路地裏から表通の灯火を見るが如きは云はずとも又別様の興趣がある。川添ひの町の路地は折々忍返しをつけた其の出口から遥に河岸通のみならず、併せて橋の欄干や過行く荷船の帆の一部分を望み得させる事がある。此の如き光景は蓋し逸品中の逸品である。(永井荷風『路地』)

こういった文章を読むと今更ながら荷風はなんとしても捨て難い。《路地を通り抜ける時試に立止つて向うを見れば》とあるがわたくしはしばしばこれをやる。その光景が逸品中の逸品であるかどうかは時と場合によるが、なぜか名残惜しい気分になっている。中上健次や古井由吉がまずは代表的な路地の作家であるに相違ない。が、荷風も路地をさ迷い路地にある娼家や妾宅を書いた作家であり、路地の作家というなら、わたくしの場合、まずは荷風をあげたくなる。

路地は一種云ひがたき生活の悲哀の中に自から又深刻なる滑稽の情趣を伴はせた小説的世界である。而して凡て此の世界の飽くまで下世話なる感情と生活とは又この世界を構成する格子戸、溝板、物干台、木戸口、忍返なぞ云ふ道具立と一致してゐる。この点よりして路地は又渾然たる芸術的調和の世界と云はねばならぬ。(『路地』)
本堂の前を過ぎ庫裏と人家との間の路地に入るに、迂回して金剛寺坂の中腹に出でたり。路地の中に稚き頃見覚えし車井戸なほあるを見たり。(『礫川徜徉記』)
雷がごろごろと鳴ると、女はわざとらしく「あら」と叫び、一歩後れて歩こうとするわたくしの手を取り、「早くさ。あなた。」ともう馴れ馴れしい調子である。「いいから先へお出で。ついて行くから。」 路地へ這入ると、女は曲るたび毎に、迷わぬようにわたくしの方に振返りながら、やがて溝にかかった小橋をわたり、軒並一帯に葭簀の日蔽をかけた家の前に立留った。(『濹東綺譚』)
正月は一年中で日の最も短い寒の中の事で、両国から船に乗り新大橋で上り、六間堀の横町へ来かかる頃には、立迷う夕靄に水辺の町はわけても日の暮れやすく、道端の小家には灯がつき、路地の中からは干物の匂が湧き出で、木橋をわたる人の下駄の音が、場末の町のさびしさを伝えている。(『雪の日』)
かかる裏長屋の路地内には時として巫女が梓弓の歌も聞かれる。清元も聞かれる。盂蘭盆の燈籠や果敢ない迎火の烟も見られる。(『日和下駄 一名 東京散策記』)
泉鏡花の小説……「註文帳」は廓外の寮に住んでいる娼家の娘が剃刀の祟でその恋人を刺す話を述べたもので、お歯黒溝に沿うた陰欝な路地裏の光景と、ここに棲息して娼妓の日用品を作ったり取扱ったりして暮しを立てている人たちの生活が描かれている。研屋の店先とその親爺との描写はこの作者にして初めて為し得べき名文である。(『里の今昔』)
断膓亭日記巻之二大正七戊午年  荷風歳四十

十二月廿二日。築地二丁目路地裏の家漸く空きたる由。竹田屋人足を指揮して、家具書筐を運送す。曇りて寒き日なり。午後病を冒して築地の家に徃き、家具を排置す、日暮れて後桜木にて晩飯を食し、妓八重福を伴ひ旅亭に帰る。此妓無毛美開、閨中欷歔すること頗妙。

十二月廿五日。終日老婆しんと共に家具を安排し、夕刻銀座を歩む。雪また降り来れり。路地裏の夜の雪亦風趣なきにあらず。三味線取出して低唱せむとするに皮破れゐたれば、桜木へ貸りにやりしに、八重福満佐等恰その家に在りて誘ふこと頻なり。寝衣に半纒引きかけ、路地づたひに徃きて一酌す。雪は深更に及んでます/\降りしきる。二妓と共に桜木に一宿す。

《閨中欷歔すること頗妙》だって? 《水べを渉る鷭の声に変化した女の声を聴く》(吉岡実)

これだって路地の話だ。

《実際、パリを「遊歩」するとは彼(ベンヤミン)にとって、巨大な女体の秘部をまさぐることでもあった。内蔵の中にいると私たちがどれほど安堵するものかということを知りたければ、眩惑されるままに、暗いところが娼婦の股ぐらにひどく似ている街路から街路へ入り込んでいかねばならない》(松浦寿輝)ーーとあるように、路地とは股ぐらの奥さ。

神経症者が、女性器はどうもなにか不気味だということがよくある。しかしこの女性器という不気味なものは、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器、あるいは母胎であると見ていい。したがって不気味なものとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの、昔なじみのものなのである。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴unは抑圧の刻印である。(フロイト『不気味なもの』)

表通りのラーメン屋より路地で麺をすするのがよほどいいということは、今の日本ではあまりないのかもしれない。まだあるのは屋台のラーメンぐらいか。そういえば博多には路地に趣きのあるラーメン屋がたくさんあったな。

フォーだってこうやって食べるのがいいに決まってる。





路が岐かれている
えたいの知れない方をえらんでしまう
路地につもったねばつく時間
生活の残りがそこいらにぶちまかれ
まども洗濯物もはずかしい
ここには残酷であかるい生活の原質がある
知る、とは生まれてくるということだろうか
躰のなかまで触れにくる
ひかりのことをいうのだろう

松岡政則「口福台湾食堂紀行」




ここで金井美恵子のアンモニアの臭いにする女の性器のような路地を掲げよう。

霧はいつの間にか晴れていたが、運河の水面から立ちのぼる湿気が空気を水っぽく重くしていたし、腐敗したなまり色の水のにおいを、日の光があたためて、余計に耐え難いものにしていた。においの粒子を太陽が繁殖させ、入り組んだ狭い路地の奥にいたるところまで、水と腐敗した水藻のなまぐさいにおいが、執念深い微生物のようにびっしりと繁茂し、運河の水が湿った石造りの岸に打ちあたる水音は、睡気をもよおさせる気怠い官能に溶けかかっている女の性器のたてる音のようだったし、それをあやつる見えない指がこの街を愛撫している様子は、とてつもなく淫らで、わたしは、なまり色の水の中に、悪い汗を背筋に滲ませながら、苦くて強い酸の味のするの咽喉をひりひり焼く胃液を吐く。溶けてねばねばした粘液状のチョコレートの混じった黄色い水が、なまり色の運河の水面に落ち、それはしばらくの間、水に吞み込まれずに、黄色とチョコレート色の滲んだ縞模様になって水の表面に浮かび、やがて、水に溶けて沈んでいった、蒼黒い緑色の水苔に覆われたほとんど水中に沈みかけている石の階段に、半透明な灰色の汚れた水が波打ちながらぶつかり、また淫らな音を、絶間のない御喋りのように繰りかえす。(……)

腐敗した水のにおいだけではなく、路地の家々の壁には小便のにおいがしみついていて、粘り気のある有機質のにおいに混じったきな臭いアンモニアのにおいが充満してもいるのだ。腐敗した牛乳の匂いに似た、皮膚の表面から分泌する、汗や脂や腋臭の粘り気のあるにおいと、食物が腐敗して行く死の繁茂のにおいが建物の中庭に咲いているジャスミンと薔薇のにおいと混じりあり、甘ったるい吐き気のする睡気になって私の身体を包囲する。(金井美恵子『沈む街』)


この金井美恵子の文は、いかにもフロイト的な路地であり、かなりイケル。彼女がにおいをめぐって書くときの文章はすばらしい。路地とはあまり関係がないが、古い車輌のソファのあの《人々の体臭や汗のしみ込んで、それが蒸されて醗酵したような不快な汚物のようなにおい》ってあるだろ? 

(この中年男の)機械的に熱中ぶりを操作しているといったふうな長広舌が続いている間、わたしは濡れた身体を濡れた衣服に包んで、それが徐々に体温でかわくのをじっと待っていたが、部屋の空気は湿っていたし、それに、すり切れた絨毯や、 同じようにすり切れてやせた織糸の破れ目から詰め物とスプリングがはみ出ているソファが、古い車輌に乗ったりすると、時々同じようなにおのすることのある、人々の体臭や汗のしみ込んで、それが蒸されて醗酵したような不快な汚物のようなにおいを発散させていたので、その鼻を刺激する醗酵性のにおいに息がつ まりそうになり、わたし自身の身体からも、同じにおいを発散させる粘り気をおびた汗がにじみだして来ては、体温の熱でにおいをあたりに蒸散させているよう な気がした。(金井美恵子『くずれる水』)

わたくしが文章家として敬愛する鈴木創士氏は、金井美恵子がキライらしいが、近親憎悪じゃないか。とはいえ氏は丘の上のひとであり、乾いた風が吹く。路地でさえ乾燥している。ひょっとして海辺の町で風に吹かれて育ったせいかもしれない。北関東のうっとうしそうな土地で育った金井美恵子。そこにある湿/乾の異和が鈴木氏に嫌悪感をもたらすということはありうる。

道には壁がずっと続いていた。ところどころ古びて変色したコンクリートが剥げ落ちて、中の煉瓦が丸見えになっている。壁にはスイカズラの蔓が垂れて、五月頃になると白い花をつけた。時々、花を無造作にいくつか失敬して、子供の頃にやったように蜜を吸った。路地じゅうにいつも強く甘い香りがしていた。スイカズラは忍冬と書くくらいだから、冬をも耐え忍ぶ強い草であるからだろうか、そこを通ると、花の咲かない冬でも鼻を突く香りでむせ返るような感覚に襲われる。

 道はいつもひっそりとして、人とすれ違うことはまったくない。鳥の囀(さえず)りが遠くでしているだけだ。鳥の姿はなかった。ずっと続く壁からは生い茂った樹々しか見えず、家屋は見えなかったし、このかなり広大な屋敷が誰の住む屋敷なのかは知る由もなかった。私はただ速度を緩めてそこを歩く。けっして何も見てはいないのに、見えるのはいつもほんのわずかにざわめく梢(こずえ)だけだ。〔鈴木創士「誰でもない人 異名としてのフェルナンド・ペソアを讃える」)
どの街角でもいい。名もない街角でもいい。「それはオンセの菓子屋の街角かもしれない。死の影に怯えるアルゼンチンの作家マセドニオ・フェルナンデスが、死はわれわれの身に起こり得るもっとも些細なことだと説いた」あの街角でもいい。自分が木であることを、そして人々に涼しげな木陰を提供していることなどつゆ知らない一本の木が、短い影を投げかける街角。木も見当たらない街角。どこまでも広がる、目が痛くなるような青空、くっきりとした黒い影。素晴らしいコントラスト。正午を少しだけ過ぎた街角……。

 どこでもいい。住民への相談などなしに最近無駄に植え替えられ移転されてしまった、巨大で力強い大木があった(われわれはそれを京都のバオバブの木と呼んでいたが、木はすっかり元気をなくしてしまった)。その木がひっそりと聳える京都東山の入り組んだ路地の奥にある誰も知らない街角。どこかで群青色か薔薇色に染まる街角。それともそこで人が死に、手向けられた花も枯れてしまった表通りの埃だらけの街角。昼の日なかにはかつてそこが処刑場の一角であったことすら忘れられた薄汚れた街角であってもいい。(同「正午を探す街角」)

このあと《ボルヘスは、街角とは、それはどこの街角ででもあり得るのだから、目には見えない「原型」なのだと言っていた》と続く。--そう、街角でも横町でも路地でもいい、そこにわれわれの原型があるのだ。それは「口福台湾食堂紀行」の松岡政則が《ここには残酷であかるい生活の原質がある》と謳ったように。

…………
京都の町のまん中、いわゆる下京古町には、殊に図子〔ずし〕が多い。図子といのは、縦横整然と、碁盤目に引かれた表通りの内へひっこむ小道のことだが、たどってゆくと、むこうの表通りへ抜けているものをいう。これとは別に、行きどまりの袋路になっている細い小道は路地〔ろうじ〕といって、図子とはいわない。そこで、京ことばでは、図子を抜けきった表通りに面する家を指して、うらんちょう(裏町)の何々さんといい、路地の中の家を指して奥の何々さんとか突当たりの何々さんなどという。図子には奥とか突当たりというものはないわけで、図子はかならず突抜けているものである。もっとも、路地でもお寺の境内に通じているときは、図子と呼ぶことがある。結局むこうへ抜けられるからだ。(杉本秀太郎『洛中生息』)

図子は辻子とも呼ばれる。京都では路地〔ろうじ〕と呼ばれるのが、袋小路のようだが、おそらくふつうは路地〔ろじ〕とされて、それは通り抜けられる小道をいうのだろう。露地、横町、小路、小径、小道、狭路、等々いろんな呼び方、漢字があるが、正確に使い分けたことは、わたくしはない。ただ十年あまり住んだ京都の町なかの小路を歩き回るのを好んだ時期はある。小路ひとつごとに左に折れ右に折れながら町中を歩く。ああこんなところに京格子の家が残っているとか、江戸時代の儒者や歌人、茶人などの旧居跡を示す石標にぶつかったりする。錦小路で漬物や干物を買ったりする。イノダ珈琲の三条店のカウンターで、いささか気取ってパイプ煙草をふかしながらミルクコーヒーを飲む。今では重要文化財に指定された杉本秀太郎邸の前を通る。彼の名はアランの翻訳者として少年時代から親しんでいた。


……一年を通じて、この店の間がもっともあかるいのは、十一月の中、下旬、陰暦十月の小春と呼ばれている時期、および冬至をなかにして、これと対応する二月の中、下旬である。そのころ、京格子は上から下までいっぱいに、陽ざしを浴びている。格子の内側の障子をあけ放つと、たたみの上には規則正しい縞柄の日陰が横たわる。障子をしめていると、表の軒近くをとおる人影が、あらかじめ障子にえがき出された格子の縞のなかを通過する。そういう影のたわむれが、ふと目をうばうようなとき、ヴァレリーの一節が、私には思い出される。

木立の枝にとらわれた  かりそめの虜囚
並行する この細い鉄柵を ゆらめかせる入海……

「かりそめの虜囚」である人影は、たやすくこの格子の影、質量をもたないこの牢獄の柵からすり抜ける。「細い鉄柵」は、ヴァレリーにとっては睫毛の隠喩であった。それなら、京格子のつくる影は、カメラの暗箱にとりつけられた美しい人工の睫毛というべきかもしれない。そして南面に格子をもっている店の間こそあかるいが、間仕切りの襖のむこう、さらにもう一枚の襖をあけると奥座敷に通じる中の間は、四季を通じて暗箱のように暗いのが、京都の町のなかの住居の特色である。(杉本秀太郎『洛中生息』)

学生時代にも路地を歩くことを好んだ。谷中の墓地あたりに向かう道がことさらお気に入りだった。言問い通りから北側に入り込む路地なのだが、ひっそりした垣根がつらなる路を沿っていくと、洋館風の建物から美少女が出てきたりーー当時は女はだいたい美女にみえたーー、猫に睨まれたり、腰の曲った老婆に挨拶されたり。《なぜ生垣の樹々になる実が/あれ程心をひくものか神々を貫通/する光線のようなものだ。》(西脇順三郎)だったな。

南側には上野の森の方へ向かう路地があり、あのあたりには連れ込み宿が何軒かある。最初に昔風の温泉マークつき宿を利用したのは、その散歩の途次だね、18歳の紅顔の少年は、玄関でいささか居心地にわるい数分を過ごした思出がある。「ごめんください」と何度も呼んでも音沙汰がなく、傍らの女友達と互いに顔を見交わせて、さてどうしよう、ひきかえそうか、あるいは、別の客が入ってくるんじゃないか、などと背後の引戸の向うの気配にさえ敏感になって、ーー《旅館の玄関に立って、案内を乞うと、遠くで返事だけがあってなかなか人影が現れてこなかった。少女と並んで三和土に立って待っている時間に、彼は少女の軀に詰まっている細胞の若さを強く感じた。そして、自分の細胞との落差を痛切に感じた。少女の頸筋の艶のある青白さを見ると、自分の頸の皮が酒焼けで赤黒くなっており、皮がだぶついているような気持になった。》(吉行淳之介『砂の上の植物群』)という具合で、冷汗が滲んだ何分かの後に、廊下を近づいてくる足音がきこえて、遣手婆風の渋い和服をきた初老の女が現われ、こちらの顔をじろりと見回しながら悠長な挨拶をされるのにビビッってしまうなどという具合だった、ーーもっとも吉行の書くのとは違ってオレの細胞は傍らの少女と同様若かったし、玄関でいくら委縮しても、たちまち勃然とする若さがあった。

この頃、東大生でもないのに、弥生町という弥生土器で由緒ある名の、東大本部と工学部のあいだの下宿屋に一年半ほど住んでいたわけで(わたくしの小学校時代の友人の祖父が経営しており、二十なん部屋あるうちの、わたくしと友人だけが東大生でなかった)、古めかしい黒光りした柱や天井、ギシギシいう廊下や階段をもつ、二階建ての共同便所風呂なしの四畳半で、漱石の小説に出てきそうな佇まいだ。このあたりは谷根千などといってそれなりに賑わうようになったらしいが、もちろんそれよりもずっと昔のこと。地下鉄利用のため弥生坂(言問い通り)を下りたり、根津の交差点近くにある風呂屋に行ったり路地にある大衆食堂で食事をする。途中、工学部の敷地を斜めに抜けることが多かった。初夏の宵闇にはその敷地内のくちなしの花が白く浮かびあがり、薫り高く匂った。《白い花は梢でゆさゆさ揺れていた》のであり、《わたしはわたしの夢の過剰でいっぱいだった》(大岡信)。

東京下町の銭湯には当初驚き、そして暫く後よく馴染んだ。番台のおばちゃんの無愛想さと愛嬌のよさを綯い交ぜにしたような顔と声。無頓着に湯代の小銭を受け取り釣りを返すのだが、風呂上りに牛乳をたのめばひどく愛想がよい。

粋な老人たちのみごとな禿頭や白髪、あるいは初老職人風のごま塩頭、二の腕のしたの皮膚がたるんでいるやせこけてしなびた古翁やら、いかにも酒飲み風なつやつやした肌を誇るでっぷりした好々爺。

そして倶梨伽羅悶々のおにいさんやおじさんたちもいた。《たくましい男のそれがちんちくりんのカタツムリのように見え、やせた男のが長大で図太くて罪深い紫いろにふすぼけて見える。それは何百回、何千回の琢磨でこうなるのだろうかと思いたいような、実力ある人のものうさといった顔つきでどっしりと垂れている。嫉妬でいらいらするよりさきに思わず見とれてしまうような逸品であった。》(開高健「玉、砕ける」)

ーー銭湯だって路地の一種さ。


というわけで「蚊居肢」というブログ名にしたのだから、この類のことをたまには書かなくちゃな、いや専念すべきだろうか


亜麻色の蜜蜂よ きみの針が
いかに細く鋭く命取りでも、
(……)
刺せ この胸のきれいな瓢を。
(……)
ほんの朱色の私自身が
まろく弾む肌にやってくるように!

素早い拷問が大いに必要だ。(ヴァレリー「蜜蜂」中井久夫訳)