2016年5月20日金曜日

奴隷の韻律

これは万葉集の場合に限つたことではないが、凡そ歌――短歌といふものは、三十一文字のそれ自らの詩形から、私の見るところでは、主題として恋愛を取扱ふのに最も適してゐるやうに思はれる。この詩形にあつては、詩語がある音楽的な週期的な繰返しを以て、不思議に情緒に纏繞してくるやり方で、それの語意によつてよりもそれの語感の感触で、一篇のポエジイを成立たしめてゐるのである。詩歌に於ける詩語の機能が、語意によりも寧ろ語感に依存してゐる――といふのは、もとより何も短歌の場合に限つた事情ではないが、しかしまた短歌の場合ほど端的に、純粋に、しかも効果的に、右の事情を我々に感ぜしめる例は、わが国の詩歌にあつては、他に類例がないといつてもよいやうに思はれる。

短歌と並立して我国の最も普遍的な詩歌の伝統をなしてゐる俳諧に就て見ても、そこでは右の事情がやや趣を異にしてゐるのを、何人も容易に看取されることであらう。そこでは詩語の語意が、――それの明示性に依るよりもそれの暗示性に依るが故になほそれは詩的であるが――短歌に於てよりもずつと遥かに重要な機能を、負担を負はされてゐるのは、何人の眼にも明かな事実であらう。さうしてここで序でに、俳諧――俳句に於ては恋愛が恰好な主題とはなり得ない、考へ方によつてはいささか奇妙な消息を併せて考察してみるならば、先に私が、短歌がそれの詩形から主題として恋愛を取扱ふのに適してゐるといつた意味も、半ばは明らかになることだらう。短歌のあの五七、五七と繰りかへして最後に更に七とつけ加へた、短小ながら確乎として音楽的形式を踏んだ、嫋嫋とした詩語の纏繞性は、他の如何なる主題を撰んだ場合よりも、恋愛を歌ふに適当してゐるといつても、必ずしも牽強の言ではあるまい。(三好達治『万葉集の恋歌に就て』)

このところ、いままでほとんどまともに読んだことがなかった万葉集をゆっくりと読んでいるのだが、短歌というのは、たしかに ≪詩歌に於ける詩語の機能が、語意によりも寧ろ語感に依存してゐる≫ので、剽窃がしやすい、ということがある(その巧拙は別にして)。

その逆に俳句というのは、剽窃がしにくい(すくなくともわたくしにとって)。それは三好達治のいうように、≪詩語の語意が、――それの明示性に依るよりもそれの暗示性に依るが故になほそれは詩的であるが――短歌に於てよりもずつと遥かに重要な機能を、負担を負はされてゐる≫せいなのだろう。

ところで、谷崎潤一郎が似たようなことを言っている。

それは、流麗な文(和文調)と簡潔な文(漢文調)――源氏物語派と非源氏物語派――に分けて文章の美を説く箇所で、谷崎潤一郎自身は流麗な調子を好み、《この調子の文章を書く人は、一語一語の印象が際立つことを嫌います》としている。他方、志賀直哉の文が一語一語が際立つ簡潔な名文の代表とされて、次のように書かれている。

他の蜂が皆巣に入つて仕舞つた日暮、冷たい瓦の上に一つ残つた死骸を見る事は淋しかつた。(志賀直哉「城の埼にて」)

とありますが、初心の者にはなかなかこうは引き締められない。

日が暮れると、他の蜂は皆巣に入って仕舞って、その死骸だけが冷たい瓦の上に一つ残って居たが、それを見ると淋しかった。

と云う風になりたがる。それを、もうこれ以上圧縮出来ないと云う所まで引き締めて、ようやく前のようなセンテンスになるのであります。(谷崎潤一郎『文章読本』)

たぶん、慣れ親しんでしまえば、流麗な文のほうが模倣しやすいのではないか、短歌がそうであるだろうように(すぐれた俳句や志賀直哉のような凝縮した文は、わたくしには真似することさえむずかしい)。

この≪詩語の機能が、語意によりも寧ろ語感に依存してゐる≫短歌形式をひどく嫌う書き手がいる。小野十三郎はかつて「奴隷の韻律」と言った。金井美恵子なら次のように言う。

短歌との巡りあわせが悪かったせいで、詩を書こうという欲望は持ったが、短歌を作ろうとも読もうとも、長いこと思わなかった。簡単にいえば、凡庸な田舎歌人が身近な身内と親戚にいたので、最初から敬遠する気分が強く(……)。形式というものそのものが、あるいはグロテスクなものであるのかもしれないのだが、短歌という、広大なすそ野に広がる無数の作者群を持つ詩的形式は、その、あまりにも親しいリズム(日本語のなかにすっかり喰い込んだ一種脅迫的韻律というべきだろうか)とともに、悪しき夢でもあるかのように、どうやら、私たちの耳にこびりついてしまうものらしいのだ。(金井美恵子「愛の歌」)

≪形式というものそのものが、あるいはグロテスクなものであるのかもしれない≫とある。さて、そうなのだろうか。ここで逆にこう引用しておこう、≪「軽薄にソネットを扱いそこにピタゴラス的な美をみないのは馬鹿げている」(ボードレール)。ピタゴラス的な美とは、"現実"や"意味"と無関係に形式的な項の関係のみで成り立つものである。≫(柄谷行人)


そもそも金井美恵子の上の文は、≪凡庸な田舎歌人が身近な身内と親戚にいたので、最初から敬遠する気分が強く≫とあるように、近親憎悪の吐露いうふうに読みうるだろう。彼女のひどく魅惑的な文は、底に横たわる語感に依存しがちな「あまりにも親しいリズム」になんとか抵抗しつつ書かれた文章だ、とわたくしは感じてしまう。

なまあたたかい涙が頬をつたい、顎から首を濡らし、顔を横にそむけると、涙は眼尻から溢れて耳殻にそって流れ、やがて耳の穴のなかに入って、なまあたたかくむずがゆいような感触に身体が少し震える。それから、もうずっと昔のことのように思えるのだが、ある女が、好んで示したしぐさを、だしぬけに思い出す。女の全体をではなく――それはもう、すっかり忘れてしまっている――肉体の一部分だけの触覚と、その触覚を形づくっているしぐさだけを思い出しているという奇妙さに軽く戸惑いながら、しかし、耳たぶをやわらかく咬む歯と唇、尖った舌の先が耳殻のなかで動くたびになまあたたかく溢れる唾液とを、唐突に思い出す。いわば、耳を濡らす唾液にまつわる物語――わたしは彼女に会い、おそらくは恋をして、そして、別れる、いや、別れた――を忘れたままで(というか、思い出しもせず、あるいは、思い出すことが出来ずに)、あるしぐさだけが、触覚としてよみがえることの奇妙さに、わたしの唇は少し開かれて――いくうらか痴呆的に――思わず笑いを浮かべる。(金井美恵子『くずれる水』)

ここには五七調とはいえないまでもある心地よいリズム、あるいはすくなくとも語感に依存した文章の流れがあるといってよい。しかも彼女は敢えてやっているのはずだが、この短い文のなかに、「なまあたたかい」「なまあたたかく」「なまあたたかく」と三つがリズムをとっている。さらに「やわらかく」も「なまあたたかく」と同じ母音の構成だ(aaaa…u)。

そのエッセイでは辛辣な批判精神横溢の金井美恵子を引き合いに出したあとこのように言うのはなんだが、こういった流麗調の文体の作家や歌人とは、批評精神がなくても、場合によっては、人を惹きつける作品を書きうる。それは、少なくとも「ほどよくすぐれた」読み手をも魅了することがある。

「君」と「父」「母」、「弟」、「生徒」、そして「万智ちゃん」からなる、朝日新聞の「ひととき」欄のように、ほっと心なごむささやかな歌集をはじめて読んで驚いたのは、「万智ちゃん」であり「我」や「吾」や「私」とも表記される若い女性の、わが眼を疑うような媚び方だった。紋切り型に「父」と「母」が娘を心配し、陳腐そのものに、その「父」と「母」はふとしたはずみに「男」や「女」であることをかいま見せるのは、何もそれが短歌という土人の言葉によって韻律化されているからというわけではない。サラダの味を恋人に、この味がいいね、と言われて有頂天になり、「君」がケチャップ味が好きなことをメモに書きとめ手製のタマゴ・サンドが食べ残されるのを気に病み、「君」がアスパラガスが嫌いなことを発見して心を騒がせ、失恋することをおびえつつ、しかし失恋して「見る前に翔ばず何を見るのかもわからずけれどつるつる生きる」と考え、「我が膝に胎児の重み載せながら無頼派君が寝息をたてる」のを聴いている若い娘の世界は、短歌に詠まれる以前から、おしなべて他者への媚びと「つるつる生きる」ことの鈍重な自足とに韻律化されていることに、改めて愕然とさせられる。歌集に寄せられた、荒川洋治、高橋源一郎、小林恭二という三馬鹿青年たちのスイセンの言葉の、歌集そのものに輪をかけた退廃ぶりは、1988年の339版の裏表紙に、心得顔やしたり顔のスイセン者の方が名前を知られていない、という奇妙な事態をひきおこしたが、その程度のことで、この3人は反省ということをするとは思えない。(金井美恵子『本を書く人読まぬ人とかくこの世はままならぬ』)


ここでの話題からはずれるが、かつて浅田彰は、金井美恵子に「映画の趣味が悪い」とか「背が伸びなかったし(笑)」とかのたぐいをさんざん言われたせいか、次のように彼女を評している。

若くしてデビューした頃の彼女はきらめくような才能をもった作家で、少女小説をそのまま現代文学にしたような作品を書いていた。彼女がそのままのびのびと書き続けていたらどうなったかはわからない。問題は、彼女がインフェリオリティ・コンプレックスの塊で、精一杯虚勢を張ってすべてをバカにしてみせながら、実は、日本でいちばん賢くてセンスがいい(と田舎者には見える)おじさまに依存せずにはいられないということだった。

賢くてセンスがいいといえば、やっぱりフランス文学者、たとえば蓮實重彦。こうして彼女は、おじさまに褒めてもらいたい一心で、必死に勉強し、スタイルを変えていった。「こう書けば、蓮實さんなら、私がジャン・ルノワールを観ているってわかってくれるはず」。そしておじさまの反応が冷たいと、「いや、蓮實さんより私のほうがルノワールのことを本当に分かっているのよ」。もちろんルノワールの映画は素晴らしいが、ルノワール通であることを仄めかすために書かれた小説は絶望的に退屈で、自分も「通」であることを示したい貧乏な田舎者のグルーピーが喜んで読むだけだ。悲惨な話ではある。彼女は最近「噂の娘」という小説を出版したという噂だが、私はもはやそれを手にとってみようとさえ思わない。私はかつてジャーナリスト専門学校で講演したとき、阿部和重を含む聴衆に、「田舎者のひとつの定義は『蓮實重彦に幻惑される人間』だ」と言ったことがある。噂のオールドミスの哀れな姿は、そんな人間の末路を赤裸々に示している。(浅田彰「噂のオールドミス」)

さて、最後に金井美恵子の浅田彰を引用しつつの短歌評を掲げておこう。

言うまでもないことだが、短歌というものは天皇を頂点とする文化のヒエラルキーにつらなる言葉によって形成される詩形で、浅田彰風に言うならば、さだめし、「土人の詩」ということにでもなろうか。 (金井美恵子「文学界」1989年7月号)

浅田彰風とはかくのごとし。

連日ニュースで皇居前で土下座する連中を見せられて、自分はなんという「土人」の国にいるんだろうと思ってゾッとするばかりです。(浅田彰「文学界」の1989年2月号)

ーーと引用して唐突に思い出したが、2015年8月30日の国会前大規模デモは、あれはひょっとして「土人のデモ」ではなかったのだろうか。

・おひさしぶりだというのに、あまりにも唐突で恐縮ですが、あの醜いブチハイエナは、ちょっと嗅ぎでもしたらたちまち失神するか、あなたが虚弱体質のばあい、ころりと死にいたるほど、とんでもなくくさい屁をするのだ。食性はいうまでもなく肉食で、ものすごいアゴの力で骨までばりばりと嚼みしだく。並はずれた体力と(無)神経をもち、10数種類の鳴き声をときにおうじて器用に鳴きわける。英名はspotted hyenaだが、ひとをこばかにして「アハハハ…」「へへへへ…」「ヒヒヒヒ…」などとよく笑うことから、 laughing hyenaともよばれる。いまとくに注目すべきは、メス個体で、陰核がふだんでもペニス状に肥大しており、政治的に昂揚したり怒ったり発情しりするとさらにエレクトし、そのデカさゆえに、しばしばファルスとみまがう(ex.inada gas-hyena)。ブチハイエナは雌雄ともいっぱんに無用のけんかをこのまないが、いったんしかけられたら、集団であいてを傷めつくし殺しつくすまでたたかう。しかるのちに敵を食いつくし、みなで放屁しながら「アハハハ…」「アへへへへ…」「アヒヒヒヒ…」と笑うのである。ブチハイエナは、つまり、本質的には超過激で超強力な暴力集団であることをわすれてはならない。話などつうじるものではないのだ。さて、数十頭の群れ(クラン)からなるブチハイエナ集団を覆滅するにはどうすればよいのか。それが問題だ。そろいの字体のプラカードをぶらさげた無害なヒツジさんたち数万頭で、ブチハイエナたちをミンシュテキに包囲し、メ―メ―メ―メ―鳴けばよいというのか。メ―メ―メ―メ―・オマワリサン・ケフモ・オツカレサマ・コンバンモ・ゴクロウサマ!まいどおなじみ大江健三郎たちに、やくたいもないスピーチをさせて、メ―メ―メ―メ―、無傷でもりあがろうってか!?おい、大江、このクニに戦前も戦後もいちどだって民主主義なんてありえたためしがないことぐらい知っているだろうが。まもるものなんてヘチマもない。ならば、大江よ、なぜそう言わないのだ。なぜこうなったのかをかたらないのか。このていたらくのわけを。血のいってきもながさずに、無傷ではなにもできはしない、虫がよすぎる、と。たとえ50万いや100万のヒツジさんたちが、ペンライトをケツの穴から夜空に照らして、メ―メ―メ―メ―、ミンシュテキに鳴いてみたところで、takaichi gas-hyenaの屁いっぱつ、たちまち異臭さわぎで全員気絶だぜ。おい、大江、もうちょっとましな演説ができないのかね。あんたも、もうかるくいっぱつ、頭にかまされたんとちがうか。なに?オナラは暴力ではない?あくまでミンシュテキに、ボウリョク・ハンタイだと?……ああ、見解のそういですな。ひつようなのは、laughing hyena集団の国家暴力をはばむ対抗暴力のイメージだ。やかましい、メ―メ―メ―メ―鳴くんじゃない、きたるべきアイコク・ヒツジさんたちよ、さっさとブチハイエナどもに骨ごと食われてしまえ。いでよ、ふかき憎悪もて、群れず、ひとり闇をさまようもの。暗きうちを歩みて、おのが往くところを知らず、これ暗黒がその眼をくらましたればなり……。されど、いでよ!( 辺見庸、 2015/09/15

松浦寿輝は、2012年に、高見順賞受賞者二人(2011年受賞者金時鐘、2012年受賞者辺見庸)を、「現代詩ムラの他者」と呼んでいる。

高橋睦郎も次のように評している。

辺見さんは詩人を信じていない。それは壮絶な孤独な深さから来るのではないか。真の詩は排除された者から生まれるが、詩人の多くは詩人ムラで打算的に傷をなめ合っている。大切なのは詩であって、自分の名誉のために詩を使う詩人ではない。今日は貴重な反省の機会をありがとうございました。