褐色の根府川石に
白き花はたと落ちたり、
ありとしも靑葉がくれに
見えざりし さらの木の花。
この森鴎外の詩をめぐって、中井久夫は次のようにいう。
押韻もさることながら、「褐色(かちいろ)の根府川石(ねぶかはいし)」「石に白き花はたと」「たり/ありしとも青葉がくれに/みえざりし」に代表される遠韻、中間韻の美は交錯して、日本詩のなかで稀有な全き音楽性を持っている(中井久夫『分裂病と人類』)
こう記す中井久夫は、みずから訳詩だけでなく、散文でもこの韻の交錯を試みている。
ふたたび私はそのかおりのなかにいた。かすかに腐敗臭のまじる甘く重たく崩れた香り――、それと気づけばにわかにきつい匂いである。
それは、ニセアカシアの花のふさのたわわに垂れる木立からきていた。雨上りの、まだ足早に走る黒雲を背に、樹はふんだんに匂いをふりこぼしていた。
金銀花の蔓が幹ごとにまつわり、ほとんど樹皮をおおいつくし、その硬質の葉は樹のいつわりの毛羽となっていた。かすかに雨後の湿り気がたちのぼる。(中井久夫「世界における索引と徴候」『徴候・記憶・外傷』所収)
ここには数え切れないくらいの頭韻、押韻、遠韻、中間韻がある(参照)。もともと名文章家の中井久夫であるがーー、≪現代日本語の書き言葉がそれでもなお辛うじて保っている品格は、カヴァフィスやヴァレリーの翻訳を含む中井久夫の文業に多くを負っている≫(松浦寿輝)--、しかもその中井久夫の稀有の時期に書かれた名文章であると、わたくしは思う。
私は多くの文章を暗誦したり筆記する習慣がある。よい文章とは口唇感覚にも口腔感覚にも発声に参与する筋の筋肉感覚にも快い。筆記感覚でさえうれしい。私には、言語の深部構造とはチョムスキーのいう構造主義的なものを突き抜けて、こういう生理的・官能的なものにまで行き着くのではないかとひそかに思っている。実際、同じ口唇感覚であり口腔感覚であり、ノドと下顎を動かす筋肉であるためか、私に合った詩や散文を現前させている時には、ほとんど現実の果実を果汁を滴らせながらかぶりついている感覚を感じる。
果実が溶けて快楽〔けらく〕となるように
その息絶える口の中で
その「不在」を甘さに変えるように
――ポール・ヴァレリー「海辺の墓地」第五節――
しかも、詩の果実は実在の果実と違って口の中に消えてもまた再生する! (中井久夫「詩を訳すまで」初出1996『アリアドネからの糸』所収)
五十歳の秋になって、何度目かの言語の節目が現れた。偶然の機会から詩を訳すようになったのである。「精神」「分裂」「傷害」「解体」というたぐいの語ばかりを語り、そういう字を書くことに私の言語意識が耐えられなくなって反抗を起こしたのであろう。ヴァレリーは「ほんとうに言葉が歌うのだよ」と言っているが、私にも、一つ一つの日本語の単語がほんとうに歌うように感じられる時期があった。その伴示、類語、類音語、音調、イマージュ、色調、粘膜感覚と筋肉感覚などで一語一語が重すぎるほどであった時期があった。頭韻や半階音が寝床までつきまとったこともあった。訳詩が完成して一年ほど経って、それが消えていることに気づいた。その時の詩集のページは知らん振りをして横顔を見せている少女のようであった。私は「詩がさっぱりわからない」という人には詩がこういうふうに映っていることを理解した。(同上)
※ヴァレリーの『魅惑』における調子の変化 ―「石榴」と 「失われた酒」―鳥山定嗣、PDF
ここにある訳文は、中井久夫訳ではない。ヴァレリーの詩がどんな工夫・彫琢がなされているかを示すために掲げた。
…………
……三好が詩に於てつとに萩原朔太郎を宗としたことは周知のとほりだが、その詩境をうかがふに、年をふるにしたがつて、むしろ室生さんのはうに「やや近距離に」あゆみ寄つて来たのではないかとおもふ。萩原さんの詩はちよつと引つかかるところがあるけれど、室生さんの詩のはうはすらすら受けとれると、げんに當人の口から聞いたことがあつた。萩原さんをつねに渝らず高く仰いてゐた三好として、これは揣らずもみづからの素質を語つたものだらう。ちなみに、そのときわたしは鑑賞上それと逆だと應へたおぼえがある。また三好が酣中よくはなしてゐたことに、芥川龍之介は百發九十九中、室生犀星は百發わづかに一中だが、のべつにはづれる犀星の鐵砲がたまにぶちあてたその一發は芥川にはあたらないものだといつて、これにはわたしも同感、われわれは大笑ひした。つち澄みうるほひ、石蕗の花咲き……といふ室生さんの有名な詩は三好が四十年あまりにわたつで「惚れ惚れ」としつづけたものである。「つち澄みうるほひ」はまさに犀星の一發。このみがき抜かれたことばの使ひぶりは詩人三好が痩せるほど氣に入つた呼吸にちがひない。(石川淳「三好達治」『夷斎小識』所収)
三行、四行目、≪あはれ知るわが育ちに/鐘の鳴る寺の庭≫は、いささか凡庸か。
だが、犀星のこの「つち澄みうるほひ、石蕗の花さき」はたしかにひどく美しい。この二行だけ取り出せば、鴎外の「沙羅の木」の詩句よりずっと美しい。
こうまで惚れ惚れするのだから、三好達治はみずからも試みていないではない。犀星のこの二行には格段に劣りはしても。
池に向へる朝餉
水澄み
ふるとしもなきうすしぐれ
啼く鳥の
鳥のねも日にかはりけり
……
奥野健男によれば、萩原朔太郎全集の編集に際して、犀星と達治は喧嘩別れし、そのまま絶交状態にあったのだが、達治は犀星の通夜に羽織袴で現われたという。「二日続いたお通夜のあと、三好さんは家にも帰らず、とん平でいつまでも飲み続けられていた。そしてたまたま隣の席に坐つたぼくに、自分がどの位犀星に決定的な影響を受けたか、詩人として完成したのは朔太郎だがそのそもそもは犀星の『抒情小曲集』の革命的な詩表現にあることを何度となく繰り返し述べ、惜しい詩人を喪つたと言つては絶句し、涙をぬぐわれるのであつた」。(三好達治の「雪」(その一~その十))
あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりにうるほひ
廂々に
風鐸のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうへ
春の寺 室生犀星
うつくしきみ寺なり
み寺にさくられうらんたれば
うぐひすしたたり
さくら樹にすゞめら交(さか)り
かんかんと鐘鳴りてすずろなり。
かんかんと鐘鳴りてさかんなれば
をとめらひそやかに
ちちははのなすことをして遊ぶなり。
門もくれなゐ炎炎と
うつくしき春のみ寺なり。