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2016年7月15日金曜日

もし、美しいお嬢さん

ファウスト

もし、美しいお嬢さん。
不躾ですが、この肘を
あなたにお貸申して、送ってお上申しましょう。

マルガレエテ

わたくしはお嬢さんではございません。美しくもございません。
送って下さらなくっても、ひとりで内へ帰ります。

あのひとのベッドはインドだ。そこに彼女が、真珠がよこたわる。[Her bed is India; there she lies, a pearl](シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』)

ファウスト

途方もない好い女だ。
これまであんなのは見たことがない。
あんなに行儀が好くておとなしくて、
そのくせ少しはつんけんもしている。
あの赤い唇や頬のかがやきを、
己は生涯忘れることが出来まい。
あの伏目になった様子が
己の胸に刻み込まれてしまった。
それからあの手短に撥ね附けた処が、
溜まらなく嬉しいのだ。

(メフィストフェレス登場。)

おい。あの女を己の手に入れてくれ。    

メフィストフェレス

どの女ですか。   

ファウスト      

今通って行った奴だ。

メフィストフェレス

あれですか。あれは今坊主の所から帰るのです。
…ひどく罪のない娘ですよ。
あんなのはわたしの手に合いませんね。    

ファウスト

でも満十四歳にはなっているだろうが。    

メフィストフェレス

丸で道楽息子のような口の利きようをしますね。
どの美しい花をも自分の手に入れようとして、
自分の手で摘み取ることの出来ない
恋や情はないはずだと思う性ですね。
ところがなかなかいつもそうは行きませんよ。    

ファウスト

おい。道学先生。
どうぞ道徳の掟を己に当て嵌めることだけは免してくれ。
それから君に手短に言って置くがね。
あの旨そうな若々しい肌に今宵己の手が触れることが出来なかったら、
夜なかまで待たずに君とお分にするよ。

あの女の目や、頬や、唇にはことばがある。いや、脚も話しかけてくる。[There's language in her eye, her cheek, her lip, Nay, her foot speaks. ](Troilus and Cressida)

メフィストフェレス

…わたしは女に道徳的な文句を歌って聞せて、
あべこべに迷わせて遣るのですよ。

夜の明け掛かる今時分
可哀お方の門口で、
カタリナ、お前は
何していやる。
そりゃ廃すが好い。
門を入る時ゃ娘で這入る。
娘では出て来ないぞえ。
気をお附。
済んでしまえば
おさらばよ。
気の毒な、気の毒な娘達。
自分の体が大事なら、
花盗人に
油断すな、
指環を嵌めて貰うまで。

若い娘たちの若い人妻たちの、みんなそれぞれにちがった顔、それらがわれわれにますます魅力を増し、もう一度めぐりあいたいという狂おしい欲望をつのらせるのは、それらが最後のどたん場でするりと身をかわしたからでしかない、といった場合が、われわれの回想のなかに、さらにはわれわれの忘却のなかに、いかに多いことだろう。(プルースト『ゲルマントのほう 二』)

グレエトヘン(マルガレエテ)

今までは余所の娘が間違でもすると、
わたしもどんなにか元気好くけなしただろう。
余所の人のしたと云う罪咎を責めるには、
わたしもどんなにか詞数が多かっただろう。
人のした事が黒く見える。その黒さが
足りないので、一層黒く塗ろうとする。
そして自分を祝福して、えらい人のように思う。
今は自分も犯しているのに。
だけれど、だけれど、それまでになる道筋は、
まあ、あんなに好かったのに、あんなに美しかったのに。

女は口説かれているうちが花。落ちたらそれでおしまい。喜びは口説かれているあいだだけ。[Women are angels, wooing: Things won are done; joy's soul lies in the doing.]( Troilus and Cressida )


ファウスト(娘と踊りつゝ。)

いつか己ゃ見た、好い夢を。
一本林檎の木があった。
むっちり光った実が二つ。
ほしさに登って行って見た。    

美人

そりゃ天国の昔からこなさん方の好な物。
女子に生れて来た甲斐に
わたしの庭にもなっている。

メフィストフェレス(老婆と。)

いつだかこわい夢を見た。
そこには割れた木があった。
その木に□□□□□□があった。
□□□□けれども気に入った。    

老婆

足に蹄のある方と
踊るは冥加になりまする。
□□がおいやでないならば
□□の用意をなさりませ。

ーーゲーテ「ファウスト」 森鴎外訳

[英訳]

Mephistopheles (Dancing with the old witch.)

A vile dream once came to me,
In it, I saw an old cleft tree,
A monstrous crack there met my eyes,
It pleased me, though, despite its size.

The Old Witch

I offer my best greetings to
The knight of the cloven shoe!
He'll need to have a real stopper,
If he's not scared of that whopper.

…………

竹藪に榧の実がしきりに落ちる
アテネの女神に似た髪を結う
ノビラのおつかさんの
「なかさおはいりなせ--」という
言葉も未だ今日はきかない。

ーー西脇順三郎「留守」


2016年5月21日土曜日

沙羅の木と寺の庭

沙羅の木
                  
褐色の根府川石に
白き花はたと落ちたり、
ありとしも靑葉がくれに
見えざりし さらの木の花。


この森鴎外の詩をめぐって、中井久夫は次のようにいう。

押韻もさることながら、「褐色(かちいろ)の根府川石(ねぶかはいし)」「石に白き花はたと」「たり/ありしとも青葉がくれに/みえざりし」に代表される遠韻、中間韻の美は交錯して、日本詩のなかで稀有な全き音楽性を持っている(中井久夫『分裂病と人類』)

こう記す中井久夫は、みずから訳詩だけでなく、散文でもこの韻の交錯を試みている。

ふたたび私はそのかおりのなかにいた。かすかに腐敗臭のまじる甘く重たく崩れた香り――、それと気づけばにわかにきつい匂いである。

それは、ニセアカシアの花のふさのたわわに垂れる木立からきていた。雨上りの、まだ足早に走る黒雲を背に、樹はふんだんに匂いをふりこぼしていた。

金銀花の蔓が幹ごとにまつわり、ほとんど樹皮をおおいつくし、その硬質の葉は樹のいつわりの毛羽となっていた。かすかに雨後の湿り気がたちのぼる。(中井久夫「世界における索引と徴候」『徴候・記憶・外傷』所収)


ここには数え切れないくらいの頭韻、押韻、遠韻、中間韻がある(参照)。もともと名文章家の中井久夫であるがーー、≪現代日本語の書き言葉がそれでもなお辛うじて保っている品格は、カヴァフィスやヴァレリーの翻訳を含む中井久夫の文業に多くを負っている≫(松浦寿輝)--、しかもその中井久夫の稀有の時期に書かれた名文章であると、わたくしは思う。

私は多くの文章を暗誦したり筆記する習慣がある。よい文章とは口唇感覚にも口腔感覚にも発声に参与する筋の筋肉感覚にも快い。筆記感覚でさえうれしい。私には、言語の深部構造とはチョムスキーのいう構造主義的なものを突き抜けて、こういう生理的・官能的なものにまで行き着くのではないかとひそかに思っている。実際、同じ口唇感覚であり口腔感覚であり、ノドと下顎を動かす筋肉であるためか、私に合った詩や散文を現前させている時には、ほとんど現実の果実を果汁を滴らせながらかぶりついている感覚を感じる。 

果実が溶けて快楽〔けらく〕となるように
その息絶える口の中で
その「不在」を甘さに変えるように
――ポール・ヴァレリー「海辺の墓地」第五節――

しかも、詩の果実は実在の果実と違って口の中に消えてもまた再生する! (中井久夫「詩を訳すまで」初出1996『アリアドネからの糸』所収)
五十歳の秋になって、何度目かの言語の節目が現れた。偶然の機会から詩を訳すようになったのである。「精神」「分裂」「傷害」「解体」というたぐいの語ばかりを語り、そういう字を書くことに私の言語意識が耐えられなくなって反抗を起こしたのであろう。ヴァレリーは「ほんとうに言葉が歌うのだよ」と言っているが、私にも、一つ一つの日本語の単語がほんとうに歌うように感じられる時期があった。その伴示、類語、類音語、音調、イマージュ、色調、粘膜感覚と筋肉感覚などで一語一語が重すぎるほどであった時期があった。頭韻や半階音が寝床までつきまとったこともあった。訳詩が完成して一年ほど経って、それが消えていることに気づいた。その時の詩集のページは知らん振りをして横顔を見せている少女のようであった。私は「詩がさっぱりわからない」という人には詩がこういうふうに映っていることを理解した。(同上)

※ヴァレリーの『魅惑』における調子の変化 ―「石榴」と 「失われた酒」―鳥山定嗣、PDF




ここにある訳文は、中井久夫訳ではない。ヴァレリーの詩がどんな工夫・彫琢がなされているかを示すために掲げた。

…………

……三好が詩に於てつとに萩原朔太郎を宗としたことは周知のとほりだが、その詩境をうかがふに、年をふるにしたがつて、むしろ室生さんのはうに「やや近距離に」あゆみ寄つて来たのではないかとおもふ。萩原さんの詩はちよつと引つかかるところがあるけれど、室生さんの詩のはうはすらすら受けとれると、げんに當人の口から聞いたことがあつた。萩原さんをつねに渝らず高く仰いてゐた三好として、これは揣らずもみづからの素質を語つたものだらう。ちなみに、そのときわたしは鑑賞上それと逆だと應へたおぼえがある。また三好が酣中よくはなしてゐたことに、芥川龍之介は百發九十九中、室生犀星は百發わづかに一中だが、のべつにはづれる犀星の鐵砲がたまにぶちあてたその一發は芥川にはあたらないものだといつて、これにはわたしも同感、われわれは大笑ひした。つち澄みうるほひ、石蕗の花咲き……といふ室生さんの有名な詩は三好が四十年あまりにわたつで「惚れ惚れ」としつづけたものである。「つち澄みうるほひ」はまさに犀星の一發。このみがき抜かれたことばの使ひぶりは詩人三好が痩せるほど氣に入つた呼吸にちがひない。(石川淳「三好達治」『夷斎小識』所収)

三行、四行目、≪あはれ知るわが育ちに/鐘の鳴る寺の庭≫は、いささか凡庸か。

だが、犀星のこの「つち澄みうるほひ、石蕗の花さき」はたしかにひどく美しい。この二行だけ取り出せば、鴎外の「沙羅の木」の詩句よりずっと美しい。

こうまで惚れ惚れするのだから、三好達治はみずからも試みていないではない。犀星のこの二行には格段に劣りはしても。

池に向へる朝餉

水澄み
ふるとしもなきうすしぐれ
啼く鳥の
鳥のねも日にかはりけり
……

奥野健男によれば、萩原朔太郎全集の編集に際して、犀星と達治は喧嘩別れし、そのまま絶交状態にあったのだが、達治は犀星の通夜に羽織袴で現われたという。「二日続いたお通夜のあと、三好さんは家にも帰らず、とん平でいつまでも飲み続けられていた。そしてたまたま隣の席に坐つたぼくに、自分がどの位犀星に決定的な影響を受けたか、詩人として完成したのは朔太郎だがそのそもそもは犀星の『抒情小曲集』の革命的な詩表現にあることを何度となく繰り返し述べ、惜しい詩人を喪つたと言つては絶句し、涙をぬぐわれるのであつた」。(三好達治の「雪」(その一~その十)


甃のうへ    三好達治

あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ

をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりにうるほひ
廂々に
風鐸のすがたしづかなれば

ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうへ



春の寺    室生犀星

うつくしきみ寺なり
み寺にさくられうらんたれば
うぐひすしたたり
さくら樹にすゞめら交(さか)り
かんかんと鐘鳴りてすずろなり。
かんかんと鐘鳴りてさかんなれば
をとめらひそやかに
ちちははのなすことをして遊ぶなり。
門もくれなゐ炎炎と
うつくしき春のみ寺なり。




2015年3月1日日曜日

荷風の「掃庭」人格

鴎外の娘小堀杏奴の随筆「火吹竹」(「図書」昭和37年12月号)には、大正11年に鴎外が亡くなったあと母親(鴎外夫人志げ)が、偏奇館を訪ねたときの言葉があるそうだ。

「荷風先生という方はとても変った方だよ。立派なお邸に住っていらしって、優しく、丁寧なものごしの方だけど、その御家の荒れていること、雑草がもう背よりも高く茂ってて、まるでお化け屋敷のようだったよ」

この文を引用しつつ、『荷風と東京「断腸亭日乗」私註』(川本三郎)にはこうある。

荷風の庭好きはだから極端にいえば、言葉(文化)としての庭好きであって、実際に、庭や草花が好きというのとは少し違う。現実の庭いじりよりも、荷風にとっては、日記に「庭の落葉を掃ふ」「雨の晴れ間に庭の雑草を除く」と書き記すことが大事なのである。

事実、本当に庭好きならば偏奇館の庭はいつもきれいに整えられている筈だが、実際にはそうではなかった。

断腸亭日乗 大正14年11月16日より。

毎朝二階を掃除して後、暇あれば庭に出で草を抜き葉を掃ふ時、必思出すは伊澤蘭軒が掃庭の絶句なり。

すなわち、次ぎの文である。

わたくしは更に細に詩集を検して、箒を僮僕の手に委ぬることが、蘭軒のために奈何に苦しかつたかを想見した。文化己巳は蘭軒の猶起行することを得た年である。当時の詩中に「掃庭」の一絶がある。「手提筅箒歩庭隅。無那春深易緑蕪。刈掃畏鏖花草去。頃来不輙付園奴。」(森鴎外『伊沢蘭軒』)

ふたたび、断腸亭日乗から抜き出せばかくの如し。

「庭の落葉を掃ふ」(大正9年10月15日)、
「庭を掃ふ」(大正13年4月23日)、
「午後小園の落葉を掃ふ」(同年11月19日)、

「掃庭半日」(大正14年3月21日)、
「曇りて風なし。落葉を掃ふ」(同年11月12日)、
「今日も風静なるを幸落葉を焚きて半日を消す。毎年立冬の後、風なき日を窺ひ落葉を焚きつゝ樹下に書をよむほど興趣深きはなし」(同年11月22日)、
「昨日の烈風に落葉庭を埋む。掃うて焚く」(同年12月3日)、

「庭の落葉を焚く」(昭和19年9月10日)、
「庭の落葉を焚く」(9月14日)、
「掃庭半日」(10月11日)、
「庭に出で枯枝を焚きて飯を炊き得るなり」(11月13日)。


前回も引用したが、これは荷風の「庭を掃ふ」人格とでもいうべきものだろう。

日記も、読まれることを予想して書かれることがしばしばある。永井荷風の『断腸亭日乗』やジッドの『日記』は明らかにそうであろう。精神医学史家エランベルジェは、日記を熱心に書きつづける人には独立した「日記人格」が生まれてくると言っている。日記をつける人も読む人も、このことは念頭に置くほうがよいだろう。(中井久夫「伝記の読み方、愉しみ方」『日時計の影』所収)

こういったことは荷風の日記だけ読んでいても、なかなか気づきにくい。もし〈あなた〉がすべての書き物を小説を読むようにして読むという訓練をしていなかったら。

ここに書かれているいっさいは、小説の一登場人物――というより、むしろ複数の登場人物たち――によって語られているものと見なされるべきだ。(……)すなわちエッセーはおのれが《ほとんど》小説であること、固有名詞の登場しない小説であることを、自分に対して白状するべきであろう。(『彼自身によるロラン・バルト』ーーこの「私」に何の価値があるのでしょう?

わたくしも、どちらかというと荷風の日記を、いわゆる「マジ」で受け取って読んできた「マヌケ」系である。

だが、たとえば次ぎの文を読めば、荷風の言葉の使い方がーー少なくともそのある割合はーーどのようなものであるかは、推測できる。

わたくしが梅花を見てよろこびを感ずる心持は殆ど江戸の俳句に言尽されている。今更ここに其角嵐雪の句を列記して説明するにも及ばぬであろう。わたくしは梅花を見る時、林をなしたひろい眺めよりも、むしろ農家の井戸や垣のほとりに、他の樹木の間から一株二株はなればなれに立っている樹の姿と、その花の点々として咲きかけたのを喜ぶのである。いわゆる竹外の一枝斜なる姿を喜び見るのである。 

梅花を見て興を催すには漢文と和歌俳句との素養が必要になって来る。されば現代の人が過去の東洋文学を顧ぬようになるに従って梅花の閑却されるのは当然の事であろう。啻に梅花のみではない。現代の日本人は祖国に生ずる草木の凡てに対して、過去の日本人の持っていたほどの興味を持たないようになった。わたくしは政治もしくは商工業に従事する人の趣味については暫く擱いて言わぬであろう。画家文士の如き芸術に従事する人たちが明治の末頃から、祖国の花鳥草木に対して著しく無関心になって来たことを、むしろ不思議となしている。文士が雅号を用いることを好まなくなったのもまた明治大正の交から始った事である。偶然の現象であるのかも知れないが、考え方によっては全然関係がないとも言われまい。(永井荷風『葛飾土産 』)

一読奇妙な言い方である。漢文と和歌俳句との素養なければ梅花を愛でることはできないのか、とひとまずは反撥してみたくなる。だが、《われわれが相手の人の顔を見、その声をきくたびに、目のまえに見え、耳にきこえているのは、その人についての概念なのである》(プルースト)と補っておこう。

そもそもわれわれは、古来の日本文学をめぐって、柳田国男=柄谷行人によって次のような指摘をすでに知ってしまっている。

実朝も芭蕉もけっして「風景」をみたのではない。彼らにとって、風景は言葉であり、過去の文学に他ならかなった。柳田国男がいうように、『奥の細道』には「描写」は一行もない。「描写」とみえるものも「描写」ではない。(柄谷行人『日本近代文学の起源』)

で、なにがいいたいというのだろう。ことわっておくが、わたくしは荷風好きだ。上のようなことが漸くわかってきたにもかかわらず。なぜ荷風好きなのかは、おそらくもっと追求してみなくてはならない。追求したってわからないかもしれない。そもそも「追求」などという言葉は戯言である。ここでは別の話を書く。


わたくしは、ツイッターなどでも、他人のツイートを荷風の日記を読むようにして、すなわち疑いつつ眺めることが多い。もっとも、《精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである》(中井久夫『治療文化論』)というほどではない。

とくに文学臭をぷんぷんさせているような人物のツイートならことさら疑いの眼を向けつつ読む。連中の言葉は軽いのである。

「言葉が軽い」のと「言葉に軽みがある」のとは断じて違う。無闇と振り回さないと決めて大事にしている語彙はあるか? 安易に流れるから絶対使わない言葉は?重々しい言い方で、だらしない共感をもとめていないか? 純粋素朴を装い、自らの密かな欲望から目をそらして言葉を使っていないか? (佐々木中)

たとえば、文学好きのホモセンチメンタリスが、「静謐」という言葉を耽溺したようにして使うとき、わたくしはひそかに「性膣」と読み替えてニヤニヤするということは以前書いた(参照:「ちゃんとウンコはふけてるかい  弱虫野郎め」)。ここでの「文学好き」とは、もちろん、《文学はあらゆる夢物語への否定であることを知らない連中の愚昧》(丹生谷貴志)という意味での「文学好き」である。

では、わたくしの「荷風好き」というのも愚昧の一種であろうか。おそらくその部分はあるに相違ないのだが、それに抵抗して、なおかつ荷風を愛するというのなら、なんなのだろうか。それを書かなければ、「愚昧」のままである・ ・ ・

そもそも、わたくしは、三文詩人ーーそれは名の知れた詩人も含まれるーーなどの詩にもひどくイライラすることが多い。

深遠な知能を持った仮借ない資質の人は文学に興味を持ち得るであろうか?どのような関係?そして彼は自分の心のどの部分に文学を置くだろうか?( ヴァレリー)

…………

・プラトンの評判には傷がついている。詩人どもはポリスから放逐されるべき、と主張したか らだ。――いや、ユーゴスラビア分裂体験を経た今から判断するなら、これはむしろ良識 あるアドバイスだったというべきか。

・「大他者」としての言語は、われ われが波長を合わせるべきメッセージを携えた知の代理人ではない。言語は常軌を逸した無関心と愚行の場なのだ。言語に対する折檻のもっとも初歩的な表現形式、それは詩と呼ばれている。(ジジェク「詩に歌われる言語の折檻所――いかにして詩は民族浄化と関係するか」)



2014年12月5日金曜日

遺伝子工学の時代のサド的な「不死の」究極の拷問

苦痛のケースを例に取ってみよう。現実のヴァーチャル化と、計りしれない無限化された肉体の苦痛のあいだには密接な関係がある。それはふつうの苦痛よりも途轍もなく強烈なものだ。

遺伝子工学とヴァーチャルリアリティの組み合わせは、新しく「高められたenchanced」拷問の可能性を開くのではないか? われわれの苦痛に耐える能力の拡張の、新しい、前代未聞の地平を(苦痛を我慢する知覚能力の拡張を通して、そしてとりわけ、知覚認知をバイパスして脳中枢を直接に攻撃する方法、こういった苦痛を加える新しい形式の発明を通して)。

たぶん、究極のサド的な「不死の」拷問の餌食のイメージ、ーー死に逃れる得ずに、絶え間ない苦痛を持続させる犠牲者ーーこれもまた現実になるのを待っている。そのような可能性においては、究極のリアル/不可能な苦痛は、もはや実際の肉体の苦痛ではなく、ヴァーチャルリアリティによって引き起こされた「完全無欠の」ヴァーチャルリアルな苦痛である。(そして、勿論、同じことは性的快楽についても言える)。(『ジジェク自身によるジジェク』私意訳)
二〇〇五年十一月、ブッシュ大統領は「われわれは拷問していない」と声高に主張しつつ、同時に、ジョン・マケインが提出した法案、すなわちアメリカの不利益になるとして囚人の拷問を禁止する(ということは、拷問があるという事実をあっさり認めた)法案を拒否した。われわれはこの無定見を、公的言説、つまり社会的自我理想と、猥雑で超自我的な共犯者との間の引っ張り合いと解釈すべきであろう。もしまだ証拠が必要ならば、これもまたフロイトのいう超自我という概念が今なお現実性を保っていることの証拠である。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳)

…………






諸君はあのドイツの古い刑罰、例えば、石刑(――すでに口碑に伝えるかぎりでも、石臼が罪人の頭上に落下する)、車裂きの刑(刑罰の領域におけるドイツ的天分の最も独自な創意であり、十八番だ!)、杙で貫く刑、馬に引き裂かせたり踏みにじらせたりする刑(「四つ裂き」)、犯人を油や酒の中で煮る刑(十四世紀および十五世紀になお行なわれていた)、人気のあった皮剝ぎの刑(「革紐作り」)、胸から肉を切り取る刑などを思い合わせ、更に悪行者に蜜を塗って烈日の下で蠅に曝す刑なども思い合わせてみるがよい。そうした様々な光景を心に留め、後者の戒めとすることによって、人々はついに、社会生活の便益を享有するためにかねた約束した事柄に関して、幾つかの「われ欲せず」を記憶に留めるようになる。――そして実際! この種の記憶の助けによって、人々はついに「理性に」辿り着いたのだ! ああ、理性、真摯、感情の統禦など、およそ熟慮と呼ばれているこの暗い事柄の全体、人間のすべてのこうした特権と美粧、これらに対して支払われた代価がいかに高かったことか! いかに多くの血と戦慄があらゆる「善事」の土台になっていることか! ……(ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳 岩波文庫 p68)

道三は新しい血をためすために、最大の権力をふるった。その血は、彼の領内が掃き清められたお寺の院内のように清潔であることを欲しているようであった。

 院内の清潔をみだす罪人を――罪人や領内の人々の判断によるとそれは甚しく微罪であったが――両足を各の牛に結ばせ、その二匹の牛に火をかけて各々反対に走らせて罪人を真二ツにさいたり、釜ゆでにして、その釜を罪人の女房や親兄弟に焚かせたりした。(坂口安吾『梟雄』)



壽阿彌の手紙には、多町の火事の條下に、一の奇聞が載せてある。此に其全文を擧げる。「永富町と申候處の銅物屋大釜の中にて、七人やけ死申候、(原註、親父一人、息子一人、十五歳に成候見せの者一人、丁穉三人、抱への鳶の者一人)外に十八歳に成候見せの者一人、丁穉一人、母一人、嫁一人、乳飮子一人、是等は助り申候、十八歳に成候者愚姪方にて去暮迄召仕候女の身寄之者、十五歳に成候者愚姪方へ通ひづとめの者の宅の向ふの大工の伜に御坐候、此銅物屋の親父夫婦貪慾強情にて、七年以前見せの手代一人土藏の三階にて腹切相果申候、此度は其恨なるべしと皆人申候、銅物屋の事故大釜二つ見せの前左右にあり、五箇年以前此邊出火之節、向ふ側計燒失にて、道幅も格別廣き處故、今度ものがれ可申、さ候はば外へ立のくにも及ぶまじと申候に、鳶の者もさ樣に心得、いか樣にやけて參候とも、此大釜二つに水御坐候故、大丈夫助り候由に受合申候、十八歳に成候男は土藏の戸前をうちしまひ、是迄はたらき候へば、私方は多町一丁目にて、此所よりは火元へも近く候間、宅へ參り働き度、是より御暇被下れと申候て、自分親元へ働に歸り候故助り申候、此者の一處に居候間の事は演舌にて分り候へども、其跡は推量に御坐候へ共、とかく見せ藏、奧藏などに心のこり、父子共に立のき兼、鳶の者は受合旁故彼是仕候内に、火勢強く左右より燃かかり候故、そりや釜の中よといふやうな事にて釜へ入候處、釜は沸上り、烟りは吹かけ、大釜故入るには鍔を足懸りに入候へ共、出るには足がかりもなく、釜は熱く成旁にて死に候事と相見え申候、母と嫁と小兒と丁穉一人つれ、貧道弟子杵屋佐吉が裏に親類御坐候而夫へ立退候故助り申候、一つの釜へ父子と丁穉一人、一つの釜へ四人入候て相果申候、此事大評判にて、釜は檀那寺へ納候へ共、見物夥敷參候而不外聞の由にて、寺にては(自註、根津忠綱寺一向宗)門を閉候由に御坐候、死の縁無量とは申ながら、餘り變なることに御坐候故、御覽も御面倒なるべくとは奉存候へ共書付申候。」

此銅物屋は屋號三文字屋であつたことが、大郷信齋の道聽途説に由つて知られる。道聽途説は林若樹さんの所藏の書である。

 釜の話は此手紙の中で最も欣賞すべき文章である。叙事は精緻を極めて一の剩語をだに著けない。實に據つて文を行る間に、『そりや釜の中よ』以下の如き空想の發動を見る。壽阿彌は一部の書をも著さなかつた。しかしわたくしは壽阿彌がいかなる書をも著はすことを得る能文の人であつたことを信ずる。(森鴎外『寿阿弥の手紙』)