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2016年7月22日金曜日

女客と来た日には、顔とお作りを見せに来て、 給金なしで一しょに芸をしてくれる

思って御覧なさい。あなた方は軟い木を割る役だ。
誰を相手に書くのだか、目を開いて見て下さい。
退屈まぎれに来る客もあれば、
えらい馳走に逢った跡で、腹ごなしに来る客もある。
それから一番の困りものは
新聞雑誌を読み厭きてから遣って来る。
仮装舞踏へでも行くように、うっかりして駆け附ける。
その足を早めるのは、物見高い心持ばかりです。
女客と来た日には、顔とお作りを見せに来て、
給金なしで一しょに芸をしてくれる。
一体あなた方は詩人の高みでなんの夢を見ているのです。

ーーゲーテ『ファウスト』森鴎外訳

場中の様子は先刻見た時と何の変りもなかった。土間を歩く男女の姿が、まるで人の頭の上を渡っているように煩らわしく眺められた。できるだけ多くの注意を惹こうとする浮誇の活動さえ至る所に出現した。そうして次の色彩に席を譲るべくすぐ消滅した。眼中の小世界はただ動揺であった、乱雑であった、そうしていつでも粉飾であった。 

比較的静かな舞台の裏側では、道具方の使う金槌の音が、一般の予期を唆るべく、折々場内へ響き渡った。合間合間には幕の後で拍子木を打つ音が、攪き廻された注意を一点に纏めようとする警柝の如に聞こえた。 不思議なのは観客であった。何もする事のないこの長い幕間を、少しの不平も云わず、かつて退屈の色も見せず、さも太平らしく、空疎な腹に散漫な刺戟を盛って、他愛なく時間のために流されていた。彼らは穏和かであった。彼らは楽しそうに見えた。お互の吐く呼息に酔っ払った彼らは、少し醒めかけると、すぐ眼を転じて誰かの顔を眺めた。そうしてすぐそこに陶然たる或物を認めた。すぐ相手の気分に同化する事ができた。(夏目漱石『明暗』)

(La Loge. Pierre-Auguste Renoir)

二人の話はただ吉川夫人の双眼鏡に触れただけであった。お延はわざと手真似までして見せた。

「こうやって真ともに向けるんだから、敵わないわね」

「ずいぶん無遠慮でしょう。だけど、あれ西洋風なんだって、宅のお父さまがそうおっしゃってよ」

「あら西洋じゃ構わないの。じゃあたしの方でも奥さんの顔をああやってつけつけ見ても好い訳ね。あたし見て上げようかしら」

「見て御覧なさい、きっと嬉しがってよ。延子さんはハイカラだって」(同、漱石)




とはいえ、現代日本のクラッシック音楽演奏会では(形式的には)こういったことは少ないだろう・・・

実際コンサート・ホールという場にあっては、音楽はめったに人の心に届かないと彼はすでに感じていた。うとうとしている人々、終わったあとの食事を思い浮かべている人々、翌日になって演奏会に行ったと語るのが目的で来ている人々、彼らを除いてしまえば、ほとんど誰もいなくなる。ぬるま湯につかったような態度で音楽に接する人々や、音楽を聞きながら夢想や計算をやめずにいられる人々に比べれば、音楽に恐れをなして逃げ出してしまう人々のほうがよかった。(シュネデール『グレン・グールド paino solo』)

◆Southern Cross (Juan María Solare). Piano: Yuji Takahashi



人びとがあつまるとき、
行事であれ、儀式であれ、
ただ人びとが会うことの悦びのためであれ、
音楽がそこにあれば、楽しい。
それがなくても、人びとはあつまるが、
音楽は集いを、ともにあることのしあわせと、
ふかいやすらぎで飾る。
コンサートの語源は「合意にもちこむ」ということらしい。
争っていたものたちが和平を結ぶ場を想像してみれば、
そこには飲み食いがあり、唄があり、踊りがあり、
それらすべてが音楽ではなかったろうか。
いまコンサート会場には、飲み物食べ物はもちこめず、
踊る場所もなく、歩くことも、立つこともできず、
音楽家と、見物人に分かれ、区切られて、座っている。
それでも、コンサートは否定されるべきものだ、
と言うことはない。
コンサートは現実の場であり、そこに来る人たちがいる限り、観念で否定しても、なくなることはない。
それに替わるものがなければ、いくら貧しくても、
コンサートは音楽の場でありつづける。
別な場をつくりだすのは、音楽家のしごとではない。
人びとのあつまりかた、人間関係、社会が変わらなければ、
音楽の場は変わらないだろう。(高橋悠治「音楽の反方法論的序説」)

◆Yuji Takahashi plays Bach Six Partitas



ピアノは生活の手段だった。(……)ピアニストとみなされると、人が聞きたがるものを弾くことになる。バッハを弾いているとそればかり求められるが、日本では数十年前のグレン・グールドの代用品にすぎないから、弾くだけむだと最近は思うようになった。(……)

確信をもっていつも同じ演奏をくりかえす演奏家がいる。この確信は現実の音を聞くことを妨げる障害になるのではないかと思うが、感性のにぶさと同時に芸の傲慢さをしめしているのだろう。演奏が商品でありスポーツ化している時代には、演奏家の生命は短い。市場に使い捨てられないためには、いつも成長や拡大を求められているストレスがあるのかもしれない。(高橋悠治「ピアノを弾くこと」)

◆Gould - Bach's bourree takes




家具になった音楽  高橋悠治

グレン・グールドが死んだ。クラッシック演奏のひとつの演奏はおわった。

現代のコンサートホールで2000人以上の聴き手をもつようなピアニストは、きめこまかい表現をあきらめなければならない。指はオーケストラ全体にまけない大きい音をだす訓練をうけ、小さな音には表情というものがないのもしかたのないことだ。容量のわずかなちがいによってつくられる古典的リズム感覚は失われた。耳をすまして音を聴きとるのではなく、ステージからとどく音にひたされていればいい耳は、なまけものになった。

音の技術が進む中で
1950年代にレコードがLPになり、テープ編集技術ができあがり、「電子音楽のゆめ」がうまれた。

どんな音もスタジオのなかでおもうままにつくり、くみあわせることができる、と音楽家たちはおもった。材料は自然の音にしろ、人間の声やピアノの音にしろ、聴き手がうけとるのは電圧の変化によるスピーカー膜の振動なのだから、どんな音も電子音の一種に変えられて耳にとどいている。おなじ空間のなかで、つくり手と聴き手がわかちあう音楽ではなく、聴き手のいないスタジオでうまれ、つくり手のみえないスピーカーからながれる音楽がある。音楽は密室の家具になった。テレビが映像をふくむ照明装置であるように。

グレン・グールドは、コンサートホールを捨てて、スタジオにこもった。なまの演奏の緊張と結果のむなしさに神経がたえられなかったのかもしれないが、それを時代の要求にしたてあげたのが、彼の才能だったのか。

グールドのひくバッハは、1960年代にはその演奏スタイルでひとをおどろかした。極端にはやいか、またはおそいテンポ、かんがえぬかれ、即興にみせかけた装飾音、みじかくするどい和音のくずし方。だが、それは18世紀音楽の演奏の約束ごとを踏みはずしてはいない。1970年代には古楽や古楽器の演奏にふれることもおおくなり、グールドの演奏も耳あたらしいものではなくなった。マニエリズムというレッテルをはることもできるようになった。

だが、1960年代のグールドのメッセージは、演奏スタイルではなかった。コンサートホールでは聴くことができない、ということに意味があった。おなじころ、グールドの住んでいた町、カナダのトロントからマーシャル・マルクーハンが活字文化の終わりを活字で主張していた。「メディアがメッセージだ」というのが時代のあいことばだった。

この「電子時代のゆめ」は、数年間しかもちこたえることができなかった。1968年がやってきた。プラハの町にソ連の戦車が姿をあらわし、フランスとドイツで若者たちが反乱をおこし、やがてベトナムはアメリカに勝つ。中国の文化革命もあらしを過ぎ、石油危機を通りぬけると、テクノロジー信仰も、それと対立するコミューンの実験を道づれにしてくずれおちた。次の世代には身をあずけられる原理も、すすむべき道ものこされていなかった。いまメディア革命やその反対側の対抗文化にしがみついている少数は、うしろめたさを感じないではいられないはずだ。いらなくなった文明が病気となって人間にとりついている。文明に反逆する人間も、おなじ病気にかかっている。どちらも船といっしょにしずむのだ。

われわれのしらない明日がやってくる。そこにたどりつこうとしてはいけない。明日やってくる人たちのために、今日のガラクタをしまつしておくのはいい。世界というからっぽな家をひきわたして、でていけばいいのだ。

マルクーハンが死んだときは、もう忘れられていた。グールドも「メディアとしてのメッセージ」の意味がなくなったあとは、演奏スタイルの実験をくりかえすことしかできなかった。レコードというかたちがあたらしくなくなれば、聴いたことのない曲をさがしだしてくるか、だれでもがしっている曲を、聴いたことのないやり方でひくしかない。どちらにしても、そういう音楽はよけいなぜいたくで、なくてもすむものだ。

あすへのつらい希望
音楽なんか聴かなくても生きていける。メッセージがあるとすれば、そういうことだ。クラッシク音楽が、聴き手にとってはとっくに死んだものであることに気づかずに、または気づかぬふりをして、まじめな音楽家たちは今日もしのぎをけずり、おたがいをけおとしあい、権力欲にうごかされて、はしりつづけている。音楽産業はどうしようもない不況で、大資本や国家が手をださなければなりたたないというのに、音楽市場はけっこう繁栄している。これほどのからさわぎも、そのななから、人びとにとって意味のあるあたらしい音楽文化をうみだすことに成功してはいない。

グレン・グールドは50歳で死んだ。いまの50歳といえば、まだわかい。だが、かれの死ははやすぎはしなかった。

かれだけではない。だれが死んだって、やりのこしたしごとなどないだろう。しごとの意味の方がさきに死んでしまっている。どこかでそれとしりながら、しごとを続けているのがいまの音楽家の運命だ。こういう仕事をしていれば、いのちをすりへらしても当然だ。

音楽というものがまだほろびないとすれば、明日には明日の音楽もあるだろう。だが、それを予見することはわれわれのしごとではない。いまあるような音楽が明日までも生きのびて明日をよごすことがないとおもえばこそ、音楽の明日にも希望がもてるというものだ。音楽家にとってつらい希望ではあっても。(讀賣新聞 1982年10月21日付け夕刊のグールド追悼記事)

…………

さて、ここで引用の文脈の腰を折って、デュシャンを持ち出す。

デュシャンが「泉」と題して便器を美術展に提示したとき、彼は芸術を芸術たらしめるものが何であるかをあらためて問うたのだが、それはまさにカントが提起したポイントの一つであった。すなわち、物をそれに対する日常的諸関心を括弧に入れて見ること。もう一つのポイントは、美的判断には普遍性が要求されるにもかかわらずそれがありえないということ、われわれが普遍的と見なすものは歴史的に形成された「共通感覚」にもとづいているということである。(柄谷行人『トランスクリティーク』岩波定本 P.172)



超越論的態度は暗黙に「括弧に入れよ」という命令をふくんでいる。たとえば、私は先にデュシャンが便器を美術館に展示したことについてふれた。その場合、彼はそれを芸術として見ること、つまり、日常的関心を括弧に入れることを命じてはいない。しかし、それが美術展に置かれているということが、人にそれを美術として見ることを「命令」しているのであり、そのことに人は気づかないのだ。同様に、超越論的な視点がそのような「命令」をはらんでいることが忘れられている。のみならず、超越論的な視点そのものが一つの命令に促されているということが。そのことは、超越論的視点そのものがどこから来るのかと問うとき、明らかになる。それは根本的に「他者」にかかわっている。超越論的視点そのものが倫理的なのだ。(同上 P.181)




いや、ひょっとしたら、わたくしの愛する古代キクラデス諸島の彫刻 と同じくらい美しいかもしれない。





とはいえ、グレン・グールドと高橋悠治のバッハの美のわずかな差異よりは、より大きな差異があるようにみえないでもない・・・


…………



対象a は象徴的体系内部の非徴示的変調 non-signifying glitch であるにもかかわらず、それは、場のなかを埋め合わせるものとしての要素から形式的構造を分離する裂け目の背景においてのみ把握できる。ジャック=アラン・ミレールは最近、構造と変換の話題についてのこに裂け目を詳述した。彼はラカンの四つの言説の母体を取り上げる。そこでは、時計回りとは逆の動きで、四つの用語のそれぞれ(主体―$、主人のシニフィアン―S1、知識の連鎖―S2、対象―a)が、構造における(代理人、他者、真実、生産物)の四つの場すべてを占めていく。いかになにかが不変であり、同時に何かが変わるかの事例である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)




 ※参照:ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」

何が不変なのだろうか? 場、関係性と場のあいだの関係性である。何が変化するのかは、それらの場を占める用語である。……これは、われわれにまさにこう言い得ることを許してくれる。すなわち、構造において、変形は置換である、と。また置換による発話は、構造を力動的にさせる方法、試みであると。さらに言い得ることは、一と多を分節化するためのある構造的な解決だと。場は固定されており、そして用語の置換により、われわれはヴァリエーションを得る。この(固定された)構造的場と、これらの場を占める(変化する)用語のあいだの相違は、その場の用語のフェティシュな凝固作用を崩すために決定的である。それはわれわれに気づかせてくれる、ある範囲までは、対象から発するアウラは対象の直接的な特性ではなく、それが占める場であるということを。

この場への依存の古典的な例は、もちろん、マルセル・デュシャンのよく知られた小便器である。それは、小便器自体が展示されることによってアートの対象となった。デュシャンの成果は、たんに、アート作品においてなにが重要とされるか(小便器でさえも)の範囲を拡げたことになるのではない。

彼がなしたことはーーそのような普遍化の形式的条件としてーー、対象とそれが占める(構造的な)場のあいだの区別の導入である。すなわち小便器をアート作品とするのは、それに内在する特性ではなく、それが占める場(アートギャラリイ)なのである。あるいはマルクスが遠い昔に商品フェティシズムに関して言ったように、「ひとびとはある人を王とみなすのは、彼が王だからではない。人々が彼を王とみなすから、彼は王なのだ」ということだ。

日常生活において、われわれはこの種の具象化の犠牲者なのである。すなわち、われわれは純粋な形式的あるいは構造的決定性を対象の直接の特性として誤認する。これがデュシャンの展示会におけるまったく正当的なある挑発を想像できる理由である。すなわち観客が小便器に向けて放尿しはじめるという場面。驚いた傍らの見物人が、ここはアートギャラリーですよ、トイレではありません、と彼に注意を促す。彼は応じる、「おお、あなたは分かっていない。私がアート作品の展示空間に入り込めば、私の行動もパフォーマンスになるのだよーー私がしたことは下品な脱崇高化じゃないんだ。私は単にアートの崇高な空間に新しい内容物を満たしただけさ…」。(同ジジェク、2012) 

たとえば、デュシャンの遺作 Étant donnés の狙いは、究極的には、覗き見のパフォーマ―になることではないだろうか。





鍵穴を覗き込む窃視者は、自分自身の見る行為に没頭しているが、やがて突然背後の小枝のそよぎに、あるいは足音とそれに続く静寂に驚かされる。ここで窃視者の視線は、彼を対象として、傷つきうる身体として奈落に突き落とす眼差しによって中断される。(コプチェク『女なんていないと想像してごらん』)





すなわち、ここには、《女客と来た日には、顔とお作りを見せに来て、 給金なしで一しょに芸をしてくれる》ーーということの現代版があるのではないだろうか。




2016年7月17日日曜日

カレ見てると「自分を祝福して、えらい人のように思う」わ

ふたたび、ゲーテのファウストの引用から始める(参照:「もし、美しいお嬢さん」)。

グレエトヘン(マルガレエテ)

今までは余所の娘が間違でもすると、
わたしもどんなにか元気好くけなしただろう。
余所の人のしたと云う罪咎を責めるには、
わたしもどんなにか詞数が多かっただろう。
人のした事が黒く見える。その黒さが
足りないので、一層黒く塗ろうとする。
そして自分を祝福して、えらい人のように思う。

ーーゲーテ「ファウスト」森鴎外訳


古典的な心理的メカニズムとはいえ、グレエトヘンの口からきけるとは、思いの外だった(若いころ、ファウストに一度目を通したことがないではないが、完全な飛ばし読みであり、なんの印象も残っていない)。

さて、ここでフロイトとプルーストを並べて、マルガレエテの言葉と「ともに」読んでみよう。

……他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させるのである。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。その典型は、子供の「しっぺい返し」にみられる。すなわち、子供を嘘つきとして責めると、即座に、「お前こそ嘘つきだ」という答が返ってくる。大人なら、相手の非難をいい返そうとする場合、相手の本当の弱点を探し求めており、同一の内容を繰り返すことには主眼をおかないであろう。パラノイアでは、このような他人への非難の投影は、内容を変更することなく行われ、したがってまた現実から遊離しており、妄想形成の過程として顕にされるのである。

ドラの自分の父に対する非難も、後で個々についてしめすように、ぜんぜん同一の内容をもった自己非難に「裏打ちされ」、「二重にされ」ていた。……(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』(症例ドラ))
……自己を語る一つの遠まわしの方法であるかのように、人が語るのはつねにそうした他人の欠点で、それは罪がゆるされるよろこびに告白するよろこびを加えるものなのだ。それにまた、われわれの性格を示す特徴につねに注意を向けているわれわれは、ほかの何にも増して、その点の注意を他人のなかに向けるように思われる。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに Ⅱ」)

さらにニーチェをつけ加えてもよい。

およそあらゆる人間の運命のうち最も苛酷な不幸は、地上の権力者が同時に第一級の人物ではないことだ。そのとき一切は虚偽であり、ゆがんだもの、奇怪なものとなる。

さらに、権力をもつ者が最下級の者であり、人間であるよりは畜類である場合には、しだいに賤民の値が騰貴してくる。そしてついには賤民の徳がこう言うようになる。「見よ、われのみが徳だ」とーー(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四部「王たちとの会話」手塚富雄訳)

この論理をいっそう展開させれば、民主主義のもとではーーその首長選択の選挙形態や国民性などにもよるがーー、我々は最下級の権力者を見出して自ら安堵するという傾向をもつ(場合がある)という見解さえも納得的に読むことができる。

アメリカ民主主義を特徴づける多元主義は、〈不能な他者〉への忠誠に基礎が置かれている。(コプチェク、Joan Copjec, Read My Desire. Lacan against the Historicists.1994)

これは主にロナルド・レーガンの事例を分析した叙述であり、コプチェクがここで言いたいのは、レーガンはまさに無能であるからこそ愛された〈王〉だったということだ。

ジジェクもレーガンやベルススコーニなどの例を挙げて、次のように記している。

(我々の時代において)直接的な野蛮性から「人間の顔をした」野蛮性への移行。ここで、「人間的、あまりに人間的な」指導者、ベルルスコーニという形象は決定的である。というのは、現在のイタリアは、我々の未来の実験工場だから。我々の政治的風景が、悲観的リベラルテクノクラシーと原理主義的ポピュリズムのあいだで分断されるなら、ベルルスコーニの「偉大な」成果は、この二つを統合したことである。彼は両方とも同時に捕えたのだ。

(…)古典的政治の尊厳は、市民社会における個別の利害の戯れを超えた「昇華」を基盤としている。すなわち、政治は、市民社会から「隔離されている」。政治は、中産階級を特徴づける私利私欲の相克とは対照的に「市民」の理想的地位として、自らを提示した。

ベルルスコーニは、この「隔離」を事実上廃棄した。現代イタリアにおいては、国家権力は、底に横たわる中産階級によって直接的に行使される。彼は、己れの経済的利益を保護するために、破廉恥で開けっぴろげに国家権力を食い物にする。そして、TV画面を眺める何百万の観衆の前で、下品な暴露ショーのスタイルにて、私的な結婚問題の汚れた下着を洗う。(……)

ロナルド・レーガン(そしてアルゼンチンのカルロス・メナム)は…「テフロン加工」の大統領であり、ポスト・エディプス的として特徴づけうる。すなわち、「ポストモダン」大統領は、もはや選挙の公約への一貫性にくそまじめになることさえ期待されない。したがって、批判に損なわれることはない(思い出そう、レーガンの人気は、ジャーナリストたちが彼の失策を列挙したことを受けて、公衆の前に現れるたびに、うなぎ上りになったことを)。

この新しい種類の大統領は、ナイーヴな高揚とほとんど無慈悲な不正操作を混淆させているように見える。

ベルルスコーニの下品な俗物性の賭金は、もちろん、彼が標準的なイタリア人の神話的イメージを具現化、あるいは上演する限りで、人びとが彼に同一化するだろうということだ。「私は、あなたたちのうちの一人だ。いささか堕落して、法律と面倒な関係にある。私は妻から転げ落ちた。というのは他の女にぞっこんになったからだ…」。(…)

たとえベルルスコーニが威厳のない道化だとしてもむやみにあざ笑わないことだ。たぶん彼を笑うことで、われわれはすでに術中に陥っている。ベルルスコーニの笑いはもっと不快で狂気じみた、バットマンやスーパーマン映画の敵役の笑いである。彼の支配の本質についての考察を得るには、『バットマン』に出てくるジョーカーが権力を持った場合を想像するべきだ。(ジジェク、ポストモダンの共産主義、2009、私訳ーー、一部、ネット上から拾えた箇所は、既存の訳を使用)

ーー《人びとが彼(ベルルスコーニ)に同一化する》とある。これは投影(投射)の考え方を主に言っている。

想像的同一化とは、われわれが自分たちにとって好ましいように見えるイメージへの、つまり「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージへの、同一化である。

象徴的同一化とは、そこからわれわれが見られているまさにその場所への同一化、そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、愛するに値するように見えるような場所への、同一化である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989)

もっともより精緻にーーラカン理論に依拠してーー言えば、次のような説明がなされる。

一般的には、理想自我は、自我の理想イメージの外部の世界(人間や動物、物)への投影 projection であり、自我理想は、彼の精神に新たな(脱)形成を与える効果をもった別の外部のイメージの取り込み introjection である。言い換えれば、自我理想は、主体に第二次の同一化を提供する新しい地層を自我につけ加える。(……)

注意しなければならないのは、自我理想は、必然的に、理想自我のさらなる投影を作り変えることだ。すなわち、一方で理想自我は論理的には自我理想に先行するが、他方でそれは避けがたく自我理想によって改造される。これがラカンが、フロイトに従って、次のように言った理由である。すなわち、自我理想は理想自我に「形式」を提供すると(セミネールⅠ)。 ( (ロレンツォ・キエーザ Lorenzo Chiesa 『主体性と他者性』Subjectivity and Otherness、2007)

ーーとはいえ、今はこの解釈に深入りすることはしない。 同一化には、取り込みと投影が混淆しているということをここでは示しておくだけにする。

さて、象徴的同一化の場合、その同一化の対象(人物)は、必ずしもすぐれた対象である必要はない。《そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、愛するに値するように見えるような》対象であることが肝腎な場合が多い。

グレエトヘン(マルガレエテ)は、《余所の娘が間違でもすると、わたしもどんなにか元気好くけなしただろう》と言っていた。そして、《人のした事が黒く見える。その黒さが足りないので、一層黒く塗ろうとする。そして自分を祝福して、えらい人のように思う》ともあった。

ここにも《余所の娘》との象徴的同一化と類似したものがある、とわたくしは思う。それは一般に語られる同一化とはやや異なるが、いわば「憎むことを愛する」のと似たような機制が働いているはずだ。

フロイトの“無意識”とは、……まさに反射性のなかに刻みこまれる。例をあげよう。だれかこの私がヒッチコックの映画の悪党のような人物を“憎むことを愛する”。私は一見この悪役を憎むだけだ。にもかかわらず無意識的には私は(彼を愛しているわけではない、しかし)彼を憎むことを愛するのだ。すなわち、ここにある無意識とは、わたしは反射的に私の意識的な態度に関連させる方法なのだ。(あるいは逆のケースをあげよう。だれかこの私は“愛することを憎む”。フィルムノワールのヒーローは、悪魔的な宿命の女(ファムファタール)を愛さざるをえない、しかし彼女を愛することを彼自身は憎んでいる)。これがラカン曰くの人間の欲望はつねに欲望することを欲望することだの意味である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

フロイト起源の一般的な同一化のメカニズムは次の通り。

ーーここで先にフロイトは《同情は同一化から生まれる》(『集団心理学と自我の分析』)と瞠目することを言っているのを思い出しておこう。すなわち同情するから同一化するのではなく、同一化するから同情する。とすれば、「憎むことを愛する」のは、同一化から生まれるとさえいいうる。

例えば、われわれが同一化する人物は、文字“r”を発音する風変わりな仕方があり、そしてわれわれはそれを同じような仕方で発音し始める。それがすべてである。他の振舞いを試みること、すなわち、この人物のように服を着る、彼女がすることをするなどは、必要がない。フロイト自身、この類の同一化のいくつかの興味深い例を提供している。例えば、他の人物の特有な咳の仕方を模倣する。あるいは少女の寄宿舎の名高い例がある。少女たちの一人が彼女の秘密の恋人から手紙を受け取った。その手紙は彼女を動顛させ嫉妬心で満たした。それはヒステリーの発作の形を取った。引き続いて、同じ寄宿舎の何人かの別の少女たちは同じヒステリーの発作に襲われる。彼女らは彼女の密通を知っており、彼女の愛を羨んでいた。そして彼女のようになりたい、と。とはいえ、この彼女との同一化は、奇妙な形をとっており、すなわち、問題の少女において、彼女の密かな恋の危機の瞬間に現われた特徴に同一化する形である。(ジュパンチッチ、WhenSurplus Enjoyment Meets Surplus Value"(Alenka Zupancic)PDFーー享楽とシニフィアン)

いずれにせよ、人は、ベルルスコーニやレーガンが醜悪さを曝すとき、一介の市民に過ぎない自分が彼らよりも《えらい人のように思》えて、心地よく感じたり安堵したりする場合があるのではないだろうか。そうして(ときに)親近感が生まれる。さらに俗物ーー「人間的、あまりに人間的な」ーーであるからこそ愛される指導者になる場合があるのではないだろうか。

そこからニーチェの言っていることへは半歩しかない、《権力をもつ者が最下級の者であり、人間であるよりは畜類である場合には、しだいに賤民の値が騰貴してくる。そしてついには賤民の徳がこう言うようになる。「見よ、われのみが徳だ」》と。

さらにはベルススコーニの「私は、あなたたちのうちの一人だ。いささか堕落して、法律と面倒な関係にある。私は妻から転げ落ちた。というのは他の女にぞっこんになったからだ…」という状況に遭遇すれば、一般市民たちは自らの否認された悪を彼に投影してスッキリし、残余の誠実な自分を《祝福して》、いっそう《えらい人のように思う》ことがあるのではないか。

これは次の心理的メカニズムの変奏である。

……被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』所収)

マスコミに集中砲火を浴び、苦境に立つ「被害者」ーーそれは脳軟化症的であったり、破廉恥な道化師であったりするだろうーーの厚顔無恥な弁明に同一化することにより、自らのはしたなさを束の間にしろ忘れることができる「幸せ」に浸りうるということはないだろうか。

あるいは自らのかかえる首長が、我々の仲間のうちのひとりにすぎないのなら、ある種の権力欲が満たされることはないだろうか。

差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。(中井久夫「いじめの政治学」)

ところでベルルスコーニは、《標準的なイタリア人の神話的イメージを具現化、あるいは上演》した人物とされているが、標準的な日本人の神話的イメージとはなんであろうか。

曖昧模糊とした春のようなイメージ、空気を読みつつ、「いつのまにかそう成る会社主義 corporatism」の国(柄谷行人)の、「おみこしの熱狂と無責任」な人物像(中井久夫)、「事を荒立てるかわりに、『仲良し同士』の慰安感を維持することが全てに優先している」共感の共同体の「土人」(浅田彰)等々か? それとも単純に「反知性主義者」と言ってしまえばよいのか。

安倍晋三さんはバカだ。しかもただのバカではなく病気である。…しかし、彼が首相の座にいるのは、私たち自身が病気だからである。(小出裕章 2014.0202)

 ーーカレ見てると、「自分を祝福して、えらい人のように思う」わ・・・

レーガンの場合と同じように、ポストエディプス的な首相は、《もはや選挙の公約への一貫性にくそまじめになることさえ期待されない》。これも我々は最近、消費増税の約束をあっさり反故にするさまを見た。

我が国の首相のあり方は、もちろん米国やイタリアとは異なる。こうやって単純に精神分析的観点を導入することをきらう人もいるだろう。だが、精神分析などとはいわず、古典的なーーマルガリエテ的なーー心理学のメカニズムと類似した現象はその多寡はあれ到るところで働いているには相違ない(そうでなかったら、なぜ内閣支持率が50%を超えたままであり続けるのか)。

(※もちろんシルバーデモクラシーのせい(彼らにとって当面の日常的安定を一見約束してくれそうな政権支持)とか、《こうなっているのは2つの大きな要因がありますね。/ひとつは自民党一強、野党不在の政治状況。/もうひとつはメディアが安倍政権を怖がって批判を控えていることです》(「これほど異常な民主政国家は見たことがない。」ーーニューヨーク・タイムズ東京支局長)等の議論を知らないわけではないが、ここでは、それを除外しての「心理学的な」記述である。)

しかも現在は、ゲーテの時代とは異なり、ポストエディプスの時代である。その時代にさらにつけ加わる政治的指導者の「標準的」特質とはなにか?

ジャック=アラン・ミレールが、ジャック・ラカンのエラスムス的調子、『痴愚神礼讃』の調子をもって言った「みな狂人だ、みな妄想的だ」(参照)。これは、みな精神病的であることを意味しない。そうではなく、このすべては、21世紀における我々の現代的調査、すなわち、精神病とは、我々にとって何を意味するのかの問いである。

それはちょうど、精神病のふつうの地位が、普遍的な拡がりを持っていることを意味しないのと同様に、我々は精神病的主体から引き出した教訓は、「父の機能」が消滅したわけではないことだ。父の機能は残っている。変形されてはいるが。

父はいる。よりふつうの位置の父が。ラカンはこの父を次のように呼んだ。まだ「ウケる(épater)」ことができる父、印象づけ驚かすことができる父、「オヤジ言葉」で演技する父と。彼は「例外」を構成する者だ。我々を驚かす能力がある者だ。ジャック=アラン・ミレールは、これを示す例を取り上げている。現代の政治家は、それが道化師の機能のようであってさえ、印象づけようと奮闘している、メディアやコミュニケーション産業に囚われつつ、印象づけようと努めている、と。もちろん、これは正しい仕方でなされなければならない。(エリック・ロラン,2012(ERIC LAURENT: PSYCHOSIS, OR RADICAL BELIEF IN THE SYMPTOM ーー「ふつうの妄想・ふつうの父の名・原抑圧の時代」)


もちろん、民主主義において、つねに「不能な他者」や「道化親父」ばかりを選ぶわけではないだろう。

たとえばマイノリティー出身(黒人、女性、移民等々)の首長を選べば、庶民的な正義感は満足させられるということがある。これも選択肢のうちのひとつである。

すなわち、その首長から見れば、〈私〉は《愛するに値するように見えるような》存在となることができる。反差別主義者としての誠実な〈私〉にうっとりしてしまう・・・

その〈私〉が、見せかけだけの反差別主義者だったらなおさらだ。

女性に対する性的嫌がらせについて、男性が声高に批難している場合は、とくに気をつけなければならない。「親フェミニスト的」で政治的に正しい表面“pro-feminist” PC surfaceをちょっとでもこすれば、女はか弱い生き物であり、侵入してくる男からだけではなく究極的には女性自身からも守られなくてはならない、という古い男性優位主義的な神話があらわれる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳)

ここで唐突にーー飛躍するが長くなりすぎるのでーー、もう一度こう強調しておこう。

たとえベルルスコーニが威厳のない道化だとしてもむやみにあざ笑わないことだ。たぶん彼を笑うことで、われわれはすでに術中に陥っている。

この数年反安倍で奮闘してきたはずのリベラルインテリ諸氏たちは、現在、なにかにハメられてしまった気はしていないのだろうか・・・

…………

さて、だが現在の民主主義において、さらにいっそう「根源的な」問いかけがある。

マルクスは、ヨーロッパの議会制民主主義の黎明期に、所見を述べた。この制度によって選ばれた政府は、たんにーー彼曰く--「資本の力に基づく」ものだ、と。しかしこれは、現在のほうがかつてより、はるかにいっそう真実だ! 民主主義が代表象 representationであるなら、何よりも先ず、全体的システムからの来る形式の代表象である。言い換えれば、選挙による民主主義は、資本主義ーー今日では「市場経済」と改名されている--の合意の上の代表象より以上の多くのものを代表象しない。これが底に横たわる腐敗である。(バディウ、Democracy and corruption: a philosophy of equality, by Alain Badiou、2014)

このバディウの文は、2014年に記されたもののようだが、彼は以前から似たようなことを言っているのだろう、ジジェクの『ポストモダンの共産主義』2009にもほぼ同じ内容のバディウの引用があり、 次のようなコメントを付している。

バディウは、民主主義における腐敗の二つのタイプ(むしろ、二つのレヴェル)のあいだの区別を提案している。すなわち、事実上の経験的腐敗、そして民主主義のまさに形式に付属する腐敗。後者は、政治を私的利益の交渉に格下げすることを伴っている。

このギャップは次の「稀な」事例において明瞭になる。すなわち、誠実な「民主主義的」政治家が、経験的腐敗に対して闘っていながら、それにもかかわらず、腐敗の形式的空間を支えているという事例だ。(ジジェク、2009)

ここで言っているのは、《要するに、「善い」選択自体が、支配的イデオロギーを強化するように機能する。イデオロギーが我々の欲望にとっての囮として機能する仕方を強化する。ドゥルーズ&ガタリが言ったように、それは我々自身の圧制と奴隷へと導く》(Levi R. Bryant PDF)ということだ(参照:きみたちの「燻製ニシンの虚偽」)

こうして、《現代における究極的な敵に与えられる名称は資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義である》(バディウ)という「挑発」につながってゆく(参照:民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である)。

現在の民主主義とは、バディウ=マルクス的にいえば、《政治を私的利益の交渉に格下げする》(ジジェク)という資本の論理の母胎の上で成り立っている。これはややわかりにくいかもしれない形で、「現代思想・文芸という「支配的思想=支配階級の思想」」で記したことでもある。

不思議なのは、われわれがそうと知りつつ、このゲームをつづけていることだ。あたかも選択の自由があるかのようにふるまいながら、(「言論の自由」を守るふりをして発せられる)隠された命令によって行動や思考を指図されることを黙って受け入れるばかりか、命令されることを要求すらしている。マルクスが大昔に指摘した通り、秘密は形式自体にある。(ジジェク、2009ーー人間の顔をした世界資本主義者たち)


2016年7月15日金曜日

もし、美しいお嬢さん

ファウスト

もし、美しいお嬢さん。
不躾ですが、この肘を
あなたにお貸申して、送ってお上申しましょう。

マルガレエテ

わたくしはお嬢さんではございません。美しくもございません。
送って下さらなくっても、ひとりで内へ帰ります。

あのひとのベッドはインドだ。そこに彼女が、真珠がよこたわる。[Her bed is India; there she lies, a pearl](シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』)

ファウスト

途方もない好い女だ。
これまであんなのは見たことがない。
あんなに行儀が好くておとなしくて、
そのくせ少しはつんけんもしている。
あの赤い唇や頬のかがやきを、
己は生涯忘れることが出来まい。
あの伏目になった様子が
己の胸に刻み込まれてしまった。
それからあの手短に撥ね附けた処が、
溜まらなく嬉しいのだ。

(メフィストフェレス登場。)

おい。あの女を己の手に入れてくれ。    

メフィストフェレス

どの女ですか。   

ファウスト      

今通って行った奴だ。

メフィストフェレス

あれですか。あれは今坊主の所から帰るのです。
…ひどく罪のない娘ですよ。
あんなのはわたしの手に合いませんね。    

ファウスト

でも満十四歳にはなっているだろうが。    

メフィストフェレス

丸で道楽息子のような口の利きようをしますね。
どの美しい花をも自分の手に入れようとして、
自分の手で摘み取ることの出来ない
恋や情はないはずだと思う性ですね。
ところがなかなかいつもそうは行きませんよ。    

ファウスト

おい。道学先生。
どうぞ道徳の掟を己に当て嵌めることだけは免してくれ。
それから君に手短に言って置くがね。
あの旨そうな若々しい肌に今宵己の手が触れることが出来なかったら、
夜なかまで待たずに君とお分にするよ。

あの女の目や、頬や、唇にはことばがある。いや、脚も話しかけてくる。[There's language in her eye, her cheek, her lip, Nay, her foot speaks. ](Troilus and Cressida)

メフィストフェレス

…わたしは女に道徳的な文句を歌って聞せて、
あべこべに迷わせて遣るのですよ。

夜の明け掛かる今時分
可哀お方の門口で、
カタリナ、お前は
何していやる。
そりゃ廃すが好い。
門を入る時ゃ娘で這入る。
娘では出て来ないぞえ。
気をお附。
済んでしまえば
おさらばよ。
気の毒な、気の毒な娘達。
自分の体が大事なら、
花盗人に
油断すな、
指環を嵌めて貰うまで。

若い娘たちの若い人妻たちの、みんなそれぞれにちがった顔、それらがわれわれにますます魅力を増し、もう一度めぐりあいたいという狂おしい欲望をつのらせるのは、それらが最後のどたん場でするりと身をかわしたからでしかない、といった場合が、われわれの回想のなかに、さらにはわれわれの忘却のなかに、いかに多いことだろう。(プルースト『ゲルマントのほう 二』)

グレエトヘン(マルガレエテ)

今までは余所の娘が間違でもすると、
わたしもどんなにか元気好くけなしただろう。
余所の人のしたと云う罪咎を責めるには、
わたしもどんなにか詞数が多かっただろう。
人のした事が黒く見える。その黒さが
足りないので、一層黒く塗ろうとする。
そして自分を祝福して、えらい人のように思う。
今は自分も犯しているのに。
だけれど、だけれど、それまでになる道筋は、
まあ、あんなに好かったのに、あんなに美しかったのに。

女は口説かれているうちが花。落ちたらそれでおしまい。喜びは口説かれているあいだだけ。[Women are angels, wooing: Things won are done; joy's soul lies in the doing.]( Troilus and Cressida )


ファウスト(娘と踊りつゝ。)

いつか己ゃ見た、好い夢を。
一本林檎の木があった。
むっちり光った実が二つ。
ほしさに登って行って見た。    

美人

そりゃ天国の昔からこなさん方の好な物。
女子に生れて来た甲斐に
わたしの庭にもなっている。

メフィストフェレス(老婆と。)

いつだかこわい夢を見た。
そこには割れた木があった。
その木に□□□□□□があった。
□□□□けれども気に入った。    

老婆

足に蹄のある方と
踊るは冥加になりまする。
□□がおいやでないならば
□□の用意をなさりませ。

ーーゲーテ「ファウスト」 森鴎外訳

[英訳]

Mephistopheles (Dancing with the old witch.)

A vile dream once came to me,
In it, I saw an old cleft tree,
A monstrous crack there met my eyes,
It pleased me, though, despite its size.

The Old Witch

I offer my best greetings to
The knight of the cloven shoe!
He'll need to have a real stopper,
If he's not scared of that whopper.

…………

竹藪に榧の実がしきりに落ちる
アテネの女神に似た髪を結う
ノビラのおつかさんの
「なかさおはいりなせ--」という
言葉も未だ今日はきかない。

ーー西脇順三郎「留守」