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2018年7月16日月曜日

BWV 997, D951

◆高橋悠治 バッハを弾いて現代音楽を語る





◆Bach (by John Williams) - Prelude and Fugue in Am BWV 997




⋯⋯⋯⋯

◆シューベルト:ロンド イ長調/高橋悠治(pf)、ジュリア・スー(pf)、D951




◆Schubert Rondo in A -- Artur & Karl Ulrich Schnabel






2016年10月17日月曜日

魂をふくらませるポンプ

十数年前のこと、十月初旬のモスクワはもう横なぐりの吹雪であった。国際空港は悪天候のために閉鎖された。「今日はここで泊まってくれ」「どこで寝ろというのか」係官は事もなげに答えたーー「ズジェーン」(ここでだ)。群集の信じられらないという顔がすぐ激しい抗議に変わった。結局スイス人のねばり強い理性的交渉により外国人に限りホテルが手配された。その間、ロシア人は黙々とその場で寝る準備をととのえ、やがて誰からともなく、ロシア民謡の合唱が始まった。ロシア人の強さである。同じ場面がロシア史に数知れない苦痛に際してあったことであろう。この耐える強さを何度外国人は誤算したことか。

◆The Red Army Choir - "Kalinka"




絶望的に音痴である私には閉ざされた方法だが、合唱こそロシア人とわかり合えるチャンスではないか。ロシア人とは何かがもう一つはっきりしないのも、「ハモる」ことを通じて解けあえる「ことば以前」「意識以前」の何ものかがあるからではないか。歌を通さなくとも、ロシア語自体がこの言葉を解さない者にも訴える力を持つ特異な言語であると私は思う。それは、単なる美しさでなく、脊髄と内臓からの戦慄をよびおこす。(中井久夫「ロシア人」『記憶の肖像』所収)

やあたしかにすごいよ、
 「もっと、お願いだからもっと」であげた音楽もそうだけど

問題は素直にきけなくなってしまっていることだ


雨期のダラムサラで
ダライラマ法王と音楽の話をした
音楽は文化に属する
だがブッダの教えは心の訓練で
それはつまり瞑想だ
ブッダの頃は
修行に音楽はなかった
長く引き延ばした声で経文を歌うのは
よいこととは言えない
教えより声の美しさに心が向いてしまうから
教えが他の土地に伝えられ
その土地の文化によって表現されたとき
音楽も礼拝や儀式につかわれるようになった
チベットや中国で
また日本でも

音楽によって
慈悲や平和と非暴力のメッセージを伝えるのはひとつのやりかただ
と法王は言われた
他方では
音楽はひとを戦いに 駆り立て
民族主義に引き込むこともある
音楽は人びとの感じ方に影響をあたえることができる
だから
あなたには責任があります
と法王は言われた
とりわけ若い人たちに対しては

ーー高橋悠治 音の静寂静寂の音(2000)

音楽はヨーロッパ人に感性を教えたばかりでなく、もろもろの感情と感性的自我を尊ぶ能力をも教えた。(……)音楽。魂をふくらませるポンプ。異常発達し、並はずれて大きな風船となったいくつもの魂がコンサートホールの天井を下をただよい、信じがたい雑踏のなかでぶつかりあう。

マーラーは、まだ率直に、そして直接にホモ・センチメンタリスに訴えかける最後の大作曲家である。マーラー以後、音楽において感情はうさんくさいものになる。ドビッシーはわれわれを魅惑しようとはするが、心を揺りうごかそうとはしないし、ストラヴィンスキーは感情を恥じている。(クンデラ『不滅』)

◆Dmitri Hvorostovsky - Dark Eyes



でもたまには忘れてもいいんじゃないか、この「黒い瞳」は小学四年生だったか五年生のころぞっこんだったな、カリンカと同様に。

ドゥルーズ$ガタリだって、どうしても惹かれてしまうある種の曲を聴くための「言い訳」をしているようにさえ読める。

……イタリアのファシズムがヴェルディを利用したとしても、それはナチズムがワグナーを利用したのに比べるとはるかにつつましやかなものだ(……)

要するに、呼びかけに応じて音を発するのが〈大地〉の力なのか、それとも〈民衆〉の力なのかによって、管弦楽編成をめぐる、また声ー楽器の関係をめぐる考え方は二つに分かれ、際立った違いを見せる。この違いを示す最も簡便な実例は、おそらくワグナーとヴェルディの関係だろう。ヴェルディこそ、器楽編成と管弦楽編成に対する声の関係を、しだいに重視していった作曲家だからである。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)

◆Les Choeurs de l'Armée Rouge - Nabucco, Choeur des Esclaves(ヴェルディ)






2016年8月1日月曜日

日常の底に潜む恐怖

「何かが途轍もなく間違っている(ジジェク 2016→ ミレール)」にて、

①《現実界とは象徴化あるいは形式化の袋小路である ( “Le reel est un impasse de formalization,” )》(ラカン、セミネール20)

②《法のない現実界(le Réel sans loi)》、あるいは《本当の現実界は、法の欠如を意味する。現実界は、秩序がない[Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre]》(セミネール23)

この(一見した)対立のどちらの立場をとるかで、①ジジェク、②ミレールの対決を記したのだけれど、②とは、ラカンがーー老境に入ってーー、合理論から経験論への移行した、という捉え方が(ひょっとしたら)できるかもしれない。

 セミネール23で法のない現実界といったのは、1976年のことで、ラカンはすでに75歳である。

死というのは一点ではない、生まれた時から少しずつ死んでいくかぎりで線としての死があり、また生とはそれに抵抗しつづける作用である。

ーービシャ(フーコー『臨床医学の誕生』より)
死とは、私達に背を向けた、私たちの光のささない生の側面である。

ーーリルケ「ドウイノの悲歌」より



安永と、生涯を通じてのファントム空間の「発達」を語り合ったことがある。簡単にいえば、自極と対象極とを両端とするファントム空間軸は、次第に分化して、成年に達してもっとも離れ、老年になってまた接近するということになる。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)

死とは、《象徴化あるいは形式化の袋小路である》と解釈できるものだろうか、それとも 《法のない現実界》だろうか。あるいはそれとも……

もう小説という形では書きにくい。かなり随想風の作品になるでしょう。この年齢になると死が近づいて、日常のあちこちから自然と恐怖が噴き出します。それをできるだけ平静な筆致で書きたいと思っています。(古井由吉、「日常の底に潜む恐怖」 毎日新聞2016年5月14日)

いずれにせよ、《人生は、自己流儀の死への廻り道である。大抵の場合、急いで目標に到達する必要はない》(ラカン、セミネール17)であるに相違ない。

…時がたつにつれて、ぼくはファルスの突然の怒りがよくわかるようになった…彼の真っ赤になった、失語症の爆発が……時には全員を外に追い出す彼のやり方……自分の患者をひっぱたき…小円卓に足げりを加えて、昔からいる家政婦を震え上がらせるやり方…あるいは反対に、打ちのめされ、呆然とした彼の沈黙が…彼は極から極へと揺れ動いていた…大枚をはたいたのに、自分がそこで身動きできず、死霊の儀式のためにそこに閉じ込められたと感じたり、彼のひじ掛け椅子に座って、人間の廃棄というずる賢い重圧すべてをかけられて、そこで一杯食わされたと感じる者に激怒して…彼は講義によってなんとか切り抜けていた…自分のミサによって、抑圧された宗教的なものすべてが、そこに生じたのだ…「ファルスが? ご冗談を、偉大な合理主義者だよ」、彼の側近の弟子たちはそう言っていた、彼らにとって父とは、大して学識のあるものではない。「高位の秘儀伝授者、《シャーマン》さ」、他の連中はそう囁いていた、ピタゴラス学派のようにわけ知り顔で…だが、結局のところ、何なのか? ひとりの哀れな男だ。夢遊病的反復に打ちひしがれ、いつも同じ要求、動揺、愚劣さ、横滑り、偽りの啓示、解釈、思い違いをむりやり聞かされる、どこにでもいるような男だ…そう、いったい彼らは何を退屈したりできるだろう、みんな、ヴェルトもルツも、意見を変えないでいるために、いったい彼らはどんな振りができるだろう、認めることだ! 認めるって、何を? まさに彼らが辿り着いていたところ、他の連中があれほど欲しがった場所には、何もなかったのだということを…見るべきものなど何もない、理解すべきものなど何もないのだ…(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)

なにはともあれ、最後まで合理論を貫き通す人物というのは、稀有だろう。

戦前・戦中の日本が情緒に引きずられたことへの反省から、加藤周一はとことん論理的であろうとした。老境の文化人がややもすれば心情的なエッセーに傾斜する日本で、彼だけは最後まで明確なロジックと鮮やかなレトリックを貫いた。(浅田彰「憂国呆談」)

…………

いつのまにかいなくなった人たち スラマット・アブドゥル・シュークルは80歳になっても元気で作曲していた ある日転んで ほどなく亡くなった 今年2015年3月26日スラバヤだった もう一人の友人ジャック・ボディの70歳を祝う本のために歌曲を送った すると 治療できないガンだとわかったという知らせがあり その後本人から昔ニュージーランドで会った年をたずねるメールが届いた その時は 思い残すこともなく安らかにすごしているということだった 今年5月10日にウェリントンのホスピスで亡くなった 杉本秀太郎は しばらく会っていないと思いだしたとき 白血病で 治療を一切せずに亡くなっていた 今年5月27日

たよりがなくなり 消息が絶え 人はいつかいなくなっている さまざまなしごと 作曲家だったり エッセイストで 作品を知っていたとしても 思い出すのは そういうことではない 会って交わしたことばでもない その人もそこにいた空間の いつどこともわからない空気に通うそよ風のような感触 行き交い すぎてゆく 人びとの影(高橋悠治「糸ほどの」2015.7)



2016年7月22日金曜日

女客と来た日には、顔とお作りを見せに来て、 給金なしで一しょに芸をしてくれる

思って御覧なさい。あなた方は軟い木を割る役だ。
誰を相手に書くのだか、目を開いて見て下さい。
退屈まぎれに来る客もあれば、
えらい馳走に逢った跡で、腹ごなしに来る客もある。
それから一番の困りものは
新聞雑誌を読み厭きてから遣って来る。
仮装舞踏へでも行くように、うっかりして駆け附ける。
その足を早めるのは、物見高い心持ばかりです。
女客と来た日には、顔とお作りを見せに来て、
給金なしで一しょに芸をしてくれる。
一体あなた方は詩人の高みでなんの夢を見ているのです。

ーーゲーテ『ファウスト』森鴎外訳

場中の様子は先刻見た時と何の変りもなかった。土間を歩く男女の姿が、まるで人の頭の上を渡っているように煩らわしく眺められた。できるだけ多くの注意を惹こうとする浮誇の活動さえ至る所に出現した。そうして次の色彩に席を譲るべくすぐ消滅した。眼中の小世界はただ動揺であった、乱雑であった、そうしていつでも粉飾であった。 

比較的静かな舞台の裏側では、道具方の使う金槌の音が、一般の予期を唆るべく、折々場内へ響き渡った。合間合間には幕の後で拍子木を打つ音が、攪き廻された注意を一点に纏めようとする警柝の如に聞こえた。 不思議なのは観客であった。何もする事のないこの長い幕間を、少しの不平も云わず、かつて退屈の色も見せず、さも太平らしく、空疎な腹に散漫な刺戟を盛って、他愛なく時間のために流されていた。彼らは穏和かであった。彼らは楽しそうに見えた。お互の吐く呼息に酔っ払った彼らは、少し醒めかけると、すぐ眼を転じて誰かの顔を眺めた。そうしてすぐそこに陶然たる或物を認めた。すぐ相手の気分に同化する事ができた。(夏目漱石『明暗』)

(La Loge. Pierre-Auguste Renoir)

二人の話はただ吉川夫人の双眼鏡に触れただけであった。お延はわざと手真似までして見せた。

「こうやって真ともに向けるんだから、敵わないわね」

「ずいぶん無遠慮でしょう。だけど、あれ西洋風なんだって、宅のお父さまがそうおっしゃってよ」

「あら西洋じゃ構わないの。じゃあたしの方でも奥さんの顔をああやってつけつけ見ても好い訳ね。あたし見て上げようかしら」

「見て御覧なさい、きっと嬉しがってよ。延子さんはハイカラだって」(同、漱石)




とはいえ、現代日本のクラッシック音楽演奏会では(形式的には)こういったことは少ないだろう・・・

実際コンサート・ホールという場にあっては、音楽はめったに人の心に届かないと彼はすでに感じていた。うとうとしている人々、終わったあとの食事を思い浮かべている人々、翌日になって演奏会に行ったと語るのが目的で来ている人々、彼らを除いてしまえば、ほとんど誰もいなくなる。ぬるま湯につかったような態度で音楽に接する人々や、音楽を聞きながら夢想や計算をやめずにいられる人々に比べれば、音楽に恐れをなして逃げ出してしまう人々のほうがよかった。(シュネデール『グレン・グールド paino solo』)

◆Southern Cross (Juan María Solare). Piano: Yuji Takahashi



人びとがあつまるとき、
行事であれ、儀式であれ、
ただ人びとが会うことの悦びのためであれ、
音楽がそこにあれば、楽しい。
それがなくても、人びとはあつまるが、
音楽は集いを、ともにあることのしあわせと、
ふかいやすらぎで飾る。
コンサートの語源は「合意にもちこむ」ということらしい。
争っていたものたちが和平を結ぶ場を想像してみれば、
そこには飲み食いがあり、唄があり、踊りがあり、
それらすべてが音楽ではなかったろうか。
いまコンサート会場には、飲み物食べ物はもちこめず、
踊る場所もなく、歩くことも、立つこともできず、
音楽家と、見物人に分かれ、区切られて、座っている。
それでも、コンサートは否定されるべきものだ、
と言うことはない。
コンサートは現実の場であり、そこに来る人たちがいる限り、観念で否定しても、なくなることはない。
それに替わるものがなければ、いくら貧しくても、
コンサートは音楽の場でありつづける。
別な場をつくりだすのは、音楽家のしごとではない。
人びとのあつまりかた、人間関係、社会が変わらなければ、
音楽の場は変わらないだろう。(高橋悠治「音楽の反方法論的序説」)

◆Yuji Takahashi plays Bach Six Partitas



ピアノは生活の手段だった。(……)ピアニストとみなされると、人が聞きたがるものを弾くことになる。バッハを弾いているとそればかり求められるが、日本では数十年前のグレン・グールドの代用品にすぎないから、弾くだけむだと最近は思うようになった。(……)

確信をもっていつも同じ演奏をくりかえす演奏家がいる。この確信は現実の音を聞くことを妨げる障害になるのではないかと思うが、感性のにぶさと同時に芸の傲慢さをしめしているのだろう。演奏が商品でありスポーツ化している時代には、演奏家の生命は短い。市場に使い捨てられないためには、いつも成長や拡大を求められているストレスがあるのかもしれない。(高橋悠治「ピアノを弾くこと」)

◆Gould - Bach's bourree takes




家具になった音楽  高橋悠治

グレン・グールドが死んだ。クラッシック演奏のひとつの演奏はおわった。

現代のコンサートホールで2000人以上の聴き手をもつようなピアニストは、きめこまかい表現をあきらめなければならない。指はオーケストラ全体にまけない大きい音をだす訓練をうけ、小さな音には表情というものがないのもしかたのないことだ。容量のわずかなちがいによってつくられる古典的リズム感覚は失われた。耳をすまして音を聴きとるのではなく、ステージからとどく音にひたされていればいい耳は、なまけものになった。

音の技術が進む中で
1950年代にレコードがLPになり、テープ編集技術ができあがり、「電子音楽のゆめ」がうまれた。

どんな音もスタジオのなかでおもうままにつくり、くみあわせることができる、と音楽家たちはおもった。材料は自然の音にしろ、人間の声やピアノの音にしろ、聴き手がうけとるのは電圧の変化によるスピーカー膜の振動なのだから、どんな音も電子音の一種に変えられて耳にとどいている。おなじ空間のなかで、つくり手と聴き手がわかちあう音楽ではなく、聴き手のいないスタジオでうまれ、つくり手のみえないスピーカーからながれる音楽がある。音楽は密室の家具になった。テレビが映像をふくむ照明装置であるように。

グレン・グールドは、コンサートホールを捨てて、スタジオにこもった。なまの演奏の緊張と結果のむなしさに神経がたえられなかったのかもしれないが、それを時代の要求にしたてあげたのが、彼の才能だったのか。

グールドのひくバッハは、1960年代にはその演奏スタイルでひとをおどろかした。極端にはやいか、またはおそいテンポ、かんがえぬかれ、即興にみせかけた装飾音、みじかくするどい和音のくずし方。だが、それは18世紀音楽の演奏の約束ごとを踏みはずしてはいない。1970年代には古楽や古楽器の演奏にふれることもおおくなり、グールドの演奏も耳あたらしいものではなくなった。マニエリズムというレッテルをはることもできるようになった。

だが、1960年代のグールドのメッセージは、演奏スタイルではなかった。コンサートホールでは聴くことができない、ということに意味があった。おなじころ、グールドの住んでいた町、カナダのトロントからマーシャル・マルクーハンが活字文化の終わりを活字で主張していた。「メディアがメッセージだ」というのが時代のあいことばだった。

この「電子時代のゆめ」は、数年間しかもちこたえることができなかった。1968年がやってきた。プラハの町にソ連の戦車が姿をあらわし、フランスとドイツで若者たちが反乱をおこし、やがてベトナムはアメリカに勝つ。中国の文化革命もあらしを過ぎ、石油危機を通りぬけると、テクノロジー信仰も、それと対立するコミューンの実験を道づれにしてくずれおちた。次の世代には身をあずけられる原理も、すすむべき道ものこされていなかった。いまメディア革命やその反対側の対抗文化にしがみついている少数は、うしろめたさを感じないではいられないはずだ。いらなくなった文明が病気となって人間にとりついている。文明に反逆する人間も、おなじ病気にかかっている。どちらも船といっしょにしずむのだ。

われわれのしらない明日がやってくる。そこにたどりつこうとしてはいけない。明日やってくる人たちのために、今日のガラクタをしまつしておくのはいい。世界というからっぽな家をひきわたして、でていけばいいのだ。

マルクーハンが死んだときは、もう忘れられていた。グールドも「メディアとしてのメッセージ」の意味がなくなったあとは、演奏スタイルの実験をくりかえすことしかできなかった。レコードというかたちがあたらしくなくなれば、聴いたことのない曲をさがしだしてくるか、だれでもがしっている曲を、聴いたことのないやり方でひくしかない。どちらにしても、そういう音楽はよけいなぜいたくで、なくてもすむものだ。

あすへのつらい希望
音楽なんか聴かなくても生きていける。メッセージがあるとすれば、そういうことだ。クラッシク音楽が、聴き手にとってはとっくに死んだものであることに気づかずに、または気づかぬふりをして、まじめな音楽家たちは今日もしのぎをけずり、おたがいをけおとしあい、権力欲にうごかされて、はしりつづけている。音楽産業はどうしようもない不況で、大資本や国家が手をださなければなりたたないというのに、音楽市場はけっこう繁栄している。これほどのからさわぎも、そのななから、人びとにとって意味のあるあたらしい音楽文化をうみだすことに成功してはいない。

グレン・グールドは50歳で死んだ。いまの50歳といえば、まだわかい。だが、かれの死ははやすぎはしなかった。

かれだけではない。だれが死んだって、やりのこしたしごとなどないだろう。しごとの意味の方がさきに死んでしまっている。どこかでそれとしりながら、しごとを続けているのがいまの音楽家の運命だ。こういう仕事をしていれば、いのちをすりへらしても当然だ。

音楽というものがまだほろびないとすれば、明日には明日の音楽もあるだろう。だが、それを予見することはわれわれのしごとではない。いまあるような音楽が明日までも生きのびて明日をよごすことがないとおもえばこそ、音楽の明日にも希望がもてるというものだ。音楽家にとってつらい希望ではあっても。(讀賣新聞 1982年10月21日付け夕刊のグールド追悼記事)

…………

さて、ここで引用の文脈の腰を折って、デュシャンを持ち出す。

デュシャンが「泉」と題して便器を美術展に提示したとき、彼は芸術を芸術たらしめるものが何であるかをあらためて問うたのだが、それはまさにカントが提起したポイントの一つであった。すなわち、物をそれに対する日常的諸関心を括弧に入れて見ること。もう一つのポイントは、美的判断には普遍性が要求されるにもかかわらずそれがありえないということ、われわれが普遍的と見なすものは歴史的に形成された「共通感覚」にもとづいているということである。(柄谷行人『トランスクリティーク』岩波定本 P.172)



超越論的態度は暗黙に「括弧に入れよ」という命令をふくんでいる。たとえば、私は先にデュシャンが便器を美術館に展示したことについてふれた。その場合、彼はそれを芸術として見ること、つまり、日常的関心を括弧に入れることを命じてはいない。しかし、それが美術展に置かれているということが、人にそれを美術として見ることを「命令」しているのであり、そのことに人は気づかないのだ。同様に、超越論的な視点がそのような「命令」をはらんでいることが忘れられている。のみならず、超越論的な視点そのものが一つの命令に促されているということが。そのことは、超越論的視点そのものがどこから来るのかと問うとき、明らかになる。それは根本的に「他者」にかかわっている。超越論的視点そのものが倫理的なのだ。(同上 P.181)




いや、ひょっとしたら、わたくしの愛する古代キクラデス諸島の彫刻 と同じくらい美しいかもしれない。





とはいえ、グレン・グールドと高橋悠治のバッハの美のわずかな差異よりは、より大きな差異があるようにみえないでもない・・・


…………



対象a は象徴的体系内部の非徴示的変調 non-signifying glitch であるにもかかわらず、それは、場のなかを埋め合わせるものとしての要素から形式的構造を分離する裂け目の背景においてのみ把握できる。ジャック=アラン・ミレールは最近、構造と変換の話題についてのこに裂け目を詳述した。彼はラカンの四つの言説の母体を取り上げる。そこでは、時計回りとは逆の動きで、四つの用語のそれぞれ(主体―$、主人のシニフィアン―S1、知識の連鎖―S2、対象―a)が、構造における(代理人、他者、真実、生産物)の四つの場すべてを占めていく。いかになにかが不変であり、同時に何かが変わるかの事例である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)




 ※参照:ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」

何が不変なのだろうか? 場、関係性と場のあいだの関係性である。何が変化するのかは、それらの場を占める用語である。……これは、われわれにまさにこう言い得ることを許してくれる。すなわち、構造において、変形は置換である、と。また置換による発話は、構造を力動的にさせる方法、試みであると。さらに言い得ることは、一と多を分節化するためのある構造的な解決だと。場は固定されており、そして用語の置換により、われわれはヴァリエーションを得る。この(固定された)構造的場と、これらの場を占める(変化する)用語のあいだの相違は、その場の用語のフェティシュな凝固作用を崩すために決定的である。それはわれわれに気づかせてくれる、ある範囲までは、対象から発するアウラは対象の直接的な特性ではなく、それが占める場であるということを。

この場への依存の古典的な例は、もちろん、マルセル・デュシャンのよく知られた小便器である。それは、小便器自体が展示されることによってアートの対象となった。デュシャンの成果は、たんに、アート作品においてなにが重要とされるか(小便器でさえも)の範囲を拡げたことになるのではない。

彼がなしたことはーーそのような普遍化の形式的条件としてーー、対象とそれが占める(構造的な)場のあいだの区別の導入である。すなわち小便器をアート作品とするのは、それに内在する特性ではなく、それが占める場(アートギャラリイ)なのである。あるいはマルクスが遠い昔に商品フェティシズムに関して言ったように、「ひとびとはある人を王とみなすのは、彼が王だからではない。人々が彼を王とみなすから、彼は王なのだ」ということだ。

日常生活において、われわれはこの種の具象化の犠牲者なのである。すなわち、われわれは純粋な形式的あるいは構造的決定性を対象の直接の特性として誤認する。これがデュシャンの展示会におけるまったく正当的なある挑発を想像できる理由である。すなわち観客が小便器に向けて放尿しはじめるという場面。驚いた傍らの見物人が、ここはアートギャラリーですよ、トイレではありません、と彼に注意を促す。彼は応じる、「おお、あなたは分かっていない。私がアート作品の展示空間に入り込めば、私の行動もパフォーマンスになるのだよーー私がしたことは下品な脱崇高化じゃないんだ。私は単にアートの崇高な空間に新しい内容物を満たしただけさ…」。(同ジジェク、2012) 

たとえば、デュシャンの遺作 Étant donnés の狙いは、究極的には、覗き見のパフォーマ―になることではないだろうか。





鍵穴を覗き込む窃視者は、自分自身の見る行為に没頭しているが、やがて突然背後の小枝のそよぎに、あるいは足音とそれに続く静寂に驚かされる。ここで窃視者の視線は、彼を対象として、傷つきうる身体として奈落に突き落とす眼差しによって中断される。(コプチェク『女なんていないと想像してごらん』)





すなわち、ここには、《女客と来た日には、顔とお作りを見せに来て、 給金なしで一しょに芸をしてくれる》ーーということの現代版があるのではないだろうか。




2016年4月9日土曜日

ふりむくことは回想にひたることではない

ここに次のような方法がある。若いたましいが、「これまでお前が本当に愛してきたのは何であったか、お前のたましいをひきつけたのは何であったか、お前のたましいを占領し同時にそれを幸福にしてくれたのは何であったか」と問うことによって、過去をふりかえって見ることだ。(ニーチェ『反時代的考察 第三篇』1874 秋山英夫訳)

数日前「もっとよく触れるために離れること」にて、引用した文だが、いままでも何度か引用した。自分で引用していてこんなことを言うのはなんだが、わたくしはまともに過去に愛したものを振り返ったことはない。十代に愛して、今も生き残っているいくつかの愛するものはときおり記していないではない。だが、それでさえ、次の言葉を念頭におきながら、おそるおそるだ。

個人の好き嫌いということはある。しかしそれは第三者にとって意味のあることではない。たしかに梅原龍三郎は、ルオーを好む。そのことに意味があるのは、それが梅原龍三郎だからであって、どこの馬の骨だかわからぬ男(あるいは女)がルオーを好きでも嫌いでも、そんなことに大した意味がない。昔ある婦人が、社交界で、モーリス・ラヴェルに、「私はブラームスを好きではない」といった。するとラヴェルは、「それは全くどっちでもよいことだ」と応えたという。(加藤周一『絵のなかの女たち』「まえがき」より)
《私の好きなもの、好きではないもの》、そんなことは誰にとっても何の重要性もない。とはいうものの、そのことすべてが言おうとしている趣意はこうなのだ、つまり、《私の身体はあなたの身体と同一ではない》。というわけで、好き嫌いを集めたこの無政府状態の泡立ち、このきまぐれな線影模様のようなものの中に、徐々に描き出されてくるのは、共犯あるいはいらだちを呼びおこす一個の身体的な謎の形象である。ここに、身体による威嚇が始まる。すなわち他人に対して、《自由主義的に》寛容に私を我慢することを要求し、自分の参加していないさまざまな享楽ないし拒絶を前にして沈黙し、にこやかな態度をたもつことを強要する、そういう威嚇作用が始まるのだ。(『彼自身によるロラン・バルトバルト』)

わたくしはどこかの馬の骨であることをはっきり自覚している。つまり、私の好きなものなど何の意味もない。それは、全くどうでもよいことなのだ。そもそも名高い作家でさえ、《この「私」に何の価値があるのでしょう?》(フローベール)と言っているではないか。

もし他人にわずかでも意味があるなら、風が吹き抜けるように、見知らぬ、あるいは忘れられつつある思いがけない作品に遭遇する可能性を差し出しているという程度の効用はあるかもしれない。だが、それでさえ、人はそんなものは自分自身で探すべきなのだとさえ言える。ーーと記せば、このあと、ひどく書きづらくなる。こんなことを何のために書くのか?--当面、自分自身のため、自己批評、自己吟味のため、と誤魔化しておく。

…………

ところで、過去に愛して生き残っていない作品というものがある。今、ビートルズのホワイトアルバムを聴きながら書いている。たぶん四十年ぶりくらいに。わたくしはビートルズには奥手だった。誰でも知っている名曲、イエスタデイ、ヘイジュード、レット・イット・ビーなどを聴いていなかったわけじゃない。当時はラジオに氾濫していたのだからいやでも耳に入る。中学や高校の学友たちがあまりに熱狂して語るので、名曲いりのLPを何枚か手に入れもした。とはいえ、彼らのように熱狂するという具合にはいかなかった。シューベルトやシューマンの歌曲やバッハの合唱ほうがずっといいや、といささか優越感を抱きながら感じていた。それに名曲の悲しい運命というものがあるものだ。

……後年六人組やストラヴィンスキーに影響を与えたミュージック・ホールやジャズの好みをさきどりした《ミンストレル》とか《風変わりなラヴィヌ将軍》は、とびはねるようなリズムを生命とする《パックの踊り》やユーモラスな《ピックウィック殿礼賛》らとともに特別の私の好みというのでもない。同じようなことは《亜麻色の髪の娘》についてもいえる。これはまた、それにヴァイオリン独奏用に編曲されたりして感傷的にひかれすぎ、あまりにも通俗化されすぎてしまった。「名曲」の悲しい運命である。ちょうどショパンの《幻想即興曲》とか、モーツァルトの《Eine Kleine Nachtmusik》のように。こうなると、耳を新しくしてきき直すといっても、実際はちょっとやそっとのことでやれるものではない。というのは、曲自体の方にもーーいかに簡潔は芸術の美徳とはいえーー何かの原因があって、やたらと野外の公園や、家庭音楽会や通俗名曲の夕べでひかれすぎるようになる要素が存在しているのだ。(吉田秀和「ドビュッシー《前奏曲集》」『私の好きな曲』)

ビートルズの曲は、《何かの原因があって、やたらと野外の公園や、家庭音楽会や通俗名曲の夕べでひかれすぎるようになる要素が存在している》。

もちろん例外あはる。たとえばビートルズをひどく愛した武満徹の編曲、高橋アキの演奏。





ーーだがこれでさえ、わたくしにはどこか居心地がわるい。耳を新しくすることがなかなかできない。今のところ遠慮したいつもりの甘い情緒が絡みついてくる感をおぼえ、敬して遠ざけたくなる。ある種の通俗性?

ふだん父が弾いていたのは、スコット・ジョプリンやデューク・エリントン。とくにデューク・エリントンが大好きで、とても尊敬していました。もちろんビートルズも好きでしたし、いろいろな曲を聴いていましたね。日本では桑田佳祐さんがお気に入りで、よく「あの才能がほしい」と言っていました。クラシックは、たまにベートーベンやバッハをかける程度でした。(武満 眞樹)



飲んでるんだろうね今夜もどこかで
氷がグラスにあたる音が聞える
きみはよく喋り時にふっと黙りこむんだろ
ぼくらの苦しみのわけはひとつなのに
それをまぎらわす方法は別々だな
きみは女房をなぐるかい?

ーー谷川俊太郎「武満徹に」『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』所収

軽く、口笛で吹きたくなるようなメロディーと、甘く重い1950年代のコード進行。ことば以前にメロディーがあり、さらにそれ以前にスタイルがある。ジャズ 風、シャンソン風、クルト・ヴァイル風、などなど。最初の一節はことばと結びついて印象的でもある。それから後はメロディーがことばを追い越していく。そ れは劇音楽の場での必要であり、個人的にはたのしみだった。生活であり、生計でもあった。

1980年代になって、30年前の「う た」を合唱に編曲してみる。ギター曲やポップソングを書く。1950年代のハーモニーがハリウッド的アメリカの夢を思いださせる。それは意図的に古いやり かたをとりあげたのか。安定した生活のなかで貧しさをふりかえる。あたえられた場、あるいは獲得した場のなかで、失われた愛をかえりみる。

ピ アソラの流行、演奏スタイルの一つとしてのモダンジャズの復活、60年代や70年代のリメイク、時がたって無害な音楽に変わってしまった過去の冒険をとり あげることは、他の領域でも起こっている。武満の「うたふたたび」も、時代の表面を流れる傾向の一部かもしれない。オリジナルよりなめらかで、だから速度 も速めになっている。時代の深いメランコリー。対立軸を見つけられず、力で創り出すよりない一極グローバリズム。(高橋悠治、武満徹の「うた」)




……のみならず、次のフレーズにいたるとね、おれはやはり自分の作った映画のことを思うんだだよ。〈私はあらゆる祝祭と、あらゆる勝利と、あらゆる劇とを創造した。新しい花、新しい星、新しい肉体、新しい言語を、編み出そうと試みた。超自然の力を手に入れたとも信じた。〉
 
古義人のことをね、定まり文句で嘲弄するやつがいるね。サブカルチュアに対して差別的な、時代遅れの純文学、純粋芸術指向のバカだとさ。しかし、おれはそうは思わないんだ。きみの書いているものをふくんで、あらゆる文学が、むしろあらゆる芸術が、根本のところでキッチュだ、と長らく小説を書いてきたきみが承知していないはずはないからね。そうしてみれば、おれの作った、お客の入りのすこぶるいい映画をね、おれ自身、もとよりキッチュな光暈をまといつかせてやってきた。おれはあらゆる祝祭と、あらゆる勝利と、あらゆる劇とを創造した、とホラを吹いたとして、きみは笑わないのじゃないか?

(……)さて、それからランボオはこういうんだ。〈仕様がない! 私は自分の想像力と思い出とを、葬らねばならない! 芸術家の、そしてまた物語作者のすばらしい栄光が、持ち去られるのだ。〉

〈とにもかくにも、嘘を糧にしてわが身を養って来たことには、許しを乞おう。そして出発だ。〉

いま、このくだりがおれにはじつに身にしみるよ。古義人、きみもそうじゃないか? おれたちのような職業の人間にしてみれば……キッチュの新しい花、キッチュの新しい星を切り売りしてきた人間にしてみればさ、年の残りも少なくなって、こういう覚悟に到るほかはないじゃないか!篁さんはどうだったろう? 

きみはそうしたことを、あの人が癌で入った病室で聞いてみなかったか? 篁さんの音楽こそは純粋芸術で、キッチュなどとは無縁だなどというのじゃあるまいね? 篁さんに最後の愛想をつかされることがあったとしたら、古義人がついにセンチメンタルになって、そう言い張ろうとする時だったぜ!

十六歳の古義人に会った時から、おれはきみに嘘をいうな、といってきた。人を楽しませるため、人を慰めるためにしても嘘をいうな、と言い続けてきた。ついこの前もそういったところじゃないか? しかし、夫子自身が嘘を糧にしてわが身を養って来たことは、それはその通りだった。ふたりともどもにさ、なにものかに許しを乞うことにしようじゃないか、そして出発だ。(大江健三郎『取り替え子 チェンジリング』ーーキッチュの華)

ーーもちろん話者は伊丹十三、古義人は大江自身、篁さんは武満徹がモデルである。

…………

さて当時のわたくしは、天邪鬼的に、学友たちがあまり語らないビートルズの、たしか最後に近い二枚組のホワイトアルバムをくり返し聴いた。いまこのアルバムを聴くと、あのときのひねくれた心持ちが、ビートルズの歌声のなかに書き込まれているのに気づく。あの白いジャケットの不思議な感覚ーー、肌触り、匂いさえ甦ってくる。それがひどく懐かしい。心に突き刺さる。私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然。《それは=かつて=あった》の悲痛なサイコロのひと振り。ゆらめく閃光。だが他方で、ああ おまえはなにをして来たのだと吹き来る風が私に云う、という感覚にもとらわれる。


もちろん過去を振り返るのも捨てたもんじゃない。でも、あなたの魂がまだ若いならーーロラン・バルトのように62歳になって「私の人生の半ば」といったり、ドガのように70歳になって「我々は、現在我々がやっていることよりも、何時かは為し得るだろうことについて、自信を持たなければならない。でなければ仕事なんて意味がない」という精神の持ち主ならーー、次の言葉を心に刻んでおく必要がある。

ふりむくことは回想にひたることではない。つかれを吹きとばす笑いのやさしさと、たたかいの意志をおもいだし、 過去に歩みよるそれ以上の力で未来へ押しもどされるようなふりむき方をするのだ。 (高橋悠治『ロベルト・シューマン』1978 )

こう記した高橋悠治は、そのとき40歳だった。いま上の文章を拾うために、この峻烈な著作の冒頭を読み返してみると、こうある。

シューマンについて考えてみよう。 なぜ十九世紀のロマン主義の音楽家にいまかかわりあわなければいけないのか?

学問的な研究をする興味はない。 他人の生きた時代、 他人の生き方、 他人の思想を正確に理解し、記述し、批判したって何になるのだ? 作品のかくされた意味を読みとって、 それをどうするのだ? シューマンの音楽とのであいを演出しオレもオマエもおなじなやみなんだ、とくれば小林秀雄のようにひよわなエリート をだますことはできるだろうが、 文化の役割を無条件に肯定するのは宮廷遈化役のすることだ。 芸術家の孤立無援の思想をエラそうに言いたてるがよい。そのことばがもっともらしくひびくのは、 本人も気づかぬうちにカネで買われてしまっている思想だからだ。

そして数頁後に次の文章があり、さきほどの「ふりむくことが…」が続く。

ことばの価値がすりへると同時に、 沈黙も意味をうしなった。 言うべき時にはだまって身をかわし、しゃべらなくてよい時にはとめどなくしゃべる。

状況に足をとられて前逭できない時、前進を言いつつ後退しているのがわかった時、沈黙が必要だ。いままでの方法、領域はすてて、すばやく撤退しなければならない。それでなければ自分のあやまちをくりかえし、 それを防衛しながら状況におぼれていくのだ。

このシューマン論の最後は次の文で終わる。

いま必要なのは冬のおとずれをつげる歌ではない。 冬にそなえて深く穴を掘り、 武器をたくわえ、 その時までに地下に姿を消すことだ。 冬眠するためではない。 根をはりめぐらして、やがて地表を突きやぶるために。



忘れかけていた文章をいくらか拾っておこう。

やがて狂気が姿をあらわすのだが、 その原因をめぐっては、 伝記作者や精神病医たちが論争をつづけてきたし、大作曲家がこんな病気で死んではこまるという権威主義がからんで資料をかくす人々もいて、 定説はないが、 脳梅毒にほぼまちがいはないだろう。芸術家が宮廷使用人や寺男や旅芸人であった時代と、市民社会の中層に安住できるようになった現代との中間では、梅毒の水銀療法で内蔵を破壊されて死ぬか、治療が間にあわずに脳を犯されて死ぬのはめずらしいことではなかった。娼婦なみの地位から娼婦を買うカネがもてる地位によじのぼった者たちのはらった代価だ。 この真実は後代の芸術家の権威のためにかくしておかねばならなかった。

シューマンの症状は、 やはり一つのものにとりつかれる傾向をしめしていた。 一つの音が耳のなかで鳴りつづけ、一つのメロディーやリズムがいつまでも反復された。異質な要素の対立、 内声部の相対的分離、 リズムのずらし方などの初期の方法を放棄した後で落ちこんだ単調さのはてに予想されたもの、統一による運動の停止がそこにあった。

かれは自分のしかけたワナにかかった。 ロマン主義的原則が遠ざかる女をもとめ、 秘教としての古典さを設定していたのに、おもいがけず実現した結婚は生活も芸術も牢獄に変えてしまった。 ブルジョワ家庭の安定をもとめる妻であり、 子供製造器であり、 アカデミックなピアニストであったクララに強制されて対位法の勉強にはげみ、シンフォニーや弦楽四重奏曲のような古典形式をムリしてつかい、 夫婦交代でつける日記を通じて監視されていたのだから、しかも内省的になる のと平行して、教師や指揮者のように性格的にあわない職業で家計を支えなければならなくなったのだから、気ちがいになってあたりまえだ。

クララ・シューマンはドイツ・ロマン主義音楽の逭歩性を反動に転向させた力の象徴のようなものだ。結婚した男が転向し切れずにダメになってしまうと、ブラームスにのりかえた。 ハンブルクの酒場からあらっぽいが生き生きした音楽をもちこんできた若い男は、批評能力をうしなっていたシューマンが十年ぶりに書いた無内容なおだてことばにその気になり、 シューマンの家庭をひきつぐことに失敗すると、 反動の都ウィーンに定住して、没落階級の悲歌を作曲する老人になった。

べつに高橋悠治の言葉をマにうける必要はない。人は飯を食っていくためには職業としての「芸術家」をやらざるはえない。悠治自身、自分がピアニストなのは職業だとどこかで言っている。プロフェッショナルでやっていくなら、人はキッチュ=俗物性とは無縁でありえない。




ピアノは生活の手段だった。(……)ピアニストとみなされると、人が聞きたがるものを弾くことになる。バッハを弾いているとそればかり求められるが、日本では数十年前のグレン・グー ルドの代用品にすぎないから、弾くだけむだと最近は思うようになった。(……)

確信をもっていつも同じ演奏をくりかえす演奏家がいる。この確信は現実の音を聞くことを妨げる障害になるのではないかと思うが、感性のにぶさと同時に芸の傲慢さをしめしているのだろう。演奏が商品でありスポーツ化している時代には、演奏家の生命は短い。市場に使い捨てられない ためには、いつも成長や拡大を求められているストレスがあるのかもしれない。(高橋悠治「ピアノを弾くこと」)


とはいえ、わたくしは、彼の小林秀雄批判に衝撃をうけた、《小林秀雄で言うと…その安っぽいトリックをもっとも鮮烈に批判したのは高橋悠治でしょう》(浅田彰)。

ブラームスをーーグールドの間奏曲の名演はあるにしろーーあまり聴かないのは、この高橋悠治の文章の忘れかけていた記憶のせいもあるかもしれない。

この文章の流れのなかで、なんの評価もなしにポロッと次ぎの文が現われる。

シューマンの最後の作品、 精神病院で完成された 『天使の歌による変奏曲』 が出版されたのは一九三九年だ。 おなじ主題によるブラームスの変奏曲の方はすぐに出版された。




『天使の歌による変奏曲』Geistervariationen über den letzten Gedankenの「天使」とは、字義通り訳せば、「亡霊」であるそうだ。

シューマン--「はるかな解放へのあこがれが、抑圧されたものの素朴なゆめへの共感としてあらわれる」(高橋悠治)
 「天使の主題による変奏曲」はほとんど知られていませんし、録音もほんの少し存在するに留まると思います。この曲の美しさといったら・・・。これはシューマンの生涯最後の音なのです。この作品の作曲途中に自殺を考え、第2変奏を書いた後でライン河に投身自殺しました。救出されたシューマンは、最後の3つの変奏曲を書き上げ、その後一切作曲しようとはしませんでした。というわけでクララ・シューマンがこの曲の出版をしたがらず、1939年に初めて出版されました。この作品は、『ちょうど子供が何か表現したいのに、その言葉を見つけることができない。』という感じに似ています。最後の変奏曲は終わりのない繰り返しです。最後に引き裂かれるような部分から諦観に至ります。この見事な最後のページのおかげで私はこの曲の録音をしたくなったのです。シューマンの最後の作品は「朝の歌」だと言われていますが、そうではありません。「朝の歌」の第4曲でしたか、32分音符で書かれた伴奏にすばらしいです旋律が歌われる曲以外は、「天使の・・・」の方が、表情の移り変わりや孤独、悲しみが見事に描かれているという点で、音楽的にも勝っていると思いますし。非常に私の個人的な考えですけれど。(ルイ・サダ「レコード芸術」二〇〇一年二月号「インタヴュー」)

※暁の歌(Wolfgang Weller)OP.133


2016年2月3日水曜日

たかだか根源的なと呼ばれる程度の問いを「安易に」口にだす連中

「「僕らしい」(ボククラシー je-cratie)哲学者たち」にて、例外の論理/非全体の論理(男性の論理/女性の論理)をめぐって記したが、より具体的な例を掲げよう。

前期ヴィトゲンシュタインの「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」、後期ヴィトゲンシュタインの「家族的類似性」がまずは例外の論理/非全体の論理となる。前回、中井久夫の家族的類似性をめぐる叙述を引用したが、その核心箇所を再掲すれば、次の通り。

「究極には「世界を一つの宇宙方程式に還元する」ことをよしとする人と「世界は多様であること」をよしとする人があるのであろう。(……)前者を「公理指向性」、後者を「範例〔パラダイム〕指向性」と呼んだことがある。(中井久夫『治療文化論』)

この「公理指向性」と「範例指向性」の対比を前提とするなら、まずは、例外の論理は大陸法のようなものであり、非全体の論理はイギリス法のようなものと考えたらよいはずだ。なおかつ、われわれのこうやって使っている「言語」自体が「非全体 le pas tout」であることを忘れてはならない。このことが、ラカンが「メタランゲージはない il n'y a pas de métalangage」と「大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre.」と言い続けたことの核心のひとつである(参照)。

…………

さて、ここでの話題(表題をめぐる)に入ることにする。

《たかだか根源的なと呼ばれる程度の問いを口にして書くことの不自由を曖昧にやり過ごすのではなく、「批評」について書きつらねられようとする言葉そのものを途方もなく希薄化し、遂には凡庸な匿名性へと埋没させてしまう力が何であるか、その機能するありさまを事件として生き》ること。(蓮實重彦『表層批判宣言』)

蓮實重彦はここで、実は「非全体の論理」を語っていると捉えうる。それは、巷間に猖獗する「例外の論理」を罵倒しつつ、である。非全体の論理とは、前回も記したように、パラ存在 para-being としてあること、横にずれてある[être à côté]ことだ。

対して、例外の論理とは、「たかだか根源的なと呼ばれる程度の」もの、物自体やら存在の深淵やら表象の不可能性やらを「向う側」に・彼岸に「神」のように設置して語る言説である(前回もみたように、ラカン派の立場からは、デリダにもメイヤスーにもその気味がある)。

人はここで、アドルノやデリダなどによるハイデガー批判の文脈での、《深遠な理念であれ、深さを誇るならすぐさまいかがわしいものと堕する》という言葉を思い起すこともできる(ジャック・デリダ「異邦人の言語」)。

(ハイデガーの)「存在者の存在の中」というような存在論とこじつけめいた語源学のたぐいは、ある肝心な事柄を見失わせる。それは、彼らが「立った」のは、共同体の外だということだ。(柄谷行人『探求 Ⅱ』ーー  「“A is A” と “A = A”」より)

さて、これらの議論は、ここのところ続けた「得体の知れないものは形式化の行き詰り以外の何ものでもない」や「「言い得ぬもの」はアンチノミーの場にあり、何ら神秘的な意味合いはない」などを見ていただくとして、蓮實重彦に戻ろう。

以下の文で、蓮實重彦は、大江健三郎と江藤淳の「例外の論理」(男性の論理)を批判している。

江藤氏の想像力が「海」、大江氏のそれが「森林」というイメージをほとんどロマンチックなまでに希求し、いわば、いまここにはない失われた風景としての「海」と「森林」とを背景として、「航海者」と「狩猟者」の相貌を浮きあがらせずにはいないのだから、二人の言葉の類似ぶりはただごととも思えないのだが、実はそうした類似するさして重要なものではない。真に驚くべき類似は、にもかかわらず江藤氏と大江氏とがたがいに違ったことを語っていると信じ込み、しかもその確信において、才能の点で自分たちより遥かに劣っているはずのあまたの「批評家」や「小説家」たちといともたやすく馴れあって、薄められた「貧しさ」としての「戦後文学」のうちに埋没してしまう自分に無自覚だという類似であろう。書こうとする個体の意志や欲望にさからいもなくしなだれかかり、馴致されつくしているかとみえる言葉が、実は素直さを装って気軽に存在を招き寄せ、そのしなやかな可塑的流動性によっていとも円滑に筆に乗るかとみせて人目を欺き、かえって言葉への至上権をかすめとって、その洞ろな内面に充実ぶりの錯覚をそっとまぎれこませてしまうという危険を顧みることもなく、書けば書けてしまうという事実のうちに「作家」の特権的視座が確立しうると思いこむことの類似性、それが今日の「文学」的頽廃をあたりに蔓延させているのだが、そんな頽廃を江藤氏も大江氏もまぬがれていないのだ。誰もがそれなりに二つや三つは存在の暗部に隠し持っているだろう「切実な主題」をめぐり、「文学」がたえず捏造してやまない幾つもの疑問符に言葉を妥協させ、前言語的地熱の程よい高まりが、「普遍的」かつ「現代的な課題」と折合いをつけるのを待つといった怠惰な作業が、それにしてもいつから、書くことなどと信じられてしまうようにいたったのか。(蓮實重彦「言葉の夢と「批評」」『表層批判宣言』所収)

もっとも大江健三郎はこれだけではない(例外の論理だけではない)のは、「蓮實重彦の「大江健三郎殺し」」に記した。そもそもすぐれた小説家が例外の論理(男性の論理)による書き手であるはずはない。

中上健次は私の家に泊っていった時、ホモの家に来たみたいだな、と言ったものですが、私はといえば、彼を、まったくこれは中上のオバだ、と思いましたし、第一、彼の書く小説は、ある意味で女性的です――そして、それが秀れた小説の特徴なのです。(金井美恵子 『小説論』)

…………

かつては、不可能な享楽、不可能なリアルを強調しすぎた、とジジェクは『ジジェク自身によるジジェク』2004で語っている。

彼は最近は次のように言う、《われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。》。つまり不可能な例外にリアルはあるのではなく、非全体の論理における象徴界の非一貫性、その裂け目にリアルはある、と。それは、「現実界は分節化された象徴界の内部に外立Ex-sistenzする」(Paul Verhaeghe)ということでもある。ここで上に引用した柄谷行人の言葉を再度ならべておこう、《肝心な事柄……それは、彼らが「立った」のは、共同体の外だということだ》と。

ジジェクのいっている意味は次ぎのようなことだ。

現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからだ。存在(現実)being (reality) があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためだ。というのは、現実界 the Real は形式化の行き詰りだから。この命題は、完全な「観念論者的」重要性を与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり、よろめいたりするというだけではない。そうではなく、現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 (ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

ここにも暗黙に「外立」がある(外立の詳細については、「ラカンのExtimité とハイデガーのExsistenz」を参照のこと)。

ジジェクの上の文は、あたかも蓮實重彦のジジェク罵倒に応えているかのようである。

映画批評が存在しなければいけないという決定的な原理はなにもありません。なにごとについてもそうだといえばそれまでですが、映画批評というものが存在しなければいけないということを原理的に説明しようとすると、比較の問題としてないよりあったほうがいいんじゃないということぐらいで、絶対になければならないということは誰もいえずにいる。じゃあ絶対にやらなければいけないことは何かといったとき、ラカン的な意味での「réel(現実)」について論ずることがそうかというと、そうではないと思う。その種の「réel」について論ずることには形式的にある種の安易さがあって、その安易さは、ニーチェもいうようにカントの「物自体」から始まったといってもいいですけれど、やたらな人間がそれに言及すると、世界を必要以上に単純化してしまう。ですから、許せないのは、私ひとりが許せないっていったってどういう意味もないんですが(笑)、ジジェクの書いている映画論なんか読むと、腹が立ちます。世界も、映画も、それほど単純なものではない。そもそも無限の情報量で充満した画面を、お前さんはくまなく見ているのか。見ているはずがありません。ラカンだって見ていない。にもかかわらず、「réel」という殺し文句を口にしてしまう。そのことの安易さについては、フィクション論の『「赤」の誘惑』でも論じておきました。「表象不可能なもの」について論じるひとの多くもそうですが、ごく単純に言語記号の配置が読めない主体に、仮眠中の記号を目覚めさせる資質も能力もない主体に、「réel」など論じてほしくない。

 これは批評一般についていえることですが、映画批評とは本質的に言い換えの試みです。ある意味では、翻訳といってもいい。しかし、その翻訳は、映像記号=音声記号からなるフィルムの言語記号への読み替えといった単純なものではありません。フィルムに触れることで、批評する主体は、まず、眠っている記号を覚醒させる、つまり潜在的なものを現行化させるという体験をくぐりぬけるのであり、そのことによって自分も変化せざるをえず、主体がいつまでも維持される静態的な記号の解読ではありません。しかし、それがそのつど覚醒化というできごとと同時的な言い換えの試みである限り、どこまでいっても翻訳には終わりはなく、決定的な言い換えというものは成立しようがない。だから、あるとき、自分にこの翻訳をうながしているものはなにか、また、その言い換えが可能であるかにみえるのはいかなる理由によるのかと自問せざるをえません。そのとき、批評家は、いわば「原=翻訳」ともいうべきものと直面し、言葉を失います。そんなものが現実にあるかどうかは問題ではありません。しかし、どこかで言い換えの連鎖を断ちきるような高次の力に触れるしかありません。ひとまず「réel」としか呼びえないものとひとが出会うのは、そうした場合にかぎられている。

 だから、「réel」と口にするひとは、そう口にしてしまった自分にその資格があるかどうかという疑いを持たねばなりません。ところが、「réel」について語ることは、その資格もないひとたちがもっとも楽天的に戯れうる制度になってしまった。この制度は、なんらかのかたちでもう一度わさわさと揺り動かさなければならない。無限の翻訳の連鎖に組み入れられた体験を持たないひとが、「原=翻訳」なんていっちゃいけないわけですよね、本来は。にもかかわらず、現代では、自分に果たしてその権利があるのかどうかを誰も反省しなくなっているという怖さがあります。それは、思考の頽廃でしかありません。自分がそれを語るにふさわしい人間か、また、そのかたちで語っていいのかということに対する反省が、いたるところで失われてゆきます。そのとき、職業ではなく、体験としての批評が改めて意味を持ち始めるのですが、言い換えの無限の連鎖に取り込まれるより、ひとこと「réel」といっているほうが、疲れなくていいのかもしれません。。(蓮實重彦インタビュー ──リアルタイム批評のすすめ vol.2)


蓮實重彦は、『表象の奈落』の「あとがき」でもほとんど同じ内容をくり返している。

「批評」は、本質的に言い換えの作業にほかならない。翻訳とも呼べるその作業は、言い換えるべき対象としての他者の言説の中でまどろんでいるしかるべき記号に触れ、それを目覚めさせることから始まる。数ある記号のどれに触れて目覚めさせるかで、読む主体の「動体視力」が問われることにもなろうが、それは、読むことで、潜在的なものを顕在化させる作業だといってよい。その覚醒によって、他者の言説は、誰のものでもない言説へと変容する。その変容は、 “できごと” として生起し、「批評」の主体をもいくぶんか変容させずにはおくまい。言い換えれば、その二重の変容を通して、とりあえずの翻訳におさまるのだが、「批評」は、それがあくまでとりあえずのものでしかないことを知っている。また、それを知らねば、たんなる「厚顔無恥」に陥るほかはない。

決定的な翻訳にたどりつくことなく、「厚顔無恥」に陥ることも避けながら、とりあえずの翻訳にとどまるしかない「批評」は、あるとき、その宿命として、「表象の奈落」を目にする。そこには、もはや、他者の言説など存在せず、覚醒すべき記号さえ見あたらない。その視界ゼロの世界で、とりあえずのものでしかないにせよ、主体にこの不断の翻訳をうながすものは何か、どんな力に導かれて「批評」は記号の覚醒を目ざしたりするのか、それが物として生みだされるのではなく、事件として起こることを許すものは何か、等々、いくつもの声として響かぬ疑問を前にして、人は言葉を失う。「批評」が「批評」を超えた何かに触れることで陥る失語に言葉を与えるものは、もはや「批評」ではない。だかれといって、それが「哲学」かといえば、それは大いに疑わしい。(蓮實重彦『表象の奈落』「あとがき」より)

これらの考え方は、浅田彰もはやい時期から、蓮實重彦を引用しつつ次のように記している。

……クリステヴァが差異の共時的体系とその外部の相互作用を分析するのに千言万語を費しているのを後目に、デリダは初めから差異と同一性や共時態と通時態の双対性をとびこえた差延化のたわむれを語ってみせるのである。それにしても、差延化といい、パルマコンといい、hymenといい、デリダがのっけからあからさまに舞台に上せるこれらの言葉たちは、蓮實重彦が述べたように(『事件の現場』)、それを言ってしまえば何もかもおしまいだという類の言葉ではなかったろうか? 口に出して言わずにおいたまま、それに無限に漸進していく長い長い道筋を辿る方が、有効な戦略だとしたら? それは措くとしても、デリダの戦略は侵犯のエネルギーを中性化してしまうという、クリスティヴァの弱々しい批判を、簡単に黙殺するわけにはいかないだろう。ともあれ、デリダの恐るべき手がそうした言葉たちを敢えて書きつけてしまった時から、我々はそれを避けて通ることができなくなったのである。(浅田彰『構造と力』PP.97-98)

とはいえ、人は表象不可能なものや深淵を語るのが好きだ。たとえば、高橋悠治は次ぎのように書いている。これは詩の形式をとっているという理由で、〈あなた〉は許せるだろうか?

存在の夜にめざめている詩人だけが その一瞬の深淵を感じとる
だからことばは おのずから生まれる 向こうからやってくる
言語がまずあり 意味が決められている単語を組み合わせ あやつって造り上げる詩なるもの ではない
詩と同時に生まれることばでなくては 詩は世界に向かい合っていない
ゲーテの原言語よりも 原植物に近い 言語にならないことば
滝の前の歌い手は じっさいには習い覚えた歌の一節をうたっているだけだ
それは歌い手の内部ではじける滝の音の粒子である移された炎を 覆い隠している殻 残り火に内部から照らされる消し炭の白い灰
そのように ことばにひそむうごき ことばという殻の外から察知される内部の空洞

ーーー高橋悠治「声・文字・音」より

わたくしもかつてはひどい「深淵愛好家」症状をもっていたのだが・・・

さらにふたたび

ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke 堀辰雄訳

さらにふたたび、よしや私達が愛の風景ばかりでなく、
いくつも傷ましい名前をもつた小さな墓地をも、
他の人達の死んでいつた恐ろしい沈默の深淵をも
知つてゐようと、さらにふたたび、私達は二人して
古い樹の下に出ていつて、さらにふたたび、身を横たへよう
花々のあひだに、空にむかつて。




……作品はロダンの手を離れると、全くまだ一度も人の手をふれたことのないもののようです。光と影はこの物の上では、もぎたての果実の上でのように、いっそうのやわらかさを持ち、朝風にはこばれて来たようにいっそうの動きに充ちているのです。(……)

或るところでは光はゆるやかに流れているかと思うと、或るところでは滝のように落ちており、あるいは浅く、あるいは深く、あるいは鏡のように輝くかと思えば、またにぶく淀んでいる、--きわめて変化に富んだ傾斜を持つ一種独特なこの表面によって、そういうふうに光が動きを余儀なくさせられるのです。こういう作品の一つにふれる光は、もはやただの光でいることができません、もはや偶然の方向を持つことはできないのです。物が光を所有することになり、自分のもののように使うことになるのです。

明確に決定された表面を持つことから、こういうふうに光を獲得し、わがものとすることを、彫刻的事物の本質的な性質の一つとしてロダンは再認したのです。(……)ロダンは光の獲得を自分の発展の一部とすることによって、太古からの伝統の中へ身を置いたのでした。

実際そこには、リュクサンブール美術館にある『思い』とよばれる、あの石塊の上のうつむいた顔のように、自分自身の光を持った石があります。この顔は影になるまで前に傾いて、石の白い微光の上にささえられていますが、この石の輝きのために影は融け去り、一種の透明なうすら明かりへと移って行くのです。(リルケ『ロダン』高安国世訳)

ーーかつてはこのような文章を読んでクラクラしたものだ。とはいえよく読んでみると、ここには「深淵」という言葉はない。むしろ今は《明確に決定された表面を持つことから、こういうふうに光を獲得し、わがものとすること》という表現に注目したい。

おそらく「深淵」という言葉は(すくなくとも散文にては)、次ぎのように使うべきなのだ。ここには象徴界の内部の非一貫性(非全体)において垣間見られて裂け目としての「深淵」が語られているのではないか。それはリルケの散文と同じく。

彼の演奏した曲のなかには、世界の果てに位置し、作品の内部から発せられる光に包まれていると思われるものがある。質量なき光、厚みも色もない光、われわれを待ってはいない光、人が見る以前にすでにそこにあった光だ。(この光のことを理解するには、サン=ヴィクトル学派の人々によってなされた、世俗的で苦しみをともなう光〔ルーメン〕と貧しくとも法悦をもたらす光〔ルクス〕との対比をふたたび取り上げなければならない。こうしてグールドは曲のどの部分においても無知のままに問いかける者のようにして歩む。なぜこの音が書かれているのか。この転調はどこにゆこうとしているのか。明るいタッチをここにおくならば夜はどう反応するだろうか。肯定する音楽(バッハの<組曲>を演奏しなかったわけではない。だがそのとき彼が肯定するのは、問いはなおも持続するということだったはずだ。しかも沈黙がある。この沈黙の全体、呼吸するためではなくて、誰かの息が絶えるときのように、もはや自己の内部にあるのか外部にあるのかわからないが、いきなり口をあける深淵。音それ自体があまりにも稠密な光を放っているので、音は裏側にあるくぼみの反射でしかないのではないかと思われてしまう。音たちがみずからあがなうべき影、目に見えるものと目に見えないもののあいだにある絶対的な均衡の法則にしたがって音たちが死者の国から連れてくる影。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド 孤独のアリア』千葉文夫訳)
グールドの場合には、なによりもヘルダーリンが望んだ表現の透明さ die Klarheit der Darstellungがある。このような透明な光は熱狂的な憑依体験の対極にあるわけではない。このような光は、静謐なものでもなければ抑制されたものでもない。それは奪い取ることであり、切開を意味するのだ。それでいてこの光は冷たく遠くにある。神的なるものの訪れは火、炎、煙の上がる光景を意味しない。グールドを訪れた神はヘルダーリンを訪れた神と同一である。ディオニュソスではない。熱狂的な暗闇の神ではない。アポロンであり、正しきもの、透明なるものなのだ。(同上)

さて〈あなた〉は、たとえばハイデガーの Abgrund[深淵]やら Zerklüftung[裂開]、Riß[断裂]、Lichtungーーー 「森林の空地 」「開存」「出存」「脱存」「脱我的実存」「存在の開け」「存在の明るみ」「存在の光」]などをどう取るだろうか。

これらはラカンが béance[裂口]、coupure[切れ目]、fente[裂け目]、refente[裂割]、division[分裂],faille[断層]、trou[穴]などの語彙群で言い換えたものだーー。

そしてこれらの中心となる概念が、ラカンのex-sistence(ハイデガーのExsistenzの訳語)やExtimité( 最も親密な intimate 部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外 ex に現れ、捉えがたいもの)である。

要するに、私たちのもっとも近くにあるものが、私たちのまったくの外部にあるのです。ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を使うべきでしょう。(ラカン、セミネールⅩⅥ)

…………

おそらく最も大切なのは、「深淵」を安易に語ることによって、次の罠に陥っていないかどうかをつねに自問することだろう。

人がかくも熱心に言葉を取り交わしあって止まないのは、背後にさし迫った沈黙の深淵を忘れるためではなかったか。(浅田彰)
人が何ごとかを語るのは、そのことが生起しつつある瞬間から視線をそらせるためである。(蓮實重彦)

2015年8月8日土曜日

文体(スタイル)の「自己模倣」と「自己破壊」

「人間の思考はその人間の母語によって決定される」をめぐって二つばかり続けたが、この文を利用して、別の(下位の)レヴェルでこう言うことができるのではないか。

すなわち「作家の思考はその作家のスタイル(文体)によって決定される」と。

とすれば、ニーチェやロラン・バルトのいう文脈ではどういうことになるか。

ロラン・バルトのいう《アリストテレス哲学の主要概念が、ギリシア語の主要な分節によっていわば制約をうけていることをわたしたちは知っている》――そうであるならば、作家の思考は、その文体の主要な文節によって制約をうけている、ということができる。

あるいはニーチェのいう《彼らの思考は発見ではなくて、むしろ再認識、回想、それらの概念がかつてそれより生まれきたりしところの遠きいにしえの霊魂の共有財への復帰であり、帰郷である》《ある文法的機能の呪縛は、窮極において、生理的価値判断と人種条件の呪縛でもある》も同じような言い方で変奏できるだろう、文体の呪縛は思考の呪縛である、と。

もっともここでわたくしは「文体」という言葉を安易に取り過ぎているのかもしれない。

「美しい書物は一種の外国語で書かれている・・・・・・」(プルースト)これが文体の定義だ。これはまた生成変化の問題だ。人々はつねに多数者の未来を想う(私が偉くなったら、権力をもった時には・・・・・・)。だが、問題は少数者=になることにかかわる。子供、狂人、女性、動物、どもり、あるいは外国人、彼らのふりをするのではない。彼らをつくり出すのでも模倣するのでもない。新たな力、新たな武器を創出するために、それらすべてになることである。(ドゥルーズ『ディアローグ---ドゥルーズの思想』)
文体とは、自らの言語のなかでどもるようになること。難しい。なぜなら、そのようにどもる必要がなければならないのだから。発語(パロール)でどもるのではない、言語活動(ランガージュ)そのものによるどもりなのだ。自国語そのものの中で異邦人のごとくであること。逃走の線をひくこと。(同『ディアローグ---ドゥルーズの思想』)

このドゥルーズ=プルーストの言葉をそのままとれば、文体とはたえざる革新のこととさえ読むことができる。馴れ親しんだ自らの文体を模倣するだけなら、それは「外国語で書かれている」ことにも「吃る」ことにもならないだろうから。

…………

いったん成功した「芸術家」の辿る道として、四つの仕方がある、と中井久夫は指摘している。第一は「自己模倣」、第二は「絶えざる実験」、第三は「沈黙」、第四は「自己破壊」と。この第二と第四は、自らのスタイルに囚われる陥穽を自覚した「芸術家」の「辿る道」といってよいのではないか。すなわち自らの創造行為がそのスタイル(文体)によって決定されてしまっている呪縛から逃れようとする振舞いと。

他方、第一の「自己模倣」に陥る芸術家は腐るほどいる。あのグレン・グールドさえそうであった、と高橋悠治はいっている。

グールドはやはり1950年代に自己形成し そこから一生逃れられなかったのだろう スタッカートで分離された均質な音と 極端に速いか極端に遅いテンポの対照 数学的と言うよりは数字的な精密な細部決定の徹底 それらは同時代アメリカの音列技法による音楽 ディジタルなコンピュータ・アートに向かう制御の思想とおなじ根から生まれた(高橋悠治「グレン・グールドふたたび」)

とはいえ、この「自己模倣」が必ずしも悪いわけではないとも言える。それは第三の「沈黙」に耐える力があるならば、《その世界は深まり、その手法は発展する》ことがありうる。

たとえば〈あなた〉は終生スタイルの変わらなかったゴッホやセザンヌと絶えざるスタイルの変化を実践したピカソのどちらを好むか。

若い画家は、教師を見習うことから始める。すでに完成された様式のいくつかを次々に試みながら、自分自身の世界を見出そうとする。多くの場合には、そういう時期が生涯にわたり、画家は遂に自分自身を見出さないだろう。しかし彼が天才ならば、あるとき、自分自身の様式、その独特の空間と色彩、個性的な手法と共に彼自身の絵画的世界を発見するだろう。オランダの油絵の伝統的な様式で静物画を描き、印象派の手法で風景を描いていた青年画家が、アルルの町である朝眼をさますと、ファン・ゴッホになる。

一度自己の世界を発見した画家は、二度とその世界から離れることがない。その世界は深まり、その手法は発展する。しかし一つの様式から、根本的に異る他の様式へ移ることはなく、殊に二つの様式を併用することはない。その世界は汲めども尽きず、その様式を通して表現し得ることにはかぎりがないだろうからである。たとえばデュフィは、青い海と空、椰子の樹と露台の花を、ルオーは、道化師の顔と月夜の道を行く人物を、生涯描きつづけてやまなかった。逆に、生涯多くの様式を用いつづけた画家は、デュフィやルオーと同じ意味での一流の芸術家ではなかった。

例外はピカソである。周知のように、ピカソの様式は時期によって異る。また同じ時期にも多くの様式が併存する。しかもその各々が、独立した絵画的世界を作り、一流の画家が生涯をかけて到達した仕事に匹敵していた。たとえば「青の時代」の老婆の肖像や自画像は、今世紀の絵画の最高の作品にちがいない。同じことは、立体主義の時代の静物画についてもいえるし、「アヴィニヨンの娘たち」に代表される時期の裸女の絵についてもいえるだろう。ピカソは自己の様式を探していたのではなく、多くの自己の様式を発見したのである。彼だけは、芸術家としての、複数の生涯を生きた。

しかし表現様式の多様性は、必ずしも題材の多様性を意味しない。ピカソは、生涯を通じて、ほとんど常に、人体を、殊に女の身体を、また殊に「モデル」として特定の女の姿態を、描きつづけた。ピカソこそは、あらゆる意味で、女を愛し、女を描いた芸術家である。

一九五三年の夏にペルビニヤンで出会ったというジャクリーヌ・ロークの肖像画の連作を、翌年七月パリの個展で私は見た。その連作は、写実的な具象画から始めて、抽象化の度合を異にする同じ「モデル」の肖像が、遂に女一般となり、さらに抽象化を進めて、もはや、それが女であることさえ判じ難い「もの」と化するまでの過程を、一望の下に明示していた。しかし、それは抽象化の過程の説明ではなかった。そうではなくて、それぞれの段階における画面の、それとして独立した堅固な世界の展示であった。その一つが「花とジャクリーヌ」(1954年6月)である。青と赤の背景、そこに散らした白い薔薇、太く黒い線で浮きあがらせた若い女。その女の顔の表情は、通った鼻すじと結んだ口もとに、険しくはないが断乎として意思を示し、大きな眼の輝きに、優しくはないが微妙な感情の動きを示す。けだし絵のなかの女の表情のこれ以上に美しい例は、少ないだろう。……(加藤周一『ピカソの女たち」)


以下、中井久夫の文を貼りつけておく。

「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」(初出1996)からだが、各パラグラフに小題をつけておこう。


【癒しとスタイル】
私は文体獲得によって初めて創作行為は癒しとなりうると考える。それは癒しの十分条件ではないが必要条件であると私は思う。

むろん個人の日記、ノートの類も癒しの意味を持たないわけではないが、それは別個の問題であって、文字言語的定着による前ゲシュタルト的言語・イマージュ複合の減圧、貧困化、明確化による癒しである。( ……)

【処女作の豊饒さの喪失】 
しかし、文体獲得を以て万事よしとすることはできない。

芥川賞を初め、文学賞受賞作と受賞後第一作との相違を次のように定式化することができる。受賞作にあるあらゆる萌芽的なもののうち、受賞第一作においては、受賞によって光りを当てられた部分が突出しているとーー。しばしば、受賞作にある豊穣さは第一作においては単純明快化による犠牲をこうむっている。

作家となることは実にしばしば流入する体験が偏り、狭くなることである。わが国の作家が世に知られるとともに文壇と家庭の事件を書くことになってしまう例はいくらでもある。

 【創造的てありつづけることの困難】
一般に、作家が創造的でありつづけることは、創造的となることよりもはるかに困難である。すなわち、創造が癒しであるとして、その治癒像がどうなるかという問題である。

一般に、四つの軌道のいずれかを取ることが多い。一つは「自己模倣」であり、第二は「絶えざる実験」であり、第三は「沈黙」である。第四は「自己破壊」である。実際には読者および時代の変化と当人の加齢とに応じて、時とともに変化することが少なくない。

【自己模倣】
「自己模倣」はもっとも安全である。彼の書くものがいかにも彼の書くものらしいことを求める「ひっそりとした固定読者」の層に包まれて彼は一種の「名優」となる。わが国においては、詩人あるいはエッセイストの場合でさえ「その人のものなら何でも買う」固定読者が千五百人はいる。彼は歌舞伎の俳優のように芸の質を落とさないように精進していればよい。ただ、読者の移り気は別としても、文学における「自己模倣」は演劇あるいは絵画よりも困難である。林武のように薔薇ばかり描いているわけにはゆかない。こうして彼は第二の「実験」に打って出る誘いを内に感じる。

【実験】
「実験」は画家ピカソあるいは谷崎潤一郎を思い浮かべられればよいだろう。ただ、マルクスが創造的である条件とした「若く貧しく無名であること」が失われている場合、「実験」はショウに堕する危険がある。この場合、彼が実験することを求める騒がしい読者、批評家、ジャーナリストに囲まれて、彼は「絶えざる実験者」となるが、危険は「スター」に堕することである。それはこのタイプの「囲む連中」が求めることである。私は三島由紀夫の例を思い浮かべずにはいられない。この道を全うするには、ゲーテほどの狡知と強制的外向人化と多額の金銭とが必要である。

【沈黙】
第三は「沈黙」である。これは志賀直哉がほぼ実現した例である。創造的でない時に沈黙できるのは成熟した人、少なくとも剛毅な人である。大沈黙をあえてしたヴァレリーにして「あなたはなぜ書くのか」というアンケートに「弱さから」と答えている(彼は終生金銭に恵まれなかった)。もっとも、彼が無名の時にかちえた「若きパルク」完成のために専念した四年間のような時間は、著名になってからは得るべくもなく、第二次大戦が強制した沈黙期間がなければ最後の大作「わがファウスト」に着手できなかったであろう(死が完成を阻んだが)。

【自己破壊】
第四は例を挙げるまでもない。己が創ったものは自己の外化であり、自己等価物、より正確にいえば自己の過去のさまざまな問題の解決失敗の等価物、一言にしていえば「自己の傷跡の集大成」である。それらはすべて新しい独特の重荷となりうる。それらはもはや廃棄すべくもないとすれば、代わって自己破壊への拒みがたい傾斜が生まれても不思議ではない。老いたサマセット・モームは「人を殺すのは記憶の重みである」と言い残して自殺している。

【昇華と自己破壊】
サリヴァンは、フロイトがあれほど讃美した昇華を無条件な善ではないとして、それが代償的満足である以上、真の満足は得られず、つのる欲求不満によって無窮動的な追及に陥りやすいこと、また「わが仏尊し」的な視野狭窄に陥りやすいことを指摘している。それは、多くの創造の癒しが最後には破壊に終る機微を述べているように思われる。


…………

ここでの話とはあまり関係がないかもしれないが、ロラン・バルトのエクリチュールの考え方の推移を附記しておく。

バルトの翻訳者かつ研究者の石川美子さんは次のように書いている、

47年には「文体」との明確な区別がなかった「エクリチュール」は、53年には「文体」とは異なるものとして定義され、70年代になると螺旋を描くように「文体」の近くへもどってきたということである。その後も、彼は「エクリチュール」の意味を自在にひろげてゆく。書く行為、書くことそのもの、書きかた、書かれたもの、といった単純な意味でもちいることもあった。(ロラン・バルト『零度のエクリチュール「解説」』)
バルトにとって、「エクリチュール」はもっとも重要な概念であるが、彼はその意味をたえず変化させてきた。1971年に、彼はつぎのように総括的に語っている、「『零度のエクリチュール』[1953年]では、エクリチュールはむしろ社会学的な、とにかく社会=言語学的な概念でした。集団の、知的グループの個人言語であり(……)、一国民の体系であるラングと一主体の体系である文体のあいだに位置するものでした。(……)そして新しい理論では、むしろわたしが文体と呼んでいたものの位置をしめるようになっているでしょう。(……)今日ではさらに進んで、エクリチュールとは個人言語(かつての文体のような)ではなく、ひとつの言表行為であり(言表されたものではなく)、その行為をとおして主体は、白いページという舞台の上で、みずからを散逸させたり斜めに身を投げかけたりしながら、みずからの分割を演じてゆくのです」(「答え」)。とはいえ、バルトは、書く行為、書くことそのもの、書きかた、書かれたもの、といった単純な意味で(ただし、つねに快楽に結びついたものとして)「エクリチュール」の言葉をもちいることもすくなくない。(ロラン・バルト『記号の国』石川美子訳 本文注 p12)

(ここでの言表行為/言表されたものをめぐるラカン派「言表行為 enonciation」/言表内容 enonce」)やそれに関連するヤコブソンのシフターの説明は、「ラカン派の「記号」と「シニフィアン」」の後半をみよ。)

あまり上の文脈とは関係がないとしたが、おそらく「文体」といわず「エクリチュール」といえば、自己模倣などありえず、たえざる革新ということがいえるのではないか。


上に引用した中井久夫「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」には次のような文もある。文体が「言語の肉体」であるのなら、それを「革新」するとはどういうことなのか?

「文体」とは何であるか。古くからそれは「言語の肉体」であるといわれてきた。「言語の肉体」とは何であるか。それは、言語のコノテーションとデノテーションとの重層だけではない。歴史的重層性だけでもない。均整とその破れ、調和とその超出(ハーバート・リード卿が「ゲシュタルト・フリー」といったもの)だけでもない。言語の喚起するイメージであり、音の聴覚的快感だけではない。文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発声筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である。

その獲得のためには、人は多くの人と語り、無数の著作を読まなければならない。語り読むだけでなくて、それが文字通り「受肉」するに任せなければならない。そのためには、暗誦もあり、文体模写もある。プルーストのようにバスティーシュから出発した作家もある。

もちろん、すぐれた作家への傾倒が欠かせない。ほとんどすべての作家の出発期にあって、これらの「受肉行為」が実証されるのは理由のないことでは決してない。おそらく、出発期の創作家が目利きの人によって将来を予言されるのは、この「受肉力」の秤量によってである。

傾倒は、決して、その思想ゆえでなく「言語の肉体」獲得のためでなければならない。そうでなければ、その人はたかだか作家の「取り巻き」に終わるであろう。作家が生きていようと、死者であろうと、変わりはない。実際、思春期の者を既存作家への傾倒に向かわせるものは決して思想の冷静な吟味によってではない。それは、意識としてはその作家のしばしば些細な、しかし思春期の者には決定的な一語、一文、要するに文字通り「捉える一句」としてのキャッチフレーズであるが、その底に働いているのは「文体」の親和性、あるいは思春期の者の「文体」への道程の最初の触媒作用である。

いっぽう、言語へのあるタイプの禁欲も必要である。この禁欲が意識的に破壊された時、しばしば「ジャーナリストの文体(むしろ非文体)」が生まれる。ジャーナリストを経験した作家は、大作家といわれる人であっても、ある「無垢性の喪失」が文体を汚しているのはそのためである。(中井久夫 「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて)

この1996年ーー阪神大震災の翌年ーーに書かれた「文体論」自体、 中井久夫にとってなんらかの「癒し」になっているのではないか、と推測される見事なエクリリュールである。2000年前後につづけざま発表される心的外傷論を当然のこと準備していた時期であろう。

ここには、まさにロラン・バルトのいう《白いページという舞台の上で、みずからを散逸させたり斜めに身を投げかけたりしながら、みずからの分割を演じてゆく》言表行為がありはしないか。





2014年12月23日火曜日

坂口安吾と小林秀雄

小林は骨董品をさがすやうに文学を探してゐる。そして、小さな掘出し物をして、むやみに理屈をつけすぎ、有難がりすぎてゐる。埃をかぶつて寝てゐる奴をひきだしてきて、修繕したり説明をつけて陳列する必要はないのである。西行だの実朝の歌など、君の解説ぬきで、手ぶらで、おつぽり出してみたまへ。何物でもないではないか。芸術は自在奔放なものだ。それ自体が力の権化で、解説ぬきで、横行闊歩してゐるものだ。(坂口安吾「通俗と変貌と 」初出:「書評 第二巻第一号」1947(昭和22)年1月1日発行)
小林秀雄は、作家は何を書いたか、といふことよりも、何を書かなかつたか、といふことの方に意味があるといふ。そんな馬鹿げた屁理窟があるものか。(同上)

小林秀雄がどこでこういっているのかは分からないが、たぶんニーチェ起源ではないか。

書物はまさに、人が手もとにかくまっているものを隠すためにこそ、書かれるのではないか。……すべての哲学はさらに一つの哲学を隠している。すべての意見はまた一つの隠れ家であり、すべてのことばはまた一つの仮面である。(ニーチェ『善悪の彼岸』 289番)

だがいまは小林秀雄の話ではない。坂口安吾の小林秀雄ヤッツケ文の話だ。

あまり自分勝手だよ、教祖の料理は。おまけにケッタイで、類のないやうな味だけれども、然し料理の根本は保守的であり、型、公式、常識そのものなのだ。(「教祖の文学――小林秀雄論――」初出:「新潮 第四四巻第六号」1947(昭和22)年6月1日発行)
花鳥風月を友とし、骨董をなでまはして充ち足りる人には、人間の業と争ふ文学は無縁のものだ。(同上)

安吾の作品はいままでわずかしか読んだことがなく、だがついこのところそのかなりのものを読んでみた。青空文庫に440作品あまりあるものは目を通した。といっても長い小説や探偵小説の類はかなりすっとばして掠め読むというイイカゲンな読み方にすぎないが、安吾に今でも愛着をもつ作家たちがいるのはよく分かる気がしてきた。また「教祖の文学」以外にも、小林秀雄をヤッツケているのを知ったのはようやくこの機会のことだ。

ところで、「教祖の文学」には次の文がある。

だから坂口安吾といふ三文々士が女に惚れたり飲んだくれたり時には坊主にならうとしたり五年間思ひつめて接吻したら慌ててしまつて絶交状をしたゝめて失恋したり、近頃は又デカダンなどと益々もつて何をやらかすか分りやしない。もとより鑑賞に堪へん。第一奴めが何をやりをつたにしたところで、そんなことは奴めの何物でもない。かう仰有るにきまつてゐる。奴めが何物であるか、それは奴めの三文小説を読めば分る。教祖にかゝつては三文々士の実相の如き手玉にとつてチョイと投げすてられ、惨又惨たるものだ。

ところが三文々士の方では、女に惚れたり飲んだくれたり、専らその方に心掛けがこもつてゐて、死後の名声の如き、てんで問題にしてゐない。(「教祖の文学」)

これは安吾の自伝的小説のいくつかの叙述にかかわるのだろう。たとえば「二十七歳」。以前、「坂口安吾と童貞」というメモにいくつかの自伝小説から抜き出したのだが、「教祖の文学」は、以前に読んでいたにもかかわらず、上の叙述のことはすっかり失念していた。

その接吻の夜、私は別れると、夜ふけの私の部屋で、矢田津世子へ絶交の手紙を書いたのだ。もう会ひたくない、私はあなたの肉体が怖ろしくなつたから、そして、私自身の肉体が厭になつたから、と。そのときは、それが本当の気持であつたのかも知れぬ。その時以来、私は矢田津世子に会はないのだ。彼女は死んだ。そして私はおくやみにも、墓参にも行きはしない。

その後、私は、まるで彼女の肉体に復讐する鬼のやうであつた。私は彼女の肉体をはづかしめるために小説を書いてゐるのかと疑らねばならないことが幾度かあつた。私は筆を投げて、顔を掩うたこともある。(坂口安吾「二十七歳」)

 さてここで再度「教祖の文学」から拾う。

常に物が見えてゐる。人間が見えてゐる。見えすぎてゐる。どんな思想も意見も彼を動かすに足りぬ。そして、見て、書いただけだ。それが徒然草といふ空前絶後の批評家の作品なのだと小林は言ふ。これはつまり小林流の奥義でもあり、批評とは見える眼だ、そして小林には人間が見えすぎてをり、どんな思想も意見も、見える目をくもらせず彼を動かすことはできない。彼は見えすぎる目で見て、鑑定したまゝを書くだけだ。
生きてゐる奴は何をしでかすか分らない。何も分らず、何も見えない、手探りでうろつき廻り、悲願をこめギリ/\のところを這ひまはつてゐる罰当りには、物の必然などは一向に見えないけれども、自分だけのものが見える。自分だけのものが見えるから、それが又万人のものとなる。芸術とはさういふものだ。歴史の必然だの人間の必然などが教へてくれるものではなく、偶然なるものに自分を賭けて手探りにうろつき廻る罰当りだけが、その賭によつて見ることのできた自分だけの世界だ。創造発見とはさういふもので、思想によつて動揺しない見えすぎる目などに映る陳腐なものではないのである。

 このように書いているのは以前から印象に残っていた。これは、その批評のスタイルとしては、後に高橋悠治や蓮實重彦、岡崎乾二郎などによる小林秀雄批判の嚆矢のようなものだ。

批評は文学であり、「批評の方法も創作の方法と本質上異なるところはあるまい」と言う。このねたましげな表現にかくれて、小林秀雄は作品に対することをさけ、感動の出会いを演出する。その出会いは、センチメンタルな「言い方」にすぎないし、対象とは何のかかわりもない。(高橋悠治『小林秀雄「モオツァルト」読書ノート』1974年)
……だが、多少とも具体 的な夢へと立ち戻りうる者になら、人が「未知」の何かと「偶然」に遭遇したりはしないという点が素直に理解できるだろうし、そればかりか、むしろ「出会 い」を準備しうる環境と徐々に馴れ合い、それを通じて出会うべき対象をかりに無意識であるにせよ引き寄せ始めていない限り、遭遇などありえはしないとさえ 察知しうるはずだ。つまり、小林秀雄は、大学における専攻領域の選択、交遊関係などにおいて、詩人ランボーの書物と「出会い」を演じて決して不思議ではな い環境にあらかじめ住まっていた「制度」的存在なのであり、そのときすでに、ボードレールもパルナシアンの何たるかも知らされてしまっていたのだ。そうで なければ、「メルキュウル版の『地獄の季節』の見すぼらしい豆本」を「ある本屋の店頭で、偶然見付け」るといったペダンチックなメロドラマは起こったりし まい。いずれにせよ、こちらがそれらしい顔でもしていない限り、「見知らぬ男」が都合よく「僕を叩きのめし」てくれるはずがなく、だからあらゆる「出会 い」は「制度」的に位置づけられ準備され組織された遭遇なのであって、その位置づけられ組織されたさまを隠蔽するために、人は「出会い」を擬似冒険的な色 調に塗りこめ「文学」と「青春」との妥協に役立てずにはいられないのだ。(蓮實重彦「言葉の夢と批評」『表層批評宣言』所収)
岡崎乾二郎)どういうわけかわからないけれど、この私にだけ見えちゃったっていう人がいるわけね。あるいはそれによって事後的に私という主体性を支えている、そういう話になっちゃう。本人は、私が、とは主張していない。受動的であるかのように装ってしまう。(グリーンバーグ講義ノート1)

 これらの批判が胸に染みている世代の作家たちは、センチメンタルやメロドラマに陥ることを避けようとし、また花鳥風月に耽溺し「人間の業」に我関せずの文章を恥じるようになった時期があるのかもしれない。

ところで明らかに安吾派であるだろう中上健次の友人柄谷行人はこう言っている。

文学の地位が高くなることと、文学が道徳的課題を背負うこととは同じことだからです。その課題から解放されて自由になったら、文学はただの娯楽になるのです。それでもよければ、それでいいでしょう。どうぞ、そうしてください。それに、そもそも私は、倫理的であること、政治的であることを、無理に文学に求めるべきでないと考えています。はっきりいって、文学より大事なことがあると私は思っています。それと同時に、近代文学を作った小説という形式は、歴史的なものであって、すでにその役割を果たし尽くしたと思っているのです。(柄谷行人『近代文学の終り』)

今の若い人びとの多くには思いもよらぬかもしれないこの発言、あるいはたいした文学読みではないが、日本文学のなかで5人選ぶとするなら、永井荷風と西脇順三郎がどうしても欠かせないわたくしのような人間にも、おい、柄谷さん!と呟きたくなる発言なのだが、これはおそらく、日本のある時期には、文学者が思想家の役割を担ったことへのノスタルジーの言葉としてあるとすることができるかもしれない。

比喩的にいえば、日本では哲学の役割まで文学が代行し、中国では文学さえも哲学的になったのである。(加藤周一『日本文学史序説』)

さてここでもう一度安吾に戻れば、彼は小林秀雄について次のように書いてもいるのだ、《僕自身は尊敬し、愛する人のみしかヤッツケない。僕が今までヤッツケた大部分は小林秀雄に就てです》と。

私は雑誌はめつたに読まない性分だから、新人などに就て何も知らず差出口のできないのが当然なのだが、戦争中「現代文学」といふ同人雑誌に加はつていたので、平野謙、佐々木基一、荒正人、本多秋五などといふ評論家を知つてゐた。みんな同人だつたからだ。さもなければこれら新鋭評論家に就て、その仕事に就て、概ね無智の筈であつた。福田恆存などといふ傑れた評論家に就ても一ヶ月前までは名前すら知らなかつた。たまたま、某雑誌の編輯者が彼の原稿を持つてきて、僕にこの原稿の反駁を書けといふ。読んでみると僕を無茶苦茶にヤッツケてゐる文章なのだ。けれども、腹が立たなかつた。論者の生き方に筋が通つてゐるのだから。それに僕は人にヤッツケられて腹を立てることは少い。編輯者諸君は僕が怒りんぼで、ヤッツケられると大憤慨、何を書くか知れないと考へてゐるやうだけれども、大間違ひです。僕自身は尊敬し、愛する人のみしかヤッツケない。僕が今までヤッツケた大部分は小林秀雄に就てです。僕は小林を尊敬してゐる。尊敬するとは、争ふことです。(坂口安吾「花田清輝論」)

では、荷風や漱石、志賀直哉を無茶苦茶にヤッツケたのは、あれはどうなるのだろう。

(おそらくそのうち続く)


…………

※附記:坂口安吾による小林秀雄への親しみのこもった文章をいくらか抜いておく。

川端康成さんの碁が同じように腕力派で、全くお行儀が悪い。これ又、万人の意外とするところで、碁は性格を現すというが、僕もこれは真理だと思うので、つまり、豊島さんも川端さんも、定石型の紳士ではない腕力型の独断家なのでお二人の文学も実際はそういう風に読むのが本当だと思うのである。

 更に万人が意外とするのは小林秀雄で、この独断のかたまりみたいな先生が、実は凡そ定石其ものの素性の正しい碁を打つ。本当は僕に九ツ置く必要があるのだが、五ツ以上置くのは厭だと云って、五ツ置いて、碁のお手本にあるような行儀のいゝ石を打って、キレイに負ける習慣になっている。

 要するに小林秀雄も、碁に於て偽ることが出来ない通りに、彼は実は独断家ではないのである。定石型、公理型の性格なので、彼の文学はそういう風に見るのが矢張り正しいと私は思っている。

 このあべこべが三木清で、この人の碁は、乱暴そのものゝ組み打ちみたいな喧嘩碁で、凡そアカデミズムと縁がない。(「文人囲碁会」)
フツカヨイをとり去れば、太宰は健全にして整然たる常識人、つまり、マットウの人間であった。小林秀雄が、そうである。太宰は小林の常識性を笑っていたが、それはマチガイである。真に正しく整然たる常識人でなければ、まことの文学は、書ける筈がない。(「不良少年とキリスト」)
私が精神病院へ入院したとき小林秀雄が鮒佐の佃煮なんかをブラ下げて見舞いにきてくれたが、小林が私を見舞ってくれるようなイワレ、インネンは毛頭ないのである。これ実に彼のヤジウマ根性だ。精神病院へとじこめられた文士という動物を見物しておきたかったにすぎないのである。一しょに檻の中で酒をのみ、はじめはお光り様の悪口を云っていたが、酔いが廻るとほめはじめて、どうしても私と入れ代りに檻の中に残った方が適役のような言辞を喋りまくって戻っていった。「安吾巷談 07 熱海復興」
小林さんと私とのツキアイと云えば、そういうところで、酔っぱらッて、からんだり、からまれたりしていただけのことだ。特別のツキアイというものはなかった。いくらか印象に残っているのは、ウィンザアの横の道で小林さんと並んで立小便していて、小林さんだけ巡査につかまった。巡査が、お前は何をしていた、という。住所姓名を名のれ、という。何を云われても彼は答えない。そこで私が、この男は拙者の友達で二人は目下並んで立小便をしていたのだ、というと巡査はそうかと云って立ち去った。彼の頭髪ボウボウたる和服姿が左翼とまちがわれたのだろう。

また、私が越後の親戚へ法要に赴くとき、上野駅で彼に会った。彼は新潟高校へ講演に行くところであった。彼は珍しくハカマをはいていた。私は人のモーニングを借り着していたのである。

 大宮から食堂車がひらいたので、二人で飲みはじめ、越後川口へつくまで、朝の九時から午後二時半まで、飲みつづけたね。二人ともずいぶん酔っていたらしい。越後川口で降りるとき、彼は私の荷物をひッたくッて、急げ急げと先に立って降車口へ案内して、私を無事プラットフォームへ降してくれた。ひどく低いプラットフォームだなア。それに、せまいよ。第一、誰もほかに降りやしない。駅員もいねえや。田舎の停車場はひどいもんだと思っていたが、バイバイと手をふって、汽車が行ってしまうと、私はプラットフォームの反対側の客車と貨物列車の中間に立たされていたのだね。私がそこへ降りたわけじゃなくて、彼が私をそこへ降したのである。親切に重い荷物まで担いでくれてさ。小林さんは、根はやさしくて、親切な人なんだね。(「小林さんと私のツキアイ」)