ひどくいい女だ、川端康成が女優になるようにすすめたそうだが。「坂口安吾 無頼の先へ」にも、矢田津世子の画像がいくつか貼ってある。
ーーなどということは安吾ファンなら誰しも知っていることだろうが、このところ初めて安吾の書き物をいくらか集中的に読んでみた。もともとわたくしは多くの小説家の作品を読む習慣はなく、以前は、「堕落論「やら「教祖の文学」、「文学のふるさと」などのたぐいを数篇掠め読んだだけだった。
「情痴作家」と呼ばれた安吾は、27歳まで童貞だったらしい。
私は二十七まで童貞だった。 二十七か八のころから三年ほど人の女房だった女と生活したが、これからはもう散々で、円盤ややりや自動車の比ではない。窒息しなかったのが不思議至極で、思いだしても、心に暗幕がはられてしまう。(坂口安吾「てのひら自伝」 )
英倫と一緒に遊びに来た矢田津世子は私の家へ本を忘れて行つた。ヴァレリイ・ラルボオの何とかいふ飜訳本であつた。私はそれが、その本をとゞけるために、遊びに来いといふ謎ではないか、と疑つた。私は置き残された一冊の本のおかげで、頭のシンがしびれるぐらゐ、思ひ耽らねばならなかつた。なぜなら私はその日から、恋の虫につかれたのだから。私は一冊の本の中の矢田津世子の心に話しかけた。遊びにこいといふのですか。さう信じていゝのですか。(坂口安吾「二十七歳」)
坂口安吾と矢田津世子の最初の出会いは、普通1932(昭和7)年とし、その時期は夏とされますが、七北数人氏はさまざまな行動記録を積み上げ、次のように結論付けています。
『つまり、二人の出逢いは十月半ば以降、翌年一月までの間ということになる。二人の間に交わされた膨大な量の書簡のうち、矢田が書き送った分は残っていないが、安吾の書簡も三三年一月二十三日が最も古く、三二年の分が一通もなかったこと、安吾の自伝的小説においても三二年にどんな付き合い方をしていたのか判然としなかったことなどの謎もこれで解ける。書簡が失われたのではなく、出逢っていなかったのである。
一月二十三日の書簡では、二十日頃に矢田、加藤、大岡と飲んだ後の顛末などが記され、「そのうち、おたづねいたしたいと思つてゐます。中門の犬には要心して」などとある。文面から、この時点ではまだ矢田家を訪ねたことがなかったように感じられる。署名もこの一通は「坂口安吾」とフルネームだが、その後は年賀状以外すべて「安吾」のみであることも、第一信ならではの感がある。毎年出された年賀状も矢田家にはすべて捨てられずに残されていたので、三三年の年賀状がないことから推して、出逢ったのは十二月末頃から一月中旬にかけてと考えられる。』
とはいえ、二人のあいだには「肉体の交渉」はなかった、と安吾は書いている。
始めからハッキリ言つてしまふと、私たちは最後まで肉体の交渉はなかつた。然し、メチルドを思ふスタンダールのやうな純一な思ひは私にはない。私はたゞ、どうしても、肉体にふれる勇気がなかつた。接吻したことすら、恋し合ふやうになつて、五年目の三十一の冬の夜にたゞ一度。彼女の顔は死のやうに蒼ざめてをり、私たちの間には、冬よりも冷めたいものが立ちはだかつてゐるやうで、私はたゞ苦しみの外なにもなかつた。たかゞ肉体ではないか、私は思つたが、又、肉体はどこにでもあるのだから、この肉体だけは別にして、といふ心の叫びをどうすることもできなかつた。
そして、その接吻の夜、私は別れると、夜ふけの私の部屋で、矢田津世子へ絶交の手紙を書いたのだ。もう会ひたくない、私はあなたの肉体が怖ろしくなつたから、そして、私自身の肉体が厭になつたから、と。そのときは、それが本当の気持であつたのかも知れぬ。その時以来、私は矢田津世子に会はないのだ。彼女は死んだ。そして私はおくやみにも、墓参にも行きはしない。
その後、私は、まるで彼女の肉体に復讐する鬼のやうであつた。私は彼女の肉体をはづかしめるために小説を書いてゐるのかと疑らねばならないことが幾度かあつた。私は筆を投げて、顔を掩うたこともある。(坂口安吾「二十七歳」)
安吾の小説は、惚れた女がひどく性的に放縦であったという話が多い。そして、それにもかかわらず男はいっそう惚れ続ける。ただし最初に真に惚れた矢田津世子が性的放縦であっただろうと言いたいわけではない。とはいえ、彼女に男がいることを知って《地獄へつき落された》とはある。
ある日、酔つ払つた寅さんが、私たちに話をした。時事の編輯局長だか総務局長だか、ともかく最高幹部のWが矢田津世子と恋仲で、ある日、社内で日記の手帳を落した。拾つたのが寅さんで、日曜ごとに矢田津世子とアヒビキのメモが書き入れてある。寅さんが手帳を渡したら、大慌てゞ、ポケットへもぐしこんだといふ。寅さんはもとより私が矢田津世子に恋してゐることは知らないのだ。居合せたのが誰々だつたか忘れたが、みんな声をたてゝ笑つた。私が、笑ひ得べき。私は苦悩、失意の地獄へつき落された。(同上)
ところで、大岡昇平は《矢田はまあきれいな女だが、当時いわば札付きの女流作家だった》などと書いているようだ。
大岡昇平は京都時代に坂口安吾との恋愛騒動で有名になった矢田津世子に合っています。京都帝国大学卒業後に東京の「ウインゾア」で会う以前です。 「…矢田はまあきれいな女だが、当時いわば札付きの女流作家だった。加藤や僕が彼女と京都で知り合ったのはこの一年ばかり前である。都ホテルの前のアリゾナというバーのマダムを通してである。マダムは当時阪神地方にいた谷崎潤一郎や片岡鉄兵を知ってる文学マダムだったが(ベッドの下に皮の鞭を持っていた)矢田津世子が遊びに来ることがあった。(大岡昇平の京都を歩く)
「札付きの女流作家」とは、《東京で有名な文壇ゴロと情事を持ち、作家として売り出そうとしているため「トイフェル(悪魔)」と仇名されている》ということらしい(参照:坂口安吾の謎)。
しかし、「まあきれいな女」だと? ーーもっとも大岡昇平の奥さんは美貌だったには違いないし、趣味が違ったんだろうけれど。
しかし、「まあきれいな女」だと? ーーもっとも大岡昇平の奥さんは美貌だったには違いないし、趣味が違ったんだろうけれど。
矢田津世子よ。あなたはウヌボレの強い女であった。あなたは私を天才であるかのようなことを言いつゞけた。そのくせ、あなたは、あなたの意地わるい目は、最も世俗的なところから、私を卑しめ、蔑んでいた。(坂口安吾「三十歳 」)
冒頭に掲げた写真はいくらか修正が入っているのかもしれない。同じものだろうが、次の手まで写った画像を眺めると、「悪女」の気配がないではない。アア、オレモコンナ女ニ騙サレタカッタ
私はあの人をこの世で最も不潔な魂の、不潔な肉体の人だという風に考える。そう考え、それを信じきらずにはいられなくなるのであった。
そして、その不潔な人をさらに卑しめ辱しめるために、最も高貴な一人の女を空想しようと考える。すると、それも、いつしか矢田津世子になっている。気違いめいたこの相剋は、平凡な日常生活の思わぬところへ別の形で現れてもいた。(同上)
…………
安吾の書き物を読むと、菱山修三や中原中也、小林秀雄、三好達治の名などが頻出して、それがとても感慨深いのだがーーやはり中也の話がいちばんオモシロイ。
中原中也は、十七の娘が好きであつたが、娘の方は私が好きであつたから中也はかねて恨みを結んでゐて、ある晩のこと、彼は隣席の私に向つて、やいヘゲモニー、と叫んで立上つて、突然殴りかゝつたけれども、四尺七寸ぐらゐの小男で私が大男だから怖れて近づかず、一米ぐらゐ離れたところで盛にフットワークよろしく左右のストレートをくりだし、時にスウィングやアッパーカットを閃かしてゐる。私が大笑ひしたのは申すまでもない。五分ぐらゐ一人で格闘して中也は狐につまゝれたやうに椅子に腰かける。どうだ、一緒に飲まないか、こつちへ来ないか、私が誘ふと、貴様はドイツのヘゲモニーだ、貴様は偉え、と言ひながら割りこんできて、それから繁々往来する親友になつたが、その後は十七の娘については彼はもう一切われ関せずといふ顔をした。それほど惚れてはゐなかつたので、ほんとは私と友達になりたがつてゐたのだ。そして中也はそれから後はよく別れた女房と一緒に酒をのみにきたが、この女が又日本無類の怖るべき女であつた。(坂口安吾「酒のあとさき」)
そのころのことで変に鮮明に覚えてゐるのは、中原中也と吉原のバーで飲んで、――それがその頃であるのは私は一時女遊びに遠ざかつてゐたからで、中也とのんで吉原へ行くと、ヘヘン(彼は先づかういふセキバライをしておもむろに嘲笑にかゝるのである)ジョルヂュ・サンドにふられて戻つてきたか、と言つた。銀座でしたゝかよつぱらつて吉原へきて時間があるのでバーでのむと、こゝの女給の一人と私が忽ち意気投合した。中也は口惜しがつて一枚づゝ、洋服、ズボン、シャツ、みんなぬぎ、サルマタ一枚になつて、ねてしまつた。彼は酔つ払ふと、ハダカになつて寝てしまふ悪癖があるが、このときは心中大いに面白くないから更にふてくされて、のびたので、だらしないこと甚しく、椅子からズリ落ちて大きな口をアングリあけて土間の上へ大の字にノビてしまつた。女と私は看板後あひゞきの約束を結び、ともかく中也だけは吉原へ送りこんでこなければならぬ段となつたが、ノビてしまふと容易なことでは目を覚さず、もとより洋服をきせうる段ではない。仕方がないから裸の中也の手をひッぱつて外へでると、歩きながらも八分は居眠り、八十の老爺のやうに腰をまげて、頭をたれ、がくん〳〵うなづきながら、よろ〳〵ふら〳〵、私に手をひつぱられてついてくる。うしろから女給が洋服をもつてきてくれる。裸で道中なるものかといふ鉄則を破つて目出たく妓楼へ押しこむことができたが、三軒ぐらゐ門前払ひをくはされるうちに、やうやく中也もいくらか正気づいて、泊めてもらふことができた。そのとき入口をあがりこんだ中也が急に大きな声で、
「ヤヨ、女はをらぬか、女は」 と叫んで、
キョロ〳〵すると、
「何を言つてるのさ。この酔つ払ひ」
娼妓が腹立たしげに突きとばしたので、中也はよろけて、ひつくりかへつてしまつた。それを眺めて、私達は戻つたのである。(坂口安吾「二十七歳」)
安吾の作品を集中的に読んだといっても、旅行中の空き時間に「青空文庫」にある440冊の作品を、ときには読み飛ばしての、ーーときに屋台で買ったマサラ・ドーサをほおばりつつのーー三文の一ほどでしかないのだが、さて家に帰ってきても、さらに読みすすめるかどうかは、これはわからない。
昭和十六年の六月一日であったと思う。もう当時は酒が簡単に手にはいらなくて、私が途中にガランドウをわずらわして一升運んでもらった。この一升がきてから後は、論戦の渦まき起り、とうとう三好達治が、バカア、お前なんかに詩が分るかア、と云って、ポロポロ泣きだして怒ってしまった。萩原朔太郎について小林秀雄と大戦乱を起したのである。(坂口安吾「釣り師の心境 」)
小林秀雄は、人を泣かせる名人だったのは有名である。
その酒を飲みながら、先生一流の講評というか、いじめというかが始まる。居並ぶ編集者たちを端から一人ずつ名指しで批評してゆくのである。ちょっと癇にさわる返答でもしようものなら大変だった。文字通り泣くまで攻める。日本語の全く通じないGIまで泣かせたという伝説のある小林秀雄である。しかも素面の時は秀才の如く、酔えば無頼漢の如し、と云われたのが、充分に酒が入っている。常人の太刀打ちできる相手ではない。四十面下げたベテラン編集者が、おいおいと声をあげて泣く始末だった。
冷静に聞いていると、かなり怪しげな論理のこともある。いつでも先生の方が正しいわけでもない。そのくせ必ず泣かすのである。心理的に巧緻な攻撃法だった。正しく名人芸と云ってよい。(隆慶一郎『編集者の頃』)
大岡 あのころ、あんたは柳田国男を泣かせたり、よく年寄りをいじめたときだったけれど。
小林 それは絶対デマだよ、そんなことは絶対にない。
大岡 だって、俺にそう言ったじゃない。岩波文庫でフレイザーの「金枝篇」が出たころ、お前、なんだ、「金枝篇」を読んだらまるで骨格が違うじゃないか、と言ったら、柳田さんはなにも返事をしなかったが、ぽろっと涙を一つこぼしたって、言ってたよ。
小林 思い出さないね。君がおぼえているならしようがねえや。それはまあ、俺が言ったから涙をこぼしたわけじゃないよ。(小林秀雄と大岡昇平の対談「文学の四十年」)
もっともその小林秀雄自身、青山二郎には泣かされている。
私を除いて酔って来た。Y 先生が X 先生にからみ出した。
「お前さんには才能がないね」
「えっ」
と X 先生はどきっとしたような声を出した。先生は十何年来、日本の批評の最高の道を歩いたといわれている人である。その人に「才能がない」というのを聞いて、私もびっくりしてしまった。
「お前のやってることは、お魚を釣ることじゃねえ。釣る手附を見せてるだけだ。 (Y 先生は比喩で語るのが好きである)そおら、釣るぞ。どうだ、この手を見てろ。 (先生は身振りを始めた)ほおら、だんだん魚が上って来るぞ。どうじゃ、頭が見えたろう。途端、ぷつっ、糸が切れるんだよ」
しかし Y 先生は自分の比喩にそれほど自信がないらしく、ちょろちょろ眼を動かして、X先生の顔を窺いながら、身振りを進めている。
「遺憾ながら才能がない。だから糸が切れるんだよ」
X 先生がおとなしく聞いてるところを見ると、矢は当ったらしい。Y 先生は調子づいた。 「いいかあ、こら、みんな、見てろ。魚が上るぞ。象かも知れないぞ。大きな象か、小さな象か。水中に棲息すべきではない象、象が上って来るかも知れんぞ。ほら、鼻が見えたろ。途端、ぷつっ、糸が切れるんだよ」
「ひでえことをいうなよ。才能があるかないか知らないが、高い宿賃出してモツァルト書きに、伊東くんだりまで来てるんだよ」
「へっ、宿賃がなんだい。糸が切れちゃ元も子もねえさ。ぷつっ」
こうなると Y 先生は手がつけられない。私も昔は随分泣かされたものである。
私はいいが、驚いたことに、暗い蝋燭で照らされた X 先生の頬は、涙だか洟だか知らないが、濡れているようであった。私はますます驚いた。(大岡昇平「再会」より(青山二郎(Y 先生)の小林秀雄(X 先生))
とはいえ、安吾の書き物に文学者の名が出てくるところだけオモシロイわけではない。やっぱり「女」の話がオモシロイ。
私ははじめお寺の境内の堂守みたいな六十ぐらいの婆さんが独りで住んでいる家へ間借りする筈であった。伊勢甚のオカミサンがそうきめてくれたのである。ところが私が本屋のオヤジにつれられて伊勢甚へ行くと、
「六十の婆サンでも、女は女だから、男女二人だけで一ツ家に住むのは後々が面倒になります。別に探しますから、今夜はウチへ泊って下さい」
と云った。このオカミサンは四十四五であったが、旅館へ縁づいて、そこで色々と泊り客の男女関係を見学して、悟りをひらいていたのである。この旅館は主として阪東三十三ヶ所お大師詣での団体を扱うのであるが、この団体は六十ぐらいの婆サンが主で、導師につれられて、旅館で酒宴をひらいてランチキ騒ぎをやるのである。私が、この町を去って後、この団体のランチキ騒ぎの最中に、二階がぬけて墜落し、何人かの即死者がでたような出来事があった。ずいぶん頑堅らしい田舎づくりの建物であったが、よくまア二階がぬけ落ちたものだ、と私は不思議な思いであった。建物によることでもあるが、あの団体のドンチャン騒ぎというものは、中学生の団体旅行などの比ではない。本当のバカ騒ぎでありアゲクが色々なことゝなる。伊勢甚のオカミサンが六十の婆サンを警戒したのは、営業上の悟りからきたところで、私の品性を疑ったワケではなかったらしい。けれども、いきなりこう言われると、人間はひがむものである。(坂口安吾「釣り師の心境」)