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2017年1月24日火曜日

まわりがひっそりと静まりかえり、物の声が遠くなり、だんだん遠くなっていく

人生の真昼時に、ひとは異様な安静の欲求におそわれることがある。まわりがひっそりと静まりかえり、物の声が遠くなり、だんだん遠くなっていく。彼の心臓は停止している。彼の目だけが生きている、--それは目だけが醒めている一種の死だ。それはほとんど不気味で病的に近い状態だ。しかし不愉快ではない。(ニーチェ『漂泊者とその影』308番 秋山英夫訳)

ーー『漂泊者とその影』は1880年出版(『人間的な、余りにも人間的な』第二巻)であり、バーゼル大学教授辞職(1879年)の一年後に上梓されていることになる。

目だけが醒めているとあるが、逆に耳だけが醒めている場合、嗅覚だけが醒めている場合だってあるだろう。わたくしには、視覚よりも聴覚・嗅覚において、よりいっそう「ニーチェ現象」が起こる(真にそう思うのは、年に一度か二度程度だが)。

あまり起こり過ぎても怖いがーーというのは究極的にはブラックホールS(Ⱥ) に遭遇する感覚だからーーもうすこし頻繁にあってくれたらいいとは思う。おそらく分裂親和気質の方なら頻繁に起こっているのではないか。

…この過程の出発点において、フロイトが「能動的」対「受動的」と呼んだ二つの傾向のあいだの対立がある。我々の観点では、これはS1(主人のシニフィアン)とS(Ⱥ) とのあいだの対立となる。S(Ⱥ) 、すなわち女にとって男のシニフィアンの等価物の不在ということである。この点において、正規の抑圧に関してフロイトによってなされた区別を次のように認知できる。

引力:抑圧されねばならない素材のうえに無意識によって行使された引力。それはS(Ⱥ) の効果である。あなたを吸い込むヴァギナデンタータ(歯のはえた膣)、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) の効果。

斥力:すべての非共存的内容を拒絶するファルス Φ のシニフィアン S1 から生じる斥力。

この関係は容易に反転しうる。すなわちすべての共存的素材を引き込むファルスのシニフィアンと、他方でその種の素材をまさに排斥するS(Ⱥ)。

(ポール・バーハウ1999、PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999、,PDF

S(Ⱥ)とは« Lⱥ femme »の記号である。

…彼女を女 La femme と呼ぶのは適切でない。…女は非全体 pas tout なのだから、我々は 女 La femme とは書き得ない。唯一、斜線を引かれた « La » 、すなわち Lⱥ があるだけだ。

大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である…« Lⱥ femme »は S(Ⱥ) と関係がある。これだけで彼女は二重化される。彼女は« 非全体 pas toute »なのだ。というのは、彼女は大きなファルスgrand Φ とも関係があるのだから。…(ラカン、S20, 13 Mars 1973ーー神と女をめぐる「思索」)

ブラックホール=ヴァギナデンタータ現象とは場合によっては次のようにひどく戦慄的なものである。

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。.(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)

ヴァギナデンタータ現象がまったくなくて残念だと思うひとは、人工的にヒロポン中毒現象に近似したものをもたらす何ものかを試してみたらいい・・・

十六日には禁断症状の最初の徴候が現われ始めた。なぜ十六日と云う日をはっきり覚えているかと云うと二月十六日が彼の母の命日で、十六日の朝、彼が泣いていたからだった。ふとんの衿をかみしめるようにして彼が涙をこぼし、泣いていたからだった。

「今日はオッカサマの命日で、オッカサマがオレを助けに来て下さるだろう」

そう言って、懸命に何かをこらえているような様子であった(坂口三千代「クラクラ日記」)

…………

「エディプス的なしかめ面 grimace œdipienne」 と「現実界のしかめ面 grimace du réel」」において、次の文を引用して、ラカンの現実界論、そして中井久夫の分裂病論と結び付けようとした。

オイディプス的なしかめ面 la grimace œdipienne の背後でプルーストとカフカをゆさぶる分裂的笑い le rire schizoーー蜘蛛になること、あるいは虫になること。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス L'ANTI-ŒDIPE』、1972年)

分裂親和型気質でなくても、ひとは冒頭のニーチェのような現象がときに起こるのではなかろうか。蜘蛛になることがあるのではないか。

たとえばジャン・ジュネの『泥棒日記』のなかには次のような文があるが、これはニーチェ文と類似した感覚を語っているのではないだろうか。

わたしには、もろもろの物象が輝くばかりの明澄さで知覚されると思われるようになった。あらゆる物が、最もありふれたものまでも、その日常的な意義を失っていたので、わたしは終いには、いったい、コップは水を飲むものである、とか、靴は穿くものであるというのはほんとうだろうかと考えるまでになった。(ジュネ『泥棒日記』朝吹三吉訳)

あるかい? 一度でもこの感覚を経験したことが。

ファルス秩序に囚われたままではけっして起こらない。

《ある時刻における小さな宇宙が自分の中にも目覚めてくる》(吉田秀和「中也のことを書くのは、もうよさなければ……」)という感覚。

中井久夫の《奇妙な静けさとざわめきとひしめき》や、《もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前するごとく恐怖し憧憬する》感覚(参照)。

〈女〉にならなくちゃな
〈男〉のままだったらだめさ

私が思うに、男を光の波とすれば、女性は光の粒子の集まりなのです。少女のフィルムをスローモーションで見てみると、互いに異なった百個の世界が見えてきます。少女が笑ったと思っていると、その十二コマ先では完全な悲劇が展開されるのです。(“ゴダール全てを語る”―宇野邦一『風のアポカリプス』より)
少女や子供が生成変化をとげるのではない。生成変化そのものが少女や子供なのである。子供が大人になるのではないし、少女が女性になるのでもない。少女とは男女両性に当てはまる女性への生成変化であり、同様にして子供とは、あらゆる年齢に当てはまる未成熟への生成変化である。「うまく年をとる」ということは若いままでいることではなく、各個人の年齢から、その年齢に固有の若さを構成する微粒子、速さと遅さ、そして流れを抽出することだ。「うまく愛する」ということは男性か女性のいずれかであり続けることではなく、各個人の性から、その性に固有の少女を構成する微粒子、速さと遅さ、流れ、そしてn個の性を抽出することだ。<年齢>そのものが子供への生成変化なのだし、性一般も、さらには個々の性も、すべて女性への生成変化、つまり少女たりうるのである。――これは、プルーストはなぜアルベールをアルベルチーヌに変えたのだろうかという愚劣な問いへの答えである。

ところで、女性への生成変化も含めて、あらゆる生成変化がすでに分子状であるとしても、あらゆる生成変化は女性への生成変化に始まり、女性への生成変化を経由するということも、はっきりさせておかなければならない。女性への生成変化は他のすべての生成変化を解く鍵なのである。戦士が女性に変装し、少女になりすまして逃走する、そして少女の姿を借りて身を隠すということは、彼の経歴において恥ずべき仮そめの偶発事などではない。身を隠し、偽装するということは、戦士の機能そのものなのだ。……(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)

微粒子の詩といえば、日本語で書かれたもののなかでは、わたくしには「一つのメルヘン」にまさるものはない。

一つのメルヘン  中原中也

秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があって、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射しているのでありました。

陽といっても、まるで珪石か何かのようで、
非常な個体の粉末のようで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもいるのでした。

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでいてくっきりとした
影を落としているのでした。

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもいなかった川床に、水は

さらさらと、さらさらと流れているのでありました……


たとえばこの感覚を中原中也からではなく宮澤賢治からより多く受ける方もいるのだろう、「風景やみんなといつしよに/せはしなくせはしなく明滅」(宮澤賢治)すること、その変化流転の止まないさまに魅了されて。

彼は幸福に書き付けました。とにかく印象の生滅するままに自分の命が経験したことのその何の部分だつてこぼしてはならないとばかり。それには概念を出来るだけ遠ざけて、なるべく生の印象、新鮮な現識を、それが頭に浮ぶままを、--つまり書いている時その時の命の流れをも、むげに退けてはならないのでした。(……)彼にとつて印象といふものは、或ひは現識といふものは、勘考さるべきものでも翫味さるべきものでもない、そんなことをしてはゐられない程、現識は現識のままで、惚れ惚れとさせるものであつたのです。それで彼は、その現識を、出来るだけ直接に表白さへすればよかつたのです。(中原中也「宮沢賢治の死」)

…………

※付記

ここでの文脈とはあまり関係がないが、冒頭に掲げたニーチェの文が書かれた1888年の前々年には次のような事件があった。

私はときどき考えているのだが、ニーチェの長患い(頭痛やら眼のトラブル)は、若く才能のあるインテリたちの間で観察してきた病気と同じケースじゃないか、と。私はこれらの若者たちが朽ち果てていくのを見てきた。そしてただひたすら痛々しく悟ったのは、この症状はマスターベーションの結果だということだ。(ワーグナー書簡、 Wagner on April 4, 1878)

David Allisonは、1977年に出版された“The New Nietzsche”にて、このワーグナーの手紙を引用しつつ、次のように書いている。

まったく自明の理だが、ニーチェの世界は、完全にばらばらに崩れ堕ちた……1878年の春の出来事によって。その時、ワーグナーは、ニーチェのオナニズムへの過度の没頭を非難し、かつまたニーチェの医師、Otto Eiser博士によって知らされたわけだ。Otto Eiserは、フランクフルトのワーグナーサークルの会長として、ニーチェのオナニズムに対するワーグナーの告発を、バイエルン祝祭劇場の参加者にまで流通させた。ニーチェは恥辱まみれになった。そして、おそらくは、ニーチェは、教養あり洗練された名士たちの唯一の集団から、余儀なく退却せざるをえなくなった。ニーチェはこの集団との公的な接触、かつまた評価を享受することもできただろうに。(David Allison “ The New Nietzsche”1977)

ーーニーチェのバーゼル大学教授辞職は1879年である。

18世紀から19世紀にかけて、異様な反オナニズム運動が起こった、当時は、マスターベーション(自慰)行為は、蛇蝎のごとく扱われ、《このときオナニスムはまるで今日のエイズを思わせるような扱いを受け》た。

私は、二つの点において居心地の悪さを感じています。(……)なぜ、性的活動一般ではなく、自慰が問題となったのでしょうか。(…)次に、自慰撲滅運動の特権的な標的となるのが、労働する人々ではなく、子供ないし青少年である、という点も、やはり奇妙に思われます。しかも、この運動は、基本的に、ブルジョワ階級に属する子供や青少年を標的としています。(……)

自慰は不道徳の領域にではなく、病の領域へと組み入れられる、ということです。自慰は、いわば普遍的な実践とされ、すべての病がそこから発生する危険で非人間的かつ怪物的な「X」とされます。(フーコー『異常者たち』)

やあほんとに関係がないのかね、ここでの文脈と。

私は…問題となっている現実界 le Réel en questionは、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値 valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンス(無意識的記憶)と呼ぶもの qu'on appelle la réminiscence に思いを馳せることによって。…レミニサンスは想起とは異なる la réminiscence est distincte de la remémoration。

…私は、現実界は法のないものに違いないと信じている je crois que le Réel est, il faut bien le dire, sans loi。…真の現実界は法の不在を意味する Le vrai Réel implique l'absence de loi。現実界は秩序を持たない Le Réel n'a pas d'ordre。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)

よく知られているように(?)、無意志的記憶とは、トラウマのことである(参照:Involuntary memory:Wikipedia)

無意志的記憶の啓示は異常なほど短く、それが長引けば我々に害をもたらさざるをえない。

…les révélations de la mémoire involontaire sont extraordinairement brèves, et ne pourraient se prolonger sans dommage pour nous…(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
「メタコスモス」が比例世界に展開しえて白日のもとにさらされるようなことがあれば、私はとうてい生きておれないだろう。(中井久夫「世界における徴候と索引」)

プルーストかい? でもわかり切ってるだろ? 《神秘なあかりに照らされる内臓の、半透明となった組織の深部に、残存者と虚無との痛ましい再統合 douloureuse synthèse de la survivance et du néant のすがたを反映し、屈折させた》なんて引用しなくても。

無意識、それはリアル(現実界)である(……)。それが穴が開けられている troué 限りにおいて。

l'inconscient, c'est le réel. (...) c'est le réel en tant qu'il est troué." (Seminar XXII, RSI,1975)

後期ラカンが穴といえば、それはブラックホールであり、穴馬のことである。

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」をつくる。

nous savons tous parce que tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ». (ラカン、S21、19 Février 1974 )

…………

もちろん穴ウマとは原トラウマのことである。

最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)

そして、

経験された無力の(寄る辺なき)状況 Situation von Hilflosigkeit を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ……現在の状況が過去に経験した外傷経験を思いださせる……(フロイト『制止、症状、不安』)

人間にとって最も最初の無力な状況とは何だろう?

……生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年 旧訳p.365、一部変更)

すなわち人間は誰もがトラウマ化されている、«tout le monde est traumatisé»(Miller,Tout le monde est fou Année 2013-2014

厳密さを期さずに言えば、ほとんどの場合、しっかりした穴埋めをしている人のみが、ニーチェ現象がない。

最もしっかりした穴埋めツールとは、ファルスである。フェティシュぐらいの穴埋めだとすぐポロっととれちまう。

おめでとう、ファルス主義者たちよ!



2015年1月10日土曜日

「萩原君。 何と云つても私は君を愛する。さうして室生君を。」

前回(「つち澄みうるほひ」(室生犀星)と「水澄み/ふるとしもなき」(三好達治))にて、室生犀星の『抒情小曲集』の序にある北原白秋の文章を拾った。

初めて会つた頃の君は寂しさうであつた、苦しさうであつた、悲しさうであつた。初めて君の詩に接した時、私はその声の清清しさに、初めて湧きいでた同じ泉の水の鮮かさと歓ばしさとを痛切に感じた。君はまた自然の儘で、稚い、それでも銀の柔毛を持つた栗の若葉のやうに真純な、感傷家であつた。それは強い特殊の真実と自信と正確さを特つた若葉だ。その栗の木は日を追うて完全な樹木の姿となつた。

 北原白秋の作品にはほとんど馴染んでいないといっていいぐらいなのだが、この機会に「青空文庫」の『思ひ出  抒情小曲集』を覗いてみると、その序に次のような文がある。

……私は過去追憶にのみ生きんとするものではない。私はまたこの現在の生活に不滿足な爲めに美くしい過ぎし日の世界に、懷かしい靈の避難所を見出さうとする弱い心からかういふ詩作にのみ耽つてゐるのでもない。「思ひ出」は私の藝術の半面である。私は同時に「邪宗門」の象徴詩を公にし、今はまた「東京景物詩」の製作にも從ふてゐる。從てその一面をのみ觀て、輕々にその傾向なり詩風なりを速斷せらるゝほど作者に取つて苦痛なことはない。如何なる人生の姿にも矛盾はある。影の形に添ふごとく、開き盡した牡丹花のかげに昨日の薄あかりのなほ顫へてやまぬやうに、現實に執する私の心は時として一碗の査古律に蒸し熱い郷土のにほひを嗅ぎ、幽かな洎芙藍の凋れにある日の未練を殘す。

この文から読みとれるのは、「思ひ出」は、私(白秋)の、いわゆる「感傷」系の詩が集められているが、《懷かしい靈の避難所を見出さうとする弱い心からかういふ詩作にのみ耽つ》たのではないということだろう。おそらく、この当時から「感傷」あるいは「抒情」に惑溺することを忌避する風潮が詩壇や文壇にあったのであり、そしてそれに対するあらかじめの反駁だと捉えうる。

ところで萩原朔太郎の『月に咆える』の序にも白秋の文が掲げられている(これもこの機会に気づいたのであり、要するにわたくしはこれらの近代詩人たちの作品を熱心に読んだことはいままでなかった)。

萩原君。 何と云つても私は君を愛する。さうして室生君を。君は私より二つ年下で、室生君は君より又二つ年下である。私は私より少しでも年若く、私より更に新らしく生れて来た二つの相似た霊魂の為めに祝福し、更に甚深な肉親の交歓に酔ふ。……大正六年一月十日 葛飾の紫烟草舎にて  北原白秋

萩原朔太郎は、なんといっても『月に咆える』が名高く、森鴎外の絶賛、あるいは西脇順三郎は、もし萩原朔太郎を読まなければ、私は日本語で詩を書いてみようなどとは夢にも思わなかったと語っているが、これもなによりも『月に咆える』を読んだことに始まるはずだ。そもそも西脇順三郎はもとは英詩を書いていたのであり、詩というのは英語でしか書けないんじゃないかなどと考えていた(松浦寿輝 「現代詩 --その自由とエロス」より)。


ところで朔太郎は、『底本 青猫』ーー「青猫」が出版されてから十年ほどのちに、新たに詩を付け加えるなどして、再刊する理由をいくつ挙げている。

最後に第三の理由としては、この詩集「青猫」が、私の過去に出した詩集の中で、特になつかしく自信と愛着とを持つことである。世評の好惡はともかくあれ、著者の私としては、むしろ「月に吠える」よりも「青猫」の方を愛してゐる。なぜならこの詩集には、私の魂の最も奧深い哀愁が歌はれて居るからだ。日夏耿之介氏はその著「明治大正詩史」の下卷で、私の「青猫」が「月に吠える」の延長であり、何の新しい變化も發展も無いと斷定されてるが、私としては、この詩集と「月に吠える」とは、全然異つた別の出發に立つポエヂイだつた。處女詩集「月に吠える」は、純粹にイマヂスチツクのヴイジヨンに詩境し、これに或る生理的の恐怖感を本質した詩集であつたが、この「青猫」はそれと異なり、ポエヂイの本質が全く哀傷に出發して居る。「月に吠える」には何の涙もなく哀傷もない。だが「青猫」を書いた著者は、始めから疲勞した長椅子の上に、絶望的の悲しい身體を投げ出して居る。

おそらく白秋の『邪宗門』と『思ひ出』の関係は、朔太郎の『月に咆える』と『青猫』の関係と類似しているのではないか。「象徴詩」、あるいはイマヂスチツクのヴイジヨンの詩境にある詩群と、「抒情詩」、すなわち感傷や哀傷に出發して居る詩群。そして、詩人たちーーいや少なくともこれらの詩人たちーーの根は、実は後者であるのだが、最初に上梓したのは感傷を排した前者ということになりはしないか。

ところで、北原白秋の詩集は、わたくしの手元には、白秋が吉田一穂に編纂を託した『白秋詩抄』の岩波文庫版があるだけであり、かつてはそれしか読んだことがなかった。

本書の初版は昭和八年の晩春、白秋先生からその選抄を委ねられて、私が編纂したものである。既刊のおびただしい詩篇を、文庫版に集約するために類型を避けながら、しかも詩人の特質を多面的に示そうとして、やむなく『白秋詩抄』を基本に、他を『抒情詩抄』とに分ちて二冊とした。(吉田一穂 解説より)

『白秋詩抄』には『邪宗門』は収められているが、『思ひ出』はない。すなわち、半欠けである。吉田一穂は解説で次のように書いているにもかかわらず、手が伸びなかったのは、要するに白秋の詩に不感症だったせいだ(そもそもこの文庫を手に入れた当時は、いまでは愛着深い「吉田一穂」の名さえ知ることがなかった)。

「思ひ出」は四十四年、東雲堂から出て、世評高く、詩人白秋の位置を決定づけた。制作の順序は必ずしも「邪宗門」以後とのみかぎらず、むしろその前や同時のものものあること、「東京景物詩」や「桐の花」などと同じく、奔放無碍、噴きあふれるこの一時機に成った自在の発想である。他者の影響の微塵もない、白秋特殊の性格を直接した天成の童心詩篇としての「思ひ出」は、心理的に処女詩集であろう。幼年の目醒めにはじまる稚児的幻想の世界、逆に源泉回帰の望郷の歌である。(同 吉田一穂)

吉田一穂ついでに、ひとつ彼の名詩を掲げておこう。


あゝ麗はしい距離(デスタンス)、
常に遠のいてゆく風景……
悲しみの彼方、母への、
捜り打つ夜半の最弱音(ピアニツシモ)。

ーー吉田一穂「海の聖母」(大正15)所収

ここで、話は飛ぶが、すなわち吉田一穂ではなく、吉岡実の話だが、吉岡実は、昭和16年夏満州に出征する時、わずかに許される私物の中に、ゲーテの『親和力』とリルケの『ロダン』、万葉集、北原白秋(詩集であるのか歌集であるのかはわからないが)などを入れたそうだ。そして、結局内部検査で没収され北原白秋を戦地で読んでいたと。


ぼくがクワイがすきだといったら
ひとりの少女が笑った
それはぼくが二十才のとき
死なせたシナの少女に似ている(吉岡実「恋する絵」)

或る別の部落へ行った。兵隊たちは馬を樹や垣根につなぐと、土造りの暗い家に入って、チャンチュウや卵を求めて飲む。或るものは、木のかげで博打をする。豚の奇妙な屠殺方法に感心する。わたしは、暗いオンドルのかげに黒衣の少女をみた。老いた父へ粥をつくっている。わたしに対して、礼をとるのでもなけ れば、憎悪の眼を向けるでもなく、ただ粟粥をつくる少女に、この世のものとは思われぬ美を感じた。その帰り豪雨にあい、曠野をわたしたちは馬賊のように疾 走する。ときどき草の中の地に真紅の一むら吾亦紅が咲いていた。満人の少女と吾亦紅の花が、今日でも鮮やかにわたしの眼に見える。〔……〕反抗的でも従順 でもない彼ら満人たちにいつも、わたしたちはある種の恐れを抱いていたのではないだろうか。〔……〕彼らは今、誰に向って「陰惨な刑罰」を加えつつあるのか。

わたしの詩の中に、大変エロティックでかつグロテスクな双貌があるとしたら、人間への愛と不信をつねに感じているからである。(吉岡実『わたしの作詩法?』)


砕かれたもぐらの将軍
首のない馬の腸のとぐろまく夜の陣地
姦淫された少女のほそい股が見せる焼かれた屋根
朝の沼での兵士と死んだ魚の婚礼
軍艦は砲塔からくもの巣をかぶり
火夫の歯や爪が刻む海へ傾く
死児の悦ぶ風景だ
しかし母親の愛はすばやい
死児の手にする惨劇の玩具をとりあげる(「死児」)


…………


雪の宵   中原中也


      青いソフトに降る雪は
      過ぎしその手か囁きか  白秋


ホテルの屋根に降る雪は
過ぎしその手か、囁きか
  
  ふかふか煙突煙吐いて、
  赤い火の粉も刎ね上る。

今夜み空はまつ暗で、
暗い空から降る雪は……

  ほんに別れたあのをんな、
  いまごろどうしてゐるのやら。

ほんにわかれたあのをんな、
いまに帰つてくるのやら

  徐かに私は酒のんで
  悔と悔とに身もそぞろ。

しづかにしづかに酒のんで
いとしおもひにそそらるる……

  ホテルの屋根に降る雪は
  過ぎしその手か、囁きか

ふかふか煙突煙吐いて
赤い火の粉も刎ね上る。


ーーとある白秋のエピグラフは『思ひ出』にある「青いソフトに」からだが、ほかにも《深き目つきに消ゆる日か、過ぎしその日か、憐憫か、》(白秋「骨牌の女王の手に持てる花」)などと読めば、中也だか白秋だかがわからなくなるような詩行に溢れている。


そなたの胸は海のやう/おほらかにこそうちあぐる。(中也)

そなたの首は骨牌の赤いヂヤツクの帽子かな、(白秋)



以下、『思ひ出』からいくつかの詩行を抜き出しておく。 ここには中也の詩で馴れ親しんだ語彙(鄙びたる、年増など)以外にも、中也の「白秋調」(大岡昇平)の起源があまたある。白秋自身の上田敏の訳詩集『海潮音』1905などからの影響、--語彙、音調を聴き取ることもできるかもしれない。

…………


・ほんに内氣な螢むし、嗅げば不思議にむしあつく、

・過ぎし日のうつつなかりしためいきは

・過ぎし日のあどけなかりし哀愁は/こまやかに匂シヤボンの消ゆるごと/目のふちの青き年増や泣かすらん。

・過ぎし日のしづこころなき口笛は

・かの蒼白き年増を恐れて、そつと歩めば、

・過ぎし日のおもひでに植物園を歩行けば、

・泣いた年増がなつかしや。

・過ぎし日は鍼醫の手凾、天鵝絨の紫の凾、

・なにゆゑに汝は泣く、/あたたかに夕日にほひ、/たんぽぽのやはき溜息野に蒸して甘くちらばふ

・あはれ、わが君おもふオロンの靜かなるしらべのなかに、

・靜こころなくつく呼吸の

・晝はひねもす、乳酪の匙にまみれて、飛び超えて、

・小兒ごころのあやしさは白い小猫の爪かいな

・戲れ浮かれて鄙びたる下司のしらべに忘るれど、

・げにげに汝ら、しをらしく、あるはをかしく、おもしろく、


…………

たとえば、--

・泣いた年増がなつかしや。(白秋)

・年増婦の低い声もする(中也)
・鄙びたる鋭き呼子そをきけば涙ながるる。(白秋)

・鄙びたる 軍楽の憶ひ  手にてなす なにごともなし(中也)
・くるしげに馬は嘶き、/ 大喇叭鄙びたる笑してまたも挑めば /生あつき色と香とひとさやぎ歎きもつるる(邪宗門)

・吁! 案山子はないか――あるまい/馬嘶くか――嘶きもしまい/ただただ月の光のヌメランとするまゝに/従順なのは 春の日の夕暮か(中也)

…………

だが北原白秋にも傷がある。

轟けよ萬世の道の臣、大御軍、
いざ奮へ、いくさびと、揺りとよむと。
げに猛き醜の御楯、大やまとの
天皇の大御軍、征き向はむ。
空ゆかば身も爆ぜむ百雷、
海ゆかば裂くなだり魚雷。

……
ーー北原白秋「皇軍頌」 、大政翼賛会文化部編『大東亜戦争 愛国詩歌集』 (目黒書店、一九四二年)一九頁

もちろん白秋だけではない、高村光太郎の例はあまりにも有名なので、ーーもし知らないひとがいるなら、たとえば、吉本隆明の 『高村光太郎』抄 が 日本ペンクラブの電子書籍文献のなかで無料で手に入るので、それを読んでみたらよいだろうが、ーーここでは、他の詩人による「戦争詩」をもうひとつだけ掲げておく。

モダニスト村野四郎は、太平洋戦争がはじまると、ただちに「挙りたて神の裔」を書いている。

皇紀二千六百一年
清列な露霜の暁
一大轟音と共に
遂に神々の怒は爆発した
おお吾々の父の
吾々の祖父の万斛の怨は
雷鳴とともに天に冲した
見よ今
逆巻く太平洋の怒涛のただ中に
ガラ ガラと崩れ墜ちる
悪徳の牙城
立てよ 神の裔
今こそ妖魔撃滅の時!
挙り立て 剣を取れ
神霊は天に在り
千古不滅の熔岩の島嶼
神国日本を守るは今なり
おお神の裔 神裔
今こそ
わが富士の大乗巌を護れ!


いや、さらにもうひとつ。あの瀧口修造でさえ、こんな詩を書いている(あるいは書かされている)が、それについては弟子筋であった飯島耕一の問いがあり、そのうちメモするかもしれない。


若鷲のみ魂にさゝぐ  春とともに  瀧口修造

いまだ 還らず・・・
いまだ 還らず・・・
巨いなる空の涯て
雲は燃え
星はかがやけれど
君はつひに還らず

されど
故里に春はかへりぬ
水温るみ 餅草萌ゆる
あゝ その春のごとくに
ちちははの胸にかへらむ
さとびとの胸にかへりて
はげしくも炎と燃えむ
美まし國の護りとならむ

君は還りぬ


いやネット上から下記の文を拾うことができたので、いま掲げておこう、飯島耕一『冬の幻』(連作短篇集1982)からである(高橋新太郎「文学者の戦争責任論ノート風」からの孫引き)

主人公は50歳過ぎの詩人・大学教員の藤堂宗宏。

藤堂はTさんの戦時中の詩にこだわっていた。藤堂はTさんが死んで二年にもなるというのに、まだTさんのことを考えていた。……そしてこのところはっきりとしているのは、Tさんがあの詩を書いたのはどうしてなのか、またあの詩を書くことによって、Tさんがその後どんなに苦しい負担を担ってしまったか、ということをめぐって思いが寄って行くということだった。

Tさんは昭和十六年の三月、三人の警視庁特高警察に寝込みを襲われ、杉並区の留置場に連行されていた。取調べは週に一回程度で、内容は主として、日本のシュルレアリスム運動が国際共産党と関係があるかどうかの詮議にかけられていた……やがて夏になった。検事拘留となり、若い検事が取調べをやり直すことになるが、問題がシュルレアリスムの本質論と現実政治の関係になってくると、ことは複維となり、検事も困惑した表情を見せるようになる。Tさん自身、シュルレアリスムの政治的局面は得意とするところではなかったはずだ、と藤堂は思った。秋が更けて十一月中旬に、戦時下という時局に際し、今後慎重に行動するようにとの訓戒ののちに、Tさんは起訴猶予処分のまま釈放された。……

十二月八日、真珠湾の奇襲が起る。

多分その翌年の一月はじめに、Tさんは「大東亜戦争と美術」という二ページほどの評論を発表していた。そして多分その次の年の中頃に、「春とともにーー若鷲のみ魂にささぐ」という詩を書いた。それは十八年の十月出た戦争詩のアンソロジー『辻詩集』に求められての詩作だった。これは名高い詩集だった。ところがTさんの詳細をきわめた自筆の年譜にも、その詩を書き発表したことは記されていなかった。ましてTさん自身、こういう詩を書いたことがあると口にしたことは、Tさんと藤堂のつきあった二十五、六年の間一度もなかった。Tさんは決して口数の少ないほうではなかった……Tさんはこの上もなく自虐的なにがい気持で、「ええいと思って、」一種のしかたのない免罪符を買うつもりで「若鷲のみ魂にささぐ」を書いたのではなかったろうか。……「おれだってこういうとき弁明の詩を書くかも知れない。いや書くだろう」と藤堂は思った。そしてTさんは書いた。しかしこの詩が、以来小骨のようにTさんの咽喉にひっかかったのではなかったか。……

藤堂は「おれにも、無いと思いたい書きものや、行動はいくつもある」と冷静に思うことのできる年齢になっていた。

それにしてもTさんはこの詩にこだわったにちがいなかった。Tさんの戦中についてはよくこういう記述のされ方をした。「一九四一年の春、T氏は、シュルレアリスムと共産主義の関係に目をつけた官憲によって検挙される。この時、すでに美術統制ははぼ完了し、画壇は戦争画の花ざかりを迎えようとしていた。八カ月にわたる拘留ののち、T氏は釈放されるが、その後、雑誌からの原稿依頼も、友人の訪問も絶え、<深い孤独感>(自筆年譜のことば)の中で、敗戦を迎える。批評にかかわるT氏の夢は粉々に砕かれ、戦後にもちこされることになる。」しかし夢が砕かれたのは批評にかかわることにとどまらなかったのではないか。詩にかかわる夢も、一度粉々に砕かれてしまったのではないか。……「八月にわたる拘留ののち、釈放されるが、その後、雑誌からの原稿依頼も、友人の訪問も絶え、<深い孤独感>の中で、敗戦を迎える。」――その言い方の一部に、「止むを得ずして『春とともにーー若鷲のみ魂にささぐ』を執筆、発表」と書き入れるべきではなかったか。雑誌からの依頼もなく、というのは正しくない。重要な、困った、致し方ないというえば致し方ない、少なくとも二つないし三つの原稿依頼があったのではなかったか。そのことを記入すべきだった。そうすることによって、Tさんの思想と行動の一貫性の印象は失われ、傷つけられるかもしれないが、その傷からこそより深く、するどい痛感をともなった、別の何かが生れたのではなかったか。このところの藤堂は、何度も繰り返してそう思った。

Tさんはあの自分の詩を分析し、あの詩をめぐって百枚の論文を書くことによって、戦後の再出発をすることもできた。(飯島耕一「遠い傷痕」『冬の幻』所収)

飯島耕一は、《「おれだってこういうとき弁明の詩を書くかも知れない。いや書くだろう」と藤堂は思った》としている。ところで、今、瀧口修造のような状況になったとき、《この上もなく自虐的なにがい気持で、「ええいと思って、」一種のしかたのない免罪符を買うつもりで》あのような詩を、あるいはあのような考えを書き綴ってしまわない「知識人」あるいは「芸術家」がどれだけいるというのだろう?




……さて、それからランボオはこういうんだ。<仕様がない! 私は自分の想像力と思い出とを、葬らねばならない! 芸術家の、そしてまた物語作者のすばらしい栄光が、持ち去られるのだ。>

<とにもかくにも、嘘を糧にしてわが身を養って来たことには、許しを乞おう。そして出発だ。>

いま、このくだりがおれにはじつに身にしみるよ。古義人、きみもそうじゃないか? おれたちのような職業の人間にしてみれば……キッチュの新しい花、キッチュの新しい星を切り売りしてきた人間にしてみればさ、年の残りも少なくなって、こういう覚悟に到るほかはないじゃないか!篁さんはどうだったろう? 

きみはそうしたことを、あの人が癌で入った病室で聞いてみなかったか? 篁さんの音楽こそは純粋芸術で、キッチュなどとは無縁だなどというのじゃあるまいね? 篁さんに最後の愛想をつかされることがあったとしたら、古義人がついにセンチメンタルになって、そう言い張ろうとする時だったぜ!

十六歳の古義人に会った時から、おれはきみに嘘をいうな、といってきた。人を楽しませるため、人を慰めるためにしても嘘をいうな、と言い続けてきた。ついこの前もそういったところじゃないか? しかし、夫子自身が嘘を糧にしてわが身を養って来たことは、それはその通りだった。ふたりともどもにさ、なにものかに許しを乞うことにしようじゃないか、そして出発だ。(大江健三郎『取り替え子』

古義人は大江健三郎がモデル、話しかけているのは伊丹十三がモデルの人物である。篁さんとは武満徹であり、武満は瀧口修造に師事していた。






              武満徹に  

飲んでるんだろうね今夜もどこかで
氷がグラスにあたる音が聞える
きみはよく喋り時にふっと黙りこむんだろ
ぼくらの苦しみのわけはひとつなのに
それをまぎらわす方法は別々だな
きみは女房をなぐるかい?

ーー谷川俊太郎「夜中に台所のぼくはきみに話しかけたかった」より






何処へ   飯島耕一

陽気にはしゃいでいる人たちがいる
だけどぼくは騒げない
ぼくの心はねじくれてしまったのか
グラスをまえにして
ぼくはたった一人だ
昔の女たち 昔の友だち
みんなどこへ 行ってしまったのか
どこかへ出掛けてしまったのか

(……)

(右から岡田隆彦、飯島耕一、吉岡実、大岡信)


          飯島耕一に 

にわかにいくつか詩みたいなもの書いたんだ
こういう文体をつかんでね一応
きみはウツ病で寝てるっているけど
ぼくはウツ病でまだ起きている
何をしていいか分からないから起きて書いてる
書いてるんだからウツ病じゃないのかな
でも何もかもつまらないよ
モーツァルトまできらいになるんだ
せめて何かにさわりたいよ
いい細工の白木の箱か何かにね
さわれたら撫でたいし
もし撫でられたら次にはつかみたいよ
つかめてもたたきつけるかもしれないが
きみはどうなんだ
きみの手の指はどうしてる
親指はまだ親指かい?
ちゃんとウンコはふけてるかい
弱虫野郎め

ーー同 谷川俊太郎「台所…」より



2014年12月9日火曜日

坂口安吾と童貞



ひどくいい女だ、川端康成が女優になるようにすすめたそうだが。「坂口安吾 無頼の先へ」にも、矢田津世子の画像がいくつか貼ってある。

ーーなどということは安吾ファンなら誰しも知っていることだろうが、このところ初めて安吾の書き物をいくらか集中的に読んでみた。もともとわたくしは多くの小説家の作品を読む習慣はなく、以前は、「堕落論「やら「教祖の文学」、「文学のふるさと」などのたぐいを数篇掠め読んだだけだった。

「情痴作家」と呼ばれた安吾は、27歳まで童貞だったらしい。

私は二十七まで童貞だった。 二十七か八のころから三年ほど人の女房だった女と生活したが、これからはもう散々で、円盤ややりや自動車の比ではない。窒息しなかったのが不思議至極で、思いだしても、心に暗幕がはられてしまう。(坂口安吾「てのひら自伝」 )
英倫と一緒に遊びに来た矢田津世子は私の家へ本を忘れて行つた。ヴァレリイ・ラルボオの何とかいふ飜訳本であつた。私はそれが、その本をとゞけるために、遊びに来いといふ謎ではないか、と疑つた。私は置き残された一冊の本のおかげで、頭のシンがしびれるぐらゐ、思ひ耽らねばならなかつた。なぜなら私はその日から、恋の虫につかれたのだから。私は一冊の本の中の矢田津世子の心に話しかけた。遊びにこいといふのですか。さう信じていゝのですか。(坂口安吾「二十七歳」)

坂口安吾(1906年(明治39年)10月20日 - 1955年(昭和30年)2月17日))の27歳時というのは、1933年だが、七北数人の「評伝 坂口安吾 魂の事件簿」に次のような指摘があるようだ。

坂口安吾と矢田津世子の最初の出会いは、普通1932(昭和7)年とし、その時期は夏とされますが、七北数人氏はさまざまな行動記録を積み上げ、次のように結論付けています。

 『つまり、二人の出逢いは十月半ば以降、翌年一月までの間ということになる。二人の間に交わされた膨大な量の書簡のうち、矢田が書き送った分は残っていないが、安吾の書簡も三三年一月二十三日が最も古く、三二年の分が一通もなかったこと、安吾の自伝的小説においても三二年にどんな付き合い方をしていたのか判然としなかったことなどの謎もこれで解ける。書簡が失われたのではなく、出逢っていなかったのである。

 一月二十三日の書簡では、二十日頃に矢田、加藤、大岡と飲んだ後の顛末などが記され、「そのうち、おたづねいたしたいと思つてゐます。中門の犬には要心して」などとある。文面から、この時点ではまだ矢田家を訪ねたことがなかったように感じられる。署名もこの一通は「坂口安吾」とフルネームだが、その後は年賀状以外すべて「安吾」のみであることも、第一信ならではの感がある。毎年出された年賀状も矢田家にはすべて捨てられずに残されていたので、三三年の年賀状がないことから推して、出逢ったのは十二月末頃から一月中旬にかけてと考えられる。』

とはいえ、二人のあいだには「肉体の交渉」はなかった、と安吾は書いている。

始めからハッキリ言つてしまふと、私たちは最後まで肉体の交渉はなかつた。然し、メチルドを思ふスタンダールのやうな純一な思ひは私にはない。私はたゞ、どうしても、肉体にふれる勇気がなかつた。接吻したことすら、恋し合ふやうになつて、五年目の三十一の冬の夜にたゞ一度。彼女の顔は死のやうに蒼ざめてをり、私たちの間には、冬よりも冷めたいものが立ちはだかつてゐるやうで、私はたゞ苦しみの外なにもなかつた。たかゞ肉体ではないか、私は思つたが、又、肉体はどこにでもあるのだから、この肉体だけは別にして、といふ心の叫びをどうすることもできなかつた。

そして、その接吻の夜、私は別れると、夜ふけの私の部屋で、矢田津世子へ絶交の手紙を書いたのだ。もう会ひたくない、私はあなたの肉体が怖ろしくなつたから、そして、私自身の肉体が厭になつたから、と。そのときは、それが本当の気持であつたのかも知れぬ。その時以来、私は矢田津世子に会はないのだ。彼女は死んだ。そして私はおくやみにも、墓参にも行きはしない。

その後、私は、まるで彼女の肉体に復讐する鬼のやうであつた。私は彼女の肉体をはづかしめるために小説を書いてゐるのかと疑らねばならないことが幾度かあつた。私は筆を投げて、顔を掩うたこともある。(坂口安吾「二十七歳」)

安吾の小説は、惚れた女がひどく性的に放縦であったという話が多い。そして、それにもかかわらず男はいっそう惚れ続ける。ただし最初に真に惚れた矢田津世子が性的放縦であっただろうと言いたいわけではない。とはいえ、彼女に男がいることを知って《地獄へつき落された》とはある。

ある日、酔つ払つた寅さんが、私たちに話をした。時事の編輯局長だか総務局長だか、ともかく最高幹部のWが矢田津世子と恋仲で、ある日、社内で日記の手帳を落した。拾つたのが寅さんで、日曜ごとに矢田津世子とアヒビキのメモが書き入れてある。寅さんが手帳を渡したら、大慌てゞ、ポケットへもぐしこんだといふ。寅さんはもとより私が矢田津世子に恋してゐることは知らないのだ。居合せたのが誰々だつたか忘れたが、みんな声をたてゝ笑つた。私が、笑ひ得べき。私は苦悩、失意の地獄へつき落された。(同上)

ところで、大岡昇平は《矢田はまあきれいな女だが、当時いわば札付きの女流作家だった》などと書いているようだ。

大岡昇平は京都時代に坂口安吾との恋愛騒動で有名になった矢田津世子に合っています。京都帝国大学卒業後に東京の「ウインゾア」で会う以前です。 「…矢田はまあきれいな女だが、当時いわば札付きの女流作家だった。加藤や僕が彼女と京都で知り合ったのはこの一年ばかり前である。都ホテルの前のアリゾナというバーのマダムを通してである。マダムは当時阪神地方にいた谷崎潤一郎や片岡鉄兵を知ってる文学マダムだったが(ベッドの下に皮の鞭を持っていた)矢田津世子が遊びに来ることがあった。(大岡昇平の京都を歩く

「札付きの女流作家」とは、《東京で有名な文壇ゴロと情事を持ち、作家として売り出そうとしているため「トイフェル(悪魔)」と仇名されている》ということらしい(参照:坂口安吾の謎)。

しかし、「まあきれいな女」だと? ーーもっとも大岡昇平の奥さんは美貌だったには違いないし、趣味が違ったんだろうけれど。





矢田津世子よ。あなたはウヌボレの強い女であった。あなたは私を天才であるかのようなことを言いつゞけた。そのくせ、あなたは、あなたの意地わるい目は、最も世俗的なところから、私を卑しめ、蔑んでいた。(坂口安吾「三十歳 」)

冒頭に掲げた写真はいくらか修正が入っているのかもしれない。同じものだろうが、次の手まで写った画像を眺めると、「悪女」の気配がないではない。アア、オレモコンナ女ニ騙サレタカッタ




私はあの人をこの世で最も不潔な魂の、不潔な肉体の人だという風に考える。そう考え、それを信じきらずにはいられなくなるのであった。

そして、その不潔な人をさらに卑しめ辱しめるために、最も高貴な一人の女を空想しようと考える。すると、それも、いつしか矢田津世子になっている。気違いめいたこの相剋は、平凡な日常生活の思わぬところへ別の形で現れてもいた。(同上)

…………


安吾の書き物を読むと、菱山修三や中原中也、小林秀雄、三好達治の名などが頻出して、それがとても感慨深いのだがーーやはり中也の話がいちばんオモシロイ。

中原中也は、十七の娘が好きであつたが、娘の方は私が好きであつたから中也はかねて恨みを結んでゐて、ある晩のこと、彼は隣席の私に向つて、やいヘゲモニー、と叫んで立上つて、突然殴りかゝつたけれども、四尺七寸ぐらゐの小男で私が大男だから怖れて近づかず、一米ぐらゐ離れたところで盛にフットワークよろしく左右のストレートをくりだし、時にスウィングやアッパーカットを閃かしてゐる。私が大笑ひしたのは申すまでもない。五分ぐらゐ一人で格闘して中也は狐につまゝれたやうに椅子に腰かける。どうだ、一緒に飲まないか、こつちへ来ないか、私が誘ふと、貴様はドイツのヘゲモニーだ、貴様は偉え、と言ひながら割りこんできて、それから繁々往来する親友になつたが、その後は十七の娘については彼はもう一切われ関せずといふ顔をした。それほど惚れてはゐなかつたので、ほんとは私と友達になりたがつてゐたのだ。そして中也はそれから後はよく別れた女房と一緒に酒をのみにきたが、この女が又日本無類の怖るべき女であつた。(坂口安吾「酒のあとさき」)
そのころのことで変に鮮明に覚えてゐるのは、中原中也と吉原のバーで飲んで、――それがその頃であるのは私は一時女遊びに遠ざかつてゐたからで、中也とのんで吉原へ行くと、ヘヘン(彼は先づかういふセキバライをしておもむろに嘲笑にかゝるのである)ジョルヂュ・サンドにふられて戻つてきたか、と言つた。銀座でしたゝかよつぱらつて吉原へきて時間があるのでバーでのむと、こゝの女給の一人と私が忽ち意気投合した。中也は口惜しがつて一枚づゝ、洋服、ズボン、シャツ、みんなぬぎ、サルマタ一枚になつて、ねてしまつた。彼は酔つ払ふと、ハダカになつて寝てしまふ悪癖があるが、このときは心中大いに面白くないから更にふてくされて、のびたので、だらしないこと甚しく、椅子からズリ落ちて大きな口をアングリあけて土間の上へ大の字にノビてしまつた。女と私は看板後あひゞきの約束を結び、ともかく中也だけは吉原へ送りこんでこなければならぬ段となつたが、ノビてしまふと容易なことでは目を覚さず、もとより洋服をきせうる段ではない。仕方がないから裸の中也の手をひッぱつて外へでると、歩きながらも八分は居眠り、八十の老爺のやうに腰をまげて、頭をたれ、がくん〳〵うなづきながら、よろ〳〵ふら〳〵、私に手をひつぱられてついてくる。うしろから女給が洋服をもつてきてくれる。裸で道中なるものかといふ鉄則を破つて目出たく妓楼へ押しこむことができたが、三軒ぐらゐ門前払ひをくはされるうちに、やうやく中也もいくらか正気づいて、泊めてもらふことができた。そのとき入口をあがりこんだ中也が急に大きな声で、
「ヤヨ、女はをらぬか、女は」 と叫んで、
キョロ〳〵すると、
「何を言つてるのさ。この酔つ払ひ」 
娼妓が腹立たしげに突きとばしたので、中也はよろけて、ひつくりかへつてしまつた。それを眺めて、私達は戻つたのである。(坂口安吾「二十七歳」)

安吾の作品を集中的に読んだといっても、旅行中の空き時間に「青空文庫」にある440冊の作品を、ときには読み飛ばしての、ーーときに屋台で買ったマサラ・ドーサをほおばりつつのーー三文の一ほどでしかないのだが、さて家に帰ってきても、さらに読みすすめるかどうかは、これはわからない。




これからしばしmasala dosaを食すたびに、矢田津世子の顔を思い出すのではないか。幸か不幸か、当地にも、モスクのそばにインド人がやっているマサラ・ドーサの美味な店がある。




昭和十六年の六月一日であったと思う。もう当時は酒が簡単に手にはいらなくて、私が途中にガランドウをわずらわして一升運んでもらった。この一升がきてから後は、論戦の渦まき起り、とうとう三好達治が、バカア、お前なんかに詩が分るかア、と云って、ポロポロ泣きだして怒ってしまった。萩原朔太郎について小林秀雄と大戦乱を起したのである。(坂口安吾「釣り師の心境 」)

小林秀雄は、人を泣かせる名人だったのは有名である。

その酒を飲みながら、先生一流の講評というか、いじめというかが始まる。居並ぶ編集者たちを端から一人ずつ名指しで批評してゆくのである。ちょっと癇にさわる返答でもしようものなら大変だった。文字通り泣くまで攻める。日本語の全く通じないGIまで泣かせたという伝説のある小林秀雄である。しかも素面の時は秀才の如く、酔えば無頼漢の如し、と云われたのが、充分に酒が入っている。常人の太刀打ちできる相手ではない。四十面下げたベテラン編集者が、おいおいと声をあげて泣く始末だった。

冷静に聞いていると、かなり怪しげな論理のこともある。いつでも先生の方が正しいわけでもない。そのくせ必ず泣かすのである。心理的に巧緻な攻撃法だった。正しく名人芸と云ってよい。(隆慶一郎『編集者の頃』
大岡 あのころ、あんたは柳田国男を泣かせたり、よく年寄りをいじめたときだったけれど。

小林 それは絶対デマだよ、そんなことは絶対にない。

大岡 だって、俺にそう言ったじゃない。岩波文庫でフレイザーの「金枝篇」が出たころ、お前、なんだ、「金枝篇」を読んだらまるで骨格が違うじゃないか、と言ったら、柳田さんはなにも返事をしなかったが、ぽろっと涙を一つこぼしたって、言ってたよ。

小林 思い出さないね。君がおぼえているならしようがねえや。それはまあ、俺が言ったから涙をこぼしたわけじゃないよ。(小林秀雄と大岡昇平の対談「文学の四十年」)

もっともその小林秀雄自身、青山二郎には泣かされている。

私を除いて酔って来た。Y 先生が X 先生にからみ出した。

「お前さんには才能がないね」

「えっ」

と X 先生はどきっとしたような声を出した。先生は十何年来、日本の批評の最高の道を歩いたといわれている人である。その人に「才能がない」というのを聞いて、私もびっくりしてしまった。

「お前のやってることは、お魚を釣ることじゃねえ。釣る手附を見せてるだけだ。 (Y 先生は比喩で語るのが好きである)そおら、釣るぞ。どうだ、この手を見てろ。 (先生は身振りを始めた)ほおら、だんだん魚が上って来るぞ。どうじゃ、頭が見えたろう。途端、ぷつっ、糸が切れるんだよ」

しかし Y 先生は自分の比喩にそれほど自信がないらしく、ちょろちょろ眼を動かして、X先生の顔を窺いながら、身振りを進めている。

「遺憾ながら才能がない。だから糸が切れるんだよ」

X 先生がおとなしく聞いてるところを見ると、矢は当ったらしい。Y 先生は調子づいた。 「いいかあ、こら、みんな、見てろ。魚が上るぞ。象かも知れないぞ。大きな象か、小さな象か。水中に棲息すべきではない象、象が上って来るかも知れんぞ。ほら、鼻が見えたろ。途端、ぷつっ、糸が切れるんだよ」

「ひでえことをいうなよ。才能があるかないか知らないが、高い宿賃出してモツァルト書きに、伊東くんだりまで来てるんだよ」

「へっ、宿賃がなんだい。糸が切れちゃ元も子もねえさ。ぷつっ」

こうなると Y 先生は手がつけられない。私も昔は随分泣かされたものである。

私はいいが、驚いたことに、暗い蝋燭で照らされた X 先生の頬は、涙だか洟だか知らないが、濡れているようであった。私はますます驚いた。(大岡昇平「再会」より(青山二郎(Y 先生)の小林秀雄(X 先生))




とはいえ、安吾の書き物に文学者の名が出てくるところだけオモシロイわけではない。やっぱり「女」の話がオモシロイ。

私ははじめお寺の境内の堂守みたいな六十ぐらいの婆さんが独りで住んでいる家へ間借りする筈であった。伊勢甚のオカミサンがそうきめてくれたのである。ところが私が本屋のオヤジにつれられて伊勢甚へ行くと、

「六十の婆サンでも、女は女だから、男女二人だけで一ツ家に住むのは後々が面倒になります。別に探しますから、今夜はウチへ泊って下さい」

と云った。このオカミサンは四十四五であったが、旅館へ縁づいて、そこで色々と泊り客の男女関係を見学して、悟りをひらいていたのである。この旅館は主として阪東三十三ヶ所お大師詣での団体を扱うのであるが、この団体は六十ぐらいの婆サンが主で、導師につれられて、旅館で酒宴をひらいてランチキ騒ぎをやるのである。私が、この町を去って後、この団体のランチキ騒ぎの最中に、二階がぬけて墜落し、何人かの即死者がでたような出来事があった。ずいぶん頑堅らしい田舎づくりの建物であったが、よくまア二階がぬけ落ちたものだ、と私は不思議な思いであった。建物によることでもあるが、あの団体のドンチャン騒ぎというものは、中学生の団体旅行などの比ではない。本当のバカ騒ぎでありアゲクが色々なことゝなる。伊勢甚のオカミサンが六十の婆サンを警戒したのは、営業上の悟りからきたところで、私の品性を疑ったワケではなかったらしい。けれども、いきなりこう言われると、人間はひがむものである。(坂口安吾「釣り師の心境」)