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2017年9月30日土曜日

あんたの魂のことを書くんだよ。描写するんじゃねえぞ

「あんたの魂のことを書くんだよ。描写するんじゃねえぞ」とは小林秀雄が大岡昇平にあたえたアドバイスの言葉である。

巷間に流通しているのは、《小林秀雄が「君は魂のことを書け」とアドヴァイスをしたところ、大岡は「いや、事実を書く」と反発した》(魂ではなく事実を書く——大岡昇平の視点)だが、これは下に引用する大岡昇平の文を読むかぎりでは異なる。「事実を書く」などとはどこにも言っていない。「描写する」という表現がなされているだけである。

「事実を書く」であるなら、ニーチェの文を引用して罵倒しようと思ったのだがそうはいかなくなって残念である・・・

現象 Phänomenen に立ちどまったままで「あるのはただ事実のみ es giebt nur Thatsachen」と主張する実証主義 Positivismus に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ nein, gerade Thatsachen giebt es nicht, nur Interpretationen と。私たちはいかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろらう。(ニーチェ『権力への意志』ーー「遠近法」、あるいは「自然は存在しない」

というわけで(?)、ネット上から拾ったのだが、大岡昇平の「再会」から核心部分を掲げる。

「君、一つ従軍記を書いてくれないかな」 と待望の話になった。「従軍記」には私は思わず吹き出した。私は本物の兵隊として行ったので、 報道班員のように「従軍」したのではない。しかしX先生がそういうのも一理ないこともない。私はてんで戦う気はなかったのであるから、事実上従軍みたいなものである。

「ああ、Bからちょっと聞いた。でもねえ……」 と勿体をつける。

「いやなのかい」

「いやじゃないけどね。戦場の出来事なんて、その場で過ぎてしまうもので、書き留める値打があるかどうかわかんないんだよ。ただ俘虜の生活なら書ける。人間が何処まで堕落出来るかってことが、そうだな、三百枚は書けそうだ。だけど日本が敗けちゃって、国中ががっかりしてる時に、そいつを書くのは可哀そうだな。もっとも今は共産党とかなんとかいってるけれど、そのうちきっと反動が来ると思います。その時書いてもいいですな」

私はただてれているにすぎなかった。それがX 先生に見破られないはずはない。先生は長口舌を振う私の顔を憐むように見ていたが、

「復員者の癖になまいうもんじゃねえ。何でもい い、書きなせえ。書きなせえ。ただ三百枚は長すぎるな。百枚に圧縮しなせえ、他人の事なんか構わねえで、あんたの魂のことを書くんだよ。描写するんじゃねえぞ」

「へえ」  

しかしスタンタリヤンを捉えて、描写するなとは余計な忠告というものである。半年後出来上がった百枚の原稿を、先生はほめてくれたが(私の書いたものが、先生にほめられた最初である) 、あんまり描写がないのに、少し驚いたらしい。

「ふむ、こりゃいいもんが出来たが、どうもあんまりフィリピンの緑の感じが出てねえな。八犬伝の雑兵が、清澄山から東京湾を見下ろしてるようじゃねえか。時々ちょっと描写を挿むと効果的なんだ」  

私は内心凱歌を挙げた 。(大岡昇平「再会」)

《スタンタリヤンを捉えて、描写するなとは余計な忠告というもの》とあるように、大岡昇平は「魂のことを書く」より「描写」のほうが肝腎だと考えたということになる。

彼は脚下に二十里四方の土地を見た。ハヤブサであろう、彼の頭上の大岩から飛び立った鳥が、いたって大きな輪を、音もなく、えがいているのがときどき彼の視界に入った。ジュリアンの目は、機械的にこの猛禽のあとを辿っていた。その落ち着いた、しかも力強い動きが、彼の心を打った。彼はあの力をうらやんだ。彼はあの孤立をうらやんだ。それはナポレオンの運命であった。いつの日か、それが彼の運命になるだろうか。(スタンダール『赤と黒』)

他方、小林秀雄の「魂のことを書く」とは何か? それは次の文によく表れている。

歴史は決して二度と繰返しはしない。だからこそ僕等は過去を惜しむのである。歴史とは、人類の巨大な恨みに似ている。歴史を貫く筋金は、僕等の愛惜の念というものであって、決して因果の鎖という様なものではないと思います。それは、例えば、子供に死なれた母親は、子供の死という歴史事実に対し、どういう風な態度をとるか、を考えてみれば、明らかな事でしょう。母親にとって、 歴史事実とは、 子供の死という出来事が、 幾時、 何処で、どういう原因で、どんな条件の下に起ったかという、単にそれだけのものではあるまい。 かけ代えのない命が、取返しがつかず失われて了ったという感情がこれに伴わなければ、歴史事実としての意味を生じますまい。若しこの感情がな ければ、子供の死という出来事の成り立ちが、ど んなに精しく説明出来たところで、 子供の面影が、 今もなお、眼の前にチラつくというわけには参る まい。歴史事実とは、嘗て或る出来事が在ったというだけでは足りぬ。今もなおその出来事が在る事が感じられなければ仕方がない。母親は、それをよく知っている筈です。母親にとって、歴史事実とは、子供の死ではなく、寧ろ死んだ子供を意味すると言えましょう 。 (小林秀雄「歴史と文学」昭和16年)

《子供の死ではなく、寧ろ死んだ子供》とは何だろうか。まずは一般的なことではなく単独的なこととしうる。《わたしたちは、個別的なものに関する一般性であるかぎりの一般性と、単独的なものに関する普遍性としての反復とを対立したものとみなす》(ドゥルーズ『差異と反復』)

単独的なものは「身体の出来事」という風にもたぶん捉えうる。《症状(原症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps》(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME, AE.569、1975)

このサントーム SINTHOME とも呼ばれる原症状は、原トラウマ(フロイトの原固着)とほぼ等価である(参照)。

トラウマ、ないしその想起は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
我々は「トラウマ的 traumatisch」という語を次の経験に用いる。すなわち「トラウマ的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、1916年、私訳ーー基本的なトラウマの定義)

ここで次のように補っておこう。

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)

魂としての身体」で記した「マレビトとしての身体」とは、上のフロイト文にある「異物 Fremdkörper」のことである(仏語訳では corps étranger)。

このマレビトとしての身体は、象徴界の非一貫性(非全体pastout)の「内部」に立ち現れる(外立する)ものであり、けっして超越的彼岸にあるものではない。むしろ超越論的なものである。 

・現実界とは形式化の袋小路である Le reel est un impasse de formalization)(ラカン、S20)

・現実界は外立する Le Réel ex-siste(S22)

前回、マレビトとしての身体は、魂としての身体である、としたが、たとえば、こうも引用することができる。

無意識の主体は、身体を通してのみ、魂に触れる。En fait le sujet de l'inconscient ne touche à l'âme que par le corps(ラカン、テレヴィジョン、1973)
魂とは肉体のなかにある何ものかの名にすぎない。 Seele ist nur ein Wort für ein Etwas am Leibe.(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「肉体の軽侮者」)

いずれにせよ、このように考えると、「魂は描写(形式化)の袋小路に現れるもの」とすることができる。つまりこの観点をとると、「魂のことを書くこと」と「描写すること」とは相反するものではまったくない。ただしその描写するものは、おそらく、向こうから押し寄せて来るもの、《書かれぬことをやめぬもの ce qui ne cesse de ne pas s'écrire》(Lacan, S.20)でなければならない。

たとえば大岡昇平は次のように描写することによって、魂のことを表現した。

しかし彼が谷の向こうの兵士に答え、私がその薔薇色の頬を見た時、私の心で動いたものがあった。

それはまず彼の顔の持つ一種の美に対する感嘆であった。それは白い皮膚と鮮やかな赤の対照、その他我々の人種にはない要素から成立つ、平凡ではあるが否定することの出来ない美の一つの型であって、真珠湾以来私の殆ど見る機会のなかったものであるだけ、その突然の出現には一種の新鮮さがあった。そしてそれは彼が私の正面に進むことを止めた弛緩の瞬間私の心に入り、その敵前にある兵士の衝動を中断したようである。

私は改めて彼の著しい若さに驚いた。彼の若さは最初私が彼を見た時既に認めていたが、今さらに数歩近づいて、その前進する兵士の姿勢を棄て、顔を上げて鉄兜に蔽われたその全貌を現した時、新しく私を打ったのである。彼は私が思ったよりさらに若く、多分まだ二十歳に達していないと思われた。

彼の発した言葉を私は逸したが、その声はその顔にふさわしいテノールであり、言い終わって語尾を呑み込むように子供っぽく口角を動かした。そして頭を下げて谷の向こうの僚友の前方を斜めにうかがうように見た。(この時彼がうかがわねばならなかったのは、明らかに彼自身の前方であった)

人類愛から発して射たないと決意したことを私は信じない。しかし私がこの若い兵士を見て、私の個人的理由によって彼を愛したために、射ちたくないと感じたことはこれを信じる。(大岡昇平“捉まるまで”―『俘虜記』)

アレンカ・ジュパンチッチ Alenka Zupančič(The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan,2013、PDF)によれば、神としてのリアル(あるいは魂)は二種類の捉え方がある。

宗教が基盤としているのは、リアルは根源的に超越的な・〈大他者〉の・排除されたものという仮定である。リアルは、不可能かつ禁じられており、超越的で手の届かないものである。
芸術が基盤としているのは、リアルは内在的かつ手の届かないものという想定である。リアルは、つねに表象に「突き刺さっている」。表象の他の側あるいは裏面に、である。裏面は、定められた空間に常に内在的でありながら、また常に手が届かない。(……)芸術は常に境界と戯れる。境界を創造・移動・越境する。(Alenka Zupančič、2013)

われわれが魂のことを書くと聞くと、通常、宗教的なものを想起しがちだろうが、芸術的なタマシヒがある。

もう一例あげよう。ラカン=アリストテレスのテュケー/オートマン(αύτόματον [ automaton ]/τύχη [ tuché ])とは、「現実界との出会い rencontre du réel/シニフィアンのネットワーク réseau de signifiants」である。

オートマンとテュケーは共存し絡み合っている。シンプルに言えば、テュケーはオートマトンの裂目である。…どの反復も微細な仕方であれ、象徴化から逃れるものが既に現れている。…裂目のなかに宿る偶有性の欠片、裂目によって生み出されたものがある。そしてこの感知されがたい微かな欠片が、喜劇が最大限に利用する素材である。(ムラデン・ドラー、喜劇と分身、2005年)

散文による裂目との遭遇と、詩や喜劇による裂目との遭遇の仕方は異なる。だが肝腎なのは表象の裂目・穴である。 《生垣に穴をあけなければ永遠の世界を眺めることが出来ない》(西脇順三郎「詩情」)。たとえば蓮實重彦の「表象の奈落」とはそのことを差している(参照:壺作りと揺らめかし)。

ラカンは、科学的言説についてさえ「穴」という言葉を使って同様な指摘をしている。

科学的言説がかかわる全ては、そのネットワーク・その織物・その格子によって、正しい場所に正しい穴が現れるようにすること fasse apparaître les bons trous à la bonne place である。

この演繹によって到達される唯一の参照項は不可能である。この不可能が実在 réelである。我々は物理学において、言説の装置の助けをもって、実在 le réel であるところの何かを目指す。その厳格さのなかで、一貫性の限界に遭遇する rencontre les limites de sa consistance のである。(ラカン、セミネール18、20 Janvier 1971、私訳)

もし《神の外立 l'ex-sistence de Dieu》(ラカン、S22)、あるいは《コトバとコトバの隙間が神の隠れ家》(谷川俊太郎「おやすみ神たち」)を受け入れるなら、コトバとコトバの隙間にタマシヒは「祟る」のである。 

たゝりはたつのありと複合した形で、後世風にはたてりと言ふところである。「祟りて言ふ」は「立有而言ふ」と言ふ事になる。神現れて言ふが内化した神意現れて言ふとの意で、実は「言ふ」のでなく、「しゞま」の「ほ」を示すのであつた。(折口信夫『「ほ」・「うら」から「ほかひ」へ』ーー「玄牝の門」「杣径」「惚恍」「外祟」

…………

後年の小林秀雄は、ベルグソンとフロイトを引いて「魂のこと」を語っている。

◆質問「魂の存在について」 (講演第四巻「現代思想について」
生理的なものと精神的なものには絶対に密接的な関係があるのです。無論生理的な原因から説明することのできる精神現象はたくさんあるわけです。だけれどもフロイトは精神異常者(言葉を換えてあります)を扱った心理学者なのです。ですから普通の心理ではないわけです。皆異常な真理です。そのような異常な真理を調べてみますと肉体的な生理学的な原因からとても説明ができそうもないような患者が出てくるのです。身体(からだ)は健康なんですからね。

例えばぜんぜん健康な体の男がどうしても癌だというでしょう。おれはどうしても癌だと信じてそういう妄想に苦しめられるでしょう。だからそういった妄想はどこから起るのか。そう言った患者に当った場合には生理的な原因といったものにどうしても医者はこだわっていた時に、彼(フロイト)はそれを全く精神的な原因にあるに違いないという仮説の元にやってみたられは、果してそういう妄想には生理的な原因ではなくてまったく精神的な原因があったんですよ。その精神的な原因を取り除いたら、治っちゃったんですよ。

 そういうことをあの人は初めてやったわけだね。あそこで心理学が大きく展開したということは、心理学というものを今までのようにあくまでも生理学的な基礎からね分析していくのをやめてだね、そういった精神には隠れた精神的な、観念的な原因があると、というふうに新しいメソードを立てたわけです。とともに、必然的に人間の心というものは意識とは違うということが解ったわけです。

 無意識という大きな世界をしょっていて僕らの意識というものは、その間のその一部が現実化しているに過ぎないんで、それで魂があるということが解ったわけです。ベルグソンの研究によれば魂というものは脳の組織の中には存在していないのです。もしも脳組織の中に存在していれば脳組織を調べれば魂が解るわけでしょう。だけれども記憶というものいわゆる魂です。魂という言葉をベルグソンも使っているけれども、記憶現象というものは脳組織の中には存在していないのです。だけれども存在しているんです。

 というのは僕らのような古い習慣的な考え方ですよ。存在するというといつも空間を考えるのです。空間的なものを考えるのです。これは僕らの悟性というものの習慣にすぎないのです。習慣的にそう考えているのです。存在するものが空間を閉めなくともちっとも構わないわけです。そうでしょう空間的には規定できない存在しうるわけです。ということを証明したわけですね(ベルグソンは)。

 だから空間的に存在するものはそういった潜在的な存在の顕現するのを制限したに過ぎないのですよ。制限している機構だということを証明したにすぎないのですよ。だからそれ(魂)がどこに存在にすることは意味がないことです。だけれども(魂は)存在するのです。それがどこに存在するかということは無意味だということを証明したんです。それが今の無意識心理学です。

 じゃぁ意識はどこに存在するんですか? 頭の中ですか? (頭にあるとするならば)じゃぁ生理学じゃないですか。そうじゃないんです無意識心理学というのは心理学なんです。心理を心で心を尋ねる学問なんです。だから心は脳の中には存在していませんよ。だけれども存在しているんですよ。何処にですか? 何処にと問うのは意味がないでしょう。これが今の新しい心理学の根拠です。こういう道をフロイトとベルグソンが拓(ひら)いたんです。

 このことは非常に難しいでしょう。だからそっちの方はほっぽかされたんです。そういう根本的な問題がほっぽかされてしまったんです。それでベルグソンの哲学だとか、一派としての哲学つまりベルクソニズム、それでフロイトはフロイティズムといい、そういったものが流行しているのです。知識として。だけれども彼らが開いた戸口というものはそのくらい重要なものなのです。

 諸君が魂はどこに存在するかというのは無意味なのです。だけれども魂の実在というものは決して空間的に何処に存在するものつまり物的存在に還元しえないものなのです。

口頭質問への応答ということもあるのだろう、ややわかりにくい表現はあるが、ここにはマレビトとしての身体、あるいはレミニサンスとしての現実界に近いことが語られている、とわたくしは捉える。

私は…問題となっている現実界 le Réel en questionは、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値 valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスと呼ぶもの qu'on appelle la réminiscence に思いを馳せることによって。…レミニサンスは想起とは異なる la réminiscence est distincte de la remémoration。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)


2016年8月3日水曜日

「途方もない好い女」による BWV 878

やあ、やっぱりピアニストはアジアの乙女たちがいいんじゃないか

不思議に日本の女性ピアニストに魅かれたことがないのだが
(なんだか生臭く感じて)
あれは西洋化されすぎているせいなんだろうか・・・

…………

おそらく(世界的には)いまだまったく無名であるはずのピアニスト、
シンガポールのSee Ning Hui (1996年生まれ)のデビューコンサートより

◆Bach - Prelude & Fugue No. 9 in E, BWV 878



ーー実に惚れ惚れする。何度もくり返して聴いてしまった。
(ふたつほど気になる音?があるが、そんなものはへいっちゃらさ)

なんというのか、インティメートで、抒情的で、上品で、節度があって、--あたかもオレが弾くように、肝腎かなめの箇所でひどいミスタッチがあってーー下手な小細工をせずに、自然にーー”魂のこと”をするようにーー演奏されたSee Ning Hui =バッハの奇跡!

いやあ、種々の名高い演奏家のものとききくらべてしまったよ。

グールドだけでなくーーグールドにはCD版やヴィデオ版だけではなく、初期の1957版があるようだ、初期から緩急緩の移行ーー、グルダリヒテル、それに Edwin FischerRosalyn Tureck や Helene Grimaud やらと。すくなくとも「この今」は、See Ning Hui ちゃんがナンバーワンだね・・・

クララ・ハスキルはなんでこの曲やらなかったんだろ?

カザルスの録音はないんだろうか?

・これまでの 80年間、私は毎日毎日、その日を、同じように始めてきた。ピアノで、バッハの平均律から、プレリュードとフーガを、 2曲ずつ弾く。

・Schumann シューマン、Mozart モーツァルト、Schubert シューベルト・・・Beethoven ベートーヴェンですら、私にとって、一日を始めるには、物足りない。Bach バッハでなくては。

どうして、と聞かれても困るが。完全で平静なるものが、必要なのだ。そして、完全と美の絶対の理想を、感じさせるくれるのは、私には、バッハしかない((パブロ・カザルス 鳥の歌 ジュリアン・ロイド・ウェッバー編

くり返して「観賞」しているうちに、つまり、彼女の眼差し、腕や軀の動かし方のすみずみまでなめるように観察していると、侯孝賢の女たちーーとくに辛樹芬(シン・シューフェン)ーーを思い出して、胸キュンとなっちゃったよ。

しかもオレの最も愛する曲をデヴューコンサートでやるなんて。




あなたの口は「いや」という、あなたの声とあなたの眼は、もっと優しい一言を、もっと上手に語っている。[Votre bouche dit non,votre voix et vos yeux disent un mot plus doux,et disent bien mieux] (Andre Chenier)

ーー《己は生涯忘れることが出来まい。あの伏目になった様子が己の胸に刻み込まれてしまった。》


ファウスト

もし、美しいお嬢さん
不躾ですが、この肘を
あなたにお貸申して、送ってお上申しましょう。

マルガレエテ

わたくしはお嬢さんではございません。美しくもございません。
送って下さらなくっても、ひとりで内へ帰ります。

ファウスト

途方もない好い女だ。
これまであんなのは見たことがない。
あんなに行儀が好くておとなしくて、
そのくせ少しはつんけんもしている。
あの赤い唇や頬のかがやきを、
己は生涯忘れることが出来まい。
あの伏目になった様子が
己の胸に刻み込まれてしまった。
それからあの手短に撥ね附けた処が、
溜まらなく嬉しいのだ。


しかも伏目がちにて「魂のこと」をされたら、わたくしは魂をうばわれざるをえない。

車から降りたウェルテルがはじめてシャルロッテをみかける(そして夢中になる)。戸口を額縁のようにして彼女の姿が見えている(彼女は子供たちにパンを切り分けている。しばしば注釈されてきた有名な場面)。われわれが最初に愛するのは一枚のタブローなのだ。というのも、ひとめぼれにはどうしても唐突性の記号が必要だからである(それがわたしの責任を解除し、わたしを運命に委ね、運び去り、奪い去るのだ)。(……)幕が裂ける、そのときまで誰の目にも触れたことのないものが全貌をあらわすにする。たちまちに眼がこれをむさぼる。直接性は充満性の代償となりうるのである。わたしは今、秘密をあかされたのだ。画面は、やがてわたしが愛することになるものを聖別しているのである。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』ーー「魂を奪われる」一目惚 coup de foudre




《女の眼の語ったことを、誰が忘れようか。シェイクスピヤもいったように、その眼のなかに全世界を読みとることさえあり得るからだ。》(加藤周一『絵のなかの女たち』)

私の少年時代は主に渋谷ですごされた。生まれたのは、牛込区新小川町三丁目であるが、三歳の時、赤十字病院前麻布区笄町(現、南青山七丁目)に引っ越した。
私はこの電車(皇城の外濠を一巡する路線「外濠線」)が好きで、その頃家にいた母方の祖母くにに抱かれて、外濠線を一巡したということである。一枚の切符で一巡する者はあまりなかったろうが、毎日乗るので、車掌も顔見知りになり、なんにもいわれなかった、と伝えられている。

(……)私にはまったく記憶がない。突然外界が動き出す驚きに似た感覚を覚えているような気がするが、それは多分後の経験がこの時期に投射されたものだろう。新小川町の家で、私の唯一の記憶はーーそしてそれは私の最初の記憶になるのだがーーどこかの家の庭の植込みを抜け、座敷へ近づいて行く感覚である。障子を開け放った座敷の中には、一人の少女がいて、ピアノを弾いていた。(大岡昇平『幼年』)



《朝礼で整列している時に、隣りにいるまぶしいばかりの少女に少年が覚えるような羞恥と憧憬と、近しさと距離との同時感覚》(中井久夫の恋文

とはいえ、王羽佳(ユジャ・ワン)だって、いつまでたってもあの朝礼の少女、「障子を開け放った座敷の中」の少女さ




ああ、「あんなに行儀が好くておとなしくて、そのくせ少しはつんけん」しているユジャ・マルガレエテ(グレエトヘン)ちゃん!

◆Yuja Wang in Carnegie Hall - Gretchen am Spinnrade(糸を紡ぐグレートヒェン)




《あの女の目や、頬や、唇にはことばがある。いや、脚も話しかけてくる。[There's language in her eye, her cheek, her lip, Nay, her foot speaks. ]》( (シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』) )

私の記憶は、前に書いた、ピアノを弾く嘉子さんだけである。明治三十二年生れだから、この頃十一、二歳である。はっきりした映像は残っていない。ただ薄暗い木陰から明るい庭の向うの座敷で、ピアノを弾く少女の方へ近づいて行く感じだけである。(……)

その時の私の感情も思考についても何の記憶もない。しかし私の最初の記憶がこういう場面であったということは、後年、私がピアノに特別な愛着を持ったことに関連するかも知れない。中学生の時ピアノを習いたいといったが、許して貰えなかった。一九六二年、胃潰瘍をやって、三ヶ月、運動も執筆も禁止された時、私がピアノと作曲をやることとしたのは、少年の日の充たされなかった夢を、齢五十をすぎて、実現さたということだったかも知れない。

それらをみなこの最初の記憶のせいにするのは牽強附会にすぎようが、これはその後今日までの私の生活態度、或いは私の書いたものから抜けない、なにか上品で、女性的で、きれいなものに対する憧れ、要するにスノビスムと関連があるだろう。(大岡昇平『幼年』)

といっても、ユジャ・ワンちゃんのこの時期は知らなかった・・・





ーーと、ふと調べてみると、
SEE NING HUI ちゃんのホーム・ページを開けば、
こんな写真が唐突に飛び込んでくる・・・




けやきの木の小路を
よこぎる女のひとの
またのはこびの
青白い
終りを

ーー西脇順三郎『禮記』


ところで、わたくしは実は、隣りにいるまぶしいばかりの中学時代の同級生の少女とーー苦心惨憺してーー結婚したのだが、いまは別の国に住み、別の少女と暮らしている・・・

《女は口説かれているうちが花。落ちたらそれでおしまい。喜びは口説かれているあいだだけ。[Women are angels, wooing: Things won are done; joy's soul lies in the doing.]》( Troilus and Cressida )

ラカン派の用語では、結婚は、対象(パートナー)から「彼(彼女)のなかにあって彼(彼女)自身以上のもの」、すなわち対象a(欲望の原因―対象)を消し去ることだ。結婚はパートナーをごくふつうの対象にしてしまう。ロマンティックな恋愛に引き続いた結婚の教訓とは次のようなことである。――あなたはあのひとを熱烈に愛しているのですか? それなら結婚してみなさい、そして彼(彼女)の毎日の生活を見てみましょう、彼(彼女)の下品な癖やら陋劣さ、汚れた下着、いびき等々。結婚の機能とは、性を卑俗化することであり、情熱を拭い去りセックスを退屈な義務にすることである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,私訳)

《得ようとして、得た後の女ほど情無いものはない。》(永井荷風『歓楽』)

結婚とは崇高化が理想化のあとに生き残るかどうかの真のテストの鍵となるものだったらどうだろう? 盲目的な愛では、パートナーは崇高化されるわけではない。彼(彼女)はただ単純に理想化されるだけだ。結婚生活はパートナーをまちがいなく非―理想化する。だがかならずしも非―崇高化するわけではない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、私訳)

理想化と崇高化? 理想化と崇高化を混同してはならない。

誤った崇拝は理想化をうむ。それは他者の弱さを見えなくする──あるいは、それはむしろ、自己のいだく幻影を投影するスクリーンとして他者を利用し、他者そのものを見えなくする。(ジジェク『信じるということ』)

オレはいつまでたっても「理想化」傾向がある人間かもしれぬ。今では、惚れてしまったら、できるだけはやく欠点を見いだそうとする習慣を身につけようとはしているのだが。

いまの「少女」とはビリヤード場で知り合ったのだが、
ビリヤードも伏目にて「魂のこと」をする一種であった・・・

◆Three Times 百年恋歌( 最好的時光)- Opening Scene "Smoke Gets in Your Eyes"(侯孝賢、スー・チー 舒 淇)




人は忘れ得ぬ女たちに、偶然の機会に、出会う、都会で、旅先の寒村で、舞台の上で、劇場の廊下で、何かの仕事の係わりで。そのまま二度と会わぬこともあり、そのときから長いつき合いが始まって、それが終ることもあり、終らずにつづいてゆくとこもある。しかし忘れ得ないのは、あるときの、ある女の、ある表情・姿態・言葉である。それを再び見出すことはできない。

再び見出すことができるのは、絵のなかの女たちである。絵のなかでも、街のなかでと同じように、人は偶然に女たちに出会う。しかし絵のなかでは、外部で流れ去る時間が停まっている。10年前に出会った女の姿態は、今もそのまま変わらない、同じ町の、同じ美術館の、同じ部屋の壁の、同じ絵のなかで。(加藤周一『絵のなかの女たち』)

最後にルネ・フレミングとアバドのグレートヒェンを貼り付けておこう。オレはアバドのよれよれになって音楽に溺れているような表情がひどく好きでね、だいたいこんな顔して音楽聴いてるんだろうな、オレも。

◆Renee Fleming sings Schubert's "Gretchen am Spinnrade"




2016年1月22日金曜日

「殺すな!」という定言命法とトマト・ジュース

標準的な批判によれば、カントの「定言命法 (Kategorischer Imperativ 」(人の義務を為すための無条件な命令)という普遍倫理の限界は、その形式的不確定性にあるとされる。すなわち、道徳法則は、私の義務が何か教えてくれない。たんに私は私の義務を果たすべきだと告げるだけだ。だから、空虚な主意説 empty voluntarism の余地が残されている(私が私の義務だと決めたことは何でも私の義務だ)。

しかしながら、限界であるどころか、まさにこの特徴が、カントの倫理的自律性の核心を我々に与えてくれる。すなわち、道徳法則自体から、人の特殊な状況に染みついている具体的責務を引き出すことは不可能である。これが意味するのは、主体自身が抽象的な命令を一連の具体的責務に翻訳する責任を負わなければならないということだ。このパラドックスを十全に引き受けることによって、我々は、言い訳としての義務へのどんな参照をも余儀なく拒絶せざるをえない。「私は知っている、これは骨が折れ痛みをともない得ると。しかし私にどうしろと言うんだ、これは私の義務だ…」

カントの倫理は、しばしばこのような姿勢を正当化するように取られる。何の不思議でもない、アドルフ・アイヒマン自身がカントに言い及んだのは。それは、ホロコーストを計画し実行する彼の役割を正当化しようとする時だった。つまり、彼は、ただ彼の義務を果たし、総統の命令に従っただけだと。しかしながら、カントの強調、ーー主体の全的道徳自律性と責任とへの強調の目標は、まさに、アイヒマンのようにして、大他者のある形象に責任を負わせるような、そのどんな策略をも防止することである。

私がベルナール=アンリ・レヴィと行った不幸な討論(パリのLe Nouvel Observateur のオフィス内での)にて、レヴィは物語った(たぶん、そうであったはずだ)、殺人に反対する説明のための個人的な経験を。1990年代初めのボスニア戦争のあいだの話だった。彼は包囲されたサラエヴォを訪れた。そこで、ボスニア政府の士官に前線の塹壕に連れていかれた。

ここからは、銃の照準器を通して、セルビア兵士が見える。近くの丘の上で、この兵士は、時おり、街の市民たちを銃撃している。引き金の上に指をおいて兵士を観察しつつ、レヴィは撃とうとした。しかし彼は抵抗したーー「殺すな!」という命令が、彼にとっては、無条件だ。

私には、このような反応は、最も純粋な道徳的偽善だった。レヴィは、この紛争においてボスニア側を全面的に支持していた(私もそうだった。だからそこには何の意見の相違もない)。しかし彼の銃撃の拒絶が意味するのは、彼は同じ立場にあるボスニア兵士には引き金を引くことを期待しつつ、レヴィ自身は手をきれいなままにしていたいということだ。そして不可欠な汚れ仕事は、他者に委ねようと。このようなジレンマに直面して、唯一のほんとうの普遍的態度は、自身の手を汚すことである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

さて、このジジェクの論理は、 カントの『人間愛から嘘をつく権利の虚妄』の論理と整合性があるだろうか。すなわち、 《友人を追ってきた刺客の質問に対して、自分は友人を匿っていないという嘘の返答をすることは許されるか》という問いだ。カントは、これに対して、 嘘をつくべきではないと答えている。

ジジェク組(ジュパンチッチ『リアルの倫理―カントとラカン』)の応答は、ここにまとめてある、→PDF:「ハンナ・アーレントが言わなかったこと」(伊藤正博)。アーレントによるアイヒマンの釈明への問いも記されている。

…………

 しかし彼が谷の向こうの兵士に答え、私がその薔薇色の頬を見た時、私の心で動いたものがあった。

それはまず彼の顔の持つ一種の美に対する感嘆であった。それは白い皮膚と鮮やかな赤の対照、その他我々の人種にはない要素から成立つ、平凡ではあるが否定することの出来ない美の一つの型であって、真珠湾以来私の殆ど見る機会のなかったものであるだけ、その突然の出現には一種の新鮮さがあった。そしてそれは彼が私の正面に進むことを止めた弛緩の瞬間私の心に入り、その敵前にある兵士の衝動を中断したようである。

私は改めて彼の著しい若さに驚いた。彼の若さは最初私が彼を見た時既に認めていたが、今さらに数歩近づいて、その前進する兵士の姿勢を棄て、顔を上げて鉄兜に蔽われたその全貌を現した時、新しく私を打ったのである。彼は私が思ったよりさらに若く、多分まだ二十歳に達していないと思われた。

 彼の発した言葉を私は逸したが、その声はその顔にふさわしいテノールであり、言い終わって語尾を呑み込むように子供っぽく口角を動かした。そして頭を下げて谷の向こうの僚友の前方を斜めにうかがうように見た。(この時彼がうかがわねばならなかったのは、明らかに彼自身の前方であった)

人類愛から発して射たないと決意したことを私は信じない。しかし私がこの若い兵士を見て、私の個人的理由によって彼を愛したために、射ちたくないと感じたことはこれを信じる。(大岡昇平“捉まるまで”―『俘虜記』)

ジジェクはユーゴスラビア戦争をかい潜って、あるいは残酷非道な映画を見過ぎて、自ずと「脱感作」の訓練をしているんじゃないか。

《言っておかなくてはならない最初のことは、哲学は私の最初の選択ではなかったことだ。クロード=レヴィ・ストロースの古いテーゼが断言しているのは、どの哲学者、どの理論家も、彼らが果たせなかった別の職業をもっているということだ。そしてその不首尾が彼らの全存在に徴づけられている。クロード=レヴィ・ストロースにとって、彼の最初の選択は、音楽家になることだった。これが、レヴィ・ストロースにあるような構成的なメランコリーの光沢をもたらす。私にとって、私の書き物から明らかなように、それはシネマだった。》(『ジジェク自身によるジジェク』私訳)

デイヴ・グロスマンの『「人殺し」の心理学』……まあ、軍に雇われた心理学の報告ですから、文字通りに真に受けていいかどうかわかりませんが、とりあえずこの本を信じるとすると、南北戦争から太平洋戦争まで、敵と対峙したとき味方の兵士がどのくらいの確率で実際に敵に対して発砲するかどいう発砲率は10~15パーセントなんだそうです。つまり、いざ敵に向かうと、兵士はグロスマンの言う「インスタントな良心的兵役拒否者」になる。人間はその程度には良心的であって、もともと殺人に対して心理的抵抗がある、と。(……)

そういうことに軍が気づいたのは1946年だそうで、マーシャルという准将が、海軍の心理学者に、発砲率向上の心理学的テクニックを考案せよ、という命令を出した。これが非常に成功をおさめ、発砲率を、朝鮮戦争で55パーセント、ヴェトナム戦争で95パーセントまでもっていけたというんです。(……)

まず、心理学的な訓練に順応しやすい若い兵士、だいたい18歳くらいの兵士を使った。(……)そして三つのテクニックを使った。一番目は脱感作desensitization です。具体的なトレーニング方法としては、兵士の首を固定しておいて、残虐な戦闘シーンを延々と見せる。二番目は条件付け conditioning です。いままでのように同心円の的を撃たせていたのでは実践では全く役に立たないから、中をくり貫いてトマト・ジュースを入れたキャベツを、的にする人形の中に仕込んで、その人形を木立の中からチラチラ見え隠れするように動かす、それを撃つんです。命中すると、中身のトマト・ジュースが飛び散る。要するに、発砲と中身が飛び散ることとの条件付けをこの訓練でやった。脱感作をも含んでいると思いますがね。三番目は否認機制です。相手(「グック」=ヴェトナム人を中心とするアジア人)は人間ではないという意識を徹底させる訓練です。(……)ヴェトナム帰還兵の社会への不適応率の高さはこの訓練があれば全く怪しむに足りません。(『批評空間』2001Ⅲー1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)ーー中井発言)


ジジェクには否認機制はなかったはずだーー。

耐え難いのは差異ではない。耐え難いのは、ある意味で差異がないことだ。サラエボには血に飢えたあやしげな「バルカン人」はいない。われわれ同様、あたりまえの市民がいるだけだ。この事実に十分目をとめたとたん、「われわれ」を「彼ら」から隔てる国境は、まったく恣意的なものであることが明らかになり、われわれは外部の観察者という安全な距離をあきらめざるをえなくなる。 (ジジェク『快楽の転移』)

要するに、唐突に戦場を訪れた人間にとっては、ベルナール=アンリ・レヴィのような態度は、むしろ自然でありうる。それを「最も純粋な道徳的偽善」とするのはいささか酷ではないか。もっとも、これはカントの倫理解釈とは別の話である。

…………

発砲率95パーセントの兵士は社会復帰できません。ヴェトナム戦争のPTSDの特徴は、みんな加害体験によるものだ、という点です。被害体験はごくわずかだし、そのほうが軽症なんです。(同 中井久夫)
トラウマの歴史は、ベトナム帰還兵問題とともに始まる。一九七二年に終結したベトナム戦争からの帰還兵は米国社会において疎外され、社会問題を起こした。テレビ中継などで米国民は戦争の汚い現実を見た。この戦争における残虐性と不条理性(……)は、米軍は民主主義的軍隊だという国民的自己規定を粉砕した。しかも米軍史上最初の敗戦であった。米国民の誇りも倫理感覚も著しく傷ついた。ある意味では米国民全員が戦争神経症者となり、米国のエートスの一九七〇年代の大変化にはPTSDを考慮に入れる必要があるかもしれない。ベトナム戦争世代の米国PTSD研究者は一九九五年の阪神・淡路大震災を機に来日した時、帰還兵がいかに冷たく迎えられたかを強調し、「パレードも楽隊もなく/故郷に待つものは小石の上をさらさら流れる水ばかりだった」という詩を朗読した。ハーマンの著作にも、ベトナム戦争記念碑の建立がいかに精神的に救いだったかを記している。戦友会(ラップ・グループ、話そう会)の意義も語られた。この辺りは、第二次大戦におけるわが国の復員兵の迎え方、初期からの戦友会の存在、多数の戦争記念碑と異なる。これは、国民全体が敗北を受け入れたわが国と、軍だけが敗れたとする米国との差であろうか。あるいは、情報量が少なく、それもおおむね戦争美談に終始したわが国と、リアル・タイムの「テレヴァイズド・ウォー」だったベトナム戦争の差であろうか。リアルな戦争報道に懲りた米軍は一九九〇年の湾岸戦争においては報道陣の参入を厳しく制限し、その残酷さの隠蔽に成功した。しかし、この戦争参加者における身体的愁訴の多さは一部は化学戦によるもの、一部は敵の部隊をまるごと砂漠に埋めたといわれるごとき残虐不条理性によるPTSDの心気症的側面でなかろうか。〔中井久夫「トラウマと治療体験」『徴候・記憶・外傷』所収 PP.89-90)

ここで中井久夫は何を言おうとしているのか、《第二次大戦におけるわが国の復員兵の迎え方、初期からの戦友会の存在、多数の戦争記念碑……》。

「靖国神社」の効用もあった(ある)、と言ってはいないか。



2014年12月9日火曜日

坂口安吾と童貞



ひどくいい女だ、川端康成が女優になるようにすすめたそうだが。「坂口安吾 無頼の先へ」にも、矢田津世子の画像がいくつか貼ってある。

ーーなどということは安吾ファンなら誰しも知っていることだろうが、このところ初めて安吾の書き物をいくらか集中的に読んでみた。もともとわたくしは多くの小説家の作品を読む習慣はなく、以前は、「堕落論「やら「教祖の文学」、「文学のふるさと」などのたぐいを数篇掠め読んだだけだった。

「情痴作家」と呼ばれた安吾は、27歳まで童貞だったらしい。

私は二十七まで童貞だった。 二十七か八のころから三年ほど人の女房だった女と生活したが、これからはもう散々で、円盤ややりや自動車の比ではない。窒息しなかったのが不思議至極で、思いだしても、心に暗幕がはられてしまう。(坂口安吾「てのひら自伝」 )
英倫と一緒に遊びに来た矢田津世子は私の家へ本を忘れて行つた。ヴァレリイ・ラルボオの何とかいふ飜訳本であつた。私はそれが、その本をとゞけるために、遊びに来いといふ謎ではないか、と疑つた。私は置き残された一冊の本のおかげで、頭のシンがしびれるぐらゐ、思ひ耽らねばならなかつた。なぜなら私はその日から、恋の虫につかれたのだから。私は一冊の本の中の矢田津世子の心に話しかけた。遊びにこいといふのですか。さう信じていゝのですか。(坂口安吾「二十七歳」)

坂口安吾(1906年(明治39年)10月20日 - 1955年(昭和30年)2月17日))の27歳時というのは、1933年だが、七北数人の「評伝 坂口安吾 魂の事件簿」に次のような指摘があるようだ。

坂口安吾と矢田津世子の最初の出会いは、普通1932(昭和7)年とし、その時期は夏とされますが、七北数人氏はさまざまな行動記録を積み上げ、次のように結論付けています。

 『つまり、二人の出逢いは十月半ば以降、翌年一月までの間ということになる。二人の間に交わされた膨大な量の書簡のうち、矢田が書き送った分は残っていないが、安吾の書簡も三三年一月二十三日が最も古く、三二年の分が一通もなかったこと、安吾の自伝的小説においても三二年にどんな付き合い方をしていたのか判然としなかったことなどの謎もこれで解ける。書簡が失われたのではなく、出逢っていなかったのである。

 一月二十三日の書簡では、二十日頃に矢田、加藤、大岡と飲んだ後の顛末などが記され、「そのうち、おたづねいたしたいと思つてゐます。中門の犬には要心して」などとある。文面から、この時点ではまだ矢田家を訪ねたことがなかったように感じられる。署名もこの一通は「坂口安吾」とフルネームだが、その後は年賀状以外すべて「安吾」のみであることも、第一信ならではの感がある。毎年出された年賀状も矢田家にはすべて捨てられずに残されていたので、三三年の年賀状がないことから推して、出逢ったのは十二月末頃から一月中旬にかけてと考えられる。』

とはいえ、二人のあいだには「肉体の交渉」はなかった、と安吾は書いている。

始めからハッキリ言つてしまふと、私たちは最後まで肉体の交渉はなかつた。然し、メチルドを思ふスタンダールのやうな純一な思ひは私にはない。私はたゞ、どうしても、肉体にふれる勇気がなかつた。接吻したことすら、恋し合ふやうになつて、五年目の三十一の冬の夜にたゞ一度。彼女の顔は死のやうに蒼ざめてをり、私たちの間には、冬よりも冷めたいものが立ちはだかつてゐるやうで、私はたゞ苦しみの外なにもなかつた。たかゞ肉体ではないか、私は思つたが、又、肉体はどこにでもあるのだから、この肉体だけは別にして、といふ心の叫びをどうすることもできなかつた。

そして、その接吻の夜、私は別れると、夜ふけの私の部屋で、矢田津世子へ絶交の手紙を書いたのだ。もう会ひたくない、私はあなたの肉体が怖ろしくなつたから、そして、私自身の肉体が厭になつたから、と。そのときは、それが本当の気持であつたのかも知れぬ。その時以来、私は矢田津世子に会はないのだ。彼女は死んだ。そして私はおくやみにも、墓参にも行きはしない。

その後、私は、まるで彼女の肉体に復讐する鬼のやうであつた。私は彼女の肉体をはづかしめるために小説を書いてゐるのかと疑らねばならないことが幾度かあつた。私は筆を投げて、顔を掩うたこともある。(坂口安吾「二十七歳」)

安吾の小説は、惚れた女がひどく性的に放縦であったという話が多い。そして、それにもかかわらず男はいっそう惚れ続ける。ただし最初に真に惚れた矢田津世子が性的放縦であっただろうと言いたいわけではない。とはいえ、彼女に男がいることを知って《地獄へつき落された》とはある。

ある日、酔つ払つた寅さんが、私たちに話をした。時事の編輯局長だか総務局長だか、ともかく最高幹部のWが矢田津世子と恋仲で、ある日、社内で日記の手帳を落した。拾つたのが寅さんで、日曜ごとに矢田津世子とアヒビキのメモが書き入れてある。寅さんが手帳を渡したら、大慌てゞ、ポケットへもぐしこんだといふ。寅さんはもとより私が矢田津世子に恋してゐることは知らないのだ。居合せたのが誰々だつたか忘れたが、みんな声をたてゝ笑つた。私が、笑ひ得べき。私は苦悩、失意の地獄へつき落された。(同上)

ところで、大岡昇平は《矢田はまあきれいな女だが、当時いわば札付きの女流作家だった》などと書いているようだ。

大岡昇平は京都時代に坂口安吾との恋愛騒動で有名になった矢田津世子に合っています。京都帝国大学卒業後に東京の「ウインゾア」で会う以前です。 「…矢田はまあきれいな女だが、当時いわば札付きの女流作家だった。加藤や僕が彼女と京都で知り合ったのはこの一年ばかり前である。都ホテルの前のアリゾナというバーのマダムを通してである。マダムは当時阪神地方にいた谷崎潤一郎や片岡鉄兵を知ってる文学マダムだったが(ベッドの下に皮の鞭を持っていた)矢田津世子が遊びに来ることがあった。(大岡昇平の京都を歩く

「札付きの女流作家」とは、《東京で有名な文壇ゴロと情事を持ち、作家として売り出そうとしているため「トイフェル(悪魔)」と仇名されている》ということらしい(参照:坂口安吾の謎)。

しかし、「まあきれいな女」だと? ーーもっとも大岡昇平の奥さんは美貌だったには違いないし、趣味が違ったんだろうけれど。





矢田津世子よ。あなたはウヌボレの強い女であった。あなたは私を天才であるかのようなことを言いつゞけた。そのくせ、あなたは、あなたの意地わるい目は、最も世俗的なところから、私を卑しめ、蔑んでいた。(坂口安吾「三十歳 」)

冒頭に掲げた写真はいくらか修正が入っているのかもしれない。同じものだろうが、次の手まで写った画像を眺めると、「悪女」の気配がないではない。アア、オレモコンナ女ニ騙サレタカッタ




私はあの人をこの世で最も不潔な魂の、不潔な肉体の人だという風に考える。そう考え、それを信じきらずにはいられなくなるのであった。

そして、その不潔な人をさらに卑しめ辱しめるために、最も高貴な一人の女を空想しようと考える。すると、それも、いつしか矢田津世子になっている。気違いめいたこの相剋は、平凡な日常生活の思わぬところへ別の形で現れてもいた。(同上)

…………


安吾の書き物を読むと、菱山修三や中原中也、小林秀雄、三好達治の名などが頻出して、それがとても感慨深いのだがーーやはり中也の話がいちばんオモシロイ。

中原中也は、十七の娘が好きであつたが、娘の方は私が好きであつたから中也はかねて恨みを結んでゐて、ある晩のこと、彼は隣席の私に向つて、やいヘゲモニー、と叫んで立上つて、突然殴りかゝつたけれども、四尺七寸ぐらゐの小男で私が大男だから怖れて近づかず、一米ぐらゐ離れたところで盛にフットワークよろしく左右のストレートをくりだし、時にスウィングやアッパーカットを閃かしてゐる。私が大笑ひしたのは申すまでもない。五分ぐらゐ一人で格闘して中也は狐につまゝれたやうに椅子に腰かける。どうだ、一緒に飲まないか、こつちへ来ないか、私が誘ふと、貴様はドイツのヘゲモニーだ、貴様は偉え、と言ひながら割りこんできて、それから繁々往来する親友になつたが、その後は十七の娘については彼はもう一切われ関せずといふ顔をした。それほど惚れてはゐなかつたので、ほんとは私と友達になりたがつてゐたのだ。そして中也はそれから後はよく別れた女房と一緒に酒をのみにきたが、この女が又日本無類の怖るべき女であつた。(坂口安吾「酒のあとさき」)
そのころのことで変に鮮明に覚えてゐるのは、中原中也と吉原のバーで飲んで、――それがその頃であるのは私は一時女遊びに遠ざかつてゐたからで、中也とのんで吉原へ行くと、ヘヘン(彼は先づかういふセキバライをしておもむろに嘲笑にかゝるのである)ジョルヂュ・サンドにふられて戻つてきたか、と言つた。銀座でしたゝかよつぱらつて吉原へきて時間があるのでバーでのむと、こゝの女給の一人と私が忽ち意気投合した。中也は口惜しがつて一枚づゝ、洋服、ズボン、シャツ、みんなぬぎ、サルマタ一枚になつて、ねてしまつた。彼は酔つ払ふと、ハダカになつて寝てしまふ悪癖があるが、このときは心中大いに面白くないから更にふてくされて、のびたので、だらしないこと甚しく、椅子からズリ落ちて大きな口をアングリあけて土間の上へ大の字にノビてしまつた。女と私は看板後あひゞきの約束を結び、ともかく中也だけは吉原へ送りこんでこなければならぬ段となつたが、ノビてしまふと容易なことでは目を覚さず、もとより洋服をきせうる段ではない。仕方がないから裸の中也の手をひッぱつて外へでると、歩きながらも八分は居眠り、八十の老爺のやうに腰をまげて、頭をたれ、がくん〳〵うなづきながら、よろ〳〵ふら〳〵、私に手をひつぱられてついてくる。うしろから女給が洋服をもつてきてくれる。裸で道中なるものかといふ鉄則を破つて目出たく妓楼へ押しこむことができたが、三軒ぐらゐ門前払ひをくはされるうちに、やうやく中也もいくらか正気づいて、泊めてもらふことができた。そのとき入口をあがりこんだ中也が急に大きな声で、
「ヤヨ、女はをらぬか、女は」 と叫んで、
キョロ〳〵すると、
「何を言つてるのさ。この酔つ払ひ」 
娼妓が腹立たしげに突きとばしたので、中也はよろけて、ひつくりかへつてしまつた。それを眺めて、私達は戻つたのである。(坂口安吾「二十七歳」)

安吾の作品を集中的に読んだといっても、旅行中の空き時間に「青空文庫」にある440冊の作品を、ときには読み飛ばしての、ーーときに屋台で買ったマサラ・ドーサをほおばりつつのーー三文の一ほどでしかないのだが、さて家に帰ってきても、さらに読みすすめるかどうかは、これはわからない。




これからしばしmasala dosaを食すたびに、矢田津世子の顔を思い出すのではないか。幸か不幸か、当地にも、モスクのそばにインド人がやっているマサラ・ドーサの美味な店がある。




昭和十六年の六月一日であったと思う。もう当時は酒が簡単に手にはいらなくて、私が途中にガランドウをわずらわして一升運んでもらった。この一升がきてから後は、論戦の渦まき起り、とうとう三好達治が、バカア、お前なんかに詩が分るかア、と云って、ポロポロ泣きだして怒ってしまった。萩原朔太郎について小林秀雄と大戦乱を起したのである。(坂口安吾「釣り師の心境 」)

小林秀雄は、人を泣かせる名人だったのは有名である。

その酒を飲みながら、先生一流の講評というか、いじめというかが始まる。居並ぶ編集者たちを端から一人ずつ名指しで批評してゆくのである。ちょっと癇にさわる返答でもしようものなら大変だった。文字通り泣くまで攻める。日本語の全く通じないGIまで泣かせたという伝説のある小林秀雄である。しかも素面の時は秀才の如く、酔えば無頼漢の如し、と云われたのが、充分に酒が入っている。常人の太刀打ちできる相手ではない。四十面下げたベテラン編集者が、おいおいと声をあげて泣く始末だった。

冷静に聞いていると、かなり怪しげな論理のこともある。いつでも先生の方が正しいわけでもない。そのくせ必ず泣かすのである。心理的に巧緻な攻撃法だった。正しく名人芸と云ってよい。(隆慶一郎『編集者の頃』
大岡 あのころ、あんたは柳田国男を泣かせたり、よく年寄りをいじめたときだったけれど。

小林 それは絶対デマだよ、そんなことは絶対にない。

大岡 だって、俺にそう言ったじゃない。岩波文庫でフレイザーの「金枝篇」が出たころ、お前、なんだ、「金枝篇」を読んだらまるで骨格が違うじゃないか、と言ったら、柳田さんはなにも返事をしなかったが、ぽろっと涙を一つこぼしたって、言ってたよ。

小林 思い出さないね。君がおぼえているならしようがねえや。それはまあ、俺が言ったから涙をこぼしたわけじゃないよ。(小林秀雄と大岡昇平の対談「文学の四十年」)

もっともその小林秀雄自身、青山二郎には泣かされている。

私を除いて酔って来た。Y 先生が X 先生にからみ出した。

「お前さんには才能がないね」

「えっ」

と X 先生はどきっとしたような声を出した。先生は十何年来、日本の批評の最高の道を歩いたといわれている人である。その人に「才能がない」というのを聞いて、私もびっくりしてしまった。

「お前のやってることは、お魚を釣ることじゃねえ。釣る手附を見せてるだけだ。 (Y 先生は比喩で語るのが好きである)そおら、釣るぞ。どうだ、この手を見てろ。 (先生は身振りを始めた)ほおら、だんだん魚が上って来るぞ。どうじゃ、頭が見えたろう。途端、ぷつっ、糸が切れるんだよ」

しかし Y 先生は自分の比喩にそれほど自信がないらしく、ちょろちょろ眼を動かして、X先生の顔を窺いながら、身振りを進めている。

「遺憾ながら才能がない。だから糸が切れるんだよ」

X 先生がおとなしく聞いてるところを見ると、矢は当ったらしい。Y 先生は調子づいた。 「いいかあ、こら、みんな、見てろ。魚が上るぞ。象かも知れないぞ。大きな象か、小さな象か。水中に棲息すべきではない象、象が上って来るかも知れんぞ。ほら、鼻が見えたろ。途端、ぷつっ、糸が切れるんだよ」

「ひでえことをいうなよ。才能があるかないか知らないが、高い宿賃出してモツァルト書きに、伊東くんだりまで来てるんだよ」

「へっ、宿賃がなんだい。糸が切れちゃ元も子もねえさ。ぷつっ」

こうなると Y 先生は手がつけられない。私も昔は随分泣かされたものである。

私はいいが、驚いたことに、暗い蝋燭で照らされた X 先生の頬は、涙だか洟だか知らないが、濡れているようであった。私はますます驚いた。(大岡昇平「再会」より(青山二郎(Y 先生)の小林秀雄(X 先生))




とはいえ、安吾の書き物に文学者の名が出てくるところだけオモシロイわけではない。やっぱり「女」の話がオモシロイ。

私ははじめお寺の境内の堂守みたいな六十ぐらいの婆さんが独りで住んでいる家へ間借りする筈であった。伊勢甚のオカミサンがそうきめてくれたのである。ところが私が本屋のオヤジにつれられて伊勢甚へ行くと、

「六十の婆サンでも、女は女だから、男女二人だけで一ツ家に住むのは後々が面倒になります。別に探しますから、今夜はウチへ泊って下さい」

と云った。このオカミサンは四十四五であったが、旅館へ縁づいて、そこで色々と泊り客の男女関係を見学して、悟りをひらいていたのである。この旅館は主として阪東三十三ヶ所お大師詣での団体を扱うのであるが、この団体は六十ぐらいの婆サンが主で、導師につれられて、旅館で酒宴をひらいてランチキ騒ぎをやるのである。私が、この町を去って後、この団体のランチキ騒ぎの最中に、二階がぬけて墜落し、何人かの即死者がでたような出来事があった。ずいぶん頑堅らしい田舎づくりの建物であったが、よくまア二階がぬけ落ちたものだ、と私は不思議な思いであった。建物によることでもあるが、あの団体のドンチャン騒ぎというものは、中学生の団体旅行などの比ではない。本当のバカ騒ぎでありアゲクが色々なことゝなる。伊勢甚のオカミサンが六十の婆サンを警戒したのは、営業上の悟りからきたところで、私の品性を疑ったワケではなかったらしい。けれども、いきなりこう言われると、人間はひがむものである。(坂口安吾「釣り師の心境」)