2017年8月14日月曜日

「玄牝の門」「杣径」「惚恍」「外祟」

以下、前投稿「玄牝之門・コーラ χώρα・ゾーエー Zoë」における老子の「玄牝之門」と、それにいささか付記的に記したハイデガーの「杣径」に焦点を絞った版である。

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ラカンの《神の外立 l'ex-sistence de Dieu》(S22)とは神が祟ることである。

たゝりはたつのありと複合した形で、後世風にはたてりと言ふところである。「祟りて言ふ」は「立有而言ふ」と言ふ事になる。神現れて言ふが内化した神意現れて言ふとの意で、実は「言ふ」のでなく、「しゞま」の「ほ」を示すのであつた。(折口信夫『「ほ」・「うら」から「ほかひ」へ』)

ハイデガー用語の「Ek-sistenz 外立・脱自」、そしてラカンが頻用した「外立 ex-sistence」とは、一般的には次のように解釈される。

 ”Helle Nacht des Nichts der Angst”(「不安の無の明るい夜」)あるからこそ、”Seiendes ist”(すべてあるものがある)ということができるのである。無に包み込まれた現存在は無を越え出て、存在の明るみに照らされて実存する。ハイデガーは”Ek-sistenz”という言葉を 独自に脱我的実存、存在の明るみに立つという意味で使う。存在者を越え出た存在をハイデガーは超越と名づける。超越には、本来的な、最高の存在の意味がある。最高の存在の真理は人間が祝祭のときに故郷へ帰ってくる(ヘルダーリンの”Wie wenn man am Feiertag kehrt”)と同じように、人間の方へ帰ってきて、輝き出る。(西田幾太郎 -ハイデガーの実存主義と仏教をつなぐ橋- カラディマ・クリスティーナ、pdf)

《最高の存在の真理は人間が祝祭のときに故郷へ帰ってくる》とあるが、これはマレビトが帰ってくるのである。そして《まれびとには、その家の処女か其がなくば、主婦を出して、滞在中は賓客の妻とせねばならなかつた。》(折口信夫『「とこよ」と「まれびと」』)

よく知られているように(?)、フロイトやラカンもマレビトについて語った。

《我々にとってマレビトである身体 un corps qui nous est étranger 》(ラカン、セミネール 23、11 Mai 1976)

フロイトの Fremdkörper(異物)は内部にあるが、この内部のマレビト étranger である。現実界は、分節化された象徴界の内部(非全体pas-tout)に外立 ex-sistence する。(Paul Verhaeghe、2001, BYOND GENDER)

ラカンは外立以外に外密という語も使ったが、これはほとんど等価である。

親密な外部、この外密 extimitéが「モノ das Ding」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
私たちのもっとも近くにあるもの le plus prochain が、私たちのまったくの外部 extérieur にある。ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を使うべきだろう。(ラカン、セミネール16、12 Mars 1969)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)

ジャック=アラン・ミレールの注釈では次のようになる。

外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、マレビトの身体 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité)

そもそも外密という語には次のような経緯があるらしい。すなわちムラデン・ドラ―によれば、《フランス語では「不気味なもの Das Unheimliche」は、標準的には「L'inquiétante étrangeté」と訳されてきた。だが不気味なものという語といささか齟齬がある訳のかわりに、ラカンは「外密 extimité」という語を発明した。》(Mladen Dolar,I Shall Be with You on Your Wedding-Night": Lacan and the Uncanny,1991、pdf)。

前回引用したように至高の「不気味なもの」は、フロイトにとって女性器である。

女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なものUnheimlicheとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)

上にセミネール7の時点での外密の定義を示した。《親密な外部、この外密 extimitéが「モノ das Ding」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose》。ラカンはこの時期においては、フロイト用語の das Ding は母のことだと言っている、《モノは母である das Ding, qui est la mère 》。

すなわち外密は、女陰の隠喩として捉えうる。もっとも上にみたように後には外密=対象aという。だが、対象aは穴である。《対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel 》(ラカン、S18, 27 Novembre 1968)

ーー現代ラカン派において穴がどのように解釈されているかは、「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」を参照のこと。

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ハイデッガーは1949年に『道徳経』を翻訳している。彼の『杣径』(1950年)には、老子のパクリと思える箇所がある。

まず『道徳経』から六章と十四章を引こう。

老子「道徳経」

谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。(第六章)

谷神は不死。之を玄牝(ゲンピン)と謂う。
玄牝の門、是を天地の根と謂う。
緜緜(メンメン)として存する如く、之を用いて不動。

視之不見、名曰微。聴之不聞、名曰希。循之不得、名曰夷。三者不可到詰、故混而爲一。一者、其上不悠、其下不忽。縄縄不可名、復帰於無物。是謂無状之状、無物之象。是謂惚恍。随之不見其後、迎之不見其首。執今之道、以御今之有、以知古始。是謂道紀。(第十四章)

是れを視れども見えず。名づけて「夷」という。
是れを聴けども、聞こえず。名づけて「希」という。
是れを摶えんとすれども得ず、名づけて「微」という。
此の三者は致詰(ちきつ)すべからず。故に混じて一と為る。

其の上皦(あきら)かならず、其の下昧(くら)からず。縄縄として名づくべからず。無物に復帰す。是れを無状の状と謂う。無物の象、是れを惚恍(こつこう)と謂う。

是れを迎うれどもその首を見ず、是れに随えどもその後を見ず。
古の道を執りて、以って今の有を御す。能く古始を知る、是れを道紀と謂う。

…………

ハイデガーの「外に立つ Ex-sistenz」とは杣径 Holzwege の先の「開け明けた場 Lichtung」で「惚恍」することである。

事実、「外立 Ex-sistenz」の語源は、ギリシア語の έκσταση であり、Ekstase (エクスタシー・脱自)である。

◆ハイデガー『杣径』

杣(そま、Holz)とは森(Wald)に対する古い名称のことである。杣にはあまたの径があるが、大抵は草木に覆われ、突如として径なきところに杜絶する。

それらは杣径 Holzwege と呼ばれている。

どの杣径も離れた別の経路を走る、しかし同じ森の中に消えてしまう。 しばしば或る杣径が他の杣径と似ているように見える。けれども似ているように見えるだけである。

これらの径の心得があるのは、杣人たちであり森番たちである。杣径を辿り径に迷うとはどういうことであるのか、熟知しているのは彼らなのである。 (ハイデガー『杣径』)

上に記したように、杣径(そまみち Holzwege)とは、 森林の空地 Lichtungに至る森のなかの道である。

存在の開けた明るみ Lichtung の中に立つことを、私は、人間の「外立 Ex-sistenz」と呼ぶ。人間にのみ、こうした存在の仕方が、固有のものとしてそなわっているのである。(ハイデガー『杣径』)

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大江健三郎の「森の鞘」も、おそらく老子かハイデガーのパクリであろう。
大江は、森の鞘を通り抜け、森の空地 Lichtung の光のなかで鉈をふるって脱自(外立)する試みを記している。

妻とギー兄さんは森の鞘に入って山桜の花盛りを眺めた日、その草原の中央を森の裂け目にそって流れる谷川のほとりで弁当を食べた。(……)そして帰路につく際、ギー兄さんは思いがけない敏捷さ・身軽さで山桜の樹幹のなかほどの分れめまで登り、腰に差していた鉈で大きい枝を伐ろうとした。妻は心底怯えて高い声をあげ、思いとどまってもらった。(大江健三郎『懐かしい年への手紙』)
――ギー兄さんと森の鞘で、と青年はいって、アハッとヒステリックな具合に笑った、とオユーサンは不思議そうにつたえたが、鞘は「在」で女子性器の隠語なのである。あんたがヤッテおるのを見たが、ああいう場所でタワケられては、村が困る。あんたからわしに相談したいなら乗らんでもないが…… そうでなければ、今日の晩方から4Hクラブの集まりがあるのやし、そこで仲間の連中みなに話してみなならんが!

オユーサンはよくわからぬ外国語を聞き流すように、立ちどまりもせず頭と日傘をかしげて青年をすりぬけた。しかし二、三歩あるくうちに、一瞬すべてが理解されて、悪寒におそわれるほどの怒りのとりこになった。(大江健三郎『懐かしい年への手紙』P42)

パクリは何も悪いことではない。人生はこのようにパクリで成り立っている。

ラカンも老子を読んだ。

・現実界は外立する Le Réel ex-siste
・神の外立 l'ex-sistence de Dieu
・神とは単に《女 La femme》である(参照

現実界とはファルス秩序(象徴界)の割れ目に外立(エクスタシー・脱自)することにかかわる。ラカンは象徴界の割れ目(非全体pas-tout)にあらわれるものを「女性の享楽」と呼んだ。

ひとつの享楽がある。il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps …ファルスの彼方の享楽 une jouissance au-delà du phallus!(ラカン、セミネール20、20 Février 1973)
非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)
……自ずと、君たちすべては、私が神を信じている、と確信してしまうんだろう、(が)私は、女性の享楽を信じている………naturellement vous allez être tous convaincus que je crois en Dieu :je crois à la jouissance de « L femme »(Lacan,S20 février 1973)

ここで我が国の詩人たちの「杣」という語を使った詩文をいくらか抜き出しておこう。

阿耨多羅(あのくたら)三藐(さんみゃく)三菩提(さんぼだい)の仏たち我が立つ杣(そま)に冥加あらせたまへ(新古今、伝教)
おほけなく 憂き世の民に おほふかな  わがたつ杣に すみぞめの袖(百人一首)
………仏者の側で似た例をあげれば、叡山に対しては、八瀬の村がある。此村の祖先も亦「我がたつ杣」の始めに、伝教大師に使はれた鬼の後だと言ふ。(折口信夫「信太妻の話」)
世の譬へにも天生峠は蒼空に雨が降るといふ人の話にも神代から杣が手を入れぬ森があると聞いたのに、今までは余り樹がなさ過ぎた。 (泉鏡花「高野聖」)

ーーいやあすばらしい。すべて「玄牝の門」と「惚恍」にかかわるのである。好みによってキムスメの陰門か、悪女・熟女の陰門による恍惚かは、おのおの分岐するだろうが。

蚊居肢子の脱自にとって肝腎なのは、人が手を入れぬ森なのではなく樹木のこよなき繁茂である。




もっとも折口信夫の文に、八瀬の村の祖先も亦「我がたつ杣」の始めに云々とあったが、折口は『かげろう日記』解説にて、堀辰雄の日記を引用している。

暫らく誰にもあはずに、山の方に歩いてゐると、突然、上の方から蜜柑を一ぱい詰めた大きな籠を背負つた娘たちが、きやつ〳〵と言ひながら、下りて来るのに驚されたりしました。長いこと、山国の寒く痩せさらばうたやうな冬にばかりなじんで来たせゐか、どうしても僕には、こゝはもう、南国に近いやうに思はれてなりませんでした。(堀辰雄、日記)

山にこもった後であるなら、《蜜柑を一ぱい詰めた大きな籠を背負つた娘たち》にも「脱自」するに決まっている。安吾さえもキムスメの「牝豹の快い弾力」に「惚恍」している。


勿論かうした山中のことで、美人を予期してゐないのが過大な驚異を与へるわけだが、脚絆に手甲のいでたちで、夕靄の山陰からひよいと眼前へ現れてくる女達の身の軽さが、牝豹の快い弾力を彷彿させ、曾て都会の街頭では覚えたことがないやうな新鮮な聯想を与へたりする。牝豹のやうに弾力の深い美貌の女が山から降りてくるのも見ました。また黄昏の靄の中で釣瓶の水を汲んでゐる娘の姿を、自然の生んだ精気のやうな美しさに感じたこともあるのです。また太陽へながしめを送りかねない思ひのする健康な野獣の意志を生き甲斐にした日向の下の女も見ました。その人たちがその各々の美しさで、僕をうつとりさせたのですね。(坂口安吾「木々の精、谷の精」)


最後に福永光司氏による「玄牝之門」の名書き下しを掲げておく。

谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。
玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。
綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ

…………

蛇足ながら、インターネットというのは、こういった記事をマガオで受取られてしまうのを怖れざるをえないので補足しておく。

ラカンにとって「外立」としてあらわれる「女性の享楽」とは性的なものではない。むしろ非性的(a)sexuée なものである。

まずラカンはファルス享楽の彼岸にあらわれるものを身体の享楽、他の享楽といっている。これが女性の享楽である。

ひとつの享楽がある。il y a une jouissance…「身体の享楽 jouissance du corps」 …ファルスの彼岸の享楽 une jouissance au-delà du phallus!(ラカン、セミネール20、20 Février 1973)
非全体 pas toute の起源…それは、「ファルス享楽 jouissance phallique」ではなく「他の享楽 autre jouissance」を隠蔽している。いわゆる「女性の享楽 jouissance dite proprement féminine」を。 …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)

そして「女性の享楽」が非性的なものであるのは、ラカンのセミネール20(アンコール)をベースとした、ポール・バーハウの次の簡潔な注釈文を掲げておく。

ファルス享楽 jouissance phalliqueの彼方にある他の享楽 autre jouissance とは、享楽する実体 substance jouissante(身体の実体substance du corps)にかかわる。ラカン曰く、これは分析経験のなかで確証されていると。 他の享楽は、性関係における失敗の相関物 corrélat として現れる。幻想は、性関係の不在の代替物を提供することに失敗する。

身体の享楽とはファルスの彼方にある。しかしながらファルス享楽の内部に外立 ex-sistence する。そして、これは (a)-natomie(対象aの[解剖学的]構造)にかかわる。この(a)-natomie とは、ある痕跡に関係し、肉体的偶然性 contingence corporelle の証拠である。これは遡及的な仕方で起こる。これらの痕跡は、ファルス享楽のなかに外立 ex-sistence する無性的 (a)sexuée な残留物と一緒に、(二次的に)性化されたときにのみ可視的になる。すなわち a から a/− φ への移行。ファルス快楽、とくにファルス快楽の不十分性は、この残留物を表出させる。臨床的に言えば、真理の彼方に(性関係の失敗の彼方に)、現実界は姿を現す。この現実界の残留物ーー享楽する実体ーーは、対象a にある(口唇、肛門、眼差し、声)。(ポール・バーハウ2001 Beyond Gender. From Subject to Drive. PDF)

もうひとつ、ハイデガーとラカンの外立の意味合いは異なる。

ハイデガーの思考の核(のひとつ)は「存在欠如」である。だがある時期以降のラカンの思考の核は「享楽欠如」である。

これも以下の文を引用しておく。

私はラカンの教えによって訓練された。存在欠如としての主体、つまり非実体的な主体を発現するようにと。この考え方は精神分析の実践において根源的意味を持っていた。だがラカンの最後の教えにおいて…存在欠如としての主体の目標はしだいに薄れ、消滅してゆく…

ラカンの最初の教えは、存在欠如 manque-à-êtreと存在欲望 désir d'êtreを基礎としている。それは解釈システム、言わば承認 reconnaissance の解釈を指示した。(…)しかし、欲望ではなくむしろ欲望の原因を引き受ける別の方法がある。それは、防衛としての欲望、存在する existe ものに対しての防衛としての存在欠如を扱う解釈である。では、存在欠如であるところの欲望に対して、何が存在 existeするのか。それはフロイトが欲動 pulsion と呼んだもの、ラカンが享楽 jouissance と名付けたものである。(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller)
ラカンは最初には「存在欠如 le manque-à-être」について語った。(でもその後の)対象a は「享楽の欠如」であり、「存在の欠如」ではない。(Colette Soler at Après-Coup in NYC. May 11,12, 2012、PDF)
parlêtre(言存在)用語が実際に示唆しているのは主体ではない。存在欠如 manque à êtreとしての主体 $ に対する享楽欠如 manqué à jouir の存在êtreである。(コレット・ソレール, l'inconscient réinventé ,2009ーー人間の根源的な三つの次元:享楽・不安・欲望
欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 manque à jouir です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象 l’objet originairement perdu」と呼んだもの、ラカンが「欠如しているものとしての対象a l’objet a, en tant qu’il manque」と呼んだものです。(コレット・ソレール、2013、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas »
主体は、存在欠如である être manque à être 以前に、身体を持っている。そして、ララングによって刻印されたこの身体を通してのみ、主体は欠如を持つ。分析は、この穴・この欠如に回帰するために、ファルス的意味を純化することにおいて構成される。これは、存在欠如ではない。そうではなくサントームである。(Guéguen、LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE 」、2016,PDF