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2017年8月13日日曜日

玄牝之門・コーラ χώρα・ゾーエー Zoë

人が「私はどこから来たのか」と問えば、子宮あるいは女陰となるのは当たり前である。

そしてどこから来てどこへ行くのか、つまり子宮から墓へ(wombからtombへ)を、子宮から子宮へと考えるのは何の不思議でもない。近代人ではなく、古代人なら、ことさらそう考えていたとさえ推測できる。

「墓」のギリシア語は tumbos 、ラテン語は tumulus であり、「膨れる」という意味がある。tomb は womb の「子宮」と言語的に関連していると捉えうる。

かつまた各個人の「先史」時代ーー前エディプス期ーーを扱う精神分析が、子宮や母に注目するのも、これまた当然である。

女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なものUnheimlicheとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)

フロイトは死の枕元にあったとされる草稿においては、「子宮回帰」という言葉さえ口に出している。

誕生とともに、放棄された子宮内生活 Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、すなわち睡眠欲動 Schlaftrieb が生じたと主張することは正当であろう。睡眠は、このような母胎内 Mutterleib への回帰である。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

こういった叙述以外に、《偉大な母なる神 große Muttergottheit》(『モーセと一神教』1939)とも言っている。

そして、フロイトの偉大なる注釈者ラカンは次のように言った。

大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre という人間のすべての必要性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 La femme 》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)

「神とは女である」とあるが、言語(象徴)的生き物である人間、その象徴的大他者を支える根源の大他者は、女なのである。

《母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter》(フロイト、1939)としても《父は、母なる神の諸名の一つに過ぎない》(ジャック=アラン・ミレール、2003)のであり、エディプスの父がわれわれの根源ではない。

前期ラカンの表現を使えば、《父なる超自我 Surmoi paternel の背後に母なる超自我 surmoi maternel 》がある。

母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S5, 02 Juillet 1958)

この原超自我が、クラインやラカンが再解釈した、フロイトの「偉大な母なる神」である。

※参照

①ラカン派再解釈のフロイト文を含めた文献としては、「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」を見よ。

②ラカンによるフロイトの死の欲動再解釈においては、タナトスとは永遠の生であるが、それについては「「死の欲動」という「不死の欲動」」を見よ。

…………

以下、古来の問いとして、ここでは、

・老子の「玄牝之門」
・プラトンの「コーラ χώρα」
・古代ギリシャ語における「ゾーエ― Zoë」

この三つに絞って、その母なる神にかかわる叙述を拾う。

最初の二つは、具体的に子宮あるいは女陰にかかわる。
ゾーエ―は直接にはそうではないが、ゾーエーとは、ビオスをもった個体が個体として生まれてくる以前の生命のことである。

ーーもちろん日本においても、たとえば柳田国男や折口信夫による「妣の国」をめぐる思考があるがここでは割愛(そもそも亡き母の意味として使われる「妣(ハハ)」とは、漢字の語源としては「女陰」の意味がある)。


◆玄牝之門

谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。(老子「道徳経」第六章)

谷神は不死。之を玄牝(ゲンピン)と謂う。
玄牝の門、是を天地の根と謂う。
緜緜(メンメン)として存する如く、之を用いて不動。


福永光司氏による書き下しでは次の通り。

谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。
玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。
綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ
(老子「玄牝之門」)


※ハイデッガーは1949年に老子の『道徳経』を翻訳している。彼の『杣径 Holzwege(森の道)』(1950年)には、「玄牝之門」の変奏でありうる。

杣(そま、Holz)とは森(Wald)に対する古い名称のことである。杣にはあまたの径があるが、大抵は草木に覆われ、突如として径なきところに杜絶する。

それらは杣径 Holzwege と呼ばれている。

どの杣径も離れた別の経路を走る、しかし同じ森の中に消えてしまう。 しばしば或る杣径が他の杣径と似ているように見える。けれども似ているように見えるだけである。

これらの径の心得があるのは、杣人たちであり森番たちである。杣径を辿り径に迷うとはどういうことであるのか、熟知しているのは彼らなのである。 (ハイデガー『杣径』)

この箇所だけでは何ともいえないかもしれないが、『道徳経』十四章にでてくる「是謂惚恍」とは、ハイデガー用語「外に立つ Ex-sistenz」と相似形である。ハイデガーにとって外立とは、杣径 Holzwege の先の「開け明けた場 Lichtung」で「惚恍」することである。

事実、「外立 Ex-sistenz」の語源は、ギリシア語の έκσταση であり、Ekstase (エクスタシー・脱自)である。

存在の開けた明るみ Lichtung の中に立つことを、私は、人間の「外立 Ex-sistenz」と呼ぶ。人間にのみ、こうした存在の仕方が、固有のものとしてそなわっているのである。(ハイデガー『杣径』)

※詳述版→ 「玄牝の門」「杣径」「惚恍」「外祟」

ラカンも老子を読んでいる。

・現実界は外立する Le Réel ex-siste
・神の外立 l'ex-sistence de Dieu
・神とは単に《女 La femme》である


◆コーラ(chora)χώρα

プラトン=ティマイオスのコーラについては、中沢新一の注釈を掲げる。

それにしても、宿神=シャグジの空間はプラトンの言う「コーラ chola」というものに、そっくりである。(……)

コーラ chola は「母」である、とプラトン[『ティマイオス』]はいきなり宣言する。そして、それは「父」とも「子」とも関わりのないやり方で、自分の内部に形態波動を生成する能力を持ち、その中からさまざまな物質の純粋形態は生まれてくるのであると…語るのである。(……)

コーラは子宮[マトリックス]であると言われている。同じようにして、宿神もミシャグチも子宮であり、胞衣だと考えられていた。その中には「胎児」が入っ ていて、外界の影響から守られている。つまり、コーラは差異と生成の運動を同一性の影響から守り、宿神は非国家的な身体と思考の示す柔らかな生命を、外界 を支配する国家的な権力の思考から守護する働きをおこなってきたのだ。

こうして私たちは、プラトン哲学の後戸の位置にコーラの概念を発見するのである。この概念は、極東の宿神=シャグジの概念との深い共通性を示してみせるのだが、それはおそらく、かつてこのタイプの存在をめぐる思考が、新石器的文化のきわめて広範囲な地域でおこなわれていたためだろう、と考えるのが自然ではないか。

コー ラという哲学概念のうちに、私たちは神以前のスピリットの活動を感じ取ることができる。西欧ではいずれこのコーラの概念を復活させる運動の中から、現代的なマテリアリズム(唯物論)の思考が生まれ出ることになる。その意味では、マテリアリズム そのものが哲学すべてにとっての「後戸の思考」だと言えるかも知れない。(中沢新一『精霊の王』第十章「多神教的テクノロジー」)



◆ゾーエー Zoë

ゾーエーZoë /ビオス Bios はカール・ケレーニイの注釈を掲げる、《ゾーエーは死を知らない》。

ゾーエーはすべての個々のビオスをビーズのようにつないでいる糸のようなものである。そしてこの糸はビオスとは異なり、ただ永遠のものとして考えられるのである。(カール・ケレーニイ Karl Kerenyi『ディオニューソス.破壊されざる生の根 Dionysos Urbilddesunzerst・rbarenLebens)』1976年)

――いっさいのことが、新たにあらんことを、永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを、おまえたちは欲したのだ。おお、おまえたちは世界をそういうものとして愛したのだ、――(ニーチェ『ツァラトゥストラ』酔歌 )

ビオスと 死(タナトス)との関係は、一方の死を排除してしまうような対立状態にはない。そうではなく、特徴的な死は特徴的な生の一部なのである。そればかりか、生はみずからの活動を停止する仕方によってさえも特徴づけられる。あるギリシャ語の言い回しは、<独自の死によって生を終える>ことが特徴ある死であると述べて、この点を実に端的に言い表している。それとは逆に、タナトスをしめ出す生がギリシャ語のゾーエーである。

ゾーエーにもし輪郭があるとしてもそれは稀であるが、その代わりにゾーエーは、死すなわちタナトスとことのほか対立的な関係にある。ゾーエーから明瞭に <ひびく>ところのものは< 非=死>である。それは死を自分に近寄せない何ものかである。 (カール・ケレーニイ『ディオニューソス.破壊されざる生の根 Dionysos Urbilddesunzerst・rbarenLebens)』1976年)


木村敏もゾーエ―/タナトスの区分に注目している。

ビオスというのは個人個人の生、あるいはそれ以外の生物でもそれぞれの個体が生きている生命です。それぞれに個性をもって、その人、その個人独自の生を生きている。人間の場合だったら、生命というよりは「人生」とか「生活」といったほうがいいかもしれません。かけがえのない、その人だけの生だから、これはこの上なく大切なものです。……ビオスには終わりというものがあって、死んだらそれでお終いですから、大切にしなければなりません。

これに対してゾーエーには終わりというものがありません。ケレーニイは、 「ゾーエーは死を知らない」といっています。これは、それぞれの個性的な個人の生が生まれてくる以前の、まだ一切の個別性を知らない、だから有限性も知らない、ビオスとは異次元の「生命の根源」のようなものです。 (木村敏 2008『臨床哲学の知-臨床としての精神病理学のために』 )
わたしがケレーニイから学んだことは、ゾーエーというのはビオスをもった個体が個体として生まれてくる以前の生命だということです。ケレーニイは「ゾーエーは死を知らない」といいますが、そして確かにゾーエーは、有限な生の終わりとしての「死」は知らないわけですが、しかしゾーエー的な生ということをいう場合、わたしたちはそこではまだ生きていないわけですよね。ビオス的な、自己としての個別性を備えた生は、まだ生まれていない。そして私たちが自らのビオスを終えたとき、つまり死んだときには、わたしたちは再びそのゾーエーの状態に帰っていくわけでしょう。

だからわたしは、このゾーエーという、ビオスがそこから生まれてきて、そこに向かって死んでいくような何か、あるいは場所だったら、それを「生」と呼ぼうが「死」と呼ぼうが同じことではないかと思うわけです。ビオス的な個人的生命のほうを「生」と呼びたいのであれば、ゾーエーはむしろ「死」といったほうが正解かもしれない。(同木村敏 2008)


この木村敏=ケレーニーの捉え方はアガンペンの捉え方とはまったく異なる(すくなくとも表層的には)ことに注意しなければならない。

ビオスとゾーエーの対比に関して、ここで少しいっておきたいことがあります。最近しきりに話題にされるイタリアの哲学者でジョルジョ・アガンベンという人がいるのですが、このアガンベンはゾーエーはわたしとはまったく違った意味に解釈しています。(……)

彼[アガンベン]もビオスについては、やはりそれが個々の個性をもった生命、あるいは人生だと考えているのですけれども、ゾーエーのほうは、そういった個性的なビオスがただ単に動物的な意味で生きているというだけ、まだ死んでいないというだけの、つまり「剥き出しの生」の意味で使うのです。 (木村 2008)