2017年8月4日金曜日

「死の欲動」という「不死の欲動」

フロイトは『快原理の彼岸』の最終章で、《ここは、さらなる研究を始めるべきところなのかもしれない Hier wäre die Stelle, mit weiteren Studien einzusetzen.》と記している。

この1920年に上梓された論文、フロイト64歳の論文にて、フロイトは新たな「出発点」に立った。エロス/タナトスの模索である。

死の枕元にあったとされる草稿には次のようにある。

破壊欲動の最終的な目標は、生きた物 das Lebende を無機的状態 anorganischen Zustand へ還元することだと想定しうる。この理由で、破壊欲動を死の欲動 Todestrieb とも呼ぶ。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

破壊欲動、すなわちタナトスの目標は、無機的状態に還元することだとしている。 これがフロイトの最後の言葉ではあるが、ラカンはこの「無機的状態」に反して考えた(いやむしろ、フロイトの思考を真に「忠実に」追求していけば、生前のフロイトとは逆の捉え方になる、と考えたとしてもよい)。

ラカンの考え方は、《非生命体(無機物 l'inanimé=死)への回帰傾向の彼岸》に死の欲動があるという彼の言明が最も明瞭に示している。


【死の彼岸にある欲動】

欲動自体、それは破壊欲動 pulsion de destructionなのだが、そのかぎりにおいて、非生命体(無機物 l'inanimé=死)への回帰傾向の彼岸 au-delà de cette tendance au retour à l'inanimé になくてはならない。(ラカン、S7、04 Mai 1960)

ラカンにとって死の欲動は無機的状態への回帰どころか「永遠の生(不死の生)」にかかわるのである。

リビドー libido、純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのリビドー。これは、不死の生vie immortelle、押さえ込むことのできない生vie irrépressible、いかなる器官 organeも必要としない生、単純化され、壊すことのできない indestructible 生、そういう生の本能である。 (ラカン、S11、20 Mai 1964)

フロイトにとってリビドーはエロス側にある。

(多細胞)生物のなかでリビドーは、そこでは支配的なものである死の欲動あるいは破壊欲動 Todes- oder Destruktionstrieb に出会う trifft。この欲動は、細胞体を崩壊させ、個々一切の有機体を無機的安定状態 Zustand der anorganischen Stabilität(たとえそれが単に相対的なものであるとしても)へ移行させようとする。リビドーはこの破壊欲動を無害なものにするという課題を持ち、そのため、この欲動の大部分を、ある特殊な器官系すなわち筋肉を用いてすぐさま外部に導き、外界の諸対象へと向かわせる。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924)

だがラカンにとってはすべての欲動(リビドーを含む)は、潜在的に死の欲動である。

全ての欲動は、潜在的に(実質的に)死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン、E848、1966年)

以上より、ラカンにとって「死の欲動」とは、死の彼岸にある「不死の欲動」ということが言える。

これはジジェクが長年くり返していることでもある。

◆「不死」の生 'undead' life、「不死の」機械 'undead' Machine
生は、通常の死の彼岸に生き続ける、非主体的な「不死の」欲動という「ラメラ」の恐ろしい鼓動である。死は、象徴秩序自体であり、寄生物として生体を植民地化する構造である。ラカンにおいて死の欲動を定義するものは、この二重の亀裂である。生と死とのあいだの単なる対立ではなく、生自体の分裂、すなわち「通常の」生と恐ろしい「不死の」生への分割であり、そして死自体の分裂--「通常の」死と「不死の」機械への分割である。 (ジジェク『幻想の感染』、1997年、私訳)

◆「不死の」永遠の生 'undead' eternal life
フロイトの死の欲動は、自己消滅への渇望や、どんな生命緊張の無機的不在への回帰渇望とはまったく関係がない。それどころか死の欲動とは、死にゆくことのまさに反対ーー「不死の」永遠の生自体の名であり、罪と苦痛のまわりを彷徨う終わりなき反復循環に囚われるという悲惨な運命の名である。したがって、フロイトの「死の欲動」の逆説は、まさに「死」の反対の名だということである。精神分析内で「不滅性」が現れるあり方の名、生の不気味な過剰の名、生と死の(生物学的)循環の彼岸に生き続ける「不死の」衝動の名である。精神分析の究極の教えは、人間の生はけっして「ただの生」ではないということである。人間は単に生きているのではない。人間は、過剰のなかの生を享楽する奇妙な欲動にとり憑かれ、突出した剰余・物事の通常の成行きから逸脱した剰余に熱狂的に纏いつかされている。(ジジェク『パララックス・ヴュ―』2006年、私訳)

◆「不死の」衝動 'undead' urge
盲目的で破壊されないリビドーの執着を、フロイトは「死の欲動」と呼んだ。ここで忘れてはならないのは「死の欲動」は、逆説的に、その正反対のものを指すフロイト的名だということである。精神分析における死の欲動とは、不滅性、生の不気味な過剰、生と死、 生成と腐敗という(生物的な)循環の彼岸に生き続ける「不死の」衝動である。フロイトにとって、死の欲動とはいわゆる「反復強迫」とは同じものである。反復強迫とは、過去の辛い経験を反復する不気味な衝動であり、この衝動は、その衝動に情動化された有機体の自然な限界を超えて、その有機体の死の彼岸においてさえ生き続けるようにみえる。(ジジェク『ラカンは こう読め!』2006年、既存訳をいくらか修正、「死なない undead」→「不死の」等)

◆(生物学的)死の彼岸 beyond (biological) death
死の欲動とは、ニルヴァーナ原理(すべての緊張の解消へと向う奮闘・原空無への回帰渇望)と同じものであるどころか、ニルヴァーナ原理(涅槃原理)の彼岸、その原理に反して生き続け、己れを主張するものである。言い換えれば、ニルヴァーナ原理とは、快原理に対立するものであるどころか、快原理の至高の表現、最も根源的な表現である。この厳密な意味で、死の欲動は、ニルヴァーナ原理の正反対のものを表わす。死の欲動とは、「不死の」相、(生物学的)死の彼岸に己れを主張する妖怪的生の相を表わすのである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012年、私訳)

この「不死 undead」とは、カントの無限判断における不死の相似形として捉えうる、《魂は不死である die Seele ist nichtsterblich》。

仮に私が魂について「魂は死なない ist nicht sterblich」と言ったとすれば、私は否定判断によって少なくとも一つの誤謬を除去したことになるだろう。ところで「魂は不死である die Seele ist nichtsterblich」という命題による場合には、私は魂を不死の実体という無制限の外延中に定置することによって、論理の形式面からは事実肯定したことになる。(……)

[後者の命題が主張するのは]魂とは、死すものがことごとく除去されてもなお残るところの、無限に多くのものの一つである、ということに他ならない。(……)しかし、この[あらゆる可能なものの]空間はこのように死すものが除去されるにも関わらず、依然として無限であり、もっと多くの部分が取り去られても、そのために魂の概念が少しも増大したり肯定的に規定されるということはありえない。(カント『純粋理性批判』)

ーーラカン用語を使っていえば、象徴的「生/死」の「非全体 pas-tout 」に外立するものが現実界的「不死」である。《現実界は外立する Le Réel ex-siste 》 (S22)

    生/死
 ーーーーー
 不死=非死



【涅槃原理】

上に引用した文のなかでジジェクは、《ニルヴァーナ原理とは、快原理に対立するものであるどころか、快原理の至高の表現、最も根源的な表現》あるいは《死の欲動は、ニルヴァーナ原理(涅槃原理)の正反対のものを表わす。死の欲動とは、「不死の」相、(生物学的)死の彼岸に己れを主張する妖怪的生の相を表わすのである》としている。

他方、フロイトは《涅槃原理は死の欲動の傾向を表現》するとしている。

バーバラ・ローはこのように仮定された志向を「涅槃原理 Nirwanaprinzip」と呼ぶことを提案した。われわれもこれに異存はない。ところがわれわれは、快不快原理 Lust-Unlustprinzip を不用意にもこの涅槃原理と同一視してしまった。そうなると、一切の不快は心のなかにある刺激緊張の高まりということにならなければならないし、また一切の快は同じくその低減と一致することとなり、涅槃(およびそれと同一のものとみなされる快)原理は、われわれの不安定な生命を無機状態の安定性 Stabilität des anorganischen Zustandes へと導いていくことを目標とする死の欲動 Todestriebe に全面的に奉仕することとなり、生命が突き進む経過を邪魔しようと努める生欲動 Lebenstriebe、リビドーの諸要求にたいして警告を発するという機能を持つことになるであろう。

しかしこのような考え方の正しかろうはずはない。思うにわれわれは刺激規模の増大と減少を緊張感情の系列の中で直接感じとるのであり、また、快をともなう緊張もあれば、不快な弛緩もあることは疑うべくもない。性的興奮の状態は、かかる快をともなった刺激増大のもっとも顕著な一例ではあるが、しかしたしかに唯一の例ではない。したがって、快不快は、刺激緊張と呼ばれるある量の増減に関係づけられてはなるまい。もっとも快不快は明らかにこの契機と深い関係を持っているのである。快不快はこの量的要因に依存するのではなく、 われわれが質的なものとして言い表すしかないところの、量的要因の一性格に依存するのである。(……)

いずれにせよ、死の欲動 Todestrieb に帰属する涅槃原理 Nirwanaprinzip が生物においてはある変様を受け、この変様のために涅槃原理が快原理となったであろうから、今後は両原理を同一物とみなすことを避けるべきであろう。(……)死の欲動 Todestrieb と相並んで、生の諸事象の調整にこのようにして無理やりに一役買って出たのは、生の欲動 Lebenstrieb、すなわちリビドー Libido 以外のものであるはずがない。

こうしてわれわれは、僅かではあるが興味深い一連の関係を手にした。すなわち、涅槃原理は死の欲動の傾向を表現し、快原理はリビードの要求を代表し、その変様である現実原理は外界の影響を代行する。das Nirwanaprinzip drueckt die Tendenz des Todestriebes aus, das Lustprinzip vertritt den Anspruch der Libido und dessen Modifikation, das Realitaetsprinzip, den Einfluss der Aussenwelt."(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)

…………

以上、表層的にあらわれているフロイトの「死の欲動」の記述とラカン的な「死の欲動」(ジジェクの明瞭な解釈における)の捉え方は、まったく正反対のものであることを示した。

ジジェクにとってはーーおそらくラカンにとってもーーこれが真のフロイトの「死の欲動」なのである。

ジジェク2012の表現なら、《フロイトを「聖書解釈学的」に読む誤ち》を犯して、《フロイトが「死の欲動」概念において目指していたもの--より正確に言えば、フロイト自身が己の発見の十全な意味作用に盲目のままで気づいていなかった死の欲動の鍵となる相》を見逃してはならない。巷間の《素朴なフロイト学者》のように死の欲動を心理学的に捉えてはならず、ラカンやドゥルーズが繰り返したように《死の欲動とは超越論的概念》(参照)なのであり、《フロイトをよりいっそうラディカルに読まねばならない》ということになる。