宗教的観念も、文化の他のあらゆる所産と同一の要求――つまり、自然の圧倒的な優位にたいして身を守る必要――から生まれた。(フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』旧訳邦題『ある幻想の未来』、新訳邦題『ある錯覚の未来』ーー「創唱宗教/自然宗教」)
宗教を精神分析的に解釈しても無意味というコメントを頂いている。だがわたくしは宗教研究家のほとんどは基本的な観点を外している、という疑いをもっている(もっとも一月漬けぐらいの超シロウトの感想である)。
宗教の起源は、先史時代であり、言語の記録はない。人類の先史時代を考えるために、最も水際立った研究をしてきたのは、精神分析である。つまり人は人類の先史時代に思いを馳せるためには、各個人の先史時代ーー乳幼児時代ーーを参照することがすこぶる重要である。この乳幼児時代を見極めるためには精神分析しかない。このように考えている。
そして乳幼児にとってその心的発達の起源にあるものは、自らの身体の欲動興奮ーーこの興奮は、お腹がへった、喉が渇いた、寒い暑いとしてもよいーー、そしてそれに応じる世話人(最初の世話役はほとんどの場合、母である)である。これは間違いない。
だが古代の人間もそうではないか。フロイトの《自然の圧倒的な優位にたいして身を守る必要》における自然とは「外部」であり、その圧倒的優位である。ラカン派においては、自らの身体の欲動興奮も外部である。《〈他〉は身体である。L'Autre c'est le corps! 》(ラカン、S14)
※より詳しくは「残存現象と固着」を参照のこと。
いずれにせよ、人にはそれぞれの器量がある。
ヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』にあるように、それぞれ自分の器量を超えた部分は、いかにも、ないも同然である。(中井久夫「ヴァレリーと私」)
以下、フロイト・ラカン派の文を在庫から掲げる。
乳幼児の動因は「興奮」に直面してのサバイバルである。興奮とは、乳児自身の身体内部から流動するソマティックに somatically 湧き起る未分化の undifferentiated 欲動緊張との遭遇として記述しうる。(ポール・バーハウ2009、PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex)
内的欲動昂奮の結果として、来るべき主体 subject-to-be は、〈他者〉に訴えかける。最初の〈他者〉は、この訴えを、彼女自身の身体に向けた立場に基づいて、要求として解釈する。このようにして、彼女自身の欲望を含んだ応答を形成する。これが意味するのは、この瞬間以降、主体の欠如は、最初の〈他者〉の欲望のなかで混ぜ合わされる(取り違えられる)ということだ。そして、主体はーー彼自身の欠如の答を受け取るためにーー、この最初の〈他者〉の欲望を通り抜けなければならない。
単純な例ならこうだ。すなわち、子どもの昂奮は、最初の〈他者〉によって、食べ物への要求として、解釈される。その結果、子どもはそれを食べなければならないだけではなく、この解釈を元にして、自身の昂奮を食べ物の欠如として解釈するように促される。この解釈にともない、最初の〈他者〉は、彼女自身の欲望を表現するーーそれは十分には決して言語化されないーー、そして、子どもは、もし自身の欲動への応答を受け取りたいなら、その母の欲望に服従しなければならない。これが意味するのは、驚くべき反転が起こるということだ。自らの欠如への応答を得るために、主体は、〈他者〉の欲望に従って、自らを形づくらなければならない。すなわち、〈他者〉の欲望に同一化しなければならないのだ。この瞬間以降、主体と〈他者〉とのあいだの相違は朧ろになる。すなわち、《主体の欲望は〈他者〉の欲望》となる。さらに、主体と〈他者〉両者ともに、この欲望を解釈しなければならない。要求はけっして欲望を十分に表現しない。というのは、現実界とシニフィアンのあいだの不一致のためである。すなわち、どの応答も不十分であり、つねに残滓aがある。……(Paul Verhaeghe 、On Being Normal and Other 、2004)
…………
フロイトには三つの宗教論がある。
・フロイト『トーテムとタブー Totem und Tabu』(1913年)
・『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』(1927年、人文書院旧邦訳『ある幻想の未来』、岩波新訳『ある錯覚の未来』)
・『モーセと一神教 Der Mann Moses und die monotheistische Religion』(1939年)
最後の『モーセと一神教』には《偉大な母なる神 große Muttergottheit》という表現、あるいは次のような文がある。
母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter(この神々はたぶん元々は息子たちだったのではないか?)
ユダヤ人として生まれたフロイトは、己れの近親者から差別経験の話を聞いたり、自らも排斥の憂き目にあい(教授職にありつけない等)、宗教をめぐって考え続けた思想家である。
十歳か十二歳かの少年だったころ、父は私を散歩に連れていって、道すがら私に向って彼の人生観をぼつぼつ語りきかせた。彼はあるとき、昔はどんなに世の中が住みにくかったかということの一例を話した。「己の青年時代のことだが、いい着物をきて、新しい毛皮の帽子をかぶって土曜日に町を散歩していたのだ。するとキリスト教徒がひとり向うからやってきて、いきなり己の帽子をぬかるみの中へ叩き落した。そうしてこういうのだ、『ユダヤ人、舗道を歩くな』」「お父さんはそれでどうしたの?」すると父は平然と答えた、「己か。己は車道へ降りて、帽子を拾ったさ」(フロイト『夢解釈』)
ユダヤ人であったおかげで、私は、他の人たちが知力を行使する際制約されるところの数多くの偏見を免れたのでした。ユダヤ人の故に私はまた、排斥運動に遭遇する心構えもできておりましたし、固く結束した多数派に与することをきっぱりあきらめる覚悟もできたのでした。(フロイト『ブナイ・ブリース協会会員への挨拶』)
以下は、宗教を考える上で、上に掲げた宗教論と同等かそれ以上に、わたくしが核心と考えているフロイトの文である。
◆『文化の中の居心地の悪さ』第一章より、1930年
……病理学によれば、自我 Ichsと外界 Außenwelt の境界 Abgrenzung が不明確になったり、その境界線が本当に間違って引かれてしまうような状態は非常に多い。すなわち、自分の身体の各部、いやそれどころか、自分の精神生活 Seelenlebens・知覚 Wahrnehmungen・考え Gedanken・感情 Gefühleなどまでを自分のものではない異質のものだと思いこむ患者もあれば、反対に、明らかに自分の内部で起こったことであり、当然自分が責任を取らなければならないことを外界の責任にしてしまう患者もあるのだ。つまり、自我感情 Ichgefühl も阻害されることがあり、自我の境界線は不変ではない。
さらに考察を進めると、普通の大人が持っているこの自我感情なるものは、はじめからいまの形のものだったはずはないと言える。そこにも発展があったはずで、この発展の経路は、むろん証明は不可能であるが、かなり確実に再構成することができる。
乳児はまだ、自分の自我と自分に向かって殺到してくる感覚 Empfindungen の源泉としての外界を区別しておらず、この区別を、 さまざまな刺激への反応を通じて少しずつ学んでゆく。
乳児にいちばん強烈な印象を与えるものは、自分を興奮源泉 Erregungsquellen のうちのある種のものは ーーそれが自分自身の身体器官に他ならないということが分かるのはもっとあとのことであ るーーいつでも自分に感覚 Empfindungen を供給してくれるのに、ほかのものーーその中でも自分がいちばん欲しい母親の乳房 Mutterbrust――はときおり自分を離れてしまい、助けを求めて泣き叫ばなければ自分のところにやってこないという事実であるに違いない。ここにはじめて、自我にたいして 「対象 Objekt」が、自我の「そと außerhalb」にあり、自我のほうで特別の行動を取らなければ現われてこないものとして登場する。
感覚総体 Empfindungsmasse からの自我の分離――すなわち「非我Draußen」や外界Außenwelt の認知――をさらに促進するのは、絶対の支配権を持つ快原理 Lustprinzip が除去し回避するよう命じている、頻繁で、多様で、不可避な、苦痛 Schmerzと不快感 Unlustempfindungenである。
こうして自我の中に、このような不快の源泉となりうるものはすべて自我から隔離し、自我のそとに放り出し、自我とは異質で自我を脅かす非我 Draußen と対立する「純粋快自我 reines Lust-Ich」を形成しようとする傾向が生まれる。この「原快自我 primitiven Lust-Ichs」 の境界線は、その後の経験による修正を免れることはできない。なぜなら、自分に快を与えてくれるという理由で自我としては手離したくないものの一部は自我でなくて客体(対象Objekt)であるし、自我から追放したいと思われる苦痛の中にも、その原因が自我にあり、自我から引き離すことができないと分かるものがあるからである。
われわれは、感覚活動 Sinnestätigkeit の意識的な統制と適当な筋肉運動によって、自我に所属する内的なものと外界に由来する外的なものを区別することを学び、それによって、今後の発展を支配することになる現実原理 Realitätsprinzips 設定への第一歩を踏みだす。この区別はむろん、現実のーーないしは予想されるーー不快感から身を守るという実際的な目的を持っている。自分の内部に由来するある種の不快な興奮を防ぐために自我が用いる手段が、外からの不快を避けるために用いるのと同じものだという事実は、のち、さまざまの重大な病的障害 krankhafter Störungen の出発点になる。
自我が外界とのあいだに境界線を置くようになる過程は以上のようである。もっと正確に言 えば、はじめは一切を含んでいた自我が、あとになって、外界を自分の中から排除するので ある。したがって、今日われわれが持っている自我感情 Ichgefühl は、自我と外界の結びつきが今よりも密接であった当時にはふさわしかったはるかに包括的なーーいや、一切を包括していた感情 allumfassenden Gefühls がしぼんだ残りにすぎない。
多くの人々の心にこの「第一次的自我感情 primäre Ichgefühl」 がーー多かれ少なかれーー残っているものと考えてさしつかえなければ、この感情は、それよりも狭くかつ明確な境界線を持った成熟期の自我感情と一種の対立をなしながらこれと並んで存続するだろうし、またこの感情にふさわしい観念内容 Vorstellungsinhalte とは、無限とか一切のものと結びついているとかいう、まさに私の友人が「大洋的な ozeanische」感情の説明に用いたのと同じ観念内容であろう。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)
◆フロイト『制止、症状、不安』最終章ⅩⅠより
われわれの出発点はやはり、われわれが理解できると思われる状況であって、それは母のかわりに知らぬ人を見つけた乳児の状況である。乳児は対象喪失 Objektverlustes の危険についての不安 Angst とわれわれに解釈される不安を示す。だがこの不安はいかにも複雑で、立ち入った検討を要する。
乳児の不安についてはなんの疑いもないのだが、表情や泣くという反応は、彼が不安のほかに苦痛 Schmerz を感じていることを推定させる。のちには区別されるいくつかのものが、乳児では一緒になっていると思われる。
一時的不在 zeitweilige Vermissen と永続的喪失 dauernden Verlust が、まだ区別されていない。母が一度目の前から消えると、乳児は、母をもう二度と見られないかのように思いこんでしまう。母がこうして消えてもまだ現われるのだということを、乳児が学ぶまでには、何回も繰り返してなだめられる経験が必要である。母は、だれもが知っている遊び、顔をかくしてまた出してみせてよろこばせる遊戯「いないいないばあ」をして、この大切な知識を乳児に教えるのである。乳児は、いわば絶望をともなわぬ憧憬 Sehnsucht を感ずるようになる。
母の見えないという状況は、乳児が誤解しているせいで外傷的 traumatische 状況になるのであって、けっして危険の状況 Gefahrsituationではない。いやもっと正しくいうと、乳児がこの瞬間に、母によって満足(解消 befriedigen)させてもらわねばならない欲求 Bedürfnis を感じていてはじめて、外傷的状況といえるのであり、この状況は、この欲求が当座のものでなくなると危険状況に変わるのである。
自我がみずからみちびく最初の不安条件 Angstbedingung は、対象喪失 Objektverlustes と同じに考えられる知覚の喪失 Wahrnehmungsverlustes である。愛情喪失 Liebesverlust はまだ現われていない。後に、対象は現前するが、ときどき子供を叱る böse という経験をする。そして今度は、対象からの愛の喪失 Verlust der Liebe が、新たな永続する危険と不安条件になるのである。
母を見失うという外傷的状況 Die traumatische Situation des Vermissens der Mutter は、出産 Geburt という外傷的状況とは、決定的な点でくいちがっている。出産の場合は見失うべき対象がない。不安だけが、この場合に現れる唯一の反応である。その後は、満足の状況 Befriedigungssituationen が繰り返されて、母という対象 Objekt der Mutter がつくられる。この対象は、欲求 Bedürfnisses のあるときは、「憧憬 sehnsüchtig」とよばれる強い備給(カセクシス Besetzung)をうける。こうした新しい相は、苦痛の反応に関係する。苦痛は対象喪失 Objektverlust にたいする実際の反応であり、不安は、この喪失に当然ともなう危険にたいする反応であって、さらに対象喪失の危険自体にたいする反応へ移行するものである。
苦痛についてもわれわれはわずかしか知らない。唯一の確実なことは、苦痛がーーまず第一に、また一般にーー生ずるのは、末梢にふれた刺激が刺激保護壁 Reizschutzes の装置をやぶって、たえずつづく欲動刺激 Triebreiz のように作用する事実である。この刺激にたいしては、他のときは、有効な筋肉作用で刺激された場所から、刺激をとりさる働きをするものが、無力になってしまうのである。苦痛が皮膚の部分からではなく内臓から起こったときでも、状況は変わらない。ただ外部の末梢ではなく、内部の末梢の部分に起こるのである。
子供は明らかに、その欲求体験 Bedürfniserlebnissen に関係なしに、このような苦痛の体験をする機会がある。だが苦痛が起こるという条件は、対象喪失 Objektverlust とはほとんど似ておらず、苦痛にとって本質的な、末梢の刺激という契機も、子供の憧憬状況 Sehnsuchtssituation ではまったく欠けている。しかしそれでも、われわれの言葉が、「内的な精神的苦痛 inneren, des seelischen, Schmerzes」 という概念をつくりだし、対象喪失の感覚を、身体の苦痛になぞらえているということは無意味ではない。
身体の苦痛では、身体の痛む部分に、いわば高度の自己愛的備給 narzißtisch zu nennende Besetzung があって、この備給はしだいに増加してゆき、いわば自我を空虚 entleerend にしてしまうような作用をする。よく知られているのは、内的器官 inneren Organen が苦痛を与える際、われわれはこの身体の部分の空間的かつ他の表象 räumliche und andere Vorstellungen ーー通常、意識的に表象 bewußten Vorstellenされないーーを受け取ることである。ほかの興味に気をとられているときは、強い身体の苦痛が起こらない(意識されないままだとは私は言っていない)という注目される事実は、苦痛が存する身体部分の心的代理 psychische Repräsentanz に備給を集中させるという事実によって説明される。
この点で、苦痛感覚 Schmerzempfindungを心的領域 seelische Gebiet へ移行させてみても相同的である。というのは、見失われた対象あるいは喪われた対象 vermißten (verlorenen) Objekts にたいする憧憬備給 Sehnsuchtsbesetzung は、強力で絶え間なく発展するので、傷ついた身体部分への苦痛備給 Schmerzbesetzung と同じ経済的条件が生じて、身体の苦痛Körperschmerzes という末梢の条件から眼をそらすことができる!
身体的苦痛 Körperschmerz から心的苦痛 Seelenschmerz への移行は、自己愛的 narzißtischer 備給から、対象備給 Objektbesetzung への移行に相当する。欲求 Bedürfnis によっていちじるしく備給された対象表象 Objektvorstellung は、刺激増加によって備給された身体の部分と同じ役目を果たす。
備給過程が持続し制止されないでいると、心的無力さ psychischen Hilflosigkeitという同じ状態が起こる。このようにして生じた不快感覚 Unlustempfindung は、不安の反応形態 Reaktionsform der Angst で示されるのではなくて、特殊な、言い表しにくい苦痛の性質をもっているとするならば、ほとんど説明の必要がない次の契機が関連していることが明らかになる。つまり、この不快感覚に導く過程が完成される高い水準の備給 Besetzungs と拘束関係 Bindungsverhältnisse である。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)