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2017年8月3日木曜日

水の女の聖水

現代の私たちは、「墓」の意味をすでに忘れてしまったが、「墓」のギリシア語は tumbos 、ラテン語は tumulus で、共に「膨れる」ということであった。それが英単語の tomb の語源である。tomb は womb の「子宮」と言語的に関連していたのだ。古代の巨石墳墓や塚は死者を再生させる子宮で、墓道は子宮への膣を意味し、子宮を大型化した設計であった。(「古代母権制社会研究の今日的視点―神話と語源からの思索・素描―」松田義幸・江藤裕之、2007、pdf


ははあ、そうなのか・・・

昔の日本は墓を「奥都城(おくつき)」と呼んだが、この奥付きは、上付き、下付きと関係があるやもしれぬ・・・

漢字の「墓」の「莫」の部分は草に陽が落ちて隠れること、土は土盛りの意味だそうだ。こっちのほうはたいして面白くない(わたくしはこの程度で「もりまん」などと考えるほどスケベではない)。

いやだがそもそも、鎮守の森に「隠された」神社というのも、設計上は、「子宮」や「膣」が起源であろう。




ーーと知らべてみれば、高千穂神社の後藤俊彦宮司が《神社が子宮で参道は産道》とかねてからご主張なさっておられるらしい。

神社の参道を歩けば心休まるのは当たり前なのである(もちろんヴァギナ・デンタータ過敏症で「産道」は不気味だと言って毛嫌いする人がいるではあろうが)。

女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なものUnheimlicheとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)

…………

山口県下関市菊川町大字久野にある「日瀬神社」は、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、大国主神を祀る神社だそうだ。

天地初めて発けし時、高天原に成る神の名は天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣神。此の三柱の神は並独り神と成り坐して身を隠すなり。 (『古事記』冒頭)

この古事記冒頭に出現する三つの神の名、アメノミナカヌシ(天之御中主神)、タカミムスヒ(高御産巣日神)、カムムスヒ(神産巣神)+大国主神が祀られている日瀬神社」とは次の通り。




ーーいやあじつにそっくりである。これこそムスビの神なの御座所なのである。





じつは「日瀬神社」の参道は鳥居を取っ払ってしまえば、わたくしの原風景とほとんど同じなのである。





田んぼの真ん中の一本道
幼い子供たちの集まりのなか
独り不安な心持で佇んでいる
集団登園の初日
遠くに鎮守の森がみえる
ひどく遠い

たすきがけにしてぶら下げたハンカチ
他の幼児たちはみな白い色
彼だけは柄ものだった
だれかが指さして何かを言っている
彼は泣き出した

母が駆けつけてくる
上気して途惑った表情
母の魂の最初の皺
他の幼児たちの冷ややかなまなざし
この寄る辺なさを抱えたまま
見知らぬ子供たちとともに
母から離れて
あそこまで歩いていかなくてはならないのか


十代のころは、この風景に夢のなかで祟られると、しばしばバッハのいくつかの曲を聴いてお祓いしたものである。

◆Bach-karl ritcher"Wahrlich, dieser ist Gottes Sohn gewesen(まことに彼こそは神の子だった)"



いま「祟られる」と記したが、これは、折口信夫のいう意味でのタタリである。

たゝりはたつのありと複合した形で、後世風にはたてりと言ふところである。「祟りて言ふ」は「立有而言ふ」と言ふ事になる。神現れて言ふが内化した神意現れて言ふとの意で、実は「言ふ」のでなく、「しゞま」の「ほ」を示すのであつた。(折口信夫『「ほ」・「うら」から「ほかひ」へ』)

タタリがやんだのは、水の女に聖水を浴びてからである。

・七処女は、何のために召されたか。言うまでもなくみづのをひもを解き奉るためである。…みづのをひもを解き、また結ぶ神事があったのである。

・みづのをひもは、禊ぎの聖水の中の行事を記念している語である。

・そこに水の女が現れて、おのれのみ知る結び目をときほぐして、長い物忌みから解放するのである。(折口信夫『水の女』)

わたくしは京都に10年弱住んだのだが、北野天満宮はじつに美しいお社だった。他の名高い神社の威圧感がなく、じつに和んだ気分になれる。だが七処女から聖水を浴びたわけではなく(タシカ一人程度デアッタ)、それが生涯の心残りである・・・

あゝ耳面刀自。…おれはまだお前を……思うてゐる。おれはまだ、お前を思ひ續けて居たぞ。耳面刀自。こゝに來る前から……こゝに寢ても、……其から覺めた今まで、一續きに、一つ事を考へつめて居るのだ。(折口信夫『死者の書』) 




をゝ、あれが耳面刀自だ。其瞬間、肉體と一つに、おれの心は、急に締めあげられるやうな刹那を、通つた氣がした。俄かに、樂な廣々とした世間に、出たやうな感じが來た。さうして、ほんの暫らく、ふつとさう考へたきりで……、空も見ぬ、土も見ぬ、花や、木の色も消え去つた――おれ自分すら、おれが何だか、ちつとも訣らぬ世界のものになつてしまつたのだ。あゝ、其時きり、おれ自身、このおれを、忘れてしまつたのだ。(同、折口信夫)

かつての京都ではあれらの処女を「木むすめ」ともいったらしい。

我々の幼い頃、京都辺で、夜、きむすめといふものがよく見えると言はれました。処女(キムスメ)の意味と、木が娘の姿に見える、といふ二つを掛けた、しやれた呼び名だつたのです。(折口信夫「万葉集に現れた古代信仰――たまの問題――」)

こうして母なるムスヒの神との結び目ーー フロイト曰くの《母との結びつき Mutterbindung》(母拘束)ーーは、木むすめのおかげでようやく解かれた……(つもりだった)。

だがあれは《みづのをひもを解き、また結ぶ神事》であったのである。

…………

ところであれほど上代の女たちをエロティックに物語った折口はーー《待てよ。其は何だか一目惚れの女の哭き聲だつた氣がする……》--、なぜ「きむすめ」たちを相手にせず、鶏姦にはげんだのだろうか。ひょっとして神の研究に励み過ぎて、タタリがはなはだしかったせいではなかろうか・・・

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール un trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。.(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)

ーーああ、あの常闇!

足の踝が、膝の膕が、腰のつがひが、頸のつけ根が、顳顬が、ぼんの窪が――と、段々上つて來るひよめきの爲に蠢いた。自然に、ほんの偶然強ばつたまゝの膝が、折り屈められた。だが、依然として――常闇。(折口信夫『死者の書』)