信仰を持たないでいても、ある宗教的なものといいますか、祈りのようなものを自分が持っていると感じる時が、人生の色々な局面であったのです。やはり信仰の光のようなものがあって、向こうからの光がこちらに届いたことがあると私は思っているのです。(大江健三郎「信仰を持たない者の祈り」1987年、於東京女子大学)
ーーおそらく多くの人は、もし言葉にしてみれば、このように心持があるのではないか。
あるいは、自らを「無宗教」と規定しているだろう多くの日本人は、--だが「神」に祈ったことが一度もないだろうか。
笑われるかもしれないが、大戦中、飢餓と教師や上級生の私刑の苦痛のあまり、さきのほうの生命が縮んでもいいから今日一日、あるいはこの場を生かし通したまえと、“神”に祈ったことが一度や二度ではなかった(……)。最大限度を、“神”に甘えて四十歳代にしてもらった。この“秘密”をはじめて人に打ち明けたのは五十歳の誕生日を過ぎてからである。(中井久夫「知命の年に」初出1984年『記憶の肖像』所収)
わたくしは十代前半の少年時代、恋愛にかんしてだが、中井久夫と似たように"神"に祈ったことがある。
…………
さて「創唱宗教/自然宗教」にて引用した木村文輝氏の論をもう少し読んでみた。彼は「宗教」を四つに区分けして定義している。これはなるほどと思わせる。
「宗教」という言葉には少なくとも四通りの使い分けが存在する……。
第一に、仏教とかキリスト教というように、ある固有の名前を与えられた思想体系を、中立的な立場から表す用法である。その場合、多くの人々は、一人の人が複数の宗教に関与すべきではないと考え、神さまと仏さまを同じように崇拝する自らのことを「無宗教」と呼ぶことになった。
第二は、「宗教」という言葉で「宗教団体」、もしくは、ある特定の宗教を信仰する人々の集まりを表す用法である。これが、「宗教は恐ろしい」とか「あぶない」という先入観を与える場合の用法である。そのため、人々はそのような「宗教」に自分が関わっていないことを示すために、「無宗教」という表現を用いるのである。
第三は、「宗教」という言葉で神仏に対する信仰を表す場合である。ここでは、「宗教」という言葉が肯定的に捉えられることが多い。ただし、その場合でも、たいていの人は様々な神や仏を区別することなく崇拝しているために、自らのことを「無宗教」だと表明する。
そして、第四は、いわゆる「見えない宗教」である。すなわち、元来は何らかの宗教に由来する日常的な習慣や社会的な通念を、「宗教」という範疇に含めた用法である。しかし、そこに含まれる事柄は、その多くが人々の生活の中に浸透し、文字どおり「見えない」もの、言い換えれば無自覚なものになっている。そのために、人々はそれを「宗教」的なものと認識することなく、自らのことを「無宗教」と評することになるのである。(木村文輝『現代日本における「宗教」の意味』2014年)
すぐれて示唆的なことを言われる方だと感心し(禅宗にかかわる方のようだが)、さらに木村文輝氏の別の論を読んでみる(『現代日本人の神仏観』2015年)。
神は「自然神」、「祖先神」、「人間神」という三つの範疇に大別することが可能であり、そのいずれに属する「神」であっても、特別な力、もしくはエネルギーの保持者であることは共通していた。さらに、それらの「神」は、自らの保持する特別な力を適切な形で発揮したり、適切なやり方で人々に分け与える場合には人々に幸せをもたらしてくれる。しかし、そうした力やエネルギーを暴発させる時には大きな災難を与えることになる。
それに対して、仏は常に過剰な力やエネルギーを鎮める役割を担っている。それは、自らの内に宿る欲望の場合もあれば、他者の中に潜む力やエネルギーの場合もある。わが国において、この仏が鎮めるべき「他者」を、当初は自然界に宿る神々とみなしていた。ところが、それは後に怨霊と化した特定の人間にも拡大され、さらにはあらゆる死者の霊魂にまで適用された。こうして、仏教が死者儀礼を独占的に扱う風習が確立したのである。(木村文輝『現代日本人の神仏観』2015年、pdf)
このような文脈のなかで、《「アクセルの「神」、ブレーキの「仏」》という表現がなされている。
ーーこれについてはほぼそうだと考えるが、神には、たとえば祖先神には、仏教と同じように《過剰な力やエネルギーを鎮める役割》はまったくないのだろうか、と思いを馳せつつ宙吊りのままである。
例えばお盆。あの「鎮魂」として捉えられる行事は起源としては仏事ではなく、神事であるという(参照:「神事としてのお盆)。こういった神/仏の区分けは、江戸時代の政策、《幕府が檀家制度により、庶民の祖先供養まで仏式でおこなうよう強制したため、お盆も仏教の行事と誤解され》ているという指摘がある。さらに遡れば長いあいだの「神仏習合」慣習の影響があるのだろう。
これらの見解から、「アクセルの神/ブレーキの仏」と単純には言えないはず、と先ずわたくしは考えた。
ところが他方で、柳田国男は盆祭りを《人が集ってイワウ日であった》と記している。
折口信夫は《現今の人々は、魂祭りと言へば、すぐさま陰惨な空気を考へる様であるが、吾々の国の古風では、此は、陰惨な時ではなくして、非常に明るい時期であつた》と記している。
とすればやはり神はわれわれに「気合」のような力をあたえる存在、つまりアクセル的な存在なのだろうか。
上に掲げた木村氏の論文の簡略版が中日新聞に記載されている(2016年1月12日、中日新聞)。
「神」は特別な力やエネルギーの持ち主で、それを人々に授ける者である。一方、「仏」は慈悲深い存在であり、人々の欲望やエネルギーを鎮める存在である。
ーーとある。もうすこし拾ってみよう。
神と仏のこのような区別は、神社とお寺の祭りや儀式に対する人々の捉え方にも表れている。例えば、神社の祭りと言えば、神輿(みこし)や山車の巡行の際の、にぎやかでワクワクするイメージを抱く人が多いだろう。あるいは、神社にも静かで厳かな儀式は数多くあるし、お祓いを受ける時の厳粛な気持ちを思い起こす人もいるだろう。だが、いずれにせよ、神社の祭りや儀式は私たちの心をリセットし、新たな活力や生命力を付与してくれるように感じられるものである。
それに対して、お寺の儀式と言えば、一般的には葬儀屋年忌法要のように、静かで穏やかなものだと思われている。また、坐禅のイメージともあいまって、お寺は心が落ち着く場所だとか、安らぎを与える場所だと考えている人も多い。表層的なイメージの比較ではあるけれども、神社とお寺に対する人々の捉え方は、やはり異なっていると言ってよいだろう。
こうした神社やお寺のイメージと、先に論じた「神」や「仏」という言葉の捉え方を基にして、私たちはここで一つの仮説を立てることができる。すなわち、現代の日本人は、「神」を特別な技術や力、エネルギーの持ち主で、それを人々に分け与える存在だとみなしており、「仏」は欲望をはじめとする様々な力やエネルギーを鎮める存在、あるいは慈悲深い存在だとみなしているという仮説である。無論、神と仏の観念を、それだけのイメージの中に押し込めるのは適切ではない。けれども、現代日本人の一般的な感覚として、そのような区分を行うことができるのではないだろうか。(木村文輝『現代日本人の神仏観』中日新聞版2016、後編「アクセルの神、ブレーキの仏 力の供給、制御を担う」)
木村氏は《表層的なイメージの比較》と断っている。「表層的」と念を押せば、やはり「アクセルの神/ブレーキの仏」としてよいだろうし、このような表層的なイメージ比較はけっして無駄ではない。仮説を提示することによって、はじめて思考が始まる。
もしフロイトのように、エロスを融合、タナトスを分離として捉えるのなら(参照)、「エロスの神/タナトスの仏」とすることができるかもしれないが、これも表層的なイメージでの話である、とことわっておこう。