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2017年7月11日火曜日

享楽の漂流、あるいは死の漂流

ラカンの言説(社会的つながり lien social )理論の基本構造図にはいくつかのヴァリエーションがある。まずその代表的な三つの図を掲げる。





①左上には Agent(代理人・動作主)、Semblant(見せかけ・仮象)、Désir(欲望)とあるが、相同的なものと扱ってよい。なぜなら言語を使用する人間とは、「物の殺害」をした欲望する主体である。そして《言説 discours 自体、つねに見せかけの言説 discours du semblantである》(ラカン、S19、1972)。さらにまた欲望する主体とは、じつは幻想の主体のことであり、「vérité 真理」の代理人・仮象の主体にすぎない。

欲望の主体はない il n 'y a pas de sujet du désir。あるのは幻想の主体 Il y a le sujet du fantasme である。 ( Lacan,REPONSES A DES ETUDIANTS EN PIDLOSOPFIE,1966)

②右上には、Autre(大他者)、Jouissance(享楽)とある。これはいっけん相同的なのものとは扱いがたいようにみえる。だが、どちらも「動作主」が融合したい先である。たとえば究極の大他者は「母なる大他者」であり、かつまたラカンにとって大他者は身体でもある、《L'Autre, c'est le corps》(S14) 。言語によって「身体」と「斜線を引かれた主体 $ 」とに分割された人間は、身体と融合したい。だがそれは不可能である(これらが左上→右上にある impossible の意味である)。

(そもそも最後のラカンにとって、《大他者は存在しない(S(Ⱥ))l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ) 》(S24, 08 Mars 1977)。もちろん享楽も存在しない。ゆえに象徴的大他者自体が仮象である。晩年のラカンの「象徴界は穴 trou」、「身体は穴 trou」 とはこの文脈のなかにある。) 

③右下には、Product(生産物)、Plus de jouir(剰余享楽)、Perte(喪失)とある。これはすべて等価である。大他者に融合したい動作主だが、融合できない。ゆえに失われた享楽の残余が生産される。

④左下の vérité (真理)はすべて同一である。そして真理とは「話す身体 le corps parlant」であり、それは「欲動の現実界 le réel pulsionnel」でもある(参照:引力と斥力)。右下→左下にある Impuissance(不能)とは、真理と生産物はけっして合致しないという意味である。

…………

ところでフロイトにとって、エロスとは融合欲動であり、タナトスとは分離欲動である(参照)。それは結合欲動、分解欲動といっても同じである。

エロスの目標は、より大きな統一 Einheiten を打ち立てること、そしてその統一を保つこと、要するに「結び合わせ Bindung」である。対照的に、破壊欲動の目標は、結合 Zusammenhänge を「分解 aufzulösen」 することである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

たとえば性行為とは、最も典型的なエロス(融合欲動)とタナトス(分離・破壊欲動)の混淆である。

性行為は、最も親密な結合 Vereinigung(エロス)という目的をもつ攻撃性 Aggression(タナトス)である。

この同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirkenという 二つの基本欲動の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

だがフロイトが言っているようにこの混淆は性行為だけではない。人間のあらゆる行為は、エロスとタナトスの混淆である(すくなくとも最後のフロイトはそう考えている[参照])。

生物学的機能において、二つの基本欲動は互いに反発 gegeneinander あるいは結合 kombinieren して作用する。食事という行為は、食物の取り入れ Einverleibung(エロス)という最終目的のために対象を破壊 Zerstörungすること(タナトス)である。(フロイト『精神分析概説』草稿、1940年)

さて上の①②③④の前提と、いま掲げたフロイトの叙述に依拠すれば、冒頭にかかげたラカン言説理論の基本構造図における左上をエロス、左下をタナトスとすることができるとわたくしは思う。




これは次のように読む。

・融合欲動としてのエロスは、大他者のポジションに融合したい。

・だが究極の融合とは主体の死である。《究極の享楽の形式は、象徴界を離れることを意味する。したがって、消滅、すなわち「主体の死」である》(ポール・バーハウ、2001)。かつまた真理のポジションにある分離欲動としてのタナトスが融合を許さない。

・ゆえに残余としての剰余享楽が生産される。これをラカンは別に「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」と呼び、バディウは「彷徨える過剰 L’excès errant」と呼んでいる。かつまたロラン・バルトは、次のような表現の仕方をしている。

享楽 jouissance、それは欲望に応えるもの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。 la jouissance ce n’est pas ce qui répond au désir (le satisfait), mais ce qui le surprend, l’excède, le déroute, le dérive. (『彼自身によるロラン・バルト』1975年)

・こうしてエロスとしての仮象の主体は、彷徨える過剰の漂流に促されて永続的な循環運動の反復をするようになる。

これはドゥルーズが簡潔に書いていることでもある。

エロス Érôs は己れ自身を循環 cycle として・循環の要素 élément d'un cycle として生きる。それに対立する要素は、記憶の底にあるタナトス Thanatos au fond de la mémoire でしかありえない。両者は、愛と憎悪 l'amour et la haine、構築と破壊 la construction et la destruction、引力 attractionと斥力 répulsion として組み合わされている。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

いま記したことをさきほどの図に代入すれば、次のようにも書ける。



ラカン自身の言葉なら次の通り。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の衝動(欲動 la pulsion de mort) …もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(S23, 16 Mars 1976)

これらの「死」をめぐる記述はいっけん奇妙に思えるかもしれない。だが図の下部構造とは現実界ーー《本源的に沈黙して》おり(フロイト『自我とエス』)、象徴界の彼岸にあるもの、ーーであり、われわれ象徴界(図の上部構造)における「幻想の主体」は気づかないだけである、というのがフロイト・ラカンの考え方である。

・死への迂回路 Umwege zum Tode は、保守的な欲動によって忠実にまもられ、今日われわれに生命現象の姿を示している。

・有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)