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2017年7月5日水曜日

言語による「物の殺害」

ラカンは1953年のローマ講演で、言語記号 symbole は《物の殺害 meurtre de la chose》と言明したが、これはもともとヘーゲルの《物の殺害 Mord am Ding》に由来することになっている。

だが《das Wort ist Mord am Ding》というたぐいの文をネット上で検索してみても直接には出てこない。どうやらコジューヴ経由の「物の殺害」であり、コジューヴは『精神現象学』(1807年)の記述を要約してこう言ったらしい。すこし眺めてみただけだが、たしかにヘーゲルには「物の殺害」と似たような事を言っている(参照:Phänomenologie des Geistes)。

今はほとんど読んだことのないヘーゲルの文を引用することはしない。ジジェク文を掲げて置く。

ヘーゲルが何度も繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。もっとパセティックな言い方をするなら、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが次のように言うのを好んだように。つまり、私は話しているのではない。私は言語によって話されている、と。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。すなわち、主体が「聖餐式における全質変化 transubstantiation」のために支払わなければならない代価。ダイレクトな動物的生の代理人であることから、パッションの生気から引き離された話す主体への移行である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)
人間が動物を凌駕するのは暴力の能力の点においてであり、それがほかならぬ言葉を使うせいだとすればどうだろう。数多ある言語の暴力的特性を中心的なテーマにしたてた哲学者・社会学者には、ブルデューからハイデガーまでいる。しかしながら、ハイデガーが見落とした言語の暴力的特性がある。それこそラカンによる象徴界の理論の焦点である。その象徴界の理論を通じて、ラカンは存在の家としての言語、つまり言語は人間の創造物でも道具でもなく、人間のほうが言語の中に「暮らし」ている、というハイデガーのモチーフを変奏している。「精神分析は、その主体となるものがなかに住まう言語の科学であるべきです」。ラカンが「パラノイア的な」加えたひねり、ラカンがフロイトのようにして 加えたねじの回転は、この〔ハイデガーの〕家に折檻の家という特徴を与えた点に求めら れる。《フロイトの視点に立てば、人間は言語によって囚われ拷問を被る主体である。l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage(ラカン、S3、1956)》。(ジジェク 「詩に歌われる言語の折檻所」

ーーと引用してみたが、すこし前何度か引用したニーチェの言明は何もニーチェ独自のものではないことを示したいだけである。すくなくともニーチェの前にはヘーゲルがいる。

言語はレトリックである。というのは、 言語はドクサのみを伝え、 何らエピステーメを伝えようとはしないからである。

Die Sprache ist Rhetorik, denn sie will nur eine doxa, keine episteme übertragen“ (Nietzsche: Vorlesungsaufzeichnungen 講義録(WS 1871/72 – WS 1874/75)
言語の使用者は、人間に対する事物の関係を示しているだけであり、その関係を表現するのにきわめて大胆な隠喩を援用している。すなわち、一つの神経刺戟がまず形象に移される! これが第一の隠喩。その形象が再び音において模造される! これが第二の隠喩。そしてそのたびごとにまったく別種の、新しい領域の真只中への、各領域の完全な飛び越しが行われる。(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚偽について Über Wahrheit und Lüge im außermoralischen Sinn」1873年)

ニーチェは数学や科学についても同じことを言っているのが目新しいといえるのかもしれないが、これ自体、数学や科学は「言語記号」を扱うのだが当然といえば当然である。

論理学は、現実の世界にはなにも対応するものがないような前提、たとえば同等な物があるとか、一つの物はちがった時点においても同一であるというような前提にもとづいている。…数学についても同じことがいえる。もしひとがはじめから厳密には直線も円も絶対的な量もないことを知っていたら、数学は存在しなかっただろう。(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的なMenschliches, Allzumenschliches』 1878年)
・科学が憩っている信念は、いまだ形而上学的信念である。daß es immer noch ein metaphysischer Glaube ist, auf dem unser Glaube an die Wissenschaft ruht

・物理学とは世界の配合と解釈にすぎない。dass Physik auch nur eine Welt-Auslegung und -Zurechtlegung

・我々は、線・平面・物体・原子、あるいは可分的時間・可分的空間とかいった、実のところ存在しないもののみを以て操作する。Wir operieren mit lauter Dingen, die es nicht gibt, mit Linien, Flächen, Körpern, Atomen, teilbaren Zeiten, teilbaren Räumen (ニーチェ『 悦ばしき知 Die fröhliche Wissenschaft』1882年)

このところフロイトによる「テキストの改竄」、「現実の改竄」をめぐって記したが、これもまた、ヘーゲル・ニーチェ視点からいえば、とくに目新しくないということが言えるのかもしれない。

抑圧とその他の多くの防衛機制との関係は、本文を棄却することと歪曲することAuslassung zur Textentstellungとの関係に相当するということができる。すなわちわれわれは、このような種々の形をとって現われる改竄 Verfälschung の中に、自我の変化の多様性との類似を見出すことができるのである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』)
自我の防衛機制 Abwehrmechanismen は、内的知覚 innere Wahrnehmung を改竄 verfälschenし、われわれのエスについての、欠陥だらけで歪曲された知識 mangelhafte und entstellte Kenntnis を可能にするだけと定められている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

ラカンは《科学的言説は見せかけ semblant の言説か否かさえ悩まずに進んでゆく》と言っている。

ラカンの見せかけ semblant とは、独語では仮象 Scheinと訳される。

《見せかけ semblant、それはシニフィアン自体のことである! Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! 》(Lacan,S18, 13 Janvier 1971)

→ Die­ser Schein ist der Si­gni­fi­kant an sich selbst

仮象とはニーチェに頻出する語である。

「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)
わたしにとって今や「仮象 Schein」とは何であろうか! 何かある本質の対立物では決してない。Was ist mir jetzt »Schein«! Wahrlich nicht der Gegensatz irgendeines Wesens(ニーチェ『悦ばしき知』1882年)

→《真理は見せかけ semblant の対立物ではない La vérité n'est pas le contraire du semblant.》(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)


ラカン曰くの《科学的言説は見せかけの言説か否かさえ悩まずに進んでゆく le discours scientifique progresse sans plus même se préoccuper s'il est ou non semblant》も、ニーチェの言っている《科学が憩っている信念は、いまだ形而上学的信念である》と相似形である。

分節化ーー見せかけsemblantの代数的 algébrique分節化という意味だがーー、これによって我々は文字 lettres だけを扱っている。そしてその効果。これが実在 réelと呼ばれるものを我々に提示可能にしてくれる唯一の装置である。何が実在 réel かといえば、この見せかけに穴を開けること fait trou dans ce semblant である。

科学的言説であるところの分節化されたこの見せかけ ce semblant articulé qu'est le discours scientifique のなかに 、科学的言説は、それが見せかけの言説か否かさえ悩まずに進んでゆく。

しばしば言われるように、科学的言説がかかわる全ては、そのネットワーク・その織物・その格子によって、正しい場所に正しい穴が現れるようにすること fasse apparaître les bons trous à la bonne place である。

この演繹によって到達される唯一の参照項は不可能である。この不可能が実在 réelである。我々は物理学において、言説の装置の助けをもって、実在 le réel であるところの何かを目指す。その厳格さのなかで、一貫性の限界に遭遇する rencontre les limites de sa consistance のである。(ラカン、セミネール18、20 Janvier 1971、私訳)