2017年7月4日火曜日

現実の改竄と投射

人間は/あまりにも生々しい現実には耐えられない human kind/Cannot bear very much reality.(エリオット『四つの四重奏』第一部「バーント・ノートン」)

…………

テキストの改竄(省略と歪曲)」にて引用したテキストの改竄をめぐる叙述の後には、次の文があらわれる。

心的装置は不快に不寛容である Der psychische Apparat verträgt die Unlust nicht 。 あらゆる犠牲を払っても不快を避けようとする。現実 Realität の知覚 Wahrnehmung が不快をもたらすのなら、その知覚ーーすなわち真理 Wahrheit--は、犠牲にされなければならない。外的危険に直面した場合、かなりの時間のあいだ危険状況からの逃避 Fluchtと回避 Vermeidung によって切り抜けうる。そしてついには現実の能動的改変 aktive Veränderung der Realität によって危険を取り除くまでの力を獲得することもある。

しかし自己から逃避することはできない。内的危険にたいしては、逃避は何の役にも立たない。それゆえに自我の防衛機制 Abwehrmechanismen は、内的知覚 innere Wahrnehmung を改竄 verfälschenし、われわれのエスについての、欠陥だらけで歪曲された知識 mangelhafte und entstellte Kenntnis を可能にするだけと定められている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年、既存訳を適宜変更、以下のフロイト文引用も同様)

この現実の改竄、防衛のひとつのあり方は「投射 Projektion」である。

外部から来て、刺激保護壁 Reizschutz を突破するほどの強力な興奮Erregungenを、われわれは外傷性 traumatische のものと呼ぶ。

外部にたいしては刺激保護壁があるので、外界からくる興奮量は小規模しか作用しないであろう。内部に対しては刺激保護は不可能である。(……)

刺激保護壁Reizschutzes の防衛手段 Abwehrmittel を応用できるように、内部の興奮があたかも外部から作用したかのように取り扱う傾向が生まれる。

これが病理的過程の原因として、大きな役割が注目されている投射 Projektionである。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

ここでの内部の興奮とは、欲動の蠢き Triebregungen のことである。

心的装置の最初の、そしてもっとも重要な機能として、侵入する欲動蠢き anlangenden Triebregungen を「拘束 binden」すること、それを支配する一次過程 Primärvorgang を二次過程 Sekundärvorgang に置き換えること、その自由に流動する備給エネルギー frei bewegliche Besetzungsenergie をもっぱら静的な(強直性の)備給 ruhende (tonische) Besetzung に変化させることを我々は認めた。(フロイト『快原理の彼岸』最終章、1920年)

冒頭の文にあらわれた「内的危険からの逃避」とは、《欲動の蠢きTriebregungen》に蹂躙されることからの逃避である。すなわち人は欲動の蠢きを拘束したいのである。

なぜなら、

(欲動の)蠢きは刺激・無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute(ラカン、S10、l4 Novembre l962)

さて、少し前にもどって「刺激保護壁 Reizschutz」という言葉に触れよう。もともとこの言葉は次のような経緯で生まれた。

外傷神経症の歴史においては、フロイトとその弟子とカーディナーとの絡み合いが重要である。

1918年夏といえば、第一次大戦最後の年であるが、ドイツ=オーストリア軍の戦争神経症患者のあまりの多さに、軍の指導的将軍たちがブタペストで行われた精神分析学会に出席するという異例な事態が起こった。フロイトは戦争神経症患者を一人も診ていないが、その弟子たちは軍医として前線に出ていた。この学会は精神分析家たちによる戦争神経症報告の会となった。

この報告書は遅れて刊行されるが、それにフロイトは序文を書いて Reizschutz(刺激防護壁とでも訳すべきか)概念をつくり出して、人間はある程度以上の刺激が心理に侵入するのを防いでいるが、この壁を突破した刺激が入り込んだ場合を外傷神経症とした。 (中井久夫「トラウマについての断想」2006年)

すなわち「刺激保護壁 Reizschutz」とは、外部からやってくるトラウマ的経験にかかわる言葉である。もっともフロイトは初期からトラウマ的という言葉を次のように使っている。

心的トラウマ、ないしその記憶は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入 Eindringen から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』1895年)

のちの論では次のような形で現れる。

我々は「トラウマ的 traumatisch」という語を次の経験に用いる。すなわち「トラウマ的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、1916年、私訳)
経験された無力の(寄る辺なき)状況 Situation von Hilflosigkeit をトラウマ的 traumatische 状況と呼ぶ (フロイト『制止、症状、不安』1926年)

乳幼児の《無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit)と依存性 Abhängigkeit》(同、フロイト)とは、誰もが否定できない状況であり、それを原トラウマ的状況と呼んでいるわけである。

こうして現代ラカン派では次のように言うことになる。

誰もがトラウマ化されている tout le monde est traumatisé(ジャック=アラン・ミレール、2013-2014セミネールーー「一の徴」日記⑥

さてもう一度話を戻す。刺激保護壁の記述をめぐってあらわれた「投射 Projektion」の話である。乳幼児は誰に「投射」するのか、内的な欲動の蠢きに対する「防衛」のために。

ラカンの最初のエディプス理論とは次のような形で説明されている。母は子供を、ほとんど致死的な deadly 仕方で享楽する。主体は唯一、父の介入を通してのみ、母による潜在的に命取りのlethal 享楽から救われる。

同じ理屈が、三つの宗教書のなかに漸増する形で見出される。初めにすべての悪の源としてイヴ、次にカトリックの性と女への不安と憎悪、最後にムスリムのベール等への強制。

すなわち女は男を誘惑し破滅させるので、寄せつけないようにしなければならない、ということである。これは次のように読むべきだ。我々自身の享楽、我々の身体から生じる欲動は、享楽的であるだけではなく、我々が統御する必要のある、明らかに脅迫的な何かだ。統御するための最も簡単な方法は、その享楽を他者に帰して、もし必要なら、この他者を破壊することだ、と。

事実、享楽と他者とのあいだの、この発達的に基礎付けられる繋がりは、主体にとって享楽にかんする相克を外部化する道を開く。そうでもしなければ、自身の内部に留まったままになりうる。…

フロイトはくり返し言っている、人は内的な脅威から逃れうるのは、唯一外部の世界にそれを投射することだ、と。問題は享楽の事態に関して、外部の世界はほとんど女と同義だということである…。(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009)

このポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE の文は、実はフロイト・ラカン批判としても書かれている。

モーセはヤハウェを設置し、キリストも同じくヤハウェを聖なる父として設置した。ムハンマドはアラーである。この三つの宗教の書は同時に典型的な男-女の関係性を導入する。そこでは、女は統御されなければならない人格である。なぜなら想定された原初の悪と欲望への性向のためだ。

フロイトもラカンもともに、この論拠の少なくとも一部に従っている。それ自体としては、奇妙ではない。患者たちはこの種の宗教的ディスクールのもとで成長しており、結果として、彼らの神経症はそれによって決定づけられていたのだから。

奇妙なのは、二人ともこのディスクールを、ある範囲で、実情の正しい描写と見なしていることだ。他方、それは現実界の脅迫的な部分ーーすなわち欲動(フロイト)、あるいは享楽(ラカン)--の想像的な加工 elaboration、かつその現実界に対する防衛として読み得るのに。

ラカンだけがこの陥穽から逃れた。とはいえ、それは漸く晩年のセミネールになってからである。私の観点からは、このように女性性を定義するやり方は、男自身の欲動の投射以外の何ものでもない。それは、女性を犠牲にして、欲動に対する防衛システムが統合されたものである。(ポール・バーハウ、New Studies of Old Villains: A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex、2009)

ラカンはすくなくとも1970年まではこのバーハウの批判する思考のなかにあった(参照:原超自我 surmoi primordial)。

たとえば1962-1963年のセミネールでは「女-母なんてのは、交尾のあと雄を貪り喰っちまうカマキリみたいなもんだよ」(Lacan, S10「不安」)と要約できることを言っている。

1970年においては「母なる鰐の口」である。

私は、エディプスは役立たずだ l'Œdipe ça ne sert à rien とは全く言っていない。我々がやっていることとは無関係だとも言っていない。だが精神分析家にとっては役に立たない。それは真実である!Ça ne sert à rien aux psychanalystes, ça c'est vrai ! …

精神分析家は益々、ひどく重要な何ものかにかかわるようになっている。すなわち「母の役割 le rôle de la mère」に。…母の役割とは、「母の惚れ込み le « béguin » de la mère」である。

これは絶対的な重要性をもっている。というのは「母の惚れ込み」は、寛大に取り扱いうるものではないから。そう、黙ってやり過ごしうるものではない。それは常にダメージを引き起こすdégâts。そうではなかろうか?

巨大な鰐 Un grand crocodile のようなもんだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざすle refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である

やあ、私は人を安堵させる rassurant 何ものかを説明しようと試みている。…単純な事を言っているんだ(笑 Rires)。私は即席にすこし間に合わせを言わなくちゃならない(笑Rires)。

シリンダー rouleau がある。もちろん石製で力能がある。それは母の顎の罠にある。そのシリンダーは、拘束具 retient・楔 coinceとして機能する。これがファルス phallus と呼ばれるものだ。シリンダーの支えは、あなたがパックリ咥え込まれる tout d'un coup ça se refermeのから防御してくれるのだ。(ラカン、S17, 11 Mars 1970)

このラカンの鰐の口は、おそらくフロイトの次の文のパラフレーズだろう。

母親への依存性 Mutterabhängigkeit(受動性)のなかに…パラノイア Paranoia にかかる萌芽が見出される。というのは、母親に殺されてしまう(食われてしまう?)von der Mutter umgebracht (aufgefressen?) というのはたぶん、驚くべきではあるが、きまっておそわれる不安であるように思われるからである。このような不安は、小児の心に躾や身体の始末のことでいろいろと制約をうけることから、母親に対して生まれてくる敵意 Feindseligkeit に対応すること、また、投射 projektion のメカニズムが早期の心的な体制によって助長されるということは、容易に仮定できる。(フロイト『女性の性愛』1931年)

ここでフロイトの母なる「誘惑者」をめぐる叙述をも掲げておこう。

誘惑者はいつも母である。…幼児は身体を清潔にしようとする母の世話によって必ず刺激をうける。おそらく女児の性器に最初の快感覚を目覚めさせるのさえ事実上は母である。(フロイト『新精神分析入門』1933)

もっとも最晩年の草稿においては、必ずしも母親難詰ではない。

子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、彼(女)を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。その母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者 Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説』( Abriß der Psychoanalyse草稿、死後出版、1940、私訳)

とはいえ人は誰でも原初に母あるいは最初の世話人に「侵入」されるのである。そして「侵入」されれば「侵入的」になる。これも投射のメカニズムの重要なひとつであろう。

治療における患者の特性であるが、統合失調症患者を診なれてきた私は、統合失調症患者に比べて、外傷系の患者は、治療者に対して多少とも「侵入的」であると感じる。この侵入性はヒントの一つである。それは深夜の電話のこともあり、多数の手紙(一日数回に及ぶ!)のこともあり、私生活への関心、当惑させるような打ち明け話であることもある。たいていは無邪気な範囲のことであるが、意図的妨害と受け取られる程度になることもある。彼/彼女らが「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」となるのも当然であろうか。世話になった友人に対してストーキング的な電話をかけつづける例もあった。(中井久夫「トラウマと治療体験」『徴候・記憶・外傷』所収 P.106)

 おそらく人間の「攻撃欲動」の起源をこのメカニズムにおいて捉えさえできるのではなかろうか。

ランク(1913年)はちかごろ、神経症的な復讐行為が不当に別の人にむけられたみごとな症例を示した。この無意識の態度については、次の滑稽な挿話を思い出さずにはいられない。それは、村に一人しかいない鍛冶屋が死刑に値する犯罪をひきおこしたために、その村にいた三人の仕立屋のうちの一人が処刑されたという話である。刑罰は、たとえ罪人に加えられるのではなくとも、かならず実行されなければならない、というのだ。(フロイト『自我とエス』1923年)

残念ながら、人間にとって最初の「侵入者」は、ほとんどの場合、あの全能として現われる母なのである。侵入されたら侵入し返す(穏やかにいえば受動的立場に置かれれば、能動的になろうとする)。そもそも《日常生活においても、苛立ちやその苛立ちにしばしば付随して生ずる攻撃性は、ほとんど常に不能と無力の表出なのはよく知られている。》(ポール・バーハウ1998、PTHREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE )

もちろん上の「鍛冶屋」と「仕立屋」の話に現れるように直接的に「鍛冶屋」に仕返しするわけではない場合が多いだろうが、人間の攻撃欲動の基盤の重要なひとつは、原初に誰もが「侵入」されるという避けがたい経験によって育まれる。

母親のもとにいる小児の最初の体験は、性的なものでも性的な色調をおびたものでも、もちろん受動的な性質 passiver Natur のものである。小児は母親によって授乳され、食物をあたえられて、体を当たってもらい、着せてもらい、なにをするのにも母親の指図をうける。小児のリビドーの一部はこのような経験に固執し、これに結びついて満足を享受するのだが、別の部分は能動性 Aktivitätに向かって方向転換を試みる。母親の胸においてはまず、乳を飲ませてもらっていたのが、能動的にaktive 吸う行為によってとってかえられる。

その他のいろいろな関係においても、小児は独立するということ、つまりいままでは自分がされてきたことを自分で実行してみるという成果に満足したり、自分の受動的体験 passiven Erlebnisse を遊戯のなかで能動的に反復 aktiver Wiederholung して満足を味わったり、または実際に母親を対象にしたて、それに対して自分は活動的な主体 tätiges Subjekt として行動したりする。(フロイト『女性の性愛 Uber die weibliche Sexualität』1931年)

乳幼児にとって母は次のような存在としてあらわれる。

行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ?(ラカン、セミネール5、15 Janvier 1958)

そして乳幼児の泣き叫びの訴えあるいは欲動の蠢きに応答しないことがある。そのとき母は「全能の権力者」となる。

(最初期の母子関係において)、母が幼児の訴えに応答しなかったらどうだろう?…母は崩落するdéchoit……母はリアルになる elle devient réelle、…すなわち権力となる devient une puissance…全能(の母) omnipotence …全き力 toute-puissance …(ラカン、セミネール4、12 Décembre 1956)

フロイトはこの「権力者」としての母をめぐってこう書いている。

母の見えないという状況は、乳児が誤解しているせいで外傷的 traumatische 状況になるのであって、けっして危険の状況 Gefahrsituationではない。いやもっと正しくいうと、乳児がこの瞬間に、母によって満足(解消 befriedigen)させてもらわねばならない欲求 Bedürfnis を感じていてはじめて、外傷的状況といえるのであり、この状況は、この欲求が当座のものでなくなると危険状況に変わるのである。

自我がみずからみちびく最初の不安条件 Angstbedingung は、対象喪失 Objektverlustes と同じに考えられる知覚の喪失 Wahrnehmungsverlustes である。愛情喪失 Liebesverlust はまだ現われていない。後に、対象は現前するが、ときどき子供を叱る böse という経験をする。そして今度は、対象からの愛の喪失 Verlust der Liebe が、新たな永続する危険と不安条件になるのである。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

「全能の権力者」としての母とは、ニーチェの《わたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin》でありうる。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin の名だ。

……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」1884年)
……そのとき、声なき声がわたしに語った Dann sprach es ohne Stimme zu mir「おまえはそれを知っているではないか、ツァラトゥストラよ: Du weisst es, Zarathustra? -」--(同「最も静かな時刻」ーー世界の闇