2017年6月6日火曜日

世界の闇

ここでの記述は、まずジジェク経由の断片的ヘーゲルをめぐっている(ようするにわたくしはヘーゲルをよく知らない)。

すなわちジジェクの「原テキスト」とでもいうべきーーとてもしばしばくり返して引用されるーーヘーゲルの二文を抜き出す。どちらもヘーゲルの「 否定性 Negativität」にかかわる。

第一に「世界の闇(世界の夜 Nacht der Welt)」である。

ヘーゲルは、 1770年生れであり、次のように言ったときは、35歳前後である。

人間存在は、すべてのものを、自分の不可分な単純さのなかに包み込んでいる世界の闇 Nacht der Weltであり、空無 leere Nichts である。人間は、無数の表象やイメージを内に持つ宝庫だが、この表象やイメージのうち一つも、人間の頭に、あるいは彼の眼前に現れることはない。この闇。幻影の表象に包まれた自然の内的な闇。この純粋自己 reines Selbst。こちらに血まみれの頭 blutiger Kopf が現れたかと思うと、あちらに不意に白い亡霊 weiße Gestalt が見え隠れする。一人の人間の眼のなかを覗き込むとき、この闇を垣間見る。その人間の眼のなかに、 われわれは闇を、どんどん恐ろしさを増す闇を、見出す。まさに世界の闇 Nacht der Welt がこのとき、われわれの現前に現れている。 (ヘーゲル『現実哲学』イエナ大学講義録草稿 Jenaer Realphilosophie 、1805-1806、既存訳をいくらか変更)
Der Mensch ist diese Nacht der Welt, dies leere Nichts, das alles in ihrer Einfachheit enthält, ein Reichtum unendlich vieler Vorstellungen, Bilder deren keines ihm gerade einfällt oder die nicht als gegenwärtige sind. Dies ist die Nacht, das Innere der Natur, das hier existiert – reines Selbst. In phantasmagorischen Vorstellungen ist es ringsum Nacht; hier schießt dann ein blutiger Kopf, dort eine andere weiße Gestalt hervor und verschwinden ebenso. Diese Nacht erblickt man, wenn man dem Menschen ins Auge blickt – in eine Nacht hinein, die furchtbar wird; es hängt die Nacht der Welt einem entgegen.(Hegel, Jenaer Realphilosophie, 1805/6)

第二に、ジジェクの著書の表題『否定的なもののもとへの滞留 tarrying with the negative』と訳される《否定的なものNegativenに留まること verweilt》である。

これもヘーゲルの1807年の著作『精神現象学』からであり、まだ若い(ヘーゲルは1831年死去である)。

力なき美は悟性を憎む。なぜなら、悟性は、美にそれがなし得ないことを要求するからである。だが、死を前にしてしりごみし、破滅から完璧に身を守ろうとするような生ではなく、死を耐え抜き、そのなかに留まる生こそが精神の生なのである。精神が己の真理を勝ちとるのは、ただ、自分自身を絶対的分裂 absoluten Zerrissenheit のうちに見出すときにのみなのである。

精神がこの力であるのは、否定的なもの Negativen から目をそらすような、肯定的なものであるからではない。つまりわれわれが何かについて、それは何物でもないとか、偽であるとか言って、それに片をつけ、それから離れて、別のものに移って行く場合のようなものであるからではない。そうではなく、精神は、否定的なものを見すえ、否定的なもの Negativen に留まる verweilt からこそ、その力をもつ。このように否定的なものに留まることが、否定的なものを存在に転回する魔法の力である。(ヘーゲル『精神現象学』「序論」、1807年、既存訳をいくらか変更)
Die kraftlose Schonheit hasst den Verstand, weil er ihr dies zumutet, was sie nicht vermag. Aber nicht das Leben, das sich vor dem Tode scheut und von der Verwustung rein bewahrt, sondern das ihn ertragt und in ihm sich erhalt, ist das Leben des Geistes. Er gewinnt seine Wahrheit nur, indem er in der absoluten Zerrissenheit sich selbst findet.

Diese Macht ist er nicht als das Positive, welches von dem Negativen wegsieht, wie wenn wir von etwas sagen, dies ist nichts oder falsch, und nun, damit fertig, davon weg zu irgend etwas anderem ubergehen; sondern er ist diese Macht nur, indem er dem Negativen ins Angesicht schaut, bei ihm verweilt. Dieses Verweilen ist die Zauberkraft, die es in das Sein umkehrt.(Hegel, Phänomenologie des Geistes, “Vorwort”,1807)

この二つの文を混淆させて言えば、われわれは先ず、「世界の闇 Nacht der Welt」 に留まりverweilt、「血まみれの頭 blutiger Kopf 」、「白い幽霊 weiße Gestalt」を見すえなければならない。そのとき初めて精神の偉大な力は生まれる、ということになる。

それはゴダールが言っているとおりである。



ゴダールは『JLG/自画像』で、二度、ネガに言及している。一度目は、湖畔でヘーゲルの言葉をノートに書きつけながら、「否定的なもの(le négatif)」を見すえることができるかぎりにおいて精神は偉大な力たりうると口にするときである。二度目は、風景(paysage)の中には祖国(pays)があるという議論を始めるゴダールが、そこで生まれただけの祖国と自分でかちとった祖国があるというときである。そこに、いきなり少年の肖像写真が挿入され、ポジ(le positif)とは生まれながらに獲得されたものだから、ネガ(le négatif)こそ創造されねばならないというカフカの言葉を引用するゴダールの言葉が響く。とするなら、描かれるべき「自画像」は、あくまでネガでなければならないだろう。(蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』)

…………

さてここでニーチェへと転回する。

ヘーゲルの「世界の闇 Nacht der Welt」 における、「血まみれの頭 blutiger Kopf 」、「白い幽霊 weiße Gestalt」とは何か?

一匹の蛇である。恐ろしい女主人である。そう断言してみることにする。

…正午の太陽が彼の頭上にかかった。そのときかれは問いのまなざしを空にむけたーー高みに鋭い鳥の声を聞いたからである。と、見よ。一羽の鷲が大いなる輪を描いて空中を舞っていた。そしてその鷲には一匹の蛇がまつわっていた。鷲の獲物ではなく、友であるように見えた。鷲の頸にすがるようにして巻きついている。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「序説」、1883年)
きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin の名だ。

……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」1884年)

「血まみれの頭 blutiger Kopf 」、「白い幽霊 weiße Gestalt」とは、「メドゥーサの首 Kopf der Medusa」である。それが女主人であり蛇である。

ニーチェのツァラトゥストラをめぐる草稿には次の文がある。

In Zarathustra 4: der große Gedanke als Medusenhaupt: alle Züge der Welt werden starr, ein gefrorener Todeskampf.[Winter 1884 — 85]

すなわち《「メドゥーサの首 Medusenhaupt」 としての偉大の思想。すべての世界の特質は石化(硬直 starr)する。「凍りついた死の首 gefrorener Todeskampf」》(ニーチェ、KSA11.360.31 [4])、これはまさに「世界の闇 Nacht der Welt」のことである。

ニーチェは、ヘーゲルのパクリがあまりにもミエミエなので、遠慮してツァラトゥストラ本文には使用しなかったのではなかろうか・・・(もちろん、フロイトにも『メドゥーサの首』(Medusenhaupt)という未発表の草稿があることを今では誰もが知っている。)





メドゥーサの首は、「正午」にも「真夜中」にもあらわれる。

正午にそれは起こった。「一」は「二」となったのである。Um Mittag war's, da wurde Eins zu Zwei...(ニーチェ『善悪の彼岸』1886年「高き山々の頂きから Aus hohen Bergen」)
月明りのなかで偶然、自分の顔を鏡の中に見ること以上に不気味なものはない。(ハイネ)

Es gibt nichts Unheimlicheres, als wenn man, bei Mondschein, das eigene Gesicht zufällig im Spiegel sieht. (Heinrich Heine: Reisebilder

われわれは実は誰もが知っている。あの「影 Schatten」を、あの「ネガ Negativen」を。

……そのとき、声なき声がわたしに語った Dann sprach es ohne Stimme zu mir「おまえはそれを知っているではないか、ツァラトゥストラよ: Du weisst es, Zarathustra? -」--(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部最終章「最も静かな時刻」)

ーー《おまえは、来らざるをえない者の影 Schatten として歩まねばならぬ。》(同「最も静かな時刻」)

「一」は「二」となるとは、「一」であったイマジネールな私は、「私と影」の「二」になることである。

人生の正午 Mittag、ひとは異様な安静の欲求におそわれることがある。まわりがひっそりと静まりかえり、物の声が遠くなり、だんだん遠くなっていく。彼の心臓は停止している。彼の目だけが生きている、--それは目だけが醒めている一種の死だ。それはほとんど不気味でunheimlich、病的に過敏 krankhaftだ。しかし不愉快 unangenehmではない。(ニーチェ『漂泊者とその影』308番Der Wanderer und sein Schatten)

あの「影 Schatten」、あの「ネガ Negativen」、あの「血まみれの頭 blutiger Kopf 」、あの「白い幽霊 weiße Gestalt」、あの「私の恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin」、あの「メドゥーサの首 Medusenhaupt」--これらを「狼の足 pas de loup」と言っても同じことである。

鳩が横ぎる。ツァラトゥストラの第二部のまさに最後で。「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」。

最も静かな時刻は語る。私に語る。私に向けて。それは私自身である。私の時間。私の耳のなかでささやく。それは、私に最も近い plus proche de moi。私自身であるかのようにcomme en moi。私のなかの他者の声のようにcomme la voix de l'autre en moi。他者の私の声のように comme ma voix de l'autre。

そしてその名、この最も静かな時刻の名は、《わたしの恐ろしい女の主人》である。

……今われわれはどこにいるのか? あれは鳩のようではない…とりわけ鳩の足ではない。そうではなく「狼の足で à pas de loup」だ…(デリダ、2004, Le souverain bien – ou l’Europe en mal de souveraineté La conférence de Strasbourg 8 juin 2004 JACQUES DERRIDAーー鳩の足と狼の足)

決定的な文がツァラトゥストラ第四部の「酔歌 Das Nachtwandler-Lied」--いわゆる『ツァラトゥストラ』全体のグランフィナーレーーに現れる。

静かに! 静かに! いまさまざまのことが聞えてくる、昼には声となることを許されないさまざまのことが。いま、大気は冷えおまえたちの心の騒ぎもすっかり静まったいまーー

Still! Still! Da hört sich Manches, das am Tage nicht laut werden darf; nun aber, bei kühler Luft, da auch aller Lärm eurer Herzen stille ward, –

ーーいま、それは語る、いま、それは聞こえる、いま、それは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる、ああ、ああ、なんという吐息をもたらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

– nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!

ーーおまえには聞えぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかいるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?

おお、人間よ、心して聞け!

– hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu dir redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht!
おお、人間よ、心して聞け!
深い真夜中は何を語る?
「わたしは眠った、わたしは眠ったーー、
深い夢からわたしは目ざめた。--
世界は深い、
昼が考えたより深い。
世界の痛みは深いーー、
悦びーーそれは心の悩みよりもいっそう深い。
痛みは言う、去れ、と。
しかし、すべての悦びは永遠を欲するーー
ーー深い、深い永遠を欲する!」

Oh Mensch! Gieb Acht!
Was spricht die tiefe Mitternacht?
»Ich schlief, ich schlief –,
»Aus tiefem Traum bin ich erwacht: –
»Die Welt ist tief,
»Und tiefer als der Tag gedacht.
»Tief ist ihr Weh –,
»Lust – tiefer noch als Herzeleid:
»Weh spricht: Vergeh!
»Doch alle Lust will Ewigkeit
»will tiefe, tiefe Ewigkeit!«


《それは語る、いま、それは聞こえる、いま、それは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる》

「それ Es」とは何であったか?

ニーチェにおいて、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エス Es がいつも使われている。(フロイト『自我とエス』)

ここでヘーゲルが「世界の闇 Nacht der Welt」を、「純粋自己 reines Selbst」と等価なものとして扱っていたことを想い起しておこう。

そして「悦び(悦楽 Lust)」とは、フロイトの《苦痛のなかの快 Schmerzlust》(『マゾヒズムの経済的問題』1924年)、ラカンの《享楽 jouissance》 のことである。

世界は深い、
昼が考えたより深い。
世界の痛みは深いーー、
悦び Lustーーそれは心の悩みよりもいっそう深い。
痛みは言う、去れ、と。
しかし、すべての悦び Lust は永遠を欲するーー
ーー深い、深い永遠を欲する!

《すべての悦楽は永遠を欲する alle Lust will Ewigkeit》!!!

フロイトにとっての「永遠回帰 ewige Wiederkehr」は「反復強迫 Wiederholungszwang」である[参照]。

ラカンにとっての永遠回帰は享楽回帰のことである。

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

ラカンは、このフロイトの『快原則の彼岸』に再訪している講義にて、次のようにも言っている。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

ここでヘーゲルの『精神現象学』「序論」には次のようにあったことを想い起しておこう。

だが、死を前にしてしりごみし、破滅から完璧に身を守ろうとするような生ではなく、死を耐え抜き、そのなかに留まる生こそが精神の生なのである。

Aber nicht das Leben, das sich vor dem Tode scheut und von der Verwustung rein bewahrt, sondern das ihn ertragt und in ihm sich erhalt, ist das Leben des Geistes.(ヘーゲル、イエナ草稿「世界の闇 Nacht der Welt」

ラカンとヘーゲルの「死」の意味合いが異なる、などという戯言は金輪際お断りする。

死というのは一点ではない、生まれた時から少しずつ死んでいくかぎりで線としての死があり、また生とはそれに抵抗しつづける作用である。(ピシャ、ーーフーコー『臨床医学の誕生』より)
死とは、私達に背を向けた、私たちの光のささない生の側面である。(リルケ「ドゥイノの悲歌」)
有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった。(フロイト『快原理の彼岸』)

ヘーゲルの「世界の闇 Nacht der Welt」とは、ニーチェの「悦楽(悦び lust)」、フロイトの「死の欲動 Todestrieb」、あるいはラカンの「享楽 jouissance」(=死への回り道)と(ほとんど)等価である。ヘーゲルに無知な身として敢えて「ほとんど」と丸括弧つきでつけくわえたが、実はそんな括弧はいらないはずである。

私は、欲動 Trieb を「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」と翻訳する。(ラカン、S.20、08 Mai 1973)

そして、《すべての欲動は、潜在的に死の欲動である。toute pulsion est virtuellement pulsion de mort.》(Lacan E848、1964)

ヘーゲル研究者たちは、なぜこの程度のことに気づかないのだろう?

フロイトやラカンの欲動とはいうまい。だが「世界の闇」における「血まみれの頭 blutiger Kopf」「白い幽霊 weiße Gestalt」が「メドゥーサの首 Kopf der Medusa」であることはあまりに明らかではないか?

《人間存在は世界の闇であり空無である。Der Mensch ist diese Nacht der Welt, dies leere Nichts》!!!

彼らが「世界の闇」に不感症なのは、彼らの長年の「症状」に由来する。彼らは「理性の光」のみがお好きなのである。表層を滑るのはそれはそれでよろしい。だがその裏側、その背後も表面であることを知らない。その理性の「光」とコインの表裏である「影」はお嫌いなのである。しかし人間は誰もが影をもっている。どうやって「影」を忘れることができよう? どうやってそれを見すえないまま生を送れよう? ゴダールの言うとおり、《否定的なもの(le négatif)」を見すえることができるかぎりにおいて精神は偉大な力たりうる》のである。

連中は精神の中流階級でしかない。

学者というものは、精神上の中流階級に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。(ニーチェ『悦ばしき知識』1882年)

なんと呼ぼうといいのである、あの「影」を。「否定性(ネガ)」と呼ぼうが、「世界の闇」と呼ぼうが、「私の恐ろしい女主人」と呼ぼうが、「メドゥーサの首」と呼ぼうが、あの「血まみれの頭」、あの「白い幽霊」と呼ぼうが。

(ここで論理的ヘーゲルの《もしA がそれ自体と同じなら、どうして 反復する必要があるというのだ?》(ヘーゲル『論理の科学』)をパラフレーズしておこう。「一」が「一」自体なら、どうしてわれわれは常に反復する生を送っているのだ、と。われわれが反復するのは「影(ネガ)」があるせいである。)

ラカンの対象aとはこれらと相似的である。《常に「一」と「他」、「一」と「対象a」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a) 》 (ラカン、S20、16 Janvier 1973)

対象a …この対象は、哲学的思惟には欠如しており、そのために自らを位置づけえない。つまり、自らが無意味であることを隠している。Cet objet est celui qui manque à la considération philosophique pour se situer, c'est à dire pour savoir qu'elle n'est rien. .(ラカン「哲学科の学生への返答 Réponses à des étudiants en philosophie」 1966)
私はどの哲学者にも挑んでいる。シニフィアンの出現と享楽が存在にかかわる仕方とのあいだにある関係を、この今確認するために…どの哲学も、言わせてもらえば、今日、我々に出会えない。哲学の哀れな流産 ces misérables avortons de philosophie 。我々はその哲学を後ろに引き摺っているのだ、前世紀(19世紀)の初めから、ボロボロになった習慣として。あの哲学オタクとは、むしろこの問いに遭遇しないようにその周りを踊る方法にすぎない。この問いとは、真理についての唯一の問いである。それは、死の本能 l'instinct de mort と呼ばれるもの、フロイトによって名付けられたもの、享楽の原マゾヒズムmasochisme primordial de la jouissance …。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。(Lacan, Le séminaire, Livre XIII, L’objet de la psychanalyse, inédit)

 ラカンの《対象aは穴である l'objet(a), c'est le trou》( Lacan, S16, 27 Novembre 1968)とは、対象aは、厳密さを期さずに言ってしまえば、「世界の闇」ということである。

そしてその穴としての闇、すなわち深淵を《おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返す。》(ニーチェ『善悪の彼岸』146番)

私は欲動の現実界 réel pulsionnel を穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動 la pulsionを特徴づけたことを。(Lacan, à Strasbourg le 26 janvier 1975 en réponse à une question de Marcel Ritter
我々はあまりにもしばしば混同している、欲動が接近する対象について。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)

※付記:上にラカンが言っているように対象aには両義性がある。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016, pdf)