2017年5月19日金曜日

生成変化としての永遠回帰/運命強迫としての永遠回帰

このところ「運命強迫としての永遠回帰」を強調し過ぎた記述をしているので、ドゥルーズの永遠回帰の定義を掲げておこう(ここでの強調は第一や第二の定義ではなく、第三の「生成変化」としての永遠回帰である。


【生成変化としての永遠回帰】
迷宮あるいは耳。迷宮はニーチェにしばしば現われるイメージである。それはまず無意識を、自己を、指示する。アニマだけがわれわれを無意識と和解させ、無意識を探すための導きの糸をわれわれに与えることができる。

次に、迷宮は永遠回帰そのものを指示する。迷宮は循環的であって、行きどまりの道ではなく、同一の地点に、また、現在、過去、未来の同一の瞬間にわれわれを導く道である。

だがより根本的に言えば、永遠回帰を構成するものの観点からみると、迷宮は生成であり、生成の肯定である。ところで、存在は生成に由来し、生成そのものによって自己を肯定する。そのかぎり、生成の肯定は別の肯定(アリアドネの糸)の対象である。

アリアドネがテセウスのところに足繁く通ったあいだは、迷宮は逆の意味にとられていた。それはましな価値に開放され、糸は否定と怨恨の糸、道徳の糸であった。だが、ディオニュソスは彼の秘密をアリアドネに教える。真の迷宮はディオニュソス自身であり、真の糸は肯定の糸である。「私はおまえの迷路なのだ。」ディオニュソスは迷路にして雄牛、生成にして存在であるが、その肯定そのものが肯定される場合にのみ存在であるような生成である。

ディオニュソスはアリアドネにたんに耳を傾けることだけでなく、肯定を肯定することを要求する。「おまえの耳は小さい。私の耳と同じだ。その耳で私の細心の言葉を聞くがよい。」(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』1962年)

永遠回帰の肯定的側面については、ニーチェの次の文がよく表している。

……何を古代ギリシア人はこれらの密儀(ディオニュソス的密儀)でもっておのれに保証したのであろうか? 永遠の生であり、生の永遠回帰である。過去において約束された清められた未来である。死と転変を越えた生への勝ちほこれる肯定である。生殖による、性の密儀による総体的永生としての真の生である。このゆえにギリシア人にとっては性的象徴は畏敬すべき象徴自体であり、全古代的敬虔心内での本来的な深遠さであった。生殖、受胎、出産のいとなみにおける一切の個々のものが、最も崇高で最も厳粛な感情を呼びおこした。密儀の教えのうちでは苦痛が神聖に語られている。すなわち、「産婦の陣痛」が苦痛一般を神聖化し、――一切の生成と生長、一切の未来を保証するものが苦痛の条件となっている・ ・ ・創造の永遠の快感があるためには、生への意志がおのれを永遠にみずから肯定するためには、永遠に「産婦の陣痛」もまたなければならない・・・これら一切をディオニュソスという言葉が意味する。すなわち、私は、ディオニュソス祭のそれというこのギリシア的象徴法以外に高次な象徴法を知らないのである。そのうちでは、生の最も深い本能が、生の未来への、生の永遠性への本能が、宗教的に感じとられている、――生への道そのものが、生殖が、聖なる道として感じとられている・ ・ ・キリスト教がはじめて、生に反抗するそのルサンチマンを根底にたずさえて、性欲を何か不潔なものにしてしまった。すなわち、キリスト教は、私たちの生の発端に、前提に汚物を投げつけたのである・ ・ ・(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」四 『偶像の黄昏』原佑訳)

「生成変化」については、こうも引用できる。

私の歴史において実現されるものは、もはやそうであったものとしての定過去 passé défini ではなく、私があるところの現在完了でさえもない。そうではなく私が生成変化 train de devenir の過程にあるところのそうなるであろうという前未来 futur antérieur である。

Ce qui se réalise dans mon histoire, n'est pas le passé défini de ce qui fut puisqu'il n'est plus, ni même le parfait de ce qui a été dans ce que je suis, mais le futur antérieur de ce qu'aurais été pour ce que je suis en train de devenir. (ラカン、 精神分析におけるパロールとランガージュの機能と領野 Fonction et champ de la parole et du langage「ローマ講演、1953」)
過去を変えることは不可能であるという思い込みがある。しかし、過去が現在に持つ意味は絶えず変化する。現在に作用を及ぼしていない過去はないも同然であるとするならば、過去は現在の変化に応じて変化する。過去には暗い事件しかなかったと言っていた患者が、回復過程において楽しいといえる事件を思い出すことはその一例である。すべては、文脈(前後関係)が変化すれば変化する。(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』所収)

だがこれらの考え方は運命強迫としての永遠回帰がベースにあることを忘れてはならない。

【運命強迫としての永遠回帰】

もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番)

《常に回帰するimmer wiederkommt》とはフロイトの反復強迫のことである。

フロイトは『快原理の彼岸』にて、ニーチェの名を出さずにニーチェ用語「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」を鍵括弧つきで引用して、反復強迫、運命強迫、デモーニッシュな性格等を語っている。

もっとも、「同一のものの回帰」については、ラカンやドゥルーズの「純粋差異」概念にていささかの修正が必要だろう(参照:永遠回帰・享楽回帰・純粋差異)。

だがニーチェの『善悪の彼岸 Jenseits von Gut und Böse』の応答として読みうるフロイトの『快原理の彼岸Jenseits des Lustprinzips』を人はまず素直に読まなければならない。《『快原理の彼岸』は、おそらくフロイトがこれこそ哲学的と呼ぶほかない考察のうちに、直線的に、しかも驚くべき才能をもって、透徹せる視線を注いだテキストであるに違いない》(ドゥルーズ『マゾッホとサド』)

精神分析が、神経症者の転移現象について明らかにするのとおなじものが、神経症的でない人の生活の中にも見出される。それは、彼らの身につきまとった宿命、彼らの体験におけるデモーニッシュな性格 dämonischen Zuges といった印象をあたえるものである。精神分析は、最初からこのような宿命が大かたは自然につくられたものであって、幼児期初期の影響によって決定されているとみなしてきた。そのさいに現れる強迫は、たとえこれらの人が症状形成 Symptombildung によって落着する神経症的葛藤を現わさなかったにしても、神経症者の反復強迫 Wiederholungszwang と別個のものではない。

あらゆる人間関係が、つねに同一の結果に終わるような人がいるものである。かばって助けた者から、やがてはかならず見捨てられて怒る慈善家たちがいる。彼らは他の点ではそれぞれちがうが、ひとしく忘恩の苦汁を味わうべく運命づけられているようである。どんな友人をもっても、裏切られて友情を失う男たち。誰か他人を、自分や世間にたいする大きな権威にかつぎあげ、それでいて一定の期間が過ぎ去ると、この権威をみずからつきくずし新しい権威に鞍替えする男たち。また、女性にたいする恋愛関係が、みなおなじ経過をたどって、いつもおなじ結末に終る愛人たち、等々。

もし、当人の能動的な態度を問題にするならば、また、同一の体験の反復の中に現れる彼の人がらの不変の性格特徴を見出すならば、われわれはこの「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。自分から影響をあたえることができず、いわば受動的に体験するように見えるのに、それでもなお、いつもおなじ運命の反復を体験する場合の方が、はるかにつよくわれわれのこころを打つ。

一例として、ある婦人の話を想い起こす。彼女は、つぎつぎに三回結婚し、やがてまもなく病気でたおれた夫たちを死ぬまで看病しなければならなかった。(……)

以上のような、転移のさいの態度や人間の運命についての観察に直面すると、精神生活には、実際の快原理 Lustprinzip の埒外にある反復強迫 Wiederholungszwang が存在する、と仮定する勇気がわいてくるにちがいない。また、災害神経症者の夢と子供の遊戯本能を、この強迫に関係させたくもなるであろう。もちろん、反復強迫の作用が、他の動機の助力なしに純粋に把握されるのは、ごくまれな場合であることを知っておく必要がある。小児の遊戯のさいに、われわれは、その発生についてどのような別種の解釈ができるかをすでに指摘した(糸巻き遊び、fort-da「いないいないばあ」のこと:引用者)。

反復強迫 Wiederholungszwang と直接的な快い衝動満足 direkte lustvolle Triebbefriedigung とは、緊密に結合しているように思われる。転移の現象が、抑圧を固執している自我の側からの抵抗に奉仕しているのは明らかである。治療が利用しようとつとめた反復強迫は、快原理を固執する自我によって、いわば自我の側へ引き寄せられる。

運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多いと思われるので、新しい神秘的な動機を設ける必要はないように思う。もっとも明白なのは、災害の夢であろうが、ほかの例でも一層くわしく吟味すると、われわれがすでに知っている動機の作用によってはつくしがたい事態のあることをみとめなければならない。反復強迫の仮定を正当づける余地は充分にあり、反復強迫は快原理をしのいで、より以上に根源的 ursprünglicher、一次的 elementarer、かつ衝動的 triebhafter であるように思われる。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

…………

以下、基礎資料編。

最大の重し:もしある日、またはある夜、デーモン Dämon が君のお前のあとを追い、お前のもっとも孤独な孤独のうちに忍び込み、次のように語ったらどうだろう。

「お前は、お前が現に生き、既に生きてきたこの生をもう一度、また無数回におよんで、生きなければならないだろう。そこには何も新しいものはなく、あらゆる苦痛、あらゆる愉悦、あらゆる想念と嘆息、お前の生の名状しがたく小なるものと大なるもののすべてが回帰 wiederkommenするにちがいない。しかもすべてが同じ順序で―この蜘蛛、樹々のあいだのこの月光も同様であり、この瞬間と私自身も同様である。存在の永遠の砂時計はくりかえしくりかえし回転させられる。―そしてこの砂時計とともに、砂塵のなかの小さな砂塵にすぎないお前も!」

ー―お前は倒れ伏し、歯ぎしりして、そう語ったデーモンを呪わないだろうか? それともお前は、このデーモンにたいして、「お前は神だ、私はこれより神的なことを聞いたことは、けっしてない!」と答えるようなとほうもない瞬間を以前経験したことがあるのか。

もしあの思想がお前を支配するようになれば、現在のお前は変化し、おそらくは粉砕されるであろう。万事につけて「お前はこのことをもう一度、または無数回におよんで、意欲するか?」と問う問いは、最大の重しとなって、お前の行為のうえにかかってくるだろう! あるいは、この最後の永遠の確認と封印以上のなにものも要求しないためには、お前はお前自身と生とにどれほど好意をよせなければならないことだろう?(ニーチェ『悦ばしき知識 Die fröhliche Wissenschaft』341番 信太正三訳→独原文
私にとって忘れ難いのは、ニーチェが彼の秘密を初めて打ち明けたあの時間だ。あの思想を真理の確証の何ものかとすること…それは彼を口にいえないほど陰鬱にさせるものだった。彼は低い声で、最も深い恐怖をありありと見せながら、その秘密を語った。実際、ニーチェは深く生に悩んでおり、生の永遠回帰の確実性はひどく恐ろしい何ものかを意味したに違いない。永遠回帰の教えの真髄、後にニーチェによって輝かしい理想として構築されたが、それは彼自身のあのような苦痛あふれる生感覚と深いコントラストを持っており、不気味な仮面であることを暗示している。(ルー・サロメ、1984)

Unvergeßlich sind mir die Stunden, in denen er ihn mir zuerst, als ein Geheimnis, als Etwas, vor dessen Bewahrheitung ... ihm unsagbar graue, anvertraut hat: nur mit leiser Stimme und mit allen Zeichen des tiefsten Entsetzens sprach er davon. Und er litt in der Tat so tief am Leben, daß die Gewißheit der ewigen Lebenswiederkehr für ihn etwas Grauen-volles haben mußte. Die Quintessenz der Wiederkunftslehre, die strahlende Lebensapotheose, welche Nietzsche nachmals aufstellte, bildet einen so tiefen Gegensatz zu seiner eigenen qualvollen Lebensempfindung, daß sie uns anmutet wie eine unheimliche Maske.(Lou Andreas-Salomé Friedrich Nietzsche in seinen Werken, 1894)

ここでサロメは、永遠回帰は《不気味な仮面unheimliche Maske》と言っているが、フロイトの『不気味なもの』(1919年)--『快原理の彼岸』1920年の思想はこの前年の論文にすでに明確に現われているーーには《同一のものの反復の不気味さ das Unheimliche der gleichartigen Wiederkehr》、《この内的反復強迫を思い出させうるものこそ不気味なもの unheimlich verspürt werden wird, was an diesen inneren Wiederholungszwang mahnen kann》とある。

…………

以下、『この人を見よ』から、妹エリザベートが削除した記述(1969年に「本来」の原稿に戻されているが、手塚富雄訳や西尾幹二訳版は旧原稿訳であり、この箇所はない)。

わたしに最も深く敵対するものを、すなわち、本能の言うに言われぬほどの卑俗さを、求めてみるならば、わたしはいつも、わが母と妹を見出す、―こんな悪辣な輩と親族であると信ずることは、わたしの神性に対する冒瀆であろう。わたしが、いまのこの瞬間にいたるまで、母と 妹から受けてきた仕打ちを考えると、ぞっとしてしまう。彼女らは完璧な時限爆弾をあやつって いる。それも、いつだったらわたしを血まみれにできるか、そのときを決してはずすことがないのだ―つまり、わたしの最高の瞬間を狙ってin meinen höchsten Augenblicken くるのだ…。そ のときには、毒虫に対して自己防御する余力がないからである…。生理上の連続性が、こうした予定不調和 disharmonia praestabilita を可能ならしめている…。しかし告白するが、わたしの本来の深遠な思想である 「永遠回帰 ewige Wiederkunft」 に対する最も深い異論とは、 つねに母と妹なのだ。― (Friedrich Nietzsche Sämtliche Werke Kritische Studienausgabe, dtv/de Gruyter, 原文

通常は生成変化としての永遠回帰でいいのである。たとえば安吾のような経験がなければ。

母。――異体の知れぬその影がまた私を悩ましはじめる。

私はいつも言ひきる用意ができてゐるが、かりそめにも母を愛した覚えが、生れてこのかた一度だつてありはしない。ひとえに憎み通してきたのだ「あの女」を。母は「あの女」でしかなかつた。
三十歳の私が、風をひいたりして熱のある折、今でもいちばん悲しい悪夢に見るのがあの時の母の気配だ。姿は見えない。だだつぴろい誰もゐない部屋のまんなかに私がゐる。母の恐ろしい気配が襖の向ふ側に煙のやうにむれてゐるのが感じられて、私は石になつたあげく気が狂れさうな恐怖の中にゐる、やりきれない夢なんだ。母は私をひきづり、窖のやうな物置きの中へ押しこんで錠をおろした。あの真つ暗な物置きの中へ私はなんべん入れられたらうな。闇の中で泣きつづけはしたが、出してくれと頼んだ覚えは殆んどない。ただ口惜しくて泣いたのだ。
 ところが私の好きな女が、近頃になつてふと気がつくと、みんな母に似てるぢやないか! 性格がさうだ。時々物腰まで似てゐたりする。――これを私はなんと解いたらいいのだらう!

 私は復讐なんかしてゐるんぢやない。それに、母に似た恋人達は私をいぢめはしなかつた。私は彼女らに、その時代々々を救はれてゐたのだ。所詮母といふ奴は妖怪だと、ここで私が思ひあまつて溜息を洩らしても、こいつは案外笑ひ話のつもりではないのさ。(坂口安吾「をみな」)

上に「通常は生成変化としての永遠回帰でいい」と記したが、「運命強迫としての永遠回帰」の外傷的経験のない者が真の「生成変化としての永遠回帰」がありうるだろうか、という問いはいったん脇にやっての記述である。

「然り」〔Ja〕への私の新しい道。--私がこれまで理解し生きぬいてきた哲学とは、生存の憎むべき厭うべき側面をみずからすすんで探求することである。(……)「精神が、いかに多くの真理に耐えうるか、いかに多くの真理を敢行するか?」--これが私には本来の価値尺度となった。(……)この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲するーーあるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、ディオニュソス的に然りと断言することにまでーー(……)このことにあたえた私の定式が運命愛〔amor fati〕である。(ニーチェ『権力への意志』原佑訳)

この運命愛とは、フロイト・ラカンの次の言葉とともに読みたくなるところがわたくしにはある。《主体の解任 destitution subjective/幻想の横断 traversée du fantasme/徹底操作 durcharbeiten

精神分析による治療は抑圧を除去し、裸の欲動の固着を露わにする。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq).2002)

そして裸の欲動の固着とは 《わたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin》(ニーチェ)にかかわる、と。