2016年11月1日火曜日

永遠回帰・享楽回帰・純粋差異

・反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S.17)

・「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入(突入)の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(Lacan,S.17)

・「一の徴 trait unaire」と反復――徴 marque として享楽を設置するものーー、それは享楽のサンスのなかに極小の偏差(裂け目) très faible écart に起源を持つのみである。…du trait unaire, de la répétition, de ce qui l'institue dès lors comme marque, …s très faible écart dans le sens de la jouissance que cela s'origine.

・…この「一」自体、それは純粋差異を徴づけるものである。Cet « 1 » comme tel, en tant qu'il marque la différence pure(Lacan、S.19)

・「一の徴 trait unaire」は反復の徴 marqueである。 Le trait unaire est ce dont se marque la répétition. (ラカン、S.19ーー潜在的対象・純粋過去・純粋差異・反復)

ここでラカンの言っている反復は、転移による反復 Wiederholen (前期フロイト)ではなく、後期フロイトの反復強迫 Wiederholungszwang という意味での反復である。

…………

《ラカン派においては、純粋差異は潜在的対象(ラカンの対象a)の補填にかかわる。In Lacanese, pure difference concerns the supplement of the virtual object (Lacan's objet a)》(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

永遠回帰 L'éternel retourは、同じものや似ているものを環帰させることはなく、それ自身が純粋な差異 la pure différenceの世界から派生する。

・・・永遠回帰には、つぎのような意味しかない―――特定可能な起源の不在 l'absence d'origine assignable。それを言い換えるなら、起源は差異である l'origine comme étant la différence と特定すること。もちろんこの差異は、異なるもの(あるいは異なるものたち)をあるがままに環帰させるために、その異なるものを異なるものに関係させる差異である。

そのような意味で、永遠回帰はまさに、起源的で、純粋で、総合的で、即自的な差異 une différence originaire, pure, synthétique, en soi の帰結である(この差異はニーチェが『力の意志』と呼んでいたものである)。差異が即自であれば、永遠回帰における反復は、差異の対自である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968)

〈永遠回帰〉は〈反復〉である。だが、それは選り分ける〈反復〉であり、救う〈反復〉なのである。解き放ち、選り分ける反復という驚くべき秘密なのである。

L'Éternel Retour est la Répétition ; mais c'est la Répétition qui sélectionne, la Répétition qui sauve. Prodigieux secret d'une répétition libératrice et sélectionnante.(ドゥルーズ『ニーチェ』1965)


すこし前に戻るが、ジジェクの文に supplement という語が現われている。ラカンにはその語を次のように使用している文例がある。

…c'est une suppléance de ce « pas-toute » sur quoi repose – quoi ? – la jouissance de la femme. C'est à savoir que cette jouissance qu'elle n'est pas-toute, c'est-à-dire qui quelque part la fait absente d'elle-même, absente en tant que sujet, qu'elle y trouvera le bouchon de ce (a) …(ラカン、 セミネール20)

ブルース・フィンクは une suppléance de ce « pas-toute » を a supplementation of this not-whole と訳している。

ラカンは、《女性の享楽は非全体の補填(代替)を基礎にしている。(……)彼女は(a)というコルク栓を見いだす》という意味合いのことを言っていることになる。

女性の享楽 La jouissance féminine はーーすくなくともセミネール20(アンコール)の時点では、他の享楽 l'autre jouissance のことである。あるいは身体の享楽 la jouissance du corps ともされる。

他の享楽とはファルス享楽 la jouissance phallique の彼方にある享楽である。《ファルスの彼方には Au-delà du phallus、身体の享楽 la jouissance du corpsがある》(S.20)。


もう一つジジェクが「潜在的対象(ラカンの対象a)」としている対象aは、もちろん上にラカンが言っている喪われた対象のことである。《反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる》(S.17)

※セミネール17は1969-1970年のセミネールであり、ラカンはその前年のセミネール16でドゥルーズの『差異と反復』1968を絶賛している。

《現実界は《快原理の障害物である l'obstacle au principe du plaisir》(Lacan,S.11)。オートマンと象徴界によるシステム的決定因の彼方には、テュケー・遇然的要素としての欲動の現実界が待っている。

ラカンによれば、この遇発性はすべて欲動にかかわる。彼は、フロイトに従って、欲動に随伴する部分対象と共に欲動における部分的側面を強調する。フロイトによれば、対象 Objekt は欲動の最も重要でない部分である(欲動 Trieb の源泉 Quelle、衝迫 Drang、目標 Ziel という他の部分に比べて)。

部分対象が重要性に劣ることについて、ラカンは次のように説明している。どの対象も決定的に原初の喪われた対象a (l'objet perdu (a))の場に現れる。《この喪われた対象は、実際には、シンプルに空洞・空虚の現前であり、フロイト曰く、どんな対象によっても占められうる Cet objet qui n'est en fait que la présence d'un creux, d'un vide… occupable, nous dit FREUD, par n'importe quel objet》(S.11)。》(ヴェルハーゲ、2001、 Beyond Gender. From Subject to Drive.

ところで無意志的記憶の回帰とは、永遠回帰、あるいは享楽回帰の縮小版に相違ない。

無意志的記憶の啓示は異常なほど短く、それが長引けば我々に害をもたらさざるをえない。les révélations de la mémoire involontaire sont extraordinairement brèves, et ne pourraient se prolonger sans dommage pour nous…(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』1964-1970-1975)

《死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance》 (ラカン、S.17)

プルーストの定式、《純粋状態での短い時間 un peu de temps à l'état pur》が示しているのは、まず純粋過去 passé pur 、過去それ自身のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式 la forms pure et vide du temps であり、その究極的統合である。それは、時のなかに永遠回帰を導く死の本能 l'instinct de mort の形式である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968)

ドゥルーズの文に《純粋な…差異はニーチェが『力の意志』と呼んでいたものである》とあった。

力の意志が原始的な情動(Affekte)形式であり、その他の情動は単にその発現形態であること、――(……)「力の意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)

この情動は、欲動とほとんど等価である。実際に、欲動と訳している研究者もいる(『「権力への意志」の冒険』砂原陽一、PDF)。

そして、《すべての欲動は、潜在的に死の欲動である。toute pulsion est virtuellement pulsion de mort.》(Lacan Ecrit848)


さらに言えば、享楽回帰とは、ロラン・バルトのプンクトゥム回帰ーーわたくしはプンクトゥムとは対象aのことに相違ないと考えているーーでもあるだろう。

ある種の写真に私がいだく愛着について(……)自問したときから、私は文化的な関心の場(ストゥディウム le studium)と、ときおりその場を横切り traverser ce champ やって来るあの思いがけない縞模様 zébrure とを、区別することができると考え、この後者をプンクトゥム le punctum と呼んできた。さて、いまや私は、《細部》とはまた別のプンクトゥム(別の《傷痕 stigmate》)が存在することを知った。もはや形式ではなく、強度 intensité という範疇に属するこの新しいプンクトゥムとは、「時間 le Temps」である。「写真」のノエマ(《それは = かつて = あった ça—a-été》)の悲痛な強調であり、その純粋な表象 représentation pure である。(ロラン・バルト『明るい部屋』ーー時の悲痛な叫び
プンクトゥム(punctum)、――、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり――しかもまた骰子の一振り coup de dés のことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然 hasard なのである。(『明るい部屋』)

※ストゥディウムの定義は、「偶然/遇発性(Chance/Contingency)」を見よ。

…………

※追記

ヘーゲルとドゥルーズとのあいだの《相違は、内在性と超越論性とのあいだにあるのではなく、流体と裂目とのあいだにある。ドゥルーズの超越論的経験論の「究極的事実」は、純粋な生成,、その継起的流体の絶対的内在性である。他方、ヘーゲルの「究極的事実」は内在性「の/内部の」削減しえない亀裂である。》(ジジェク『身体なき器官』2004)

自由状態での純粋な流体un pur fluide à l'état libre(ドゥルーズ&ガタリ『アンチオイディプス』ーー潜在的対象・純粋過去・純粋差異・反復