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2016年11月2日水曜日

リアルな対象a とイマジネールな対象a

《a は、現実界の位のものである le a est de l'ordre du réel》(ラカン、S.12)

…対象a という用語が、現実界の位にあることは疑問に付される(……)。

アンコールの八章で、ラカンが対象a を現実界の位から降格させているのを見ると、人は衝撃を受ける…ここなのだ、我々が、後期ラカンが奏でる突破口の準備を見るのは。(Jacques-Alain Miller,2002

(ラカン、S.20、アンコール第八章)




前期ラカン(セミネール4、5)には le réel dans le symbolique/le réel symbolique という表現がある。ロレンツォ・キエーザは、すでにこの時期にーーセミネール7で示された 超越的なリアルという一時的な気の迷いに反してーーラカンは超越論的リアルを考えていたと想定している。

現実界のないの象徴界はない。そして象徴界のない現実界はない。(……)

象徴界のなかの現実界 le réel dans le symbolique がある限りにおいてのみ、象徴界は象徴的である。 象徴的現実界 le réel symboliqueがある限りにおいてのみ、現実界は現実界的である。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、2007)

いずれにしろ、ラカンはセミネール22、23で、対象a のポジションを象徴界・想像界・現実界の重なる場所に置いている。






核心は、対象aは外密« l'objet a est extime » (S.16)であり、 現実界は外立 «Le Réel ex-siste » (S.22)であることだろう。外密も外立も相同的である。ようするに象徴界内部に(象徴界の非全体pas-tout の領域に)外密‐外立する(参照:基本版:現実界と享楽の定義)。

最初はミレールの「脅し」のような問いかけにビックリしなかったことはないが、いまでは冷静に?古典的ラカンを交えながら、対象aを捉えている(ま、細部の議論は勝手にやってください、ということ)。対象a の核心は、フロイトの喪われた対象 objet perdu であることには変わりはないだろう、と念じている。

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S.17ーー永遠回帰・享楽回帰・純粋差異)

…………

現実の領域は対象a の除去の上になりたっているが、それにもかかわらず、対象a が現実の領域を枠どっている。 le champ de la réalité ne se soutient que de l’extraction de l’objet a qui lui donne son cadre (Lacan,E.554,1966)

◆ミレールの古典的な注釈(Jacques-Alain Miller,Montré à Prémontré 1984)

対象を〈現実界〉として密かに無視することによって、現実の安定が「ひとかけらの現実」として保たれているのだ、とわれわれは理解している。だが、〈対象a〉がなくなったら、〈対象a〉はどうやって現実に枠をはめるのか。   



〈対象a〉は、まさしく現実の領域から除去されることによって、現実を枠にはめるのである。 〈対象a〉というのはこのような表面の断片であり、それを取り除くことが、それに枠をはめることになるのである。主体とは、すなわち斜線を引かれた主体とは、存在欠如であるから、この穴のことである。存在としては、この除去されたかけらにほかならないのである。主体と〈対象a〉は等価である、とはそういうことなのである。(ミレール,1984)

…………

30年前の注釈なので古くなっているところはある(たとえば穴の意味)。だが基本的にはこの穴自体としてのリアルな対象a、そしてこの穴を埋めるイマジネールな対象aがある、ということには変わりはない、とわたくしは思う。

穴を埋めるものは、まず代表的にはフェティッシュである。

ジャック=アラン・ミレールによって提案された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、《我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien]》。

これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは同様に空虚を隠蔽する、見せかけが無のヴェールであるように。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

ここでジジェク=ミレールの言っている「無」とは「穴(ブラックホール)」のことである(このあたりが古典的ミレールの注釈には欠けている)。

Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)

Ⱥ とはラカンの対象a のいくつかある定義(参照:対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa))の内のひとつ、リアルな対象aのことである。

大他者のなかのリアルな穴 real hole としての対象aは、次の二つ、すなわち剰余-残余のリアルの現前としての穴、そして全体のリアル Whole Real の欠如(原初の現実界 primordial Real は、決して最初の場には存在しない)、すなわち享楽不在としての穴である。(ロレンツォ・キエーザ、2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、私訳)

そしてよく知られているように(?)、〈女〉とは、Ⱥ=穴(ブラックホール)を徴示するシニフィアンS(Ⱥ)のことである。

S(Ⱥ)は、「La Femme n'existe pas〈女〉は存在しない」を徴示する。(ヴェルハーゲ、1999)
S(Ⱥ) から Φ (ファルス)への移行は、不可能 性から禁止への移行である。S(Ⱥ) とは、大他者のシニフィアンの不可能性を徴示する。「大他者の大他者はいない」という事実、大他者の領野は、本質として非一貫的(非全体 pas-tout)であるという事実のシニフィアン(徴示素)である。Φ はこの不可能性を例外へと具象化する。 神聖な、禁止された/到達しえない代理人ーー去勢を免れ、全てを享楽する形象のなか へと具現化する。(ジジェク,1995ーーS(Ⱥ) とΦ の相違(性別化の式)、あるいは Lⱥ Femme

ではファルス Φ も穴埋めの一種なのだろうか。

ファルスは繋辞である。そして、繋辞は大他者に関係がある。

対象a は繋辞ではない。これが、ファルスとの大きな相違だ。対象a は、享楽のモードを刻んでいる。しかし、大他者との関係から切り離された享楽だ。

人が、対象a と書くとき、正当的な身体の享楽に向かう。正当的な身体のなかに外立 ex-sistence する享楽に。

ラカンは対象a にて止まらない。なぜか? 彼はセミネールXX、ラカンの教えの第二段階の最後で、それを説明している。対象a はいまだ幻想のなかに刻まれた sens joui (享楽する意味)である。

我々が、この機能について、ラカンから得る最後の記述は、サントームの Σ である。S(Ⱥ) を Σ として記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」(参照)の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。((ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え」Le dernier enseignement de Lacan' (‘Lacan's later teaching'、2002)

あるいは次のような説明もある(参照:ファルスΦと対象aの相違、あるいは二重の欠如)。

ファルスは対象aの一連の形象化における最後のものである。それは目につきやすい想像的な特徴を発揮する。…ファルスはたんに対象aの一つの形象ーー他の形象のなかのひとつではない。それは特別の地位を負っている。(Richard Boothby , Freud as Philosopher [2001]).
ファルスは対象ではなく、他の源泉、すなわち対象aから来る享楽を統制する事例instanceである。これらの享楽は、ファルスのシニフィアンによって解釈されることを通して統制され、ファルス快楽に変わる。構造的に、この象徴化は不完全のままである。対象aは、象徴化に抵抗する現実界の部分である。(Verhaeghe, P. & Declercq, F. 2002 Lacan's analytical goal: "Le Sinthome" or the feminine way

ブルース・フィンクはすでに、S(Ⱥ)はS(a)と書けるかもしれない、と1995年に指摘している(父の名、Φ、S1、S(Ⱥ)、Σをめぐって)。すなわち、Ⱥ=a。ようするに対象a とはイマジネールなものだけではない。リアルな対象a がある。

もちろん、シンボリックな対象a もある、S(Ⱥ)はシニフィアンである。あるいは斜線を引かれた「一」(l' Un de signifiant)も同じく(これは「一の徴 trait unaire」(フロイトの der einzige Zug)のことでもある筈)。

(ヴェルハーゲ、1999)


この原トラウマにかかわる対象a、あるいは原トラウマ Ⱥ のシニフィアン S(Ⱥ) は、「一のシニフィアン」、身体のパッションーー身体の出来事=サントームーー、文字Lettre ともされる。

la passion du corps = l' Un de signifiant = Lettre = petit(a) --Lacan,S.22 pp.71-73

くり返せば、この対象aは「文字」とされるているように、原トラウマにかかわるが、直接的に原トラウマではない。象徴的なものである。

・「一の徴 trait unaire」の機能 la fonction du trait unaire は…、徴のもっともシンプルな形 la forme la plus simple de marque であり、厳密に言って、シニフィアンの起源 l'origine du signifiantである。

・「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入(突入)の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(Lacan,S.17)

…………

以上をいささか補足するならば現在は次のように言われている(これは、専門的なラカン派内で議論したらいい話であるが敢えて付け加えるならば)。

もう一度、古典的ミレールの文に戻れば、《斜線を引かれた主体とは、存在欠如であるから、この穴のことである》とあった。

この存在欠如についてもミレールは修正している。

私はラカンの教えによって訓練された。存在欠如としての主体、つまり非実体的な主体を発現するようにと。この考え方は精神分析の実践において根源的意味を持っていた。だがラカンの最後の教えにおいて…存在欠如としての主体の目標はしだいに薄れ、消滅してゆく…(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller)
ラカンの最初の教えは、存在欠如 manque-à-êtreと存在欲望 désir d'êtreを基礎としている。それは解釈システム、言わば承認 reconnaissance の解釈を指示した。(…)しかし、欲望ではなくむしろ欲望の原因を引き受ける別の方法がある。それは、防衛としての欲望、存在する existe ものに対しての防衛としての存在欠如を扱う解釈である。では、存在欠如であるところの欲望に対して、何が存在 existeするのか。それはフロイトが欲動 pulsion と呼んだもの、ラカンが享楽 jouissance と名付けたものである。(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller)

コレット・ソレールはよりいっそう明確にこう言っている。

ラカンは最初には「存在欠如(le manque-à-être)」について語った。(でもその後の)対象a は「享楽の欠如」であり、「存在の欠如」ではない。(Colette Soler at Après-Coup in NYC. May 11,12, 2012、PDF)
parlêtre(言存在)用語が実際に示唆しているのは主体ではない。存在欠如 manque à êtreとしての主体 $ に対する享楽欠如 manqué à jouir の存在êtreである。(コレット・ソレール, l'inconscient réinventé ,2009ーー人間の根源的な三つの次元:享楽・不安・欲望

これがリアルな対象a にかかわるものである(筈)。

リアル real な残余のこの現前は、実際のところ、何を構成しているのか? 最も純粋には、剰余享楽(部分欲動)としての「a」の享楽とは、享楽欠如を享楽することのみを意味する。というには、享楽するものは他になにもないのだから。(ロレンツォ・キエーザ、2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、私訳)

結局、アンコール第八章の図の真ん中のJ (JOUISSANCE 享楽)は、斜線を引かれたJ、すなわち享楽欠如 manqué à jouir とされるべきものだ、とわたくしは思う。