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2017年7月19日水曜日

ララングという母の言霊

まず、仏女流ラカン派の第一人者コレット・ソレールのとても明晰な「ララング」の定義文を拾ったので、ここに訳出する。

最初期、われわれの誰にとっても、ララング lalangue は音声の媒体から来る。幼児は、他者が彼(女)に向けて話しかける言説のなかに浸されている。子供の身体を世話することに伴う「母のおしゃべり」(母のララング lalangue maternelle)はこの幼児を情動化する。あらゆることが示しているのは、母の声による情動は意味以前のものであるということである。差分的要素は言葉ではなく、どんな種類の意味も欠けている音素である。母のおしゃべりの谺(言霊)である子供の片言ーーあるいは喃語 lallationーーは、音声と満足とのあいだの連結を証している。それはあらゆる言語学的統辞や意味の獲得に先立っている。ラカンは強調している、前言葉 pré-verbal 段階のようなものはない、だが前論弁的 pré-discursif 段階はある、と。というのはララング lalangue は言語 language ではないから。

ララングは習得されない。ララングlangageは、幼児を音声・リズム・沈黙の蝕éclipse等々で包む。ララングlangageが、母の舌語(la dire maternelle) と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins から。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。

ララングは、脱母化をともなうオーソドックスな言語の習得過程のなかで忘れられゆく。しかし次の事実は残ったままである。すなわちララングの痕跡が、最もリアル、かつ意味の最も外部にある無意識の核を構成しているという事実。したがってわれわれの誰にとっても、言葉の錘りは、言語の海への入場の瞬間から生じる、身体と音声のエロス化の結び目に錨をおろしたままである. (コレット・ソレール、2011(英訳2016), Colette Soler, Les affects lacaniens)

次に上のコレット・ソレールが指摘している、母の身体的接触が後の生にとっての要(かなめ)になることにかかわるフロイトの代表的叙述を掲げる。


母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版、1940、私訳)

ララングの重要性は、ラカン派ではない日本の精神科医においても「喃語」や言語の「もの」性という語彙を使って次のような形で語られている。


言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」1996年『家族の肖像』所収)

 …………

現代ラカン派の臨床家は、この身体の出来事としてのララングが核心概念とすることが多い。例えば「21世紀におけるリアルLE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」と名付けられた2012年の会議にて、ラカン主流派のジャック=アラン・ミレールは、 《身体における、ララングとその享楽の効果の純粋遭遇 une pure rencontre avec lalangue et ses effets de jouissance sur le corps》あるいは《欲動の純粋衝撃 Un pur choc pulsionnel》と口に出している。

この表現はラカンの次の文とともに読まなければならない。

サントーム(症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

サントームがララングと大いに関わるのは、Geneviève Morelが簡潔に示している。

サントーム(原症状)は、母の舌語(ララング)に起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。話すことを学ぶ子供は、このララングと母の享楽によって生涯徴付けられたままである。

これは、母の要求・欲望・享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère »。が、人はそこから分離しなければならない。

この「母の法」は、「非全体」としての女性の享楽の属性を受け継いでいる。それは無限の法である。Cette loi de la mère hérite des propriétés de la jouissance féminine pas-toute : c’est une loi illimitée.(Geneviève Morel, 2005, Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)

ミレールなら次のように言う。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)

忘れがちなのは、サントームとはフロイトの固着(原抑圧)のことでもあることだ。

「一」と「享楽」との関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。

Je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours)

Geneviève Morel の叙述に、人はサントームから《分離しなければならない》とあったがなぜか? Morelは《母の法 loi de la mère》、《非全体 pas-toute」としての女性の享楽 jouissance féminine》等々の表現も使っている。

母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan.S5、22 Janvier 1958)

次のコレット・ソレールとジャック=アラン・ミレールの記述もこの勝手気ままな「母の法」にかかわる。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)
「父の名 Nom-du-Père」は「母の欲望 Désir de la Mère」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽 jouissance du corps は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre,2013)

ここで冒頭のコレット・ソレールの叙述に戻ろう。《ララングの痕跡が、最もリアル、かつ意味の最も外部にある無意識の核を構成している》とあった。そしてこの痕跡はわれわれの全人生を支配しているという含みをもつ表現がなされている。

どういうことだろうか? --ララングは永遠回帰するのである。

リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle (Lacan、S21,08 Janvier 1974)
・リフレインは、円あるいは円環としての永遠回帰である。La rengaine, c'est l'éternel retour comme cycle ou circulation, (Différence et répétition、1968)

・小さなリフレイン、リトルネロとしての永遠回帰 l'éternel retour comme petite rengaine, comme ritournelle(MILLE PLATEAUX, 1980)

・リトルネロはプリズムであり、時空の結晶である La ritournelle est un prisme, un cristal d'espace-temps. (Deleuze et Guattari 1980)

もちろん永遠回帰はニーチェ用語である。《迷宮は永遠回帰を示す le labyrinthe désigne l'éternel retour 》(Deleuze, Nietzsche et la philosophie,1962)

フロイトはニーチェの永遠回帰を反復強迫と等価なものとして扱っている(参照:生成変化としての永遠回帰/運命強迫としての永遠回帰)。だが今はニーチェの次の文のみを引用するだけにしておこう。

もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番)

 ※やや詳しくは、「引力と斥力」を見よ。

さらにまた「原穴の名 le nom du premier trou」とあったが、これはブラックホールにかかわる表現である。

欠如とは空間的で、空間内部の空虚を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir)

※欠如と穴にかかわるいくらか詳細な文献としては、「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」を見よ。

次のドゥルーズ&ガタリのリトルネロをめぐる叙述からも、ララングはーーラカンの《リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle》という表現に依拠すればーー、カオス、ブラックホール(非全体)にかかわるとすることができそうである。

リロルネロは三つの相をもち、それを同時に示すこともあれば、混合することもある。さまざまな場合が考えられる。あるときは、カオスが巨大なブラックホールとなり、人はカオスの内側に中心となるもろい一点 point fragile を設けようとする。あるときは、一つの点のまわりに静かで安定した「外観 allure」を作り上げる(形態 formeではなく)。これによって、ブラックホールはわが家に変化したのである。またあるときは、この外観に逃げ道を接ぎ木して、ブラックホールの外にでる。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)

2016年11月2日水曜日

リアルな対象a とイマジネールな対象a

《a は、現実界の位のものである le a est de l'ordre du réel》(ラカン、S.12)

…対象a という用語が、現実界の位にあることは疑問に付される(……)。

アンコールの八章で、ラカンが対象a を現実界の位から降格させているのを見ると、人は衝撃を受ける…ここなのだ、我々が、後期ラカンが奏でる突破口の準備を見るのは。(Jacques-Alain Miller,2002

(ラカン、S.20、アンコール第八章)




前期ラカン(セミネール4、5)には le réel dans le symbolique/le réel symbolique という表現がある。ロレンツォ・キエーザは、すでにこの時期にーーセミネール7で示された 超越的なリアルという一時的な気の迷いに反してーーラカンは超越論的リアルを考えていたと想定している。

現実界のないの象徴界はない。そして象徴界のない現実界はない。(……)

象徴界のなかの現実界 le réel dans le symbolique がある限りにおいてのみ、象徴界は象徴的である。 象徴的現実界 le réel symboliqueがある限りにおいてのみ、現実界は現実界的である。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、2007)

いずれにしろ、ラカンはセミネール22、23で、対象a のポジションを象徴界・想像界・現実界の重なる場所に置いている。






核心は、対象aは外密« l'objet a est extime » (S.16)であり、 現実界は外立 «Le Réel ex-siste » (S.22)であることだろう。外密も外立も相同的である。ようするに象徴界内部に(象徴界の非全体pas-tout の領域に)外密‐外立する(参照:基本版:現実界と享楽の定義)。

最初はミレールの「脅し」のような問いかけにビックリしなかったことはないが、いまでは冷静に?古典的ラカンを交えながら、対象aを捉えている(ま、細部の議論は勝手にやってください、ということ)。対象a の核心は、フロイトの喪われた対象 objet perdu であることには変わりはないだろう、と念じている。

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S.17ーー永遠回帰・享楽回帰・純粋差異)

…………

現実の領域は対象a の除去の上になりたっているが、それにもかかわらず、対象a が現実の領域を枠どっている。 le champ de la réalité ne se soutient que de l’extraction de l’objet a qui lui donne son cadre (Lacan,E.554,1966)

◆ミレールの古典的な注釈(Jacques-Alain Miller,Montré à Prémontré 1984)

対象を〈現実界〉として密かに無視することによって、現実の安定が「ひとかけらの現実」として保たれているのだ、とわれわれは理解している。だが、〈対象a〉がなくなったら、〈対象a〉はどうやって現実に枠をはめるのか。   



〈対象a〉は、まさしく現実の領域から除去されることによって、現実を枠にはめるのである。 〈対象a〉というのはこのような表面の断片であり、それを取り除くことが、それに枠をはめることになるのである。主体とは、すなわち斜線を引かれた主体とは、存在欠如であるから、この穴のことである。存在としては、この除去されたかけらにほかならないのである。主体と〈対象a〉は等価である、とはそういうことなのである。(ミレール,1984)

…………

30年前の注釈なので古くなっているところはある(たとえば穴の意味)。だが基本的にはこの穴自体としてのリアルな対象a、そしてこの穴を埋めるイマジネールな対象aがある、ということには変わりはない、とわたくしは思う。

穴を埋めるものは、まず代表的にはフェティッシュである。

ジャック=アラン・ミレールによって提案された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、《我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien]》。

これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは同様に空虚を隠蔽する、見せかけが無のヴェールであるように。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

ここでジジェク=ミレールの言っている「無」とは「穴(ブラックホール)」のことである(このあたりが古典的ミレールの注釈には欠けている)。

Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)

Ⱥ とはラカンの対象a のいくつかある定義(参照:対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa))の内のひとつ、リアルな対象aのことである。

大他者のなかのリアルな穴 real hole としての対象aは、次の二つ、すなわち剰余-残余のリアルの現前としての穴、そして全体のリアル Whole Real の欠如(原初の現実界 primordial Real は、決して最初の場には存在しない)、すなわち享楽不在としての穴である。(ロレンツォ・キエーザ、2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、私訳)

そしてよく知られているように(?)、〈女〉とは、Ⱥ=穴(ブラックホール)を徴示するシニフィアンS(Ⱥ)のことである。

S(Ⱥ)は、「La Femme n'existe pas〈女〉は存在しない」を徴示する。(ヴェルハーゲ、1999)
S(Ⱥ) から Φ (ファルス)への移行は、不可能 性から禁止への移行である。S(Ⱥ) とは、大他者のシニフィアンの不可能性を徴示する。「大他者の大他者はいない」という事実、大他者の領野は、本質として非一貫的(非全体 pas-tout)であるという事実のシニフィアン(徴示素)である。Φ はこの不可能性を例外へと具象化する。 神聖な、禁止された/到達しえない代理人ーー去勢を免れ、全てを享楽する形象のなか へと具現化する。(ジジェク,1995ーーS(Ⱥ) とΦ の相違(性別化の式)、あるいは Lⱥ Femme

ではファルス Φ も穴埋めの一種なのだろうか。

ファルスは繋辞である。そして、繋辞は大他者に関係がある。

対象a は繋辞ではない。これが、ファルスとの大きな相違だ。対象a は、享楽のモードを刻んでいる。しかし、大他者との関係から切り離された享楽だ。

人が、対象a と書くとき、正当的な身体の享楽に向かう。正当的な身体のなかに外立 ex-sistence する享楽に。

ラカンは対象a にて止まらない。なぜか? 彼はセミネールXX、ラカンの教えの第二段階の最後で、それを説明している。対象a はいまだ幻想のなかに刻まれた sens joui (享楽する意味)である。

我々が、この機能について、ラカンから得る最後の記述は、サントームの Σ である。S(Ⱥ) を Σ として記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」(参照)の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。((ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え」Le dernier enseignement de Lacan' (‘Lacan's later teaching'、2002)

あるいは次のような説明もある(参照:ファルスΦと対象aの相違、あるいは二重の欠如)。

ファルスは対象aの一連の形象化における最後のものである。それは目につきやすい想像的な特徴を発揮する。…ファルスはたんに対象aの一つの形象ーー他の形象のなかのひとつではない。それは特別の地位を負っている。(Richard Boothby , Freud as Philosopher [2001]).
ファルスは対象ではなく、他の源泉、すなわち対象aから来る享楽を統制する事例instanceである。これらの享楽は、ファルスのシニフィアンによって解釈されることを通して統制され、ファルス快楽に変わる。構造的に、この象徴化は不完全のままである。対象aは、象徴化に抵抗する現実界の部分である。(Verhaeghe, P. & Declercq, F. 2002 Lacan's analytical goal: "Le Sinthome" or the feminine way

ブルース・フィンクはすでに、S(Ⱥ)はS(a)と書けるかもしれない、と1995年に指摘している(父の名、Φ、S1、S(Ⱥ)、Σをめぐって)。すなわち、Ⱥ=a。ようするに対象a とはイマジネールなものだけではない。リアルな対象a がある。

もちろん、シンボリックな対象a もある、S(Ⱥ)はシニフィアンである。あるいは斜線を引かれた「一」(l' Un de signifiant)も同じく(これは「一の徴 trait unaire」(フロイトの der einzige Zug)のことでもある筈)。

(ヴェルハーゲ、1999)


この原トラウマにかかわる対象a、あるいは原トラウマ Ⱥ のシニフィアン S(Ⱥ) は、「一のシニフィアン」、身体のパッションーー身体の出来事=サントームーー、文字Lettre ともされる。

la passion du corps = l' Un de signifiant = Lettre = petit(a) --Lacan,S.22 pp.71-73

くり返せば、この対象aは「文字」とされるているように、原トラウマにかかわるが、直接的に原トラウマではない。象徴的なものである。

・「一の徴 trait unaire」の機能 la fonction du trait unaire は…、徴のもっともシンプルな形 la forme la plus simple de marque であり、厳密に言って、シニフィアンの起源 l'origine du signifiantである。

・「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入(突入)の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(Lacan,S.17)

…………

以上をいささか補足するならば現在は次のように言われている(これは、専門的なラカン派内で議論したらいい話であるが敢えて付け加えるならば)。

もう一度、古典的ミレールの文に戻れば、《斜線を引かれた主体とは、存在欠如であるから、この穴のことである》とあった。

この存在欠如についてもミレールは修正している。

私はラカンの教えによって訓練された。存在欠如としての主体、つまり非実体的な主体を発現するようにと。この考え方は精神分析の実践において根源的意味を持っていた。だがラカンの最後の教えにおいて…存在欠如としての主体の目標はしだいに薄れ、消滅してゆく…(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller)
ラカンの最初の教えは、存在欠如 manque-à-êtreと存在欲望 désir d'êtreを基礎としている。それは解釈システム、言わば承認 reconnaissance の解釈を指示した。(…)しかし、欲望ではなくむしろ欲望の原因を引き受ける別の方法がある。それは、防衛としての欲望、存在する existe ものに対しての防衛としての存在欠如を扱う解釈である。では、存在欠如であるところの欲望に対して、何が存在 existeするのか。それはフロイトが欲動 pulsion と呼んだもの、ラカンが享楽 jouissance と名付けたものである。(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller)

コレット・ソレールはよりいっそう明確にこう言っている。

ラカンは最初には「存在欠如(le manque-à-être)」について語った。(でもその後の)対象a は「享楽の欠如」であり、「存在の欠如」ではない。(Colette Soler at Après-Coup in NYC. May 11,12, 2012、PDF)
parlêtre(言存在)用語が実際に示唆しているのは主体ではない。存在欠如 manque à êtreとしての主体 $ に対する享楽欠如 manqué à jouir の存在êtreである。(コレット・ソレール, l'inconscient réinventé ,2009ーー人間の根源的な三つの次元:享楽・不安・欲望

これがリアルな対象a にかかわるものである(筈)。

リアル real な残余のこの現前は、実際のところ、何を構成しているのか? 最も純粋には、剰余享楽(部分欲動)としての「a」の享楽とは、享楽欠如を享楽することのみを意味する。というには、享楽するものは他になにもないのだから。(ロレンツォ・キエーザ、2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、私訳)

結局、アンコール第八章の図の真ん中のJ (JOUISSANCE 享楽)は、斜線を引かれたJ、すなわち享楽欠如 manqué à jouir とされるべきものだ、とわたくしは思う。






2016年9月20日火曜日

基本版:現実界と享楽の定義

慣用上、表題を「現実界と享楽の定義」としたが、ラカンの教えには「定義」などというものはない。「メタランゲージはない」。これは「大他者の大他者はない」ということでもある。

Ce que nous formulons à dire qu'il n'y a pas de métalangage qui puisse être parlé, plus aphoristiquement : qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre..(LACAN,SUBVERSION DU SUJET ET DIALECTIQUE DU DÉSIR)

ようはラカン理論を支えるものはなにもない。すなわち「定義」=メタ言語はない。ただしメタ言語は外立する。《ディスクールによって位置づけられた言表行為は真理に外立する[ex-siste」。》(Lacan, L'étourdit, 1973)

もちろんこれはラカン理論に限らない、《どのような論理学も、命題論理学でさえ、自らの支えと頼れるような「メタ言語はない」(それぞれの論理には固有の愚劣さが残る)》。(同上、エトゥルディ)

ーー外立する[ex-siste」をめぐっては以下の文を読めばわかるだろう。

かつまた以下の文は、何人かの注釈者による「現実界」と「享楽」の定義めいたものに過ぎず、異なった解釈があるのはいうまでもない。

 …………

【現実界】

現実界 The Real は、象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立が象徴界自体に内在的なものであるという点、内部から象徴界を掘り崩すという点にある。すなわち、現実界は象徴界の非全体 pas-tout である。一つの現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからである。

存在(現実) [being (reality)] があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためである。なぜなら、現実界は形式化の行き詰りだから。この命題は、完全な「観念論者」的重みを与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり躓いたりするというだけではない。現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 現実界は、外部の例外ではなく、形式化の非全体 pas-tout 以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

《物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。それは自分の顔のようなものだ》(柄谷行人→ 「言い得ぬもの」はアンチノミーの場にあり、何ら神秘的な意味合いはない

…………

・現実界は快原理の障害(物)である le réel, à savoir l'obstacle au principe du plaisir (ラカン、S.11)

・現実界は見せかけのなかに穴を開けるものである。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(S.18)

・現実界とは形式化の袋小路である。 Le reel est un impasse de formalization(S.20)

・現実界 [ le réel ] は外立 [ ex-sistence]である。(Séminaire (S.22)

・現実界は全きゼロの側に探し求められるべきである。Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu(S.23)

我々はラカンの断言「象徴的大他者の大他者はない」を思い起こす必要がある。この意味は何よりもまずなによりも、象徴的大他者はどんな〈他〉の外部の支え(〈父の名〉の普遍的法)によっても正当化されないということであり、象徴界が非全体 pas-tout である限り、象徴界に関するリアルな〈他者性〉はもはやあり得ないことである。

言い換えれば、倫理のセミネールVII に反して、最後のラカンにとっては、「根源的な〈一者〉は存在しない」ーー、それは象徴界によって原初に「殺された」のである。すなわち、「純粋な」根源的〈リアル〉はない(真の現実界はない)。象徴界の〈リアル〉Real-of-the-Symbolic の次元を超えた現実界はない。すなわち、象徴界に(想像界に接合しつつ)「穴を開ける」現実界の残余の側面を超えた現実界はない。

さらに私は強調しなければならない。ラカンにとって、「「根源的な〈一者〉」ーー真の現実界ーーは「非一」not-one である。まさにそれが《「一」として数えられる》ことが出来ない限りで。すなわち、現実界はゼロに相当する。セミネールXXIIIの鍵となる一節にて、ラカンは指摘している、《現実界は全きゼロの側に探し求められなければならない》と。というのは、《燃えている火(「渦巻く」享楽の蜃気楼)はたんに現実界の仮面》なのだから、と。(S.23 Le sinthome,)

我々はこのゼロを遡及的にのみ考えうる。「まやかしのfake」象徴的/想像的〈一者〉(ラカンが見せかけ semblant と呼んだものだ)の立場からのみ。(…)ゼロは全く何物でもない。しかし「まやかしの」〈一者〉の限定された観点からのみの何かである。モノ自体は無-物であるとラカンは言う。それは l'achoseだと。(ラカンは、l'achose を l'insub-stanceと同じものとしている。(S.17)(ロレンツォ・キエーザ、2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、私訳)


…………

 【享楽 JOUISSANCE】

では正確に、享楽概念は何を意味するのだろう? ラカンは決してはっきりとは定義しない。ただ漠然と示唆するだけだ。この不明瞭さは故意のものである。ラカンにとって、享楽は定義上、定義されない。それは象徴化を逃れるものだから(Lacan, S.17)。もっともフロイトにも類似の概念を見出せないではないが。快原則の彼岸についての叙述に、ラカンは享楽の考え方の示唆を見出している。快原則の「彼岸」(jenseits) に何かがあるに相違ない。フロイトはそう結論する。…奇妙な反復があるのだ。奇妙なというのは、反復されるものが、快と呼ばれるものでは必ずしもないからだ。実際、享楽は快の反対物かもしれない。すなわち、"Unlust" あるいは" déplaisir"である(S.17)。 (Paul Verhaeghe, Enjoyment and Impossibility: Lacan's Revision of the Oedipus Complex,2006,私訳)

《――享楽 Lust はあまりにも富んでいるゆえに、苦痛を渇望する。地獄を、憎悪を、屈辱を、不具を、一口にいえば世界を渇望する、――この世界がどういうものであるかは、おまえたちの知っているとおりだ。》(『ツァラトゥストラ』)手塚富雄訳、ただし悦楽 Lust を享楽に変更)

Lustgewinn(快の獲得)は、フロイトの最初の概念的遭遇、--後に快原理の彼方、反復強迫に位置されるものとの遭遇である。そして、精神分析に M–C–Mʹ(貨幣– 商品–貨幣'[貨幣+剰余価値])と同等のものを導入した。(Samo Tomšič,The Capitalist Unconscious,2014)ーー「快の獲得 Lustgewinn、剰余価値 Mehrwert、剰余享楽 plus-de-jouir」)

享楽の現実界とは、言語の外部に単純にあるものどころか(現実界は、むしろ言語に関して「外密 extimité」である)、言語のなかで象徴化に抵抗する何かであり、言語のなかに異物の核として居残ったものである。現実界は、裂け目、切れ目、隙間、非一貫性、不可能性として現れる。《私はどの哲学者にも挑んでいる。シニフィアンの出現と享楽が存在にかかわる仕方とのあいだにある関係を、この今確認するために。…どの哲学も、言わせてもらえば、今日、我々に出会えない。哀れにも流産した哲学のオタクどもThe wretched aborted freaks of philosophy(仏原文 ces misérables avortons de philosophie) 。我々はその哲学を後ろに引き摺っているのだ、前世紀(19世紀)の初めから、ボロボロになった習慣として。あの哲学オタクとは、むしろこの問いに遭遇しないようにその周りを踊る方法にすぎない。この問いとは、真理についての唯一の問いである。それは、死の欲動と呼ばれるもの、フロイトによって名付けられたもの、享楽の原マゾヒズム…。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。》(Lacan,S.13: L'objet de la psychanalyse)(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

※註:「外立 ex-sistence」≒「外密 extimité」

・私の最も内にある親密な外部、モノ=対象a としての外密。《extériorité intime, cette extimité qui est la Chose》(ラカン、S.7)

・外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。外密は、親密な〈他〉である。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité

・Fremdkörper(異物)は内部にあるが、この内部の異者である。現実界は、分節化された象徴界の内部(非全体pas-tout)に外立 ex-sistence する。(Paul Verhaeghe、2001,PDF)

享楽自体の地位は、ある意味で、二重化された見せかけ semblance の地位である。享楽はそれ自体としては存在しない。享楽は象徴的過程、そこに内在する非一貫性と反作用の過程の残余あるいは生産物として、ただ己れを主張するだけである。言い換えれば、象徴的見せかけ semblances は、ある揺るぎない実体的な現実界自体に関する見せかけではない。この現実界は(ラカン自身が定式化しているように)、ただ象徴化の袋小路を通してのみ識別できる。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)
享楽は「苦痛のなかの快 pleasure in pain」である。もっとはっきり言えば、享楽とは対象aの享楽と等しい。対象a は、象徴界に穴を引き裂く現実界の残留物である。大他者のなかのリアルな穴real hole としての対象aは、次の二つ、すなわち剰余-残余のリアルの現前としての穴、そして全体のリアル Whole Real の欠如(原初の現実界 primordial Real は、決して最初の場には存在しない)、すなわち享楽不在としての穴である。

リアル real な残余のこの現前は、実際のところ、何を構成しているのか? 最も純粋には、剰余享楽(部分欲動)としての「a」の享楽とは、享楽欠如を享楽することのみを意味する。というには、享楽するものは他になにもないのだから。(ロレンツォ・キエーザ、2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、私訳)

※註:「苦痛のなかの快」→「Schmerzlust 苦痛のなかの快」

……この女性的マゾヒズムは、原初の、性的(催情的) erotogenicマゾヒズム、苦痛のなかの快である。Der beschriebene feminine Masochismus ruht ganz auf dem primären, erogenen, der Schmerzlust, (フロイト『マゾヒズムの経済的問題』1924 )

《ニューヨークには「私どもは奴隷です」と呼ばれる団体があって、人のアパートの部屋を無料で掃除し、その家の主婦に乱暴に扱われたいという人を提供している。この団体は、掃除をする人を広告を通して集める(その謳い文句は「隷従そのものが報酬です」である)、応募してくる人の大半が,高い報酬を得ている重役や医者や弁護士で,彼らは動機を聞かれると,いつも責任を負っていることがいかに気分が悪いかを力説する――乱暴に命令されて仕事をし、どなりつけられることをこよなく楽しむのだ。》(ジジェク『サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性』)




ーー享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌から。

享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「〈他者〉の享楽  la jouissance de l'Autre 」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者(異物)である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の〈他者〉、まさに同じ表現(「〈他者〉の享楽  la jouissance de l'Autre 」)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる〈他者〉the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、〈他者〉の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに混淆があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての〈他者〉を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる〈他者〉the (m)Otherとしての〈他者〉があり、シニフィアンの媒介として享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一〈他者〉から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2009、私訳,PDF

《他者〉、それは身体である!L'Autre, …c'est le corps ! 》(S.14)

ーー前期ラカンのように想像的他者でないことに注意(参照:ラカンの身体概念の移行)

※註:《我々のリアルな有機体は、最も親密な異者(異物)》
→ 《我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger 》(ラカン、S.23)= 異物 Fremdkörper (フロイト、1893ーー基本的なトラウマの定義)

すべてが見せかけではない。ひとつの現実界がある。社会的紐帯の現実界は、性関係の不在であり、無意識の現実界は話す身体である。tout n'est pas semblant, il y a un réel. Le réel du lien social, c'est l'inexistence du rapport sexuel. Le réel de l'inconscient, c'est le corps parlant. (ミレール『無意識と話す身体』2014、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER

※註:《話す身体 le corps parlant》


人は、ファルス享楽を超えても、いまだ性関係はない。というのは、ファルス享楽の彼方には、ジェンダーの差異はなく、《ファルスの彼方には Au-delà du phallus…身体の享楽 la jouissance du corps》(S.20)があるだけだから。

私はこれを次のように解釈する。すなわち、ファルスを超えた男と女とのあいだの関係は、主体と身体の享楽とのあいだの関係、あるいは、ファルス享楽と他の享楽とのあいだの関係とと同じものになる、と。

しかし、この「彼方」はそれ自体、目的地ではない。逆に、これに対する主体の最初の反応は、不安でありうる。そして、ファルス享楽は、有機体としての身体の享楽に対する防衛として理解されなければならない。事実、この享楽の形式は、象徴界を離れることを意味する。したがって、消滅、すなわち、主体の死である。《死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない》 [le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance] (Séminaire, XVII)。したがって、これは死の欲動と関連している。(Paul Verhaeghe, Subject and Body. Lacan's Struggle with the Real. 2001,私訳)

…………

【享楽欠如の享楽】

ラカンの最初の教えは、存在欠如 manque-à-être と存在欲望 désir d'être を基礎としている。それは解釈システム、言わば承認 reconnaissance の解釈を指示した。(…)しかし、欲望ではなくむしろ欲望の原因を引き受ける別の方法がある。それは、防衛としての欲望、存在する existe ものに対しての防衛としての存在欠如を扱う解釈である。では、存在欠如であるところの欲望に対して、何が存在 existeするのか。それはフロイトが欲動 pulsion と呼んだもの、ラカンが享楽 jouissance と名付けたものである。(ミレール、2011,L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain millerーー「欲動と享楽の相違

コレット・ソレールも。後期ラカンを、存在欠如 manque à être から享楽欠如 manque à jouir への移行としている(参照)。

欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 manque à jouir です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象」と呼んだもの、ラカンが欠如しているものとしての「対象a」と呼んだものです。それにもかかわらず、複合的ではあるけれど、人は享楽欠如を楽しむことが可能です on peut jouir du manque à jouir。それはラカンによって提供されたマゾヒズムの形式のひとつです。(Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », Brésil, 10/09/2013ーー基本版:現代ラカン派の考え方

※やや難解版→ 人間の根源的な三つの次元:享楽・不安・欲望


【享楽欠如の享楽=剰余享楽】

まさに享楽の喪失が、その自身の享楽、剰余享楽(plus‐de‐jouir)を生み出す。というのは享楽は、いつも常に喪われたものであると同時に、それから決して免れる得ないものだからだ。フロイトが反復強迫と呼んだものは、この現実界の根源的に曖昧な地位に根ざしている。それ自身を反復するものは、現実界自体である。それは最初から喪われており、何度も何度もしつこく回帰を繰り返す。 (ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)
……問題は、原初の享楽の残余は何かということだ。ふたたびラカンは曖昧な表現で答える、「剰余享楽le plus-de-jouir」と。仏語では、これを二つの仕方で理解され得る、「もはや享楽しないnot enjoying any more」と「もっと享楽をmore of the enjoyment」である。防御的なエラボレーションの後に、主体にとって残っている享楽は、原初の形式未満の異なったものであり、決して十分に満足を与えない。(ポール・バーハウ、new studies of old villains,2009)

…………

もうおわかりのように、途中に貼り付けた途轍もなく豊かな示唆をふくむGIFーー肛門や口唇欲動だけでなく眼差し、声の欲動までにも思いを馳せさせる画像が以上のまとめ文の臍である・・・

ーー欲動は《享楽の漂流 la dérive de la jouissance》(Lacan,S.20)である。

享楽 jouissance、それは欲望に応えるもの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。« la jouissance ce n’est pas ce qui répond au désir (le satisfait), mais ce qui le surprend, l’excède, le déroute, le dérive. 》このように主体を踏み迷わせうるものを適切に言いあらわすことばは、神秘主義者たちにたずねるほかない。たとえばライスブルックのことば、「私が精神の陶酔と呼ぶものは、享楽が、欲望によって垣間見られていた可能性を越えてしまう、あの状態である。」(『彼自身によるロラン・バルト』)

…………

【付記】

ーー私には享楽などない、と考える人版。

ラカンの鍵となる区分け、快楽 (Lust, plaisir) と享楽 (Geniessen, jouissance) ……。「快原理の彼岸」にあるものは享楽自体、欲動それ自体である。享楽の基礎的パラドックスは、不可能であると同時に避けられらないことだ。それは決して十分に獲得されず常に欠けている。しかし同時に決して享楽から免れ得ない。享楽のどんな断念も、断念の享楽を生む。欲望することのどんな障害も、障害への欲望を生む。等々。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)
あなたが義務という目的のために己の義務を果たしていると考えているとき、密かにわれわれは知っている、あなたはその義務をある個人的な倒錯した享楽のためにしていることを。法の私心のない(公平な)観点はでっち上げである。というのは私的な病理がその裏にあるのだから。例えば義務感にて、善のため、生徒を威嚇する教師は、密かに、生徒を威嚇することを享楽している。 (『ジジェク自身によるジジェク』2004)



2016年9月18日日曜日

身体もなく、性もない処女 UNE VIERGE SANS CORPS, NI SEXE (アルトー)と(a)-natomie 、(a)sexuée(ラカン)

わたくしはアルトーをまともに読んだことはない。以前のブログで次の文を引用しつつ眺めたぐらいである。このブログはまるごと消してしまったのでまずここに再掲しよう。

私、アントナン・アルトー、一八九六年九月四日、マルセイユ、植物園通り四番地にどうしようもない、またどうしようもなかった子宮から生まれ出たのです。なぜなら、九カ月の間粘膜で、ウパニシャードがいっているように歯もないのに貪り食う、輝く粘膜で交接され、マスターベーションされるなどというのは、生まれたなどといえるものではありません。だが私は私自身の力で生まれたのであり、母親から生まれたのではありません。だが母は私を捉えようと望んでいたのです。(『タマユラマ』)
ひろげた二つの腿の中央に腹部が楔のように入り込む時、腿の形づくる逆三角形は、不吉な空間にエレボスのうすぐらい円錐体を再現する。そして月の月経をむさぼる者に手を借す太陽的陽物像の崇拝者はその不吉な空間に己が興奮をそそぎこむ。(『ヘリオガバルス または戴冠せるアナーキスト』)
そして興奮の絶頂、狂乱の最中、声がしわがれ、女性的な生殖のアルトに変わる時、きまってヘリオガバルスが現われる。太陽の宝冠を戴き、火のように燦く無数の宝玉をちりばめたマントを身にまとい、金に浸して金泥に覆われた、不動の、硬直した、無用にして無害な男根を露にし、恥骨の上には一種の鉄の蜘蛛をつけているが、サフラン色の粉を塗った臀を過度に動かすたびに蜘蛛の足は彼の皮膚を擦りむいて血を流させるのだ。(同上)
ヘリオガバルスの残酷さの中に奇妙なリズムが入りこんでいる。秘伝を授けられたこの人物は、すべての行為を巧みに、そして二重に、だぶらせてしまう。つまりすべてが二重の平面上に成り立っている。彼のしぐさ一つ一つが両刃の剣なのである。
秩序-無秩序
統一-アナーキー
詩-不協和
リズム-不調和
偉大-幼児性
寛大-残酷
(同上)
女性が改悪した自然の力が女性に反対して、女性によって解放されるであろう。この力とは死の力である。

Une force naturelle que la femme avait altérée va se libérer contre la femme et par la femme. Cette force est une force de mort.

それは性の暗い貪欲さを持っている。それが呼び覚まされるのは女性によってであるが、統率されるのは男性によってである。男性から切除された女性なるもの、かつて女性が踏みにじった男性たちの鎖に繋がれた優しさがあの日一人の処女を復活させたのだ。しかしそれは身体もなく、性もない処女であって、ただ精神のみが彼女を利用できるのである。

ELLE A LA RAPACITÉ TÉNÉBREUSE DU SEXE. C’EST PAR LA FEMME QU’ELLE EST PROVOQUÉE MAIS C’EST PAR L’HOMME QU’ELLE EST DIRIGÉE. LE FÉMININ MUTILÉ DE L’HOMME, LA TENDRESSE ENCHAÎNÉE DES HOMMES QUE LA FEMME AVAIT PIÉTINÉE ONT RESSUSCITÉ CE JOUR-LÀ UNE VIERGE. MAIS C’ÉTAIT UNE VIERGE SANS CORPS, NI SEXE, ET DONT L’ESPRIT SEUL PEUT PROFITER.(『存在の新たなる啓示』)
〈父〉は彼自身の身体の主人だったのではなく、身体の苦痛があらゆる〈父〉たちを作り出したのであり、永遠に自らの父、すなわち〈神〉を殺したのである。というのも、その苦痛は別の名を持っていたからであり、〈七つの苦痛の母マリア〉がそれに値したのである。すなわちそれは彼女の〈息子〉であり〈他者〉である。つまり決して〈神〉ではなく、その永遠の殺害者となるものだろう。際限のない〈悪魔〉と闘争する、不可視の内部を持つ十字架。(『OCXI』)
せめて人々が自分の虚無を味わうことだけでもできたら、自分の虚無のなかでよく憩うことができたなら、そしてその虚無がある種の存在ではなく、かといってまったくの死でもないとしたなら。

もう実在しないこと、何かのなかにもう存在しないことは非常に辛いことである。ほんとうの苦しみは、思考がこころのうちで移動するのを感じることである。けれども、ひとつの点のような不動の思考はたしかに苦しみではない。

ぼくはもはや生命に触れないそうした点にいるが、ぼくの裡には存在のあらゆる欲望と――執拗な瘙痒感がある。ぼくはもう、自分をつくりなおすという一つのことにしか専念しない。(『神経の秤』)
酸っぱい、わずらわしい、刃物と同じくらい強力なある苦悶というものがあって、その四裂きの刑には地球の重みがある。身動きできない虱や固い南京虫のように締めつけられ、圧迫された深渕の句切りのような稲妻のような苦悶、精神が首をくくって、自らを切断して――自殺する苦悶というものがある。苦悶は自分に所属するものは何も消耗させず、それ自らの窒息から生まれ出る。苦悶は骨髄の凝固、精神的な火の不在、生命の循環の欠如である。

けれども阿片による苦悶にはまた別の色彩があって、それにはあの形而上学的な傾向、アクセントのあるみごとな未完成がない。ぼくはこだまと洞穴と迷路と回路とで満たされた苦悶を想像する、よく喋る火の舌と動きまわる心の眼と理屈っぽくて暗い雷の音とで満たされた苦悶を想像する。

けれども、ぼくはそのとき、よく自己集中してはいても無限に分割可能な、ありのままの物のように持ちはこび可能な魂を想像する。闘うと同時に同意し、あらゆる意味でその舌(言語)を回転させ、その性を多様化し――そして自殺する魂を想像する。

糸をほぐされたほんとうの虚無、もはや器官を持たない虚無を知る必要がある。阿片の虚無は自らの裡に、暗い穴を位置づけた考える額の形のようなものを持っている。

ぼく自身は穴の不在について語る、形も感情もない冷やかな一種の苦しみについて語る、それは筆舌につくしえない流産の衝撃のようなものだ。(『冥府の臍』)

…………

いまあらためて読むと味わいぶかい。というのはこれらの文を六年ほどまえにメモしてから、わたくしはラカンをいくらか読むようになった(それまではセミネールⅠとジジェク解釈のみだった)。

《私の内部の夜の身体を拡張すること[dilater le corps de ma nuit interne](アルトー)。


ラカンによる身体の享楽 a jouissance du corps とは、女性の享楽 La jouissance féminine、他の享楽 l'autre jouissance とも言い換えられる。享楽する実体 substance jouissante、身体の実体 substance du corps、(a)-natomie 、(a)sexuéeという語彙群もそれにかかわる。

そしていまアルトーを読むと、ラカンの (a)-natomie 、(a)sexuée とは、アルトーのUNE VIERGE SANS CORPS, NI SEXE(身体もなく、性もない処女)のパクリではなかろうか、とふと思いを馳せるわけだ・・・

ファルス享楽の彼方にある他の享楽とは、享楽する実体 substance jouissante(身体の実体substance du corps)にかかわる。ラカン曰く、これは分析経験のなかで確証されていると。 他の享楽は、性関係における失敗の相関物 corrélat として現れる。幻想は、性関係の不在の代替物を提供することに失敗する。

身体の享楽とはファルスの彼方にある。しかしながらファルス享楽の内部に外立 ex-sistence する。そして、これは (a)-natomie(対象a? の[解剖学的]構造)にかかわる。この(a)-natomie とは、ある痕跡に関係し、肉体的偶然性 contingence corporelle の証拠である。これは遡及的な仕方で起こる。これらの痕跡は、ファルス享楽のなかに外立 ex-sistence する無性的ー対象a性的 (a)sexuée な残留物と一緒に、(二次的に)性化されたときにのみ可視的になる。すなわち a から a/− φ への移行。ファルス快楽、とくにファルス快楽の不十分性は、この残留物を表出させる。臨床的に言えば、真理の彼方に(性関係の失敗の彼方に)、現実界は姿を現す。この現実界の残留物ーー享楽する実体ーーは、対象a にある(口唇、肛門、眼差し、声)。(ヴェルハーゲ、2001 Beyond Gender. From Subject to Drive. PDF)

アルトーには、satis-fous(マヌケ満足=満抜け)という表現があるが、ヴェルハーゲの注釈する a から a/− φ への移行により、女性の享楽がファルスの介入により変換されてしまったときのファルス享楽のことではないだろうか。それがアルトー曰くの maison de chair close (閉ざされた肉塊の家)ではなかろうか。

そしてファルス享楽の彼方にある他の享楽とは、アルトーの心の娘 filles de cœur (来るべき娘 filles-à-venir 、来るべき身体 corps-à-venir)ではないだろうか。これがラカンの女性の享楽 La jouissance féminine(身体の享楽la jouissance du corps)であり、ここでもラカンはアルトーをパクったのではなかろうか・・・

ラカンは1938年に、パリ大学医学部のサンタンヌに収容されているアルトーを訪れ、「この男は決してふたたび書けないだろう」とかオッシャテいたらしい。後年、アルトーの方から、docteur Lについて、あのおっちゃんは érotomanie だよ、と「診断」されている。 

ところで現在の主流ラカン派(とくにミレール派)は上に挙げた語彙群を、「話す身体 le corps parlant」という表現に収斂させて問うている。

すべてが見せかけではない。ひとつの現実界がある。社会的紐帯の現実界は、性関係の不在であり、無意識の現実界は話す身体である。tout n'est pas semblant, il y a un réel. Le réel du lien social, c'est l'inexistence du rapport sexuel. Le réel de l'inconscient, c'est le corps parlant. (ミレール『無意識と話す身体』2014、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER
…ラカンは現実界をさらにいっそう身体と関連づけていく。もっとも、この身体は、前期ラカンのように〈他者〉を通して構築された身体ではない。彼は結論づける、「現実界は…話す身体 corps parlant の謎 、無意識の謎だ«Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient  » (S.20)と。

この知は、無意識によって、我々に明らかになった謎である。反対に、分析的言説が我々に教示するのは、知は分節化された何かであることだ。この分節化の手段によって、知は、性化された知に変形され、性関係の欠如の想像的代替物として機能する。

しかし、無意識はとりわけ一つの知を証明する。「話す存在 l'être parlant の知」から逃れる知である。我々が掴みえないこの知は、経験の審級に属する。それはララング Lalangue に影響されている。ララング、すなわち、母の舌語 la langue dite maternelle、それが謎の情動として顕現する。「話す存在」が分節化された知のなかで分節しうるものの彼方にある謎めいた情動として。(ララングの享楽 la jouissance de lalangue、それは身体の享楽である)。(ヴェルハーゲ、2001、Mind your Body & Lacan´s Answer to a Classical Deadlock. In: P. Verhaeghe、PDFーー話す存在 l'être parlant / 話す身体 corps parlant)

ーーもちろんここでも、アルトーの舌語」と訳される「グロソラリ」を喚起するために敢えて、 la langue dite maternelleを「母の舌語」と訳した・・・

ge re ghi
regheghi
geghena
a reghena
a gegha
riri

話す身体 le corps parlant とは、自ら享楽する身体 un corps joui である。

女性性は、女にとって(も)異者である。したがって、彼女自身の身体という手段にて、女は「他の女」の神秘を敬う。「他の女」は、彼女が何なのかの秘密を保持している。すなわち、他の女を通して、リアルな他者を通して、彼女が何なのかを具現化しようと試みる。 ……

純化されたヒステリアの目的は、リアルな身体を作ることである。その身体のなかには、症状が住んでいる。症状の能動化の肉体的場。これがヒステリー的女の挑戦である。この身体、「症状の出来事」の場は、言説に囚われた身体とは同じではない。

言説に囚われた身体は、他者によって話される身体、享楽される身体である。反対に、話す身体le corps parlantとは、自ら享楽する身体un corps joui である。(The mystery of the speaking body,Florencia Farías, 2010、PDF

とはいえ、これらは享楽欠如を享楽することである(という見解を、いまのところ、わたくしはとる)。たとえば、コレット・ソレールは後期ラカンを、存在欠如 manque à être から享楽欠如 manque à jouir への移行としている(参照)。あるいはロレンツォ・キエーザ(ジジェクの弟子筋)は次のように言う。

享楽は「苦痛のなかの快 pleasure in pain 」である。もっとはっきり言えば、享楽とは対象aの享楽と等しい。対象aは、象徴界に穴を引き裂く現実界の残留物である。大他者のなかのリアルな穴real hole としての対象aは、次の二つ、すなわち剰余-残余のリアルの現前としての穴、そして全体のリアルWhole Realの欠如ーー原初の現実界 primordial Real は、決して最初の場には存在しないーー、すなわち享楽不在としての穴である。

リアルreal な残余のこの現前は、実際のところ、何を構成しているのか? 最も純粋には、剰余享楽(部分欲動)としての「a」の享楽は、享楽欠如を享楽することのみを意味する。なぜなら、享楽するものは他になにもないのだから。(ロレンツォ・キエーザ「ラカンとアルトー」 、Lorenzo Chiesa、Lacan with Artaud: j'ouïs-sens, jouis-sans, jouis-sens、PDF

…………

※付記

いまや勝利を得るには、語-息、語-叫びを創設するしかない。こうした語においては、文字・音節・音韻に代わって、表記できない音調だけが価値をもつ。そしてこれに、精神分裂病者の身体の新しい次元である輝かしい身体が対応する。これはパーツのない有機体であり、吸入・吸息・気化といった流体的伝勤によって、一切のことを行なう。これがアントナン・アルトーのいう卓越した身体、器官なき身体である。(ドゥルーズ『意味の論理学』「第十三セリー」)
器官なき身体は、根源的な無の証人でもなければ、失われた全体性の残骸でもない。とりわけそれはなにかの投影ではない。固有の身体そのものとは、身体のイメージとは無関係である。それはイメージのない身体なのである。それは非生産的なものでそれが生産されるまさにその場所に、二項的ー線型的系列の第三の契機において存在する。(中略)器官な充実身体は、反生産の領域に属している。しかし、生産を反生産に、また反生産の一要素に連結することは、やはり接続的総合のひとつの特性なのである。 (ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オディプス 』 )
「私はあやゆる流れるものを愛する。あの月経の流れさえも。受精しなかった卵を運ぶあの月経の流れさえも・・・・。」ミラーは彼の欲望の賛歌においてこう言っている。羊水の袋と腎臓の結石。毛髪の流れ、涎の流れ、精液。糞、尿の流れ。これらの流れはもろもろの部分対象によって生産され、またたえず他の部分対象によって切断され、これがまた他の流れを生産し、生産された流れはまた別の部分対象によって再び切断される。あらゆる「対象」は流れの連続を前提とし、あらゆる流れは対象の断片化を前提としている。おそらく、それぞれの 〈器官機械〉 は、自分の流れにしたがって、自分自身から流れ出すエネルギーにしたがって、世界全体を解釈する。眼はあらゆることを、語ることも、聞くことも、排便することも、性交することも、見るという言葉で解釈する。(同上)
われわれはしだいに、CsO(器官なき身体)は少しも器官の反対物ではないことに気がついている。その敵は器官ではない。有機体こそがその敵なのだ。CsOは器官に対立するのではなく、有機体と呼ばれる器官の組織化に対立するのだ。アルトーは確かに器官に抗して闘う。しかし彼が同時に怒りを向け、憎しみを向けたのは、有機体に対してである。身体は身体である。それはただそれ自身であり、器官を必要としない。身体は決して有機体ではない。有機体は身体の敵だ。CsOは、器官に対立するのではなく、編成され、場所を与えられねばならない「真の器官」と連帯して、有機体に、つまり器官の有機的な組織に対立するのだ。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)


2016年6月18日土曜日

欲望は剰余享楽の換喩である

前回、コレット・ソレールColette Soler、2013から次の文を拾った。

・精神分析家に関心をもたらす唯一のものについて話すなら、欲望は〈他者〉の欲望ではない。

・欲望に適用される換喩は、欠如の換喩であると同程度に剰余享楽の換喩である。

これは、巷間に流布する旧来のラカン派の「常識」を覆そうとする文である。

そもそもラカン自身がある時期まで、「欲望は大他者の欲望である」と何度も繰り返している。

・ Le désir de l'homme, c'est le désir de l'Autre »(セミネールⅩⅠ)

・le désir inconscient est le désir de l'Autre. ≫(LA DIRECTION DE LA CURE ,E.632)  

「欲望は存在欠如の換喩」についても同じく。

le désir est la métonymie du manque â être, E.640

ところで、ジャック=アラン・ミレールが次のように言っているのも前回みた。

私はラカンの教えによって訓練された。存在欠如としての主体、つまり非実体的な主体を発現するようにと。この考え方は精神分析の実践において根源的意味を持っていた。だがラカンの最後の教えにおいて…存在欠如としての主体の目標はしだいに薄れ、消滅してゆく…(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller

Pierre-Gilles Guéguen もーー彼はミレール派なので当然かもしれないがーー次のように言っている。

主体は、存在欠如である être manque à être 以前に、身体を持っている。そして、ララングによって刻印されたこの身体を通してのみ、主体は欠如を持つ。分析は、この穴・この欠如に回帰するために、ファルス的意味を純化することにおいて構成される。これは、存在欠如ではない。そうではなくサントームである。(Guéguen「21世紀における話す身体とその欲動 LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE 」、2016,PDF)

このPierre-Gilles Guéguenの直近の論文の表題にある「話す身体」が核心(のひとつ)だろう。

…ラカンは現実界をさらにいっそう身体と関連づけていく。もっとも、この身体は、前期ラカンのように〈他者〉を通して構築された身体ではない。彼は結論づける、「現実界は…話す身体 corps parlant の謎 、無意識の謎だ」(S.20)と。

この知は、無意識によって、我々に明らかになった謎である。反対に、分析的言説が我々に教示するのは、知は分節化された何かであることだ。この分節化の手段によって、知は、性化された知に変形され、性関係の欠如の想像的代替物として機能する。

しかし、無意識はとりわけ一つの知を証明する。「話す存在 l'être parlant の知」から逃れる知である。我々が掴みえないこの知は、経験の審級に属する。それはララング Lalangue に影響されている。ララング、すなわち、母の舌語 la langue dite maternelle、それが謎の情動として顕現する。「話す存在」が分節化された知のなかで分節しうるものの彼方にある謎めいた情動として。(ララングの享楽 la jouissance de lalangue、それは身体の享楽である)。(ヴェルハーゲ、2001(Mind your Body & Lacan´s Answer to a Classical Deadlock. In: P. Verhaegheーー話す存在 l'être parlant / 話す身体 corps parlant


ところで、これも前回、コレット・ソレールが次のように言っているのをみた。

ラカンは最初には「存在欠如(le manque-à-être)」について語った。(でもその後の)対象a は「享楽の欠如」であり、「存在の欠如」ではない。(Colette Soler at Après-Coup in NYC. May 11,12, 2012、PDF)

すなわち、彼女の言明、「欲望は剰余享楽の換喩」とは、「欲望は享楽欠如の換喩」と言い換えることができる。

では、享楽の欠如とはなにか?

まさに享楽の喪失が、その自身の享楽、剰余享楽(plus‐de‐jouir)を生み出す。というのは享楽は、いつも常に喪われたものであると同時に、それから決して免れる得ないものだからだ。フロイトが反復強迫と呼んだものは、この現実界の根源的に曖昧な地位に根ざしている。それ自身を反復するものは、現実界自体である。それは最初から喪われており、何度も何度もしつこく回帰を繰り返す。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)
享楽はシニフィアン組織への入口である。というのは、一つの特徴 unary trait が刻印されて享楽の徴として反復されるからだ。反復の目標は、それ自体享楽であり(享楽の侵入としての刻印の反復)、かつまたこの享楽に反対するものである(一つの特徴 unary trait とシニフィアンはつねに喪失を意味する)。それゆえ、どの反復も反復しよとする未満のものである。 (Enjoyment and Impossibility, Paul Verhaeghe 2006 私訳ーー二重に重なる享楽の喪失(Paul Verhaeghe))

では、そもそも享楽とはどこから来るのか?

しかしそれでは、享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「〈他者〉の享楽」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の〈他者〉、まさに同じ表現(「〈他者〉の享楽」)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる〈他者〉the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、〈他者〉の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに汚染があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての〈他者〉を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる〈他者〉the (m)Otherとしての〈他者〉があり、シニフィアンの媒介としての享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一〈他者〉から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。これが説明するのは、なぜ母なる〈他者〉the (m)Otherが「享楽の席the seat of enjoyment」なのか、その〈他者〉に対して防衛が必要なのに、についてである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2009、私訳ーー「エディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論」より)

…………

※付記

ラカン派によるドゥルーズ読解の出発点は、情け容赦ない直接的な読み替えである。すなわち、ドゥル ーズ&ガタリが「欲望機械(machines désirantes)」について語るとき、我々はその用語を欲動に置き換えるべきだ。

ラカンの欲動ーーそれは、エディプスの三角形とその禁圧的な法/その法への侵犯の弁証法に先んじる匿名/無頭的で不滅な「身体なき器官」の反復への執拗さであり、ドゥルーズが前エディプスのノマド的な「欲望機械」として境界を引こうとしたものと完全に一致する。実際、セミネールⅩⅠの欲動に捧げられた章で、ラカン自身が、欲動の「機械的な」特徴・反有機的な anti‐organic 性質(その人工的な要素、あるいは異質の成分からなる部分のモンタージュの特質)を強調している。

しかしながら、これは出発点にすぎない。問題をすぐさま混み入らせるのは、この読み替えにおいて、何かが失われてしまうという事実である。すなわち、欲動と欲望とにあいだにある、まさに還元し得ぬ相違、この差異の視差的 parallax 性質があり、一方から他方へと跡づけたり生み出したりするのは不可能なのだ。

言い換えれば、ラカンには全く異質なものは、ドゥルーズの反-表象主義者的な欲望欲望の概念である。それ自体が表象や抑圧の場面を創造する原初的流動 fluxとしての欲望概念。これはまた、ドゥルーズが欲望の解放について語る理由だが、ラカンの地平ではまったく無意味である。

ドゥルーズにとって、最も純粋な欲望とはリビドーの自由な流動だが、ラカンの欲動は、基盤となる解決しえぬ袋小路によって構成的に徴づけられている。ーー欲動は行き詰まりであり、まさに行き詰まりの反復において満足を見出す。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)



2016年6月17日金曜日

欲望は〈他者〉の欲望ではない

欲望は享楽に対する防衛である、ーー正確には、《le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance[欲望は防衛、享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である].》(ラカン、E825)

倒錯とは、欲望に起こる不意の出来事ではない。すべての欲望は倒錯的である。享楽がけっしてその場ーーいわゆる象徴秩序が欲望をそこに置きたい場のなかにないという意味で。そしてこれが、ラカンが後に父の隠喩についてアイロニカルであった理由だ。彼は言う、父の隠喩もまた倒錯だ、と。彼は、父の隠喩をpère-version と書いた。…父へと向かう動き [vers le père]と。(JACQUES-ALAIN MILLER: THE OTHER WITHOUT OTHER、2013)

さて、簡潔な欲望の定義である。欲望は享楽に対する防衛であり、倒錯的なものである。これは、「三大欲望(睡眠欲、食欲、性欲)と欲求・要求・欲望の弁証法」にて曖昧に記した問いに対するひとつの答である。

ミレールの同じ論文からもうすこし引用しておこう。

……セミネールVI にて、ラカンは自らを方向性づけた。彼の後に引き続く教えにとって、ある意味で決定的な点にかかわる方向づけである。私はこの方向づけを、否定的な形式で言ってみよう。精神分析のラカニアンとして方向づけられた実践の実に根本的な言明である。すなわち、どんな「成熟 maturation」もない。無意識としての欲望の成熟はない。

フロイトにとって、果てしない仕事のなかでの残留物は、半永久的要素ーー無意識の欲望が、幻想のなかで付着したままの要素である。それは享楽を生み出す要素、或いはむしろ実体の問いである。そしてそれは、ファルスの意味作用の外部にあるもの、言わば去勢に関する違反である。

これらの要素・実体は享楽である。補充の享楽実体、ラカンは遥かのちに「剰余享楽 plus-de-jouir」として示してものだ。この剰余享楽は、準備されて既にここにある。セミネールの最後においては更ににもっとそうだ。そこでは「昇華 la sublimation」に向けて進んでいく。

我々を支配するこれらの新しい付属物とその装置すべては事実上、正しくラカニアンの意味で、昇華の対象である。それらは、付け加えられた対象である。そしてこれは正確に、ラカンによって導入された剰余享楽用語の価値である。

言い換えれば、我々はこのカテゴリーにおいて、身体から来る対象 objets qui viennent du corps をもつというだけではない。かつ身体にとって喪われた対象 perdus pour le corpsーー自然に、あるいは象徴界の効果を通しての喪失対象をもつというだけではない。それだけではなく種々の形式で、これらの原対象を反映した対象 objets qui répercutent les premiers objets をもつのだ。

問いとしてあるものは、これらの対象は完全に新しいものなのか、それとも「原初の対象a objets a primordiaux」のたんに再構築された形式なのかということである。(同ミレール、2013)(同ミレール、2013)

…………

さて次は美貌のラカン派女流分析家の第一人者コレット・ソレールColette Soler の見解をかかげよう。わたくしは2,3の短い論文を読んだだけで詳しいことは知らないが、たぶん彼女はミレールに近い年齢のラカンの直弟子ではないだろうか。

以下、インタヴュー記事からだが、問いがあり応答があるため、とても鮮明に彼女の見解が表明されている。





◆Interview with Colette Soler for the “Estado de Minas” newspaper September 10, 2013


ーー質問1、欲望は無意識の発見と精神分析の核心にあります。…欲望は最初の言葉です。でも、それは無意識と精神分析の最後の言葉なのでしょうか?

コレット・ソレール)シンプルなことです。精神分析の始まりにおいて、欲望は最初のものであり、フロイトの解釈の唯一の言葉だった。最後において、ラカンとともに、欲望は相変わらずある。でもそれは完全には唯一のものではない。

ーー質問2、精神分析、哲学、広告が基盤としているのは、欲望は欠如に向けられるという原則です。けれども欲望を享楽から、そして満足から分けることは可能なのでしょうか?

ソレール)享楽と満足はとても異なった概念です。享楽は身体を想定しています。満足は、この身体をもった主体の現象です。一般的に、享楽は満足しません。それは苦痛と関係さえします。不調和・不満足なのです。というのは、享楽は〈他者〉と繋がっていないから。〈他者〉から分離さえします。

欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽 [jouir]の欠如です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象」と呼んだもの、ラカンが欠如しているものとしての「対象a」と呼んだものです。それにもかかわらず、複合的ではあるけれど、享楽の欠如を楽しむことが可能です。それはラカンによって提供されたマゾヒズムの形式のひとつです。

ーー質問3、エディプス、無意識の欲望の原理、それは70年代にとても賛否両論の議論があったのですが、いまも通用するのですか? それは新しい家族の配置に釣り合うのでしょうか?

ソレール)いいえ、フロイトが私たちに提供したエディプスはもはや通用しません。それは、ラカンが言ったように たんなる “hystoriole” です。言ってしまえば、精神分析の「ファミリーロマンス」だった。

最初期のラカンは、アンチエディプスではなくエディプスの彼方を提唱しました。つまりエディプスに異議を申し立てるのではなく再考しようとした。それは、決定的な問いを犠牲にしないでなされました。つまり話す主体にとってのエディプスの機能を知るという問いです。リビドーの方向づけの原理として、それに伴った可能なる社会的絆の原理としてのエディプスの機能です。

というのは、次のことを理解するのは必要不可欠なことだからです。すなわち、定義上、欲望は構造的欠如を基盤としており、言語の効果です。それゆえ欲望は享楽に向けられる。欲望は享楽を目指すのです。欲望は享楽を繋ぎとめる、享楽を抑制しないままで、です。私たちは、欲望/享楽の二項対立をお終いにしなければなりません。確かに、欲望しないままで享楽することは可能であり、享楽なしで欲望することさえ可能です。もしそれが単純な欠如の享楽はでないなら。けれどもすべての欲望は、欠如の穴埋めに向かうのです。

「性関係はない」というとてももしばしば繰り返される主張の見解において、実に私たちは、父の機能の普遍性への挑戦を観察することができます。それが性的欲望の方向づけに言及している限りで。

これは、ラカン自身が生み出した父の隠喩への挑戦です。(…)この隠喩にて、ラカンははっきりと「父」からシニフィアンを作りました。大他者のなかにある一つのシニフィアンは、大他者のシニフィアン、大他者の法のシニフィアンだった。けれどもラカンはすばやく正反対の結論を言い放ちました、「大他者の大他者はない」と。大他者は斜線が引かれており、享楽の問いには応答しません。

一方で、各人にとって、自らの欲望の通路を取り仕切るものを知る問いがあります。それは父のモデルでありうる。けれども、それは他の可能な解決法のなかのひとつに過ぎません。他方で、父の機能は症状のひとつのヴァージョンだという定式があります。すなわち père-version(父のヴァージョン=倒錯)。

もっと一般的に言えば、幻想はモンタージュであり、それを通して、欲望は対象a を分節化します。その分節化は、父の機能のモデルを必らずしも通さずになされます。そして欲望に適用される換喩は、欠如の換喩であると同程度に剰余享楽の換喩です。

この点において、ラカンは、彼のエディプスの彼方の考え方を以って、感動的な仕方にて世紀の進化の先鞭をつけました。精神分析に、現在の社会の状態を考える最初の概念的道具を提供したのです。

(……)

ーー質問6、ラカンは欲望の様相への病理に言及しています。ヒステリーの不満足な欲望、強迫神経症の不可能な欲望、恐怖症の警告された欲望、倒錯のマゾヒスティックな欲望。すべての人間は、欲望によって病んでいるのでしょうか? 欲望にかんして精神病のポジションはどうなのでしょう?

ソレール)欲望は、それがどんな形式であれ、病理ではありません。主体が欲望について不平を言っていてさえ、病理ではない。それは私たちに想定させてくれます、欲望の形式は、多かれ少なかれ、社会的言説の規範に従っていることを。すなわち、欲望自体は、その多寡はあれ、私たちが「標準」と呼ぶもの、ラカンが「人間の規範 (Norme-mâle)」と呼ぶものーー言説によって構築され、言わば欲望あるいは標準的享楽を捏造することを目指された規範ーーに関わる反対物なのです。(…)

精神病における欲望の問題は別の話です。それはいかに誤った(身丈に合わない)教義が臨床的事実の無視に導くかを示すよい例です。

父は去勢不安にて欲望を生みだすために必要不可欠であるという前提から始めて、私たちは他の分析家が、精神病は欲望を締め出すという結論してしまうのを見ます。けれども、精神病の最も顕著な人物像を観察すれば、彼らが欲望を欠如させているなどということがどうやって支持しうるというのでしょう? むしろ、欲望概念を再検討することが必要不可欠です。(…)

ーー質問7、あなたが欲望概念の再検討を促すなら、欲望は去勢の効果だけではなく、話す主体の原因、言葉それ自体さえの原因だということなのでしょうか?

ソレール)そうです。欲望の原因を生みだすのは言語です。「父」ではありません。父の機能は別物です。それは欲望と享楽のひとつのヴァージョンを表します。この理由で、ラカンは “père-version”、父のヴァージョンと言いました。

ーー質問8、現代の世界は欲望に苦しんでいるのでしょうか、それとも享楽の障害に苦しんでいるのでしょうか? 「すべては可能だ。すべては許される」。21世紀において、これは欲望の終焉ということなのでしょうか?

ソレール)あなたは、資本主義によって提供される剰余享楽は満足をもたらすと想定しているように見えます。それは間違っています。現実では何が起っているのか見てみなさい。全ては許される。そして欲望から、私たちは権利を生んだ。全ては可能だ。私たちはそれを試みた。そして、この豊かな土地において、欲望の不満足から生じる怒号は、享楽の増大に比して上昇しています。

ーー質問9、ラカンの教えの最後は、いまだ次の主張を許容するのでしょうか、つまり「欲望は〈他者〉の欲望」を? ラカンの最後の教えの帰結は何なのか。リアルな無意識の位置は欲望についてなにかを変化させたのでしょうか?

ソレール)「欲望は〈他者〉の欲望」が意味したのは、欲求との相違において、欲望は、言語作用の効果だということです。それが現実界を空洞化し穴をあける。この意味で、言語の場所としての〈他者〉は、欲望の条件です。(…)そしてラカンが言ったように、私はひとりの〈他者〉として欲望する。というのは、言語が組み入れられているから。けれども、私たちが各々の話し手の欲望を道案内するもの、精神分析家に関心をもたらす唯一のものについて話すなら、欲望は〈他者〉の欲望ではありません。それは、私があなたの二番目の質問の答えのなかで言ったように。

欲望の概念と構造のなかにある欲望の場は、ラカンの教えにおいて絶え間ず変貌しています。そしてそれは、どの段階においても、すべての分析的概念の構造を変更しています。隠喩に疑念を投げかけることは、そこにある何かを変化させることでした。対象の概念を提案することは、別の一歩でした。

リアルな無意識、ララングへの言及、そしてサントームによるボロメオ結びへの言及は、そうです、さらに別の一歩です。(…)

この最後の質問の応答にて、彼女は決定的なことーー巷間に流通する旧来の通念とは正反対なことーーを言っている、≪精神分析家に関心をもたらす唯一のものについて話すなら、欲望は〈他者〉の欲望ではありません≫と。

なおかつ彼女は、≪欲望に適用される換喩は、欠如の換喩であると同程度に剰余享楽の換喩≫とも言っている。この前者の欲望は欠如の換喩とは、前期ラカンの定義のひとつであるが、後者の「欲望は剰余享楽の換喩」との言明がコレット・ソレールの言いたいことの核心だろう。

このソレールの「欲望は剰余享楽の換喩」という表現と最初に掲げたミレールの≪我々は、身体から来る対象をもつというだけではない。そして身体にとって喪われた対象ーー自然に、あるいは象徴界の影響を通しての喪失対象をもつというだけではない。それだけではなく、種々の形式で、これらの最初の対象を反映した対象をもつ≫という文における「種々の形式で、これらの最初の対象を反映した対象をもつ」という表現を、わたくしは同時に読みたい。つまりミレールも剰余享楽の換喩に近いことを言っている、と。

ところでコレット・ソレールは、存在欠如をめぐって別の場で次のように言っている。

ラカンは最初には「存在欠如(le manque-à-être)」について語った。(でもその後の)対象a は「享楽の欠如」であり、「存在の欠如」ではない。(Colette Soler at Après-Coup in NYC. May 11,12, 2012、PDF)

ミレールからもつけ加えておこう。

私はラカンの教えによって訓練された。存在欠如としての主体、つまり非実体的な主体を発現するようにと。この考え方は精神分析の実践において根源的意味を持っていた。だがラカンの最後の教えにおいて…存在欠如としての主体の目標はしだいに薄れ、消滅してゆく…(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller

ところでセミネール17において、ラカンは《知としてわれわれ分析家に関心をもたらす全ては、trait unaireに起源がある》[c'est que c'est du trait unaire que prend son origine tout ce qui nous intéresse, nous analystes, comme savoir]と言っている。

かつまた、trait unaireは、《享楽の侵入の記念物(commémore une irruption de la jouissance)≫ ともある(参照:S1(主人のシニフィアン)≒trait unaire(一つの特徴))。

さらにはこうもある。

C'est à savoir par exemple que le trait unaire… pour autant qu'on peut s'en contenter, on peut essayer de s'interroger sur le fonctionnement du signifiant-Maître (S.17)

結局、このtrait unaire(一の徴)は、後期ラカンの≪la passion du corps = l' Un de signifiant = Lettre = petit(a) ≫(S.22 pp.71-73)、つまり、身体のパッション=「一」のシニフィアン=文字=対象aとおそらく等価であり、なおかつサントームのことであるだろう(参照:原抑圧・原固着・原刻印・サントーム)。

un événement de corps = sinthome (JOYCE LE SYMPTOME,AE.569)

※享楽の侵入をめぐってのいくらかは、「享楽の「侵入」」を見よ。


…………

コレット・ソレールの上のインタヴュー記事は、彼女の評判高い著書 "l'inconscient reinvente"の紹介としてもある。

2015/03/24 に公開されて、それなりの視聴回数が示されている映像があるのでーーわたくしはいま垣間見ただけだがーー貼り付けておこう。

◆Colette Soler Lacan l'inconscient reinvente