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2017年4月19日水曜日

フロイトの「資本」論と「快の獲得」

まずフロイトの「資本」論から。

夢が必要とした欲動の力 Triebkraft は、ある願望 Wunsche によって提供されねばならなかった。夢の欲動の力として振舞う願望 Wunsch als Triebkraft des Traumes、それを捕えることが、心配の関心事だった。

この状況は次の喩えで説明しうる。すなわち日中思考は、夢にとって企業家 Unternehmers の役割を大いに演じうる。しかし企業家ーープランを抱いてそれを実現しようとする彼ーーは、資本なしでは何もできない ohne Capital nichts machen。彼は、出資 Aufwand してくれる資本家 Capitalisten が必要である。夢にとっての心的出資 psychischenAufwand を提供する資本家 Capitalist とは、その日中思考がどんなものであろうと、例外なしに必ず、無意識からの願望 Wunsch aus dem ünbewussten である。

資本家 Capitalist が同時に企業家 Unternehmer を兼ねる場合もある。いやこれがもっともありふれた夢の場合なのである。日中作業によって、ある無意識的な願望が刺激を受ける。そしてこの願望が夢を作り出す。… (フロイト『夢解釈』第七章)


次にマルクスの『資本論』より。

諸商品の価値が単純な流通の中でとる独立な形態、貨幣形態は、ただ商品交換を媒介するだけで、運動の最後の結果では消えてしまっている。

これに反して、流通 G-W-G (貨幣-商品-貨幣)では、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別々の存在様式として、すなわち貨幣はその一般的な、商品はその特殊的な、いわばただ仮装しただけの存在様式として、機能するだけである。

価値は、この運動の中で消えてしまわないで絶えず一方の形態から他方の形態に移って行き、そのようにして、一つの自動的主体 ein automatisches Subjekt に転化する。

自分を増殖する価値がその生活の循環のなかで交互にとってゆく特殊な諸現象形態を固定してみれば、そこで得られるのは、資本は貨幣である、資本は商品である、という説明である。

しかし、実際には、価値はここでは一つの過程の主体になるのであって、この過程のなかで絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値 Mehrwert としての自分を突き放し、自分自身を増殖するのである。

なぜならば、価値が剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、価値の増殖であり、したがって自己増殖 Selbstverwertung であるからである。(マルクス『資本論』)

「自動的主体 automatisches Subjekt 」とは、ラカンの「無頭の主体 sujet acéphale」のことである。

欲動は「無頭の主体」のモードにおいて顕れる。

la pulsion se manifeste sur le mode d’un sujet acéphale.(ラカン、S11、13 Mai 1964)

そしてマルクスの「剰余価値」とは「症状」のことである。

…症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、…マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。(ラカン, S18, 16 Juin 1971)

そして、

剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽である。(ラカン、ラジオフォニー、1970年)
フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」、それはシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。(Lacan, S21, 20 Novembre 1973)

である。

フロイトの「快の獲得」概念は、1905年の『機知』論文に初めて出現するが、ここでは最晩年の叙述を抜き出す。

まずはじめに口が、性感帯 die erogene Zone としてリビドー的要求 der Anspruch を精神にさしむける。精神の活動はさしあたり、その欲求 das Bedürfnis の充足 die Befriedigung をもたらすよう設定される。これは当然、第一に栄養による自己保存にやくだつ。しかし生理学を心理学ととりちがえてはならない。早期において子どもが頑固にこだわるおしゃぶり Lutschen には欲求充足が示されている。これは――栄養摂取に由来し、それに刺激されたものではあるが――栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたものである。ゆえにそれは「性的 sexuell」と名づけることができるし、またそうすべきものである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

《栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたもの》とあるが、これをラカンは《享楽欠如の拡張生産》としている。

この宝貝、つまり剰余価値、それはひとつの経済が自らの原理をつくるための欲望の原因である。この原理とは、「享楽欠如 manque-à-jouir」の拡張的生産の、つまり飽くことをしらないものとしてのそれである。(ラカン、ラジオフォニー、1970年)

なぜ享楽欠如というのか。

フロイト曰く「栄養とは無関係」だから。
マルクス的に言えば、実際の使用価値を断念して自己目的(自己増殖)となるから。

…………

フロイトの「資本」論に戻る。「夢が必要とした欲動の力 Triebkraft」 とは「資本」とあった。そして《企業家ーープランを抱いてそれを実現しようとする彼ーーは、資本なしでは何もできない 》ともあった。

フロイトの「資本」をめぐる叙述と「快の獲得」概念を、ラカンの「資本の言説」にあてはめれば、次のようになる。



さらにまた《資本家 Capitalist が同時に企業家 Unternehmer を兼ねる場合もある。いやこれがもっともありふれた夢の場合なのである》という記述を生かし、快の獲得=剰余価値、プランとは商品の生産・売買とすれば、次のように図示できる。





資本の言説は主人の言説の突然変異であり(参照:四つの不可能な仕事と四つの言説+倒錯の言説(資本の言説))、ラカンがまだ資本の言説概念を提出していない時期に、主人の言説について次のように言っている。

主人の言説は主体の支配とともに始まる。主人の言説が、超限定された神話・それ自身のシニフィアンに同一化すること [ $ ≡ S1 ] によってのみ支えられる傾向がある限りで。(S17、18 Février 1970)

これは企業家$と資本S1の合体である[ $ ≡ S1 ]。

ラカンはこれまた「資本の言説」とは別の文脈においてだが、《真理のなかでの主体と主人の出現の地平 l'horizon de la montée du sujet-Maître dans une vérité》において、 《それ自体、等価 égalité à soi-même》となることを、主人の言説の特徴としている。

Il en est tout autre chose de ce qui se trouve à l'horizon de la montée du sujet-Maître dans une vérité qui s'affirme de son égalité à soi-même, de cette « je-cratie » dont je parlais une fois, et qui est, semble-t-il, l'essence de toute affirmation dans la culture qui a vu fleurir entre toutes ce discours du Maître. (Lacan, S17, 11 Février 1970 )

上にあらわした図は、真理のポジションにおいて、「動作主 agent のポジションにある企業家$」と「真理 verite のポジションにある資本S1」が合体したことを示したのである。




こうしてマルクスのG-W-G'(M-C-M' )、すなわち「貨幣-商品-貨幣+剰余価値」は、フロイトの資本論のなかにもあることが形式的に理解できる。

Lustgewinn(快の獲得)は、フロイトの最初の概念的遭遇、--後に快原理の彼方、反復強迫に位置されるものとの遭遇である。そして、精神分析に M–C–Mʹ(貨幣– 商品–貨幣'[貨幣+剰余価値])と同等のものを導入した。(Samo Tomšič,The Capitalist Unconscious, 2015)

…………

もちろん上の叙述自体は、柄谷行人がすでに『トランスクリティーク』で明晰に言っていることでもある。

広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。(……)その意味では、すべての人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

ーーフロイトの無意識論も、『マゾヒズムの経済的問題』を想い起すまでもなく、つねに「経済的なもの」である。その経済的=交換的なもののことを、ラカンは「言説」と呼ぶ。ラカンにとってのその意味は、《社会的つながりの機能 fonction de lien social》(1972)である。

まず最初の誤謬を取り除かねばならない。想い起こそう、(ラカンにとって)「言説」とは「語の集合」ではないことを。「資本家の言説」という表現は、資本主義の生産様式の支配に由来する社会的絆を指している。ある意味で、「言説」という用語は「生産様式」という用語に代替される。(capitalist exemptIon,Pierre Bruno,2010、pdf)

このPierre Brunoの考え方は、岩井克人の資本の主義/資本の論理の区別とともに読むといっそう味わい深い(参照:「父の眼差し」の時代から「母の声」の時代への移行)。

ようするに資本の生産様式が移行すれば、人間間の社会的つながり方は変わるのである。これをラカン派では主に神経症から倒錯への移行(主人の言説から資本の言説への移行)とする。

資本の言説は、「一般化された倒錯」の用語で叙述しうる。(ANDREA MURA. 2015, Lacan and Debt: The Discourse of the Capitalist in Times of Austerity, PDF)

人間は誰もがもともと倒錯的であるにしろーー《倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme》(Lacan, S24, 1977)ーー、ある時期からの社会的つながりは、エディプス(主人)のタガが外れて、前エディプス的な裸の倒錯に近いものになっている、という考え方である。

資本主義は、社会的つながりの水準で、倒錯的享楽の一般化を強いる。それは克服できない地平であり、数多くの倒錯が咲き乱れる。他方、一般的な社会の枠組は変わらないないままである。商品形態の閉じられた世界、その多形性は、アンタゴニズムのすべての形態の加工・同化・中性化を可能にする。資本主義の主体は去勢を嘲笑し、去勢は時代錯誤的で、ポストモダン社会がきっぱりと克服した男根社会の残滓だと宣言する。(Samo Tomšič, 2015, The Capitalist Unconscious: Marx and Lacan)

 サモ・トムシックがこの‟The Capitalist Unconscious” 以降に書いた小論では、さらに次のように言っている。

…(フロイト・ラカンによる)「社会的生産様式」を支えるメカニズムへの固有の洞察。決して誇張ではない、次のように主張することは。すなわち、「資本主義のなかの居心地の悪さDas Unbehagen im Kapitalismus」のほうが「文化の中の居心地の悪さ Das Unbehagen in der Kultur」より適切だと。というのは、フロイトは抽象的な文化を語ったのでは決してなく、まさに産業社会の文化を語ったのだから。強欲な消費主義、増大する搾取、繰り返される行き詰まり、経済的不況と戦争によって徴づけられる産業社会の文化を。(Samo Tomšič: Laughter and Capitalism, 2015,PDF

さて、これらの文脈のなかで、柄谷行人の『トランスクリティーク』におけるマルクスの価値形態論、あるいはフェティシュをめぐる記述を読んでみると、資本の論理(資本の欲動)がいかに倒錯的(フェティシュ的)であるのかがあらためてよく理解できる。

マルクスの考えでは、金が貨幣となるのは、それが金だからではなくて、一般的等価形態におかれたからである。彼が見ようとしたのは、そこに位置する生産物を商品たらしめたり、貨幣たらしめる「価値形式」 ――相対的価値形態と等価形態 ――である。それが素材的に何であろうと、排他的に一般的等価形態におかれたものは貨幣である。一般的等価形態におかれた物(そしてその所有者)は、他の何とでも交換できる「権利」をもつ。人が或るもの、たとえば金を崇高と見なすのは、それが金だからではなく、それが一般的等価形態におかれているからだ。マルクスが資本の考察を守銭奴から始めたことに注意すべきである。守銭奴がもつのは、物(使用価値)への欲望ではなくて、等価形態に在る物への欲動 ――私はそれを欲望と区別するためにフロイトにならってそう呼ぶことにしたいーーなのだ。別の言い方をすれば、守銭奴の欲動は、物への欲望ではなくて、それを犠牲にしても、等価形態という「場」(ポジション)に立とうとする欲動である、この欲動はマルクスがいったように、神学的・形而上的なものをはらんでいる。守銭奴はいわば「天国に宝を積む」のだから。

しかし、それを嘲笑したとしても、資本の蓄積欲動は基本的にはそれと同じである。資本家とは、マルクスがいったように、「合理的な守銭奴」にほかならない。それは、一度商品を買いそれを売ることによって、直接的な交換可能性の権利の増大をはかる。しかし、その目的は使用することではない。だから、資本主義の原動力を、人々の欲望に求めることはできない。むしろその逆である。資本の欲動は「権利」(ポジション)を獲得することにあり、そのために人々の欲望を喚起し創出するだけなのだ。そして、この交換可能性の権利を蓄積しようとする欲動は、本来的に、交換ということに内在する困難と危うさから来る。(柄谷行人『トランスクリティーク』)
……財の生産と消費として見える経済現象には、その裏面において、根本的にそれとは異質な或る倒錯した志向がある。 G’( G+ ⊿G )を求めること、それがマルクスのいう貨幣のフェティシズムにほかならない。マルクスはそれを商品のフェティシズムとして見た。それは、すでに古典経済学者が重商主義者の抱いた貨幣のフェティシズムを批判していたからであり、さらに、各商品に価値が内在するという古典経済学の見方にこそ、貨幣のフェティシズムが暗黙に生き延びていたからである。だからここでいう商品のフェティシズムは消費社会における商品のフェティシズム ―たとえば人を店のショーウィンドウに釘付けにするような ―と混同されてはならない。むしろ、それは消費するかわりに、いつでもそうできるという「権利」を持とうとする欲動なのであり、それが一商品(金)を崇高なものとするのである。

私がここで焦点を当てたいのは、資本の自己増殖がいかに可能か( ……)ではなく、なぜ資本主義の運動がはてしなく( endlessly)続かざるをえないか、という問いである。実は、それは end-less(無目的的)でもある。貨幣(金)を追いもとめる商人資本=重商主義が「倒錯」だとしても、実は産業資本をまたその「倒錯」を受けついでいる。実際に、産業資本主義がはじまる前に、信用体系をふくめてすべての装置ができあがっており、産業資本主義はその中で始まり、且つそれを自己流に改編したにすぎない。では資本主義的な経済活動を動機づけるその「倒錯」は、何なのか。いうまでもなく、貨幣(商品)のフェティシズムである。

マルクスは、資本の源泉にまさしく貨幣のフェティシズムに固執する守銭奴(貨幣退蔵者)を見いだしている。貨幣をもつことは、いつどこでもいかなるものとも直接的に交換しうるという「社会的権利」をもつことである。貨幣退蔵者とは、この「権利」ゆえに、実際の使用価値を断念する者の謂である。貨幣を媒体ではなく自己目的とすること、つまり「黄金欲」や「致富衝動」は、けっして物(使用価値)に対する必要や欲望からくるのではない。守銭奴は、皮肉なことに、物質的に無欲なのであるちょうど「天国に宝を積む」ために、この世において無欲な信仰者のように。守銭奴には、宗教的倒錯と類似したものがある。事実、世界宗教も、流通が一定の「世界性」 ――諸共同体の「間」に形成されやがて諸共同体にも内面化される ――をもちえたときにあらわれたのである。もし宗教的な倒錯に崇高なものを見いだすならば、守銭奴にもそうすべきだろう。守銭奴に下劣な心情(ルサンチマン)を見いだすならば、宗教的な倒錯者にもそうすべきだろう。(『トランスクリティーク』)

この柄谷行人の文は意図せずに、ラカンの次の言明の解説になっている。

欲望の搾取、これが資本の言説の偉大な発明である L’exploitation du désir, c’est la grande invention du discours capitaliste(ラカン、Excursus, 1972)

柄谷行人は最近の英論文でもこう言っている。

資本の蓄積運動は、人間の意志や欲望から来るのではない。それはフェティシズム、すなわち商品に付着した「精神」によって駆り立てられている (driven) 。資本主義社会は、最も発達したフェティシズムの形態によって組織されている。(Capital as Spirit, Kojin Karatani、2016, PDF)

剰余価値というフェティシズムは、形態が核心である。

…労働生産物が商品形態を身に纏うと直ちに発生する労働生産物の謎めいた性格は、それではどこから生ずるのか? 明らかにこの形態 Form そのものからである。(マルクス 『資本論』第1篇第四節「商品の物神的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)

つまり、もの(対象)ではなく、形態がマルクスのフェティシズムの核心である。

株式資本にて、フェティシズムはその至高の形態をとる。…ヘーゲルの「絶対精神」と同様に…株式とは「絶対フェティッシュ absolute fetish」である。(Capital as Spirit, Kojin Karatani、2016, PDF)

この「絶対フェティシュ」(絶対的フェティシュ)は、絶対的剰余価値の「絶対」とは全く意味が異なる。

では絶対フェティシュとは何か?

われわれは、 標準的なマルクス主義者の「物象化 Versachlichung」と「商品フェティッシュWarenfetischs」の題目の、徹底した再形式化が必要である。(……)

逆説的なことに、フェティシズムは、フェティッシュが「脱物象化」されたときに頂点に達する。(ジジェク、LESS THAN NOTHIHNG,2012)

次のジジェク文の、外密 Extimitéとしての対象a は、柄谷のいう「絶対フェティッシュ」のことである。

ラカンが、象徴空間の内部と外部の重なり合い(外密 Extimité)によって、象徴空間の湾曲・歪曲を叙述するとき、彼はたんに、対象a の構造的場を叙述しているのではない。剰余享楽は、この構造自体、象徴空間のこの「内に向かう湾曲」以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

以下の文の「対象a=剰余価値」に「フェティシュ」を代入して読んでおこう。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016, pdf)

これでマルクスの二種類のフェティシュが理解できるだろう。すなわち、形態 Form そのもののフェティシュ/物象化されたフェティシュ(たとえば黄金物神 Geldfetisch)が。




2017年4月7日金曜日

四つの不可能な仕事と四つの言説+倒錯の言説(資本の言説)

分析 Analysierenan 治療を行なうという仕事は、その成果が不充分なものであることが最初から分り切っているような、いわゆる「不可能な」職業 »unmöglichen« Berufe といわれるものの、第三番目のものに当たるといえるように思われる。その他の二つは、以前からよく知られているもので、つまり教育 Erziehen することと支配 Regieren することである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

ラカンの四つの言説とは、フロイトのいう「支配」・「教育」・「分析」の三つの不可能な仕事に、もうひとつ「欲望」を付け加えたものである。すなわち支配(主人の言説)、教育(大学人の言説)、分析(分析家の言説)、欲望(ヒステリーの言説)。

主人の言説とは、人が命令モード・指図モードに入れば誰でもその言説になる。ヘーゲルの主-奴(S1-S2)に基づいて言えば、奴隷から知を《盗み取り、奪い取り、かすめ取る le vol , le rapt, la soustraction》(S17)言説である。

大学人の言説とは、教育機関の「大学」とはまったく関係がない。教えるー学ぶの関係における教える側の立場に立った言説はすべて大学人の言説であり、専門家・知識人・侍僕(奴隷)の言説ともされる。官僚の言説もそうだし、旧財閥の番頭の言説もそうである。

分析家の言説とは、精神分析臨床だけの話と考えてしまいがちだが、人が沈黙で他者に対応すれば、分析の言説と同じ機能を生む場合がある。それは《言説のヒステリー化 hystérisation du discours》(S17)を促す立場に立つことであり、たとえば次の例において、妻は分析家のポジションに立っている。

ここで想いだしてみよう、男が妻の前で話をしているありふれた光景を。夫は手柄話を自慢していたり、己の高い理想をひき合いに出したりしている等々。そして妻は黙って夫を観察しているのだ、ばかにしたような微笑みをほとんど隠しきれずに。妻の沈黙は夫の話のパトスを瓦礫にしてしまい、その哀れさのすべてを晒しだす。(ジジェク、2012)

ヒステリーの言説とは、要求、不平不満の言説とされるが、人が問いかけモードにはいればヒステリーの言説である。主体を悩ます事柄への答え(S1) を持っていると想定される「他者」を探し求める態度である。

ヒステリーの言説とは、ラカン派では次のシェイクスピアの文がその典型事例とされてきた。

「あなたは私のことをあなたの恋人だとおっしゃる。私をそのようにした、私の中にあるものは何? 私の中の何が、あなたをして私をこんなふうに求めさせるのでしょう?」“You say I am your beloved – what is there in me that makes me that? What do you see in me that causes you to desire me in that way?”(シェイクスピア『リチャード二世』)

そもそもヒステリーは精神分析を生んだ。だがヒステリーという言葉に騙されてはならない。

私は完全なヒステリーだ、……症状のないヒステリーだ[ je suis un hystérique parfait, c'est-à-dire sans symptôme](Lacan,Le séminaire ⅩⅩⅣ、1976,12.14)

ここでGÉRARD WAJEMANによるヒステリーの言説の古典的な定義を掲げておこう。

ふつうのヒステリーは症状はない。ヒステリーとは話す主体の本質的な性質である。ヒステリーの言説とは、特別な会話関係というよりは、会話の最も初歩的なモードである。思い切って言ってしまえば、話す主体はヒステリカルそのものだ。(GÉRARD WAJEMAN 「The hysteric's discourse 」私訳)

われわれの言説(=社会的つながり)は、四つの言説のどれかに(基本的には)当てはまる(まずはここでは「資本の言説」には触れない)。当てはまらないのは、純粋な精神病者であり、《精神病者は言説外 l'hors-discours de la psychose》(Lacan,l'étourdit 1973)とされるが、あくまで「純粋な」精神病者(緊張型分裂病、カナー的自閉症等)であり、それ以外の精神病者症者が、言説外ということではない。

あなたがたは、社会的に接続が切れている分裂病者をもっている。他方、パラノイアは完全に社会的に接続している。巨大な組織はしばしば権力者をもった精神病者(パラノイア)によって管理されている。彼らは社会的に超同一化をしている。(Jacques-Alain Miller, Ordinary Psychosis Revisited, 2008)
分裂病においての享楽は、(パラノイアのような)外部から来る貪り喰う力ではなく、内部から主体を圧倒する破壊的力である。(Stijn Vanheule 、The Subject of Psychosis: A Lacanian Perspective、2011)

言説に特徴的なことは、見せかけ semblant で《享楽の覆い voilement de la jouissance》をすることである。その結果、享楽はもはや《制御不能 incontrôlée》で《勝手気まま caprice なもの》(参照)ではなくなる。そのやり方は、見せかけのポジションを占める四つの要素(S1,S2,$,a)によって条件付けられる。この方法において、《社会的つながり lien social》が作り上げられる。


言説とは何か? それは、言語の存在によって生み出されうるものの配置のなかに、社会的紐帯(社会的つながり lien social)の機能を作り上げるものである。

Le discours c'est quoi? C'est ce qui, dans l'ordre ... dans l'ordonnance de ce qui peut se produire par l'existence du langage, fait fonction de lien social. (Lacan, ミラノ、1972)

ところで見せかけの底にある「真理」と言われるものは何か? 



ジャック=アラン・ミレールの注釈では次の通り。

すべてが見せかけ semblant ではない。或る現実界 un réel がある。社会的紐帯 lien social の現実界は、性関係の不在である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、性関係の不在という現実界へ応答するシステムである。(ミレー 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT

ミレールの別の言い方を参照するなら、ラカンの《精神病者は言説外 l'hors-discours de la psychose》(1973)に反して、緊張型分裂病 catatonia以外は、なんらかの形で「社会的つながり」=「言説」があるという理解をわたくしはしている。

神経症においては、我々は「父の名」を持っている…正しい場所にだ…。精神病においては、我々は代わりに「穴」を持っている。これははっきりした相違だ…。「ふつうの精神病」においては、あなたは「父の名」を持っていないが、何かがそこにある。補充の仕掛けだ…。とはいえ、事実上それは同じ構造だ。結局、精神病において、それが完全な緊張病 (緊張型分裂病 catatonia)でないなら、あなたは常に何かを持っている…。その何かが主体を逃げ出したり生き続けたりすることを可能にする。(Miller, J.-A. (2009). Ordinary psychosis revisited、私訳)

ところでミレールの文には《社会的紐帯(社会的つながり lien social) の現実界は、性関係の不在である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant である》とあった。

一方の「性関係の不在」はラカンのテーゼとして名高いが、他方の「話す身体」とは何か?
現実界は…話す身体 corps parlant の神秘 、無意識の神秘である。Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient  (S20)
言説に囚われた身体は、他者によって話される身体、享楽される身体である。反対に、話す身体 le corps parlantとは、自ら享楽する身体 un corps joui である。(The mystery of the speaking body,Florencia Farías, 2010、PDF

…………

さてここで四つの言説の図式を掲げておこう。主人の言説をベースにして、回転させれば他の三つの言説になる。



この四つの言説の基盤となる形式的構造には、agent(動作主)、autre(他者)、verite(真理)、produit(生産物)があり、この空箱に、S1(支配)、S2(教育)、$(欲望)、a(分析)が入ることになる。



この形式的構造のヴァリエーションとして次のものがある。

(S17, 18 Février 1970)


ーー動作主(agent)のポジションが、「欲望」となっている。ヒステリーの言説がわれわれの社会的つながりのデフォルトだとされているとも捉えうる。ここでフロイトの「強迫神経症はヒステリーの方言」という言明を想い起しておいてもよいだろう。男性の論理である主人の言説、大学人の言説は、強迫神経症者の言説と相同的である(フィンク、1991)。

ジジェク2012は、ラカン理論の華である「四つの言説」と「性別化の式」の統合の試みをしているが、以下の図の上段が男性の論理、下段が女性の論理である(参照:性別化と四つの言説における「非全体」)。





次の図には、semblant(見せかけ)とあるが、《見せかけでない言説はない D'un discours qui ne serait pas du semblant 》(S19)、《言説自体、いつも見せかけの言説である le discours, comme tel, est toujours discours du semblant》(S18)であり、agent(動作主)はすべて見せかけである。


(S19, Jeudi 03 Février 1972)

《言説自体、いつも見せかけの言説である》とは、社会的つながりは、いつも見せかけであるという意味である。もちろんここでよく知られたシェイクスピアの「人間皆役者」を引用してもよい。

この世界はすべてこれひとつの舞台、人間は男女を問わず すべてこれ役者にすぎぬ(All the world's a stage, And all the men and women merely players.)。(シェイクスピア『お気に召すまま』)

すなわち、現実世界は舞台(見せかけの世界)であり、人間は皆役者(見せかけ)である。

だが注意しなければならないのは、 《真理は見せかけと反対のものではない La vérité n'est pas le contraire du semblant》(S18)ことである。

精神分析とは、見せかけを揺らめかすことである、機知が見せかけを揺らめかすように。[la psychanalyse fait vaciller les semblants , le Witz fait vaciller les semblants](ジャック=アラン・ミレール)

揺らめかせば、真理が現われる。これはたとえば詩人たちがやっていることである(参照:柿の木と梨の木)。

エクリチュールとは結局のところ、それなりの悟りなのである。悟り(「禅」におけるできごと)とは、多少なりとも強い地殻変動であり(厳粛なものではまったくない)、認識や主体を揺るがせるものである。つまり、悟りは言葉の空虚を生じさせてゆく。そして、言葉の空虚こそがエクリチュールをかたちづくる。

le satori (l'évé-nement Zen) est un séisme plus ou moins fort (nullement solennel) qui fait vaciller la connaissance, le sujet : il opère un vide de parole. Et c'est aussi un vide de parole qui constitue l'écriture ; (ロラン・バルト『記号の国』)

次のラカンの発言ももちろん、見せかけの揺らめかしにかかわる。

ポエジーだけだ、解釈を許容してくれるのは。私の技能ではそこに至りえない。私は充分には詩人ではない。…

Il n'y a que la poésie, vous ai-je dit, qui permette l'interprétation. C'est en cela que je n'arrive plus, dans ma technique, à ce qu'elle tienne. Je ne suis pas assez poète. Je ne suis pas poâte-assez (ラカン、S24. 17 Mai 1977).


さて四つの言説の基盤となる形式的構造に戻るが、上にあげた以外にも、Patrick VALAS版の Lacan, 「La troisième(三人目の女)」には次の図がある。

(La troisième, 1974)

そしてこの図の右横に次の図が掲げてある。






それぞれの言説の対象aの意味が記されているが、ラカン自身の説明はない。だが、この記述はとても面白い。

ラカンの四つの部分対象(口唇oral、肛門anal、声vocal、眼差しscopique)は、ジジェク2012("LESS THAN NOTHING")によれば、要求/欲望の軸と、〈他者〉へ/〈他者〉から、の軸の四角形のなかに、それぞれ次ぎのように位置づけられる。 



・口唇欲動は、〈他者〉へ要求する(私から母へ、私の欲しいものを下さいという要求)。

・肛門欲動は、〈他者〉から要求される(母から私へ、規則正しく糞便をしなさいという要求)

・眼差し(視姦)欲動は、他者への欲望である(私に見せて!)。

・声の欲動は、他者からの欲望である(母は私から欲しいものを告げる)。

…………

さて、われわれの社会的つながりは、ある時期のラカンが言ったようにほんとうに、支配(主人の言説)、教育(大学人の言説)、分析(分析家の言説)、欲望(ヒステリーの言説)の四つのどれかに当てはまるのだろうか。

ここで資本の言説、五番目の言説と呼ばれるものに視線をやる必要がでてくる。


この主人の言説から倒錯の言説への移行は、三つの「突然変異」がある。

① $ とS1 は場所替えをしたこと。

② 左側の上方に向かう矢印ーー古典的言説では到達不能の「真理 vérité」を示す--が、下方に向けた矢印に変更されたこと。

③「動作主agent」と「他者autre」との間にあった上部の水平的矢印が消滅したこと。これは不可能性 impossible の迂回でもある。

資本の言説 discours du capitalisme を識別するものは、Verwerfung、すなわち象徴界の全領野からの「排除 rejet」である。…何の排除か? 去勢の排除である Le rejet de quoi ? De la castration。資本主義に歩調を合わせるどの秩序・どの言説も、平明に「愛の問題 les choses de l'amour」と呼ばれるものを脇に遣る。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972)

ラカンにとっての去勢とは、フロイトの想像的去勢とは異なって、象徴的去勢である。

・去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique

・去勢はシニフィアンの影響によって導入された現実的な働きである la castration, c'est l'opération réelle introduite de par l'incidence du signifiant (Lacan,S17)

すなわち、言語によって去勢されていることを拒絶する態度がーー厳密さを期さずに言ってしまえばーー、「去勢の排除」である。

人間は言語によって囚われ拷問を被る主体である。l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage(ラカン、S.3、04 Juillet 1956)

現在のラカン派では資本の言説の特徴を、この去勢の排除(精神病)ではなく、去勢の否認(倒錯)ととる見方が主流である。

資本の言説は、「一般化された倒錯」の用語で叙述しうる。(ANDREA MURA. 2015, Lacan and Debt: The Discourse of the Capitalist in Times of Austerity, PDFーー「資本の言説ーー「資本の論理」の生産様式」)

ラカンの倒錯の定義のひとつは次の通り。

…私が 「倒錯の構造 structure de la perversion」と呼ぶもの。それは厳密にいって、幻想の 裏返しの効果 effet inverse du fantasme である。主体性の分割に出会ったとき、己れを対象として定めるのが倒錯の主体である。(ラカン、S.11)

幻想の式 $ ◊ a の読み方(の一つ)は、「シニフィアンの象徴的効果によって分割された主体は、対象 a と関係する」である。倒錯においては、この幻想の式が裏返される。すなわち、 a ◊ $。

倒錯者は、大他者の中の穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre(ラカン、S18)

「資本の言説」の特徴のすくなくとも一つは、間違いなく「倒錯の言説」である。日本では「上から目線」(支配の言説)がことさら嫌われるが、他方、それに対抗するものとして猖獗している「下から目線」の語りとは、構造的には倒錯の言説である。

資本主義は、社会的つながりの水準で、倒錯的享楽の一般化を強いる。それは克服できない地平であり、数多くの倒錯が咲き乱れる。他方、一般的な社会の枠組は変わらないないままである。商品形態の閉じられた世界、その多形性は、アンタゴニズムのすべての形態の加工・同化・中性化を可能にする。資本主義の主体は去勢を嘲笑し、去勢は時代錯誤的で、ポストモダン社会がきっぱりと克服した男根社会の残滓だと宣言する。(Samo Tomšič, 2015, The Capitalist Unconscious: Marx and Lacan)

もっともジジェクはかねてから、分析家の言説自体が、対象aの両義性を考慮すれば、「倒錯の言説」とも捉えられる、という観点を提示している。これもすぐれた洞察だろう。

倒錯の言説の公式は、分析家の言説の公式と同じである。ラカンは倒錯をひっくり返した幻想として定義した。ラカンによる倒錯の公式は a – $ であり、それはまさに分析家の言説の上部にある。

倒錯者と分析家の社会的紐帯 social link のあいだの相違は、ラカンにおける対象a の根源的な両義性に根ざしている。対象a は、一方でイマジネール・幻想的な囮/スクリーンでもあれば、他方でこの囮が曖昧化されたもの、囮の背後にある空虚である。

このようにして、我々が倒錯から分析家の社会的紐帯へと移行するとき、エージェント(分析家)は自身を空虚に還元する。空虚、すなわち主体を彼の欲望の真理に直面するように誘い込む空虚である。(ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」(ジジェク)

さてこのようにして、われわれの社会的つながりは、支配(主人の言説)、教育(大学人の言説)、分析(分析家の言説)、欲望(ヒステリーの言説)の四つに加えて「倒錯的」つながりがあるということになる。

これでほぼ網羅できるのではないか。われわれ人間がやっていることのすべては。

わたくし自身は資本の言説をそのまま「倒錯」と捉えるのではなく、主人の言説領野に四つの言説があるように、資本の言説にも四つの言説があるのではないか、という想定を今のことろしているが、これはたんなる思いつきの範囲にすぎない。



すなわち消費者の言説、市場の言説、倒錯の言説、プロレタリアの言説である(資本の言説はもともと無限∞の形になっているので、出発点を変えたら上のように読めるというだけでありーー四つの言説それぞれとは異なりーー本質的なマテームの動きの意味合いはすべて同じではある)。

社会的症状は一つあるだけである。すなわち各個人は実際上、皆プロレタリアである。つまり個人レベルでは、誰もが「社会的つながり lien social を築く言説」、換言すれば「見せかけ semblant」をもっていない。これが、マルクスがたぐい稀なる仕方で没頭したことである。

Y'a qu'un seul symptôme social : chaque individu est réellement un prolétaire, c'est-à-dire n'a nul discours de quoi faire lien social, autrement dit semblant. C'est à quoi MARX a paré, a paré d'une façon incroyable.(LACAN La troisième 1-11-1974 )

上の図のように想定した理由は、今引用した文以外に、ラカンの《主人の小さな市場 le petit marché du Maître 》(S17)や《市場の絶対化 absolutisation du marché》(S16)、《科学と奇妙な交接した資本の言説 le discours du capitaliste avec cette curieuse copulation avec la science》(S17)、という表現にかかわるが、それ以上に次の「Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis、Stijn Vanheule, 2016、pdf」の記述によるところが大きい。

資本の言説が意味するのは、「市場(S1)」において交換価値に則って商品やサービスを購買する「消費者 ($) 」である。

しかし、いったん消費者が商品やサービスを所有あるいは消費してしまえば、交換価値は使用価値に還元される。

「消費者が所有するS1」は、「彼の世界を構成する他の諸シニフィアン(S2)」との対話に至る。

これは快楽や達成感をそれほど生まない。むしろ酔いさましの過程である。結局、消費財は諸々の人工加工物のなかの一つの人工加工物である。諸シニフィアンの中の一つのシニフィアンである。(……)

市場にまだあって購買するときには価値を持っていた何ものかは、消費者が所有したときにはもはや消滅する。商品は望まれた満足を提供しない。

期待された魅惑は喪われる。そのときの「生産物」は屑 aである。

生産されたものは、剰余享楽(残滓a)であり、次の段階で、不快やパニックの火をつける。a から $ への矢印が明瞭化しているのは、対象a が主体を混乱させることである。それは再び $ から S1 への動きを生む。従って、以前の消費がもたらした不満に対する「資本の言説」の応答とは、「もっと消費せよ!」である。

資本の言説において真に消費されるものは、欲望自体である。(……)

資本の言説同じように、ヒステリーの言説において、主体は対象a に情動化されている。しかし、資本の言説で起こることとは対照的に、$ はまたS2によって決定づけられている。これが意味するのは、剰余享楽の地位にある無意識の知をともなった無意識の知が、主体を決定づけることである。

逆に、資本の言説においては、そのような決定因は不在である。Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis、Stijn Vanheule, 2016、pdf


Stijn Vanheuleの文にあるヒステリーの言説と資本の言説との対比は次の図を見比べればよくわかる。




《資本の言説において真に消費されるものは、欲望自体である》とあったが、これはラカンの次の叙述が裏付ける。

欲望の搾取、これが資本の言説の偉大な発明である L’exploitation du désir, c’est la grande invention du discours capitaliste(Excursus, 1972)

ーー当面以上だが、資本の言説と倒錯のかかわりにかんする叙述が不十分であり、それについてはそのうち(おそらく)いくらか詳述する。

ラカン派的観点からいえば、最も肝要なのは、われわれは自らの「社会的つながり」において、どの言説に囚われているのかを、問うことである。それは論文であれ、ツイートであれ、ブログ記事であれなんでもよい。

わたくしのこの記事はもちろん大学人の言説S2である。ラカン派ドグマに囚われているのだから。

大学人の言説は、知 (S2)の発布の上に構築されている。この知は、「ドグマと仮定 」(S1)の受容の上に宿っている。しかしこのドクマと仮定は、この言説において無視されている。特徴的に、「他者」は対象a(欲望の対象-原因)の場に置かれる。これは不満($)を生む。そしてさらなる知の創造(S2)を刺激する。 (Stijn Vanheule、2016ーー基本版:「四つの言説 quatre discours」

そしてこのように自らのテキストS1に疑念を呈することは、ヒステリーの言説$へ移行を試みていることになる($→S1)(ラカン派観点からはデカルトでさえおおむね大学人の言説である。なぜなら見せかけのS2(知の言説)の支えとして、S1(神)を必要としたのだから)。

セミネール20(アンコール)の第二章で、ラカンはわたしたちに教えてくれます、ひとは毎度ひとつの言説から他の言説に移ることを。そのときなのです、分析家の言説が現われるのは。対象a から$ への決意を掴み取る可能性としての分析家の言説です。アンコールの同じパラグラフで、ラカンはこう教えています、言説のどの横断もまた愛の徴だ l'amour c'est le signe de ce qu'on change de discours と。その考え方とともに、あとはよろしく!(ポール・バーハウ,1995、From Impossibility to Inability. Lacan's Theory of the Four Discourses,Paul Verhaeghe)



2017年4月3日月曜日

資本の言説ーー「資本の論理」の生産様式

ラカンの「言説」概念は、フーコーのそれとは異なり、「社会的紐帯 lien social」にかかわる。「社会的紐帯」、すなわち「社会的つながり」であり、言語活動とはかならずしも一致しない。

四つの言説は、主体が四つの異なった社会的紐帯の形態を練り上げるための、四つの異なった手段の見取り図である。その社会的紐帯の形態とは、享楽の全的獲得の不能性にかかわる。(Paul Verhaeghe, 2004, On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics)

つまり「言説」には、場合によっては、言葉なき言説(「パロールなき言説 un discours sans parole」(ラカン、S18)もありうる(ようするに主体が他者とかかわる仕方における形式的構造が核心である)。

だがこれらの社会的紐帯(社会的つながり)だけではなく、「生産様式」として「言説」を捉える観点もある。

まず最初の誤謬を取り除かねばならない。想い起こそう、(ラカンにとって)「言説」とは「語の集合」ではないことを。「資本の言説」という表現は、資本主義の生産様式の支配に由来する社会的紐帯を指している。ある意味で、「言説」という用語は「生産様式」という用語に代替される。(capitalist exemptIon,Pierre Bruno,2010、pdf)

「言説」を「生産様式」として捉えれば、フロイトの「文化の中の居心地の悪さ」とは「資本主義の中の居心地の悪さ」と捉える観点も出現する。

…(フロイト・ラカンによる)「社会的生産様式」を支えるメカニズムへの固有の洞察。決して誇張ではない、次のように主張することは。すなわち、「資本主義のなかの居心地の悪さ Das Unbehagen im Kapitalismus」のほうが「文化の中の居心地の悪さ Das Unbehagen in der Kultur」より適切だと。というのは、フロイトは抽象的な文化を語ったのでは決してなく、まさに産業社会の文化を語ったのだから。強欲な消費主義、増大する搾取、繰り返される行き詰まり、経済的不況と戦争によって徴づけられる産業社会の文化を。(Samo Tomšič: Laughter and Capitalism, 2016, pdf)

とはいえ「資本主義」にも種々のタイプがある。ここで、「「父/父不在」の交代の世界史」にて掲げた柄谷行人の図式を再掲しよう。



柄谷行人のこの図式では、商人資本→産業資本→金融資本→国家独占資本→多国籍資本の推移があったことになる。

ここから、それぞれの資本様式、つまり「生産様式=言説」によって、異なった社会の病理(参照:「父の溶解霧散」後の「文化共同体病理学」)がある、という考え方も生まれうる。

諸個人は社会が彼らに課す理想的イメージに基づいて行動するよう期待される。そして彼らの不成功、いや成功さえも彼らを病気にする。

これは、もちろんフロイトが『文化の中の居心地の悪さ』において提案した古典的考え方のリバイバルである。

…フロイトは、社会と個人とのあいだには、精神的緊張の領域があると想定した。事実、個人の欲望は社会によって拘束されなければならない。問いは、精神的緊張の領域が取りうる異なった形態についてである。人は想定する必要がある。異なった社会構造は、アイデンティティ創造の異なった過程と異なったメンタルディスオーダーをもたらすことを。(ポール・バーハウ 2014, identity and angst: on civilisation's new discontent、pdf)

…………

ここでラカン自身による「資本の言説」をめぐる発言を掲げる。

危機 la crise は、主人の言説 discours du maître というわけではない。そうではなく、資本の言説 discours capitalisteである。それは、主人の言説の代替 substitut であり、今、開かれている ouverte。

私は、あなた方に言うつもりは全くない、資本の言説は醜悪だ le discours capitaliste ce soit moche と。反対に、狂気じみてクレーバーな follement astucieux 何かだ。そうではないだろうか?

カシコイ。だが、破滅 crevaison に結びついている。

結局、資本の言説とは、言説として最も賢いものだ。それにもかかわらず、破滅に結びついている。この言説は、支えがない intenable。支えがない何ものの中にある…私はあなた方に説明しよう…

資本家の言説はこれだ(黒板の上の図を指し示す)。ちょっとした転倒だ、そうシンプルにS1 と $ とのあいだの。 $…それは主体だ…。それはルーレットのように作用する ça marche comme sur des roulettes。こんなにスムースに動くものはない。だが事実はあまりにはやく動く。自分自身を消費する。とても巧みに、(ウロボロスのように)貪り食う ça se consomme, ça se consomme si bien que ça se consume。さあ、あなた方はその上に乗った…資本の言説の掌の上に…vous êtes embarqués… vous êtes embarqués…(ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972、私訳)


資本の言説 discours du capitalisme を識別するものは、Verwerfung、すなわち象徴界の全領野からの「排除 rejet」である。…何の排除か? 去勢の排除である Le rejet de quoi ? De la castration。資本主義に歩調を合わせるどの秩序・どの言説も、平明に「愛の問題 les choses de l'amour」と呼ばれるものを脇に遣る。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972)

(「愛の問題 les choses de l'amour」とあるが、ラカンの愛の定義(のひとつ)は、《愛とは自分のもっていないものを与えることである l'amour c'est de donner ce qu'on n'a pas》(S8)―― その意味するところは、「愛するということは、あなたの欠如(去勢)を認めて、それを他者に与える、他者のなかにその欠如を置く」(ミレール)ということである。)

ラカンは、1968年の学園紛争にて、《父の溶解霧散 évaporation du père》 が顕著になったという立場をとっている(これが「去勢の排除」にかかわる)。すなわち「権威の死」である。そしてその後、1989年の冷戦終結による「イデオロギーの死」が決定打としてある。柄谷行人のいう1990年以降の「多国籍資本」の時代とは、実際は1970年頃から徐々に始まっていたはずである(たとえば1971年のドル金兌換制停止)

こうして「父なき時代」が柄谷行人の図式にあわせるなら1990年から顕著になるが、実質上は、1970年あたりから「父なき時代」は始まっている(ここではニーチェの「神の死」やフーコーの「人間の死」は考慮に入れないでおく)。

少し前柄谷の図式にあわせて提示した次の図は、フロイトが『文化の中の居心地の悪さ』で言う「文化共同体病理学 Pathologie der kulturellen Gemeinschaften 」の観点からは、1970年の区切りをいれるべきだったかもしれない。


中井)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)

ここで中井久夫が言う「超自我」とは、ラカンの主人S1である。

上にみたように、ラカンは1972年に主人の言説が資本の言説の代替を指摘しているが、この特徴は「去勢の排除」ともしており、つまり「精神病的」な時代の始まりを示唆している。だが、資本の言説をめぐる現代ラカン派の捉え方は、排除ではなく否認にかかわる「倒錯」の時代とするのが主流である。

資本の言説は、「一般化された倒錯」の用語で叙述しうる。(ANDREA MURA. 2015, Lacan and Debt: The Discourse of the Capitalist in Times of Austerity, PDF)
資本主義は、社会的つながりの水準で、倒錯的享楽の一般化を強いる。それは克服できない地平であり、数多くの倒錯が咲き乱れる。他方、一般的な社会の枠組は変わらないないままである。商品形態の閉じられた世界、その多形性は、アンタゴニズムのすべての形態の加工・同化・中性化を可能にする。資本主義の主体は去勢を嘲笑し、去勢は時代錯誤的で、ポストモダン社会がきっぱりと克服した男根社会の残滓だと宣言する。(Samo Tomšič, 2015, The Capitalist Unconscious: Marx and Lacan)

ラカンの去勢とは、「象徴的去勢」のことであり、その去勢とは、言語を使用することによって、自らの身体の享楽(具体的な生の世界のなかの根)と切り離されるということである。
人間は言語によって囚われ拷問を被る主体である。l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage(ラカン、S.3、04 Juillet 1956)
去勢とは、本質的に象徴的機能であり、徴示的分節化 articulation signifiante 以外のどの場からも生じない。 (Lacan,S17, 18 Mars 1970)

他方、資本の言説の時代の「倒錯」(去勢の否認)のひとつは、完璧なコミュニケーション(交換)が可能だと錯覚することだろう。 欲望は象徴的去勢に基づくが、欲望は要求と誤認され、要求が満たされればよしとする態度である(消費至上主義)。

個人の精神病理としての倒錯については種々の捉え方があるが(参照:倒錯の三つの特徴)、文化共同体病理学においては、マルクスの価値形態論(商品あるいは貨幣フェティシュ分析(M-C-M' ))が倒錯を捉える上の要となる(柄谷行人による2016年の英語論文、‟Capital as Spirit Kojin Karatani”pdf も「フェティシュ」が主題である)。

「快の獲得 Lustgewinn」は、快原理の恒常性 homeostasis が単なる虚構であることの最初の徴である。しかしながらそれが証明しているのは、欲求のどんな満足もいっそうの快を生みだしえないことである。それはちょうど、どんな剰余価値も C–M–C(商品–貨幣–商品)の循環からは論理的に生じないように。

剰余享楽・快と営利 profit making との連携は、快原理の想定された恒常的特性を掘り崩すわけでは単純にはない。それが示しているのは、恒常性は欠くべからざる虚構であり、無意識的生産を構造化し・支えていることである。それはちょうど、世界観的機制のイマジネールな獲得が閉じられた全体ーーその総体的構築において亀裂のない全体--を提供することで成り立っているように。

「快の獲得 Lustgewinn」はフロイトの最初の概念的遭遇である、後に快原理の彼岸・反復強迫に位置づけられたものとの。それは精神分析に、M– C–M(貨幣– 商品–貨幣)と等価なものを導入することになる。(Samo Tomšič, The Capitalist Unconscious, 2015)

最近のジジェクは、このまだ若い Samo Tomšič の論に強い刺激を受けているようにみえる。

リビドー的経済において、反復強迫の倒錯性に乱されない「純粋な」快原理はない。この倒錯性は快原理の用語では説明しえない。商品交換の領野において、別の商品を購買するために商品を貨幣に代える交換の、直かの閉じた円環はない。商品売買の倒錯的論理ーーより多くの貨幣を得るための論理--によって蝕まれていない円環はない。この論理において、貨幣はもはや、商品交換における単なる媒体ではなく、それ自体が目的となる。(ジジェク、2016,Slavoj Žižek – Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledgeーー至高の「倒錯」思想家(マルクス・フロイト・ラカン)

ラカンは倒錯を、裏返しになった幻想の式$ ◊ a として定義している。すなわち倒錯の定式は、a ◊ $ である。これは、資本の言説の a → $ が示している。





ラカンの対象aには両義性がある。《対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚をあらわす》(ジジェク、2016,pdf)。もちろん資本の言説の a は、幻想的囮/スクリーンである。主人の言説に代表される四つの言説の原動因(真理)の項が、資本の言説では消滅した。




だが資本の言説において、原動因(真理)に近似したものが、この「幻想的囮/スクリーン(a)」=フェティシュであるようにみえる。

ラカンには《le petit marché du Maître 主人の小さな市場》(S17)という表現がある。これを援用して、次のように図示しうる。






この図はもちろん種々の変奏が可能であり、巷間には「観光客」の思想家がいるが、詳しいことはいざ知らず、あれは資本の言説の領野にあるように見える。





他方、従来の「思想家」とは形式的には次のような図で示すことができる。





わたくしは『観光客の哲学』なるものを読んでいないので、なんらかの評価の良し悪しを言い募るつもりはない。ただツイッター上の振舞いにおいては、レスポンス・囮としての対象a・フェティシュに過剰に依存しているように見えるだけである。

本書でぼくが言おうとしているのは、観光客とは小さな人類学者であるべきだという提言として要約できるのかもしれない。(東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』)

いずれにせよ肝腎なのは、われわれ誰もが、現在「資本の言説」の時代に生きており、旧来の主人の言説の時代に人格形成期をおえた人びとも、多寡の差はあれフェティシュ的傾向をもつようになっている、ということである。そこから逃れる方策を、ラカンは漠然としか言っていない。

聖人となればなるほど、ひとはよく笑う Plus on est de saints, plus on rit。これが私の原則であり、ひいては資本の言説 discours capitaliste からの脱却なのだが、-それが単に一握りの人たちだけにとってなら、進歩とはならない。(ラカン、テレビジョン、1973年)

かつまた基本的な意味での「フェティシュ」という用語に誤解がないようにこう付け加えておこう。

フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (Lacan,S10)
倒錯は欲望に起こる偶発事ではない。すべての欲望は倒錯的である。いわゆる象徴秩序がそうしたいようには、享楽はけっしてその場のなかにないという限りで。

La perversion n'est pas un accident qui surviendrait au désir. Tout désir est pervers dans la mesure où la jouissance n'est jamais à la place que voudrait le soi-disant ordre symbolique.(L'Autre sans Autre par JACQUES-ALAIN MILLER

言語自体がフェティシュという観点さえある。

しかし言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche?。言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(ジュリア・クリスティヴァ1980,J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)

こういう理解をしてしまえば、岩井克人による「人間の真のパートナーは、言語、法、貨幣」における「言語、法、貨幣」とはすべてフェティシュとさえ置けるわけである。すなわち「人間の真のパートナーはフェティシュである」、と。

交換価値とは、人と人とのあいだの関係である、というのが正しいとしても、それは物という外被におおわれた関係、ということをつけくわえる必要がある。(マルクス『経済学批判』)

ーーコミュニケーションとは、人と人とのあいだの関係である、というのが正しいとしても、それはフェティシュにおおわれた関係、ということをつけくわえる必要がある。

この解釈に居直ってしまえば、観光客思想家を批判することが至難の技となる(とはいえ、資本の言説にまぐわっている「思想家」たちは、ラカンの原動因(あるいは穴Ⱥ)の定義のひとつとしての《書かれぬことを止めぬもの C'est ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire》に直面する姿勢は、どこかに行ってしまっている気配が濃厚であるには相違ない)。

ジャック=アラン・ミレールによって提案された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、《我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien]》。

これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは同様に空虚を隠蔽する、見せかけが無のヴェールであるように。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

ここまでの文脈での共同体病理学における「覆われなければならない無」とは、「社会的なもの」である。マルクスの 「社会的なもの」とは 《無根拠であり非対称的な交換関係》(柄谷『マルクスその可能性の中心』1978年)であり、ラカンの非全体 pas-tout(穴=Ⱥ)と等価である。

…………

ところで岩井克人は1990年に、じつに示唆溢れることを言っている。この岩井克人の見解に則れば、ラカンの主人の言説から資本の言説への移行とは、「資本の主義」の言説から「資本の論理」への言説の移行と相同的である。

◆『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談集1990)より。

【ふたつの資本主義】 
じつは、資本主義という言葉には、二つの意味があるんです。ひとつは、イデオロギーあるいは主義としての資本主義、「資本の主義」ですね。それからもうひとつは、現実としての資本主義と言ったらいいかもしれない、もっと別の言葉で言えば、「資本の論理」ですね。

実際、「資本主義」なんて言葉をマルクスはまったく使っていない。彼は「資本制的生産様式」としか呼んでいません。資本主義という言葉は、ゾンバルトが広めたわけで、彼の場合、プロテスタンティズムの倫理を強調するマックス・ウェーバーに対抗して、ユダヤ教の世俗的な合理性に「資本主義の精神」を見いだしたわけで、まさに「主義」という言葉を使うことに意味があった。でも、この言葉使いが、その後の資本主義に関するひとびとの思考をやたら混乱させてしまったんですね。資本主義を、たとえば社会主義と同じような、一種の主義の問題として捉えてしまうような傾向を生み出してしまったわけですから。でも、主義としての資本主義と現実の資本主義とはおよそ正反対のものですよ。

【社会主義の敗北=主義としての資本主義の敗北】 
そこで、社会主義の敗北によって、主義としての資本主義は勝利したでしょうか? 答えは幸か不幸か(笑)、否です。いや逆に、社会主義の敗北は、そのまま主義としての資本主義の敗北であったんです。なぜかと言ったら、社会主義というのは主義としての資本主義のもっとも忠実な体現者にほかならないからです。

と言うのは、主義としての資本主義というのは、アダム・スミスから始まって、古典派経済学、マルクス経済学、新古典派経済学といった伝統的な経済学がすべて前提としている資本主義像のことなんで、先ほどの話を繰り返すと、それは資本主義をひとつの閉じたシステムとみなして、そのなかに単一の「価値」の存在を見いだしているものにほかならないんです。つまり、それは究極的には、「見えざる手」のはたらきによって、資本主義には単一の価値法則が貫徹するという信念です。

社会主義、とくにいわゆる科学的社会主義というのは、この主義としての資本主義の最大の犠牲者であるんだと思います。これは、逆説的に聞えますけれど、けっして逆説ではない。社会主義とは、資本主義における価値法則の貫徹というイデオロギーを、現実の資本家よりも、はるかにまともに受け取ったんですね。資本主義というものは、人間の経済活動を究極的に支配している価値の法則の存在を明らかにしてくれた。ただ、そこではこの法則が、市場の無政府性のもとで盲目的に作用する統計的な平均として実現されるだけなんだという。そこで、今度はその存在すべき価値法則を、市場の無政府性にまかせずに、中央集権的な、より意識的な人間理性のコントロールにまかせるべきだ、というわけです。これが究極的な社会主義のイデオロギーなんだと思うんです。

【資本の論理=差異性の論理】 
……この社会主義、すなわち主義としての資本主義を敗退させたのが、じつは、現実の資本主義、つまり資本の論理にほかならないわけですよ。

それはどういうことかというと、資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです。そして、この差異性の論理が働くためには、もちろん複数の異なった価値体系が共存していなければならない。言いかえれば、主義としての資本主義が前提しているような価値法則の自己完結性が逆に破綻していることが、資本主義が現実の力として運動するための条件だということなんですね。別の言い方をすれば、透明なかたちで価値法則が見渡せないということが資本の論理が働くための条件だということです。この意味で、現実としての資本主義とは、まさに主義としての資本主義と全面的に対立するものとして現れるわけですよ。

…………

岩井克人による資本の論理(資本の欲動)の定義を掲げる。

資本主義ーーそれは、資本の無限の増殖をその目的とし、利潤のたえざる獲得を追及していく経済機構の別名である。利潤は差異から生まれる。利潤とは、ふたつの価値体系のあいだにある差異を資本が媒介することによって生み出されるものである。それは、すでに見たように、商業資本主義、産業資本主義、ポスト産業主義と、具体的にメカニズムには差異があっても、差異を媒介するというその基本原理にかんしては何の差異も存在しない。(岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』1985)

これこそラカンのいう資本の言説ーー《ルーレットように作用する。こんなにスムースに動くものはない。だが事実は、あまりにはやく動く。/自分自身を消費する。とても巧みに、ウロボロスのように貪り食う》ーーである。

「資本の主義」の時代、「イデオロギーとしての資本主義」の時代、「主人の言説」(主人の生産様式)の時代とは、この「資本の論理」(資本の欲動)をなんらかの形で抑圧していた( 《オブラートに包んで》いた:浅田彰)時代であるだろう。

わたしたちは後戻りすることはできない。共同体的社会も社会主義国も、多くはすでに遠い過去のものとなった。ひとは歴史のなかで、自由なるものを知ってしまったのである。そして、いかに危険に満ちていようとも、ひとが自由をもとめ続けるかぎり、グローバル市場経済は必然である。自由とは、共同体による干渉も国家による命令もうけずに、みずからの目的を追求できることである。資本主義とは、まさにその自由を経済活動において行使することにほかならない。資本主義を抑圧することは、そのまま自由を抑圧することなのである。そして、資本主義が抑圧されていないかぎり、それはそれまで市場化されていなかった地域を市場化し、それまで分断されていた市場と市場とを統合していく運動をやめることはない。

二十一世紀という世紀において、わたしたちは、純粋なるがゆえに危機に満ちたグローバル市場経済のなかで生きていかざるをえない。そして、この「宿命」を認識しないかぎり、二十一世紀の危機にたいする処方箋も、二十一世紀の繁栄にむけての設計図も書くことは不可能である。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』2000年)


やや異なった文脈で語っているドゥルーズ&ガタリの叙述を抜き出せば、資本の論理とは、エディプス(主人)の歯止めがない「器官なき身体」・「死の欲動」のことである。

・資本とは資本家の器官なき身体である…。Le capital est bien le corps sans organes du capitaliste, ou plutôt de l'être capitaliste.

・器官なき充実身体…死の欲動、これがこの身体の名前である。Le corps plein sans organes…nstinct de mort, tel est son nom, (『アンチ・オイディプス』)

すなわち、《死の欲動の馴化(飼い馴らし) Bändigung des Todestriebes 》(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』)がない裸の資本主義である。この飼い馴らしを「拘束」とも呼び、この拘束がなければ《 市場原理主義がむきだしの素顔を見せ》る(中井久夫)。

心的装置の最初の、そしてもっとも重要な機能として、侵入する欲動興奮 anlangenden Triebregungen を「拘束 binden」すること、それを支配する一次過程 Primärvorgang を二次過程 Sekundärvorgang に置き換えること、その自由に流動する備給エネルギー frei bewegliche Besetzungsenergie をもっぱら静的な(強直性の)備給 ruhende (tonische) Besetzung に変化させることを我々は認めた。(フロイト『快原理の彼岸』最終章、1920年)

※参照:ラカンの「言説」理論の基本的な理解のために→「基本版:「四つの言説 quatre discours」



2017年2月17日金曜日

二種類の対象aとフロイトの快の獲得 Lustgewinnung

以下、おおむね資料。

例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象を象徴する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond. (ラカン、S11、20 Mai 1964)

この《永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant》(S.11)が第一の喪失ーー《リアルな欠如、先にある欠如 le manque réel, antérieur》、《生存在の到来 l'avènement du vivant》、つまり《性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuée》において齎された欠如である。

他方、主体の発生による喪失は次のように説明されている。

S1 が「他の諸シニフィアン autres signifiants」によって構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。このとき同時に何かが出現する。「喪失として定義される何かquelque chose de défini comme une perte」が。これが「対象a l'objet(a) 」である。(S17、26 Novembre 1969)

こうして対象a と呼ばれるものは、少なくとも二種類あることが分かる。

…………

現実の領域は対象a の除去の上になりたっているが、それにもかかわらず、対象a が現実の領域を枠どっている。 le champ de la réalité ne se soutient que de l’extraction de l’objet a qui lui donne son cadre (Lacan,E.554,1966)

◆ミレールの古典的な注釈(Jacques-Alain Miller,Montré à Prémontré 1984)
対象を〈現実界〉として密かに無視することによって、現実の安定が「ひとかけらの現実」として保たれているのだ、とわれわれは理解している。だが、〈対象a〉がなくなったら、〈対象a〉はどうやって現実に枠をはめるのか。



〈対象a〉は、まさしく現実の領域から除去されることによって、現実を枠にはめるのである。 〈対象a〉というのはこのような表面の断片であり、それを取り除くことが、それに枠をはめることになるのである。主体とは、すなわち斜線を引かれた主体とは、存在欠如であるから、この穴のことである。存在としては、この除去されたかけらにほかならないのである。主体と〈対象a〉は等価である、とはそういうことなのである。(ミレール,1984)

…………

さて、ミレールはどちらの対象aを語っているのか、《永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant》か、それとも《S1 が「他の諸シニフィアン autres signifiants」によって構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」》ときに生ずる対象aか? 上の説明はどちらにも当てはまるように読める(ただし1984年という比較的初期ミレールであり、用語遣い等も含め現在では古くなっている箇所もある)。

ラカンはセミネール11で、《二つの欠如が重なり合う Deux manques, ici se recouvrent》と言っている。

一方の欠如は《主体の到来 l'avènement du sujet 》によるもの。つまりシニフィアンの世界に入場することによる象徴的去勢にかかわる欠如。そして、《この欠如は別の欠如を覆うになる ce manque vient à recouvrir,…un autre manque 》。

この別の欠如とは、《リアルな欠如、先にある欠如 le manque réel, antérieur》であり、《生存在の到来 l'avènement du vivant》、つまり《性的再生産 la reproduction sexuée》において齎された欠如のこと。

続いて同じ内容を重ねて強調している。このリアルな欠如は、生存在が性的な形で再生産された時に、己れ自身の部分として喪失した欠如である、と。《Ce manque c'est ce que le vivant perd de sa part de vivant : - à être ce vivant qui se reproduit par la voie sexuée》

このセミネール11の段階から、ラカンは対象aをさらに吟味・厳密化していく(参照:「一の徴」日記②)。

ここではその展開を端折り、ジジェク2012による、対象aの厳密な定義の試みを掲げる。核心的と思われる三か所をやや長く引用するが、下の文には三つの区分がなされている。

①欲望の(空虚の換喩的形象化としての)対象a
②欲望の対象-原因(空虚自体)としての対象a
③欲動の対象・喪失自体を上演する(絶え間ない循環運動としての)対象a

欲動は「超越論的」であり、その空間は原初に喪われた対象(モノ)の空虚を穴埋めする幻想の空間である。……この喪失と重なり合う対象としてのラカンの対象a ーー、それはまさに喪失の瞬間に出現する(乳房から声・眼差し迄の全ての幻想的化身は、空虚・無の換喩的形象化である)ーーこの対象a は、欲望の地平内部にあるままである。真の欲望の対象-原因としての対象a は、幻想的化身によって穴埋めされる空虚自体である。

他方、ラカンが強調しているように、対象a はまた欲動の対象である。ここでの関係性は欲望の対象a とは徹底的に異なる。もっともどちらの場合も、対象と喪失の繋がりはきわめて肝要ではある。

欲望の対象-原因としての対象の場合、原初的に喪われた対象がある。それはそれ自体の喪失と一致する。喪失として出現するのである。

欲動の対象としての対象a の場合、「対象」とは喪失それ自体である。欲望から欲動への移行において、われわれは喪われた対象から対象としての喪失自体へと向かう。

言い換えれば、「欲動」と呼ばれる奇妙な運動は、喪われた対象への「不可能な」探求によってドライブ(欲動)されるのではない。それは直接的に「喪失」自体ーー裂け目、切り傷、距離ーー自体を上演する。

したがって、ここで為されなければならないのは二重の区別である。幻想的な地位の対象a とポスト幻想的な地位の対象a とのあいだの区別だけではない。そうではなくまた、ポスト幻想的領域自体内部において、欲望の対象-原因と欲動の対象-喪失とのあいだの区別が必要である。

ゆえに次のように主張するのは誤謬である、「純粋な」死の欲動は、(自己)破壊への不可能な「全的」意志・エクスタシー的自己消滅であるとするのは。そこでは主体は母親なるモノの全体性に融合しようとするが、その意志は実現されえず、遮断され・「部分対象」に付着して身動きがとれなくなっている、とするのは誤謬である。

このような考え方は、死の欲動を欲望とその喪われた対象へと再翻訳するものである。すなわち、ポジティヴな対象が不可能なモノという空虚の換喩的代役であるのは欲望においてである。全体性への憧憬が部分対象へと移転されるのは欲望においてである。これがラカンが欲望の換喩と呼んだものである。

ここで我々は、ラカンの核心を見失なわないように(欲望と欲動を混同しないように)殊更厳密でなければならない。欲動は、部分対象のうえに固着されたモノへの無限の憧憬ではない。「欲動」は固着自体である。どの欲動にもある「死」の次元はここに帰される。欲動は、堰き止められ解体された(近親相姦的モノへの)普遍的渇望ではない。欲動はこの歯止め brake 自体である。本能への歯止め、その「凝固 stuckness」(エリック・サントナー曰く)である。(……)

さらにもっと的確に言おう。欲動の対象は、空虚の充填物としてのモノとは関係ない。欲動とは文字通り欲望への対抗運動である。欲動は、不可能な融合に向かって奮闘し、そして断念を余儀なくされて、その残余としての部分対象に凝着させられるものでは〈ない〉。欲動 drive は、極めて文字通り、まさに「ドライブ」である。欲動は、我々が埋め込まれている全ての連続体を粉砕し、その連続体のなかに根源的不均衡を導入する「ドライブ」である。そして欲動と欲望のあいだの相違はまさに、欲望においては、この切れ目、この部分対象への固着が、あたかも「超越論的に」モノの空虚の代役に変換されることである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

以下、同ジジェク、2012だが、別の章から。

ラカンのセミネールXVI へのミレール注釈は、対象a 、欲望の対象-原因の地位の決定的変化を詳述している。すなわち、身体上の標本(部分対象:乳房、糞便…)から純粋な論理的機能への移行。このセミネールで、《ラカンは本当は、対象a を身体上の標本として叙述していない。彼は、対象a を論理的一貫性、生物学の場のなかにある論理的存在として構築している。この論理的一貫性は、身体が、異なった身体的演繹を通して満足せねばならぬ機能のようなものである》(Jacques‐Alain Miller, “A Reading of the Seminar From an Other to the other,” 2007)。

この移行とは、外部の侵入者、徴示化機械 signifying machine のなかの砂粒ーーその砂粒が機械のスムーズな機能を邪魔するーーから、機械に完全に固有の何かへの移行である。

ラカンが、象徴空間の内部が外部に重なり合うこと(外密 ex‐timacy)によって、象徴空間の湾曲・歪曲を叙述するとき、彼はたんに、対象a の構造的場を叙述しているのではない。剰余享楽は、この構造自体、象徴空間のこの「内に向かう湾曲」以外の何ものでもないのだ。

ミレールは最近、「構成された不安 constituted anxiety」と「構成する不安 constituent anxiety」というベンヤミンの区別を提案した。この区別は、欲望から欲動への移行に関わって決定的である。前者は我々に纏いつく怖ろしくも魅惑的な不安の深淵の標準概念を示す。我々を惹き込み脅かす悪の渦巻である。後者はそのまさに喪失において構成された対象a との「純粋な」遭遇を表す。

ミレールはここで二つの特徴を正しく強調している。構成された不安と構成する不安を分け隔てる相違は幻想についてに対象の地位に関わる。構成された不安の場合、対象は幻想の領域内にある。構成する不安が齎されるのは、主体が「幻想の横断」を経て、幻想的対象によって埋め合わせられた空虚・裂目に遭遇するときのみである。

とはいえ明瞭判然としているのは、ミレールの定式は対象a の真のパラドックス、あるいはむしろ、対象a の両義性を見失っていることである。その両義性とは次の問いに関わる。対象a は欲望の対象として機能するのか、あるいは欲動の対象として機能するのか?

すなわちミレールが、対象a をその喪失と重なり合う対象、まさにその喪失の瞬間に出現する対象(したがって乳房から声・眼差し迄の全ての幻想的化身は、空虚・無の換喩的形象化である)として定義するとき、彼はいまだ欲望の地平内部にとどまっている。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)


さらに資本の論理を語るなかでの対象aの叙述箇所。

ジャック=アラン・ミレールに従って、欠如と穴とのあいだの区別がされなければならない。「欠如とは空間的で、空間内部の空虚を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す」(Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,” excerpted at www.lacan.com )

ここに、欲望と欲動とのあいだの相違が横たわっている。欲望は、その構成的欠如に基づいている。他方、欲動は、穴・存在の秩序の裂目のまわりを循環する。

言い換えれば、欲動の循環運動は、歪んだ空間の奇妙な論理に従っている。その歪曲空間では、二つの点の最短距離は直線ではなく曲線である。欲動は、目標 aim を実現するための最速の方法は、目的 -対象 goal‐object のまわりを循環することであるのを「知っている」。

資本主義はもちろん、各個人に差し向けられた直接的水準においては、諸個人を顧客・欲望の主体として扱い、絶え間ず新しい倒錯的な、かつ過剰な欲望を誘引する(彼らを満足させる生産物を提供する)。さらに資本主義は明らかに「欲望することの欲望」を巧みに操作する。まさに絶えず新しい対象と快楽の様式を欲望することの欲望を喧伝する。しかしながら、もし資本主義が、「最も基本的欲望は欲望としてのそれ自体を再生産することの欲望(そして満足を見出せないことの欲望)である」という事実を踏まえて既に欲望を操作しているなら、この水準においては、我々は未だ欲動には至っていない。

欲動は、もっと根本的・体系的水準において、資本主義に固有なものである。全き資本家機械へと駆り立てるものとしての欲動は、拡張された自己再生産の絶え間ない循環運動に従事する非人格的衝迫である。我々が欲動モードに入るのは、資本としての貨幣の循環がそれ自体目的になったときである。というのは価値の拡張は、絶えず更新される運動内部でのみ起こるのだから(人はここで念頭に置いておくべきである、ラカンのよく知られた欲動の目標 aim と目的 goal とのあいだの区別を。目的 goal とは、欲動がそのまわりを循環する対象である一方、欲動の本当の目標 aim は、この循環の絶えまない継続自体である)。

したがって資本家の欲動はどんな特定の個人にも属さない。むしろ資本の直接的「代理人」(資本家自身・経営者)として振舞う諸個人がそれを露にする。
(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

…………

柄谷行人は『トランスクリティーク』にて、三番目の「欲動の対象・喪失自体を上演する(絶え間ない循環運動としての)対象a」の相を見事に把握している。

マルクスが資本の考察を守銭奴から始めたことに注意すべきである。守銭奴がもつのは、物(使用価値)への欲望ではなくて、等価形態に在る物への欲動――私はそれを欲望と区別するためにフロイトにならってそう呼ぶことにしたいーーなのだ。別の言い方をすれば、守銭奴の欲動は、物への欲望ではなくて、それを犠牲にしても、等価形態という「場」(ポジション)に立とうとする欲動である。この欲動はマルクスがいったように、神学的・形而上学的なものをはらんでいる。守銭奴はいわば「天国に宝を積む」のだから。

しかし、それを嘲笑したとしても、資本の蓄積欲動は基本的にそれと同じである。資本家とは、マルクスがいったように、「合理的な守銭奴」にほかならない。それは、一度商品を買いそれを売ることによって、直接的な交換可能性の権利の増大をはかる。しかし、その目的は使用することではない。だから、資本主義の原動力を、人々の欲望に求めることはできない。むしろその逆である。資本の欲動は「権利」(ポジション)を獲得することにあり、そのために人々の欲望を喚起し創出するだけなのだ。そして、この交換可能性の権利を蓄積しようとする欲動は、本来的に、交換ということに内在する困難と危うさから来る。(柄谷行人『トランスクリティーク』P25-26)

これは柄谷行人初期からのマルクス読解に由来するすぐれた成果である(ラカン派でさえ、この欲動の対象aを把握している人はすくない)。

マルクスが、社会的関係が貨幣形態によって隠蔽されるというのは、社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係が、対称的であり且つ合理的な根拠をもつかのようにみなされることを意味している。物象化とは、このことを意味する。それは、「人間と人間の関係が物と物と物の関係としてあらわれる」とか、関係が実体化されることを意味するのではない。(……)

くりかえしていえば、マルクスは、価値形態、交換関係の非対称性が経済学において隠蔽されていることを、指摘したのである。同じことが、言語学についてもいえるだろう。それは、いわば、教えるー学ぶ関係の非対称性を隠蔽している。非対称的な関係を隠蔽するということは、関係を、あるいは他者を排除することと同じである。それゆえに、言語学は、ヤコブソンがそうであるように、古典(新古典)経済学と同じ交換のモデル、たとえばメッセージ(商品)-コード(貨幣)-メッセージ(商品)というモデルから出発している。それは、共同体のなかでの交換のみをみることである。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』1978年、P.17)

「対称的であり且つ合理的な根拠」/「社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係」とは、「メッセージ(商品)-コード(貨幣)-メッセージ(商品)」/「コード(貨幣)-メッセージ(商品)-コード(貨幣)」である(C-M-C/M–C–Mʹ)。

" Mehrlust "、すなわち「剰余享楽 plus-de-jouir」は" Merhwert(剰余価値) "と相同的である。(ラカン、S.16,D'un Autre à l'autre)
主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって表象されうるものである。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体は何に対して表象されるのか? ーー使用価値である。

そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値 la plus-value と呼ばれるものである。この喪失は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。(ラカン、S.16)
フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」、それはシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。 …oder unmittelbaren Lustgewinn… à savoir tout simplement mon « plus-de jouir ».(Lacan,S.21)

◆以下、ジジェク、2016,Slavoj Žižek – Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledge,PDFより。

【快原理を蝕む倒錯性】
リビドー的経済において、反復強迫の倒錯性に乱されない「純粋な」快原理はない。この倒錯性は快原理の用語では説明しえない。商品交換の領野において、別の商品を購買するために商品を貨幣に代える交換の、直かの閉じた円環はない。商品売買の倒錯的論理ーーより多くの貨幣を得るための論理--によって蝕まれていない円環はない。この論理において、貨幣はもはや、商品交換における単なる媒体ではなく、それ自体が目的となる。


【フロイトの快の獲得 Lustgewinn とマルクスの M– C–M】
唯一の現実は、貨幣を消費してより多くの貨幣を獲得することである。そしてマルクスが C-M-C(商品-貨幣-商品)と呼んだもの・別の商品を購買するために商品を貨幣に代える交換は、究極的には虚構である。もっともこの虚構は、交換過程の「自然な」基盤を提供している(たんに金、もっと金じゃないよ、交換のすべての核心は、具体的な人間欲求を満たすことさ!)。ーーここにある基本のリビドー的機制は、フロイトが Lustgewinn(快の獲得)と呼んだものである。Samo Tomšič の『資本家の無意識』はこの概念を巧みに説明している。

《「快の獲得 Lustgewinn」は、快原理の恒常性 homeostasis が単なる虚構であることの最初の徴である。しかしながらそれが証明しているのは、欲求のどんな満足もいっそうの快を生みだしえないことである。それはちょうど、どんな剰余価値も C–M–C(商品–貨幣–商品)の循環からは論理的に生じないように。
剰余享楽・快と営利 profit making との連携は、快原理の想定された恒常的特性を掘り崩すわけでは単純にはない。それが示しているのは、恒常性は欠くべからざる虚構であり、無意識的生産を構造化し・支えていることである。それはちょうど、世界観的機制のイマジネールな獲得が閉じられた全体ーーその総体的構築において亀裂のない全体--を提供することで成り立っているように。

「快の獲得 Lustgewinn」はフロイトの最初の概念的遭遇である、後に快原理の彼岸・反復強迫に位置づけられたものとの。それは精神分析に、M– C–M(貨幣– 商品–貨幣)と等価なものを導入することになる。》(Samo Tomšič, The Capitalist Unconscious, 2014)


【反復運動自体による快の獲得】
「快の獲得 Lustgewinn」の過程は、反復を通して作働する。人はその目的を見失い、人はその運動を反復する。何度も何度も試みる。したがって真の目標は、もはや意図された目的ではなく、目的に到ろうとする反復運動自体である。

これは、形式と内容の用語に置き換えうる。「形式」とは、欲望された内容に接近する形式・様式を表わす。一方で欲望された内容(対象)は、快を提供することを請け合う。他方で剰余享楽は、目的追求のまさに形式(手続き)によって獲得される。

いかに口唇欲動が機能するかの古典的事例がある。一方で乳房吸啜の目的は、乳で満腹になることである。他方でリビドー的獲得は、吸啜の反復運動によって提供され、したがってそれ自体が目的となる。(……)

「快の獲得」の別の形象は、ヒステリーを特徴づける反転である。快への断念は、断念の快・断念のなかの快へと反転する。欲望の抑圧は抑圧の欲望へ反転する、等々。これらすべての事例において快の獲得は、「パフォーマティヴ」の水準で起こる。目的に到達することではなく、目的に向かって作働する「パフォーマンス」自体がその獲得を産出する。


【快の獲得 Lustgewinn と剰余価値 Mehrwert 】
…我々は「快の獲得 Lustgewinn」 と「剰余価値 Mehrwert」とのあいだに歴然とした繋がりを観察しうる。快の獲得過程の目標は、公式的目的(欲求の満足)ではなく、過程自体の拡張された再生産である。たとえば、母の乳房を吸啜する目標は乳で満腹になることではなく、吸啜行為自体によってもたらされる快である。そして正確に相同的のあり方で、剰余価値の交換過程の目標は、自身の欲求の満足ではなく、資本自体の拡張された再生産である。

ここで決定的なのは C-M-C から M-C-M' への反転である。C-M-C(諸個人は商品をその欲求よりも過剰に生産する。彼らはその商品を交換する。そして貨幣とは、生産者が必要とする生産物を求めて彼の過剰生産物と交換するための、単なる仲介要素である)、ここから M-C-M' (私が所有する貨幣を以て、私は商品を購買する。そしてより多くの貨幣を獲得するために商品を販売する)への反転。もちろん二番目の作用が働くのは、私が購買した商品がその価値よりももっと多くの価値を産出するために使用された場合に限る。そしてこの商品とは労働力である。

要するに、M-C-M' の条件は、自己言及的捻りのなかで、商品自体を産出する労働力が商品となることである(ここで別の捻りを付加しよう。遺伝子工学の爆発的な発展、すなわち諸商品を産出する一つの商品を科学的に産出することの行く末…)。


【人間の生産活動の倒錯性】
ここで耐えねばならない誘惑は、C-M-C から M-C-M' への移行を、より基本的過程の疎外・脱自然化として捉えてしまうことである。一見自然で妥当に見える、人が生産しうるが自らにとっては実際の必要でない品を、他者によって生産された必要品と交換するのは。この全過程は私の欲求によって統制されている。だが事態は奇妙な転回を起す。それは仲介要素(貨幣)にすぎなかった筈のものが、目的自体になるときである。そのとき全運動の目的は、私の実際の欲求における拠り所を失い、二次的手段化であるべき筈のものの終わりなき自己増殖へと転じる…。

C-M-C を自然で妥当と見なしてしまう誘惑に対抗して、人は強調しなければならない。C-M-C から M-C-M' への反転(すなわち自己を駆り動かす貨幣の妖怪の出現)は、既にマルクスにとって、自己駆動化された人間の生産活動の倒錯的表現である。マルクス的観点からは、人間の生産活動の真の目標は、人間の欲求の満足ではない。むしろ欲求の満足は、ある種の理性の狡知のなかで、人間の生産活動の拡張を動機づけるために使われる。(ジジェク、2016)

…………

フロイトの概念「快の獲得Lustgewinnung」は1908年にたしか初出するが、ここでは1920年の『快原理の彼岸』から抜き出しておく。

現実原則は、最後まで快の獲得Lustgewinnungの意図を断念することはないが、満足を延期し、満足のさまざまな可能性を断念し、長い迂回路をへて快に達する途中の不快を一時甘受することを、促し強いる。(フロイト『快原理の彼岸』)
子供が苦痛な体験を、遊戯(fort-da)として繰りかえすことは、どうして快感原則に一致するのであろうか。(……)偏見なしに観察すれば、子供は別の動機から自分の体験を遊戯にしたてたのだという印象をうける。子供はこの場合、受動的 passivであって、いわば体験にとらえられたのであるが、ついに能動的な役割 aktive Rolleに移り、体験が不快であったにもかかわらず、これを遊戯として繰りかえしたのである。この努力は、回想そのものが快いものであるかどうかにはかかわりない態度をとる支配欲動 Bemächtigungstrieb に帰することもできよう。しかしまた、別の解釈を試みることもできる。見えなくなるように、物を投げすてることは、子供を置きざりにした母親にたいする、日ごろは抑圧されていた復讐衝動 Racheimpulses の満足であるともいえる。(……)この支配衝動が不快な印象を遊戯の中に反復したのは、この反復に、種類はちがってはいるが、ある直接的な快の獲得 Lustgewinn が結びついているからこそであろう。(同『快原理の彼岸』)

2016年11月13日日曜日

至高の「倒錯」思想家(マルクス・フロイト・ラカン)

【剰余価値・剰余享楽・快の獲得】
" Mehrlust "、すなわち「剰余享楽 plus-de-jouir」は" Merhwert(剰余価値) "と相同的である。(ラカン、S.16,D'un Autre à l'autre)
主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって表象されうるものである。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体は何に対して表象されるのか? ーー使用価値である。

そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値 la plus-value と呼ばれるものである。この喪失は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。(ラカン、S.16)
フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」、それはシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。 …oder unmittelbaren Lustgewinn… à savoir tout simplement mon « plus-de jouir ».(Lacan,S.21)

ーーフロイトの著作においては1900 年代に既に Lustgewinn という語が現われるが、ここでは最晩年(死後出版)の草稿においての簡潔な叙述。

まずはじめに口 der Mund が、性感帯 die erogene Zone としてリビドー的要求 der Anspruch を精神にさしむける。精神の活動はさしあたり、その欲求 das Bedürfnis の充足 die Befriedigung をもたらすよう設定される。これは当然、第一に栄養による自己保存にやくだつ。しかし生理学を心理学ととりちがえてはならない。早期において子どもが頑固にこだわるおしゃぶり Lutschen には欲求充足が示されている。これは――栄養摂取に由来し、それに刺激されたものではあるが――栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたものである。ゆえにそれは‘性的 sexuell'と名づけることができるし、またそうすべきものである。(Freud,S.1940 "Abriss der Psychoanalyse" 「精神分析学概説」)

…………

◆以下、ジジェク、2016,Slavoj Žižek – Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledge,PDFより。

【快原理を蝕む倒錯性】
リビドー的経済において、反復強迫の倒錯性に乱されない「純粋な」快原理はない。この倒錯性は快原理の用語では説明しえない。商品交換の領野において、別の商品を購買するために商品を貨幣に代える交換の、直かの閉じた円環はない。商品売買の倒錯的論理ーーより多くの貨幣を得るための論理--によって蝕まれていない円環はない。この論理において、貨幣はもはや、商品交換における単なる媒体ではなく、それ自体が目的となる。

【フロイトの快の獲得 Lustgewinn とマルクスの M– C–M】
唯一の現実は、貨幣を消費してより多くの貨幣を獲得することである。そしてマルクスが C-M-C(商品-貨幣-商品)と呼んだもの・別の商品を購買するために商品を貨幣に代える交換は、究極的には虚構である。もっともこの虚構は、交換過程の「自然な」基盤を提供している(たんに金、もっと金じゃないよ、交換のすべての核心は、具体的な人間欲求を満たすことさ!)。ーーここにある基本のリビドー的機制は、フロイトが Lustgewinn(快の獲得)と呼んだものである。Samo Tomšič の『資本家の無意識』はこの概念を巧みに説明している。

《「快の獲得 Lustgewinn」は、快原理の恒常性 homeostasis が単なる虚構であることの最初の徴である。しかしながらそれが証明しているのは、欲求のどんな満足もいっそうの快を生みだしえないことである。それはちょうど、どんな剰余価値も C–M–C(商品–貨幣–商品)の循環からは論理的に生じないように。

剰余享楽・快と営利 profit making との連携は、快原理の想定された恒常的特性を掘り崩すわけでは単純にはない。それが示しているのは、恒常性は欠くべからざる虚構であり、無意識的生産を構造化し・支えていることである。それはちょうど、世界観的機制のイマジネールな獲得が閉じられた全体ーーその総体的構築において亀裂のない全体--を提供することで成り立っているように。

「快の獲得 Lustgewinn」はフロイトの最初の概念的遭遇である、後に快原理の彼岸・反復強迫に位置づけられたものとの。それは精神分析に、M– C–M(貨幣– 商品–貨幣)と等価なものを導入することになる。》(Samo Tomšič, The Capitalist Unconscious, 2014)

【反復運動自体による快の獲得】
「快の獲得 Lustgewinn」の過程は、反復を通して作働する。人はその目的を見失い、人はその運動を反復する。何度も何度も試みる。したがって真の目標は、もはや意図された目的ではなく、目的に到ろうとする反復運動自体である。

これは、形式と内容の用語に置き換えうる。「形式」とは、欲望された内容に接近する形式・様式を表わす。一方で欲望された内容(対象)は、快を提供することを請け合う。他方で剰余享楽は、目的追求のまさに形式(手続き)によって獲得される。

いかに口唇欲動が機能するかの古典的事例がある。一方で乳房吸啜の目的は、乳で満腹になることである。他方でリビドー的獲得は、吸啜の反復運動によって提供され、したがってそれ自体が目的となる。(……)

「快の獲得」の別の形象は、ヒステリーを特徴づける反転である。快への断念は、断念の快・断念のなかの快へと反転する。欲望の抑圧は抑圧の欲望へ反転する、等々。これらすべての事例において快の獲得は、「パフォーマティヴ」の水準で起こる。目的に到達することではなく、目的に向かって作働する「パフォーマンス」自体がその獲得を産出する。

【快の獲得 Lustgewinn と剰余価値 Mehrwert 】
…我々は「快の獲得 Lustgewinn」 と「剰余価値 Mehrwert」とのあいだに歴然とした繋がりを観察しうる。快の獲得過程の目標は、公式的目的(欲求の満足)ではなく、過程自体の拡張された再生産である。たとえば、母の乳房を吸啜する目標は乳で満腹になることではなく、吸啜行為自体によってもたらされる快である。そして正確に相同的のあり方で、剰余価値の交換過程の目標は、自身の欲求の満足ではなく、資本自体の拡張された再生産である。

ここで決定的なのは C-M-C から M-C-M' への反転である。C-M-C(諸個人は商品をその欲求よりも過剰に生産する。彼らはその商品を交換する。そして貨幣とは、生産者が必要とする生産物を求めて彼の過剰生産物と交換するための、単なる仲介要素である)、ここから M-C-M' (私が所有する貨幣を以て、私は商品を購買する。そしてより多くの貨幣を獲得するために商品を販売する)への反転。もちろん二番目の作用が働くのは、私が購買した商品がその価値よりももっと多くの価値を産出するために使用された場合に限る。そしてこの商品とは労働力である。

要するに、M-C-M' の条件は、自己言及的捻りのなかで、商品自体を産出する労働力が商品となることである(ここで別の捻りを付加しよう。遺伝子工学の爆発的な発展、すなわち諸商品を産出する一つの商品を科学的に産出することの行く末…)。


【人間の生産活動の倒錯性】
ここで耐えねばならない誘惑は、C-M-C から M-C-M' への移行を、より基本的過程の疎外・脱自然化として捉えてしまうことである。一見自然で妥当に見える、人が生産しうるが自らにとっては実際の必要でない品を、他者によって生産された必要品と交換するのは。この全過程は私の欲求によって統制されている。だが事態は奇妙な転回を起す。それは仲介要素(貨幣)にすぎなかった筈のものが、目的自体になるときである。そのとき全運動の目的は、私の実際の欲求における拠り所を失い、二次的手段化であるべき筈のものの終わりなき自己増殖へと転じる…。

C-M-C を自然で妥当と見なしてしまう誘惑に対抗して、人は強調しなければならない。C-M-C から M-C-M' への反転(すなわち自己を駆り動かす貨幣の妖怪の出現)は、既にマルクスにとって、自己駆動化された人間の生産活動の倒錯的表現である。マルクス的観点からは、人間の生産活動の真の目標は、人間の欲求の満足ではない。むしろ欲求の満足は、ある種の理性の狡知のなかで、人間の生産活動の拡張を動機づけるために使われる。

…………

【言語というフェティッシュ】
貨幣フェティシュ(Geldfetischs)の謎は、ただ、商品フェティシュ(Warenfetischs)の謎が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない。(マルクス『資本論』)
吾々にとつて幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与へられた言葉といふ吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も、若し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。(……)

脳細胞から意識を引き出す唯物論も、精神から存在を引き出す観念論も等しく否定したマルクスの唯物史観に於ける「物」とは、飄々たる精神ではない事は勿論だが、又固定した物質でもない。(小林秀雄「様々なる意匠」1929年)

《遠い昔、人間が意識と共に与へられた言葉といふ吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない》における魔術とは、言語自体のフェティッシュの魔術に他ならない。

しかし厳密に言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? 。言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980ーー言語自体がフェティッシュである


【言語・貨幣の異国性 Fremdheit】
人間を人間とする言語、法、貨幣が個々の人間にとっては外部の存在(他者)であるということが、つまり根源的な発想になるということです。(岩井克人、2006、ーー「人間の真のパートナーは、言語、法、貨幣」)

岩井克人を参照していえば、敢えてフェティッシュという必要はないかもしれない。

『グリントリセ』のマルクスのいうように、肝腎なのは異国性である。

貨幣を言語と比較することも、これ(貨幣を血液と比較すること)におとらずまちがっている。(……)類推は言語のうちにあるのではなく、言語の異国性 Fremdheit のうちにある。(マルクス『グルントリセ』)

ここでーーこう記していて唐突に想起したーーラカン文を挿入しよう(いささかここまでの文脈の流れから外れるかもしれないことを恐れずに)。

《幼児性愛は自体愛的ではなく、ヘテロ的である》(ラカン、1975、ジュネーヴ)

Il n’y a pas besoin de savoir tout ça. Il n’y a besoin que de savoir que chez certains êtres, qu’on les appelle, la rencontre avec leur propre érection n’est pas du tout autoérotique. Elle est tout ce qu’il y a de plus hétéro.(Lcan, Conférence à Genève sur le symptôme. 1975)

この1975年の会議でラカンが言っているヘテロ hétéro とは、「奇妙な、異物の、異者の、エイリアンの」という意味である(らしい)。本来の倒錯は自体愛 autoérotiqueではなくーー幼児の自体愛を強調したフロイトに反してーー、「異物」愛、と言っていることになる。

ーーとはいえ、ここでは初期フロイト概念の異物 Fremdkörper には触れないでおこう・・・(参照)。あるいはラカンがフロイトに依拠しつつ、《我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger 》(S.23)に触れるのもーー長くなりそうなのでーーやりすごすことにする・・・

とはいえ、

去勢が意味するのは、欲望の〈法〉の逆さになった梯子 l'échelle renversée の上に到りうるように、享楽は拒否されなければならない、ということである。[Lacn,E827] 

ーーという程度は引用しておいてもよろしい。ところで、逆さになった梯子とは、これまた「倒錯」のことではあるまいか・・・

さらにまた後年、《倒錯とは、「父に向かうヴァージョンversion vers le pere」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である。あなた方が好むなら、サントームと言ってもよい le père est un symptôme ou un sinthome, comme vous le voudrez》(S.23)などとオッシャッテオラレルのもよく知られている。しまいには« père-version »などとお書きになることになる,[Je l'écrive la « père-version »]。当面、 père-version を「父錯」と訳しておくことにする。

とすれば巷の自らは「正常」だと思っているらしき、いまだ父権制にどっぷり浸かったガチガチの神経症者・男根主義者たちは、今後、「父錯者」と呼ばれるべきではなかろうか・・・

ラカンは別に「正常な」性関係を、《norme-mâle》ーー男の規範と言った。これは悪い規範 norme  mal と読めもする。すなわち正常な性関係とは、「父」の介入による前性器的「多形倒錯polymorphe Perversität」--もちろんフロイト用語であるーーの男根化(ファルス化)である。

フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的である。フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性 fécondité de la psychanalyse と呼ぶものの所以ではないだろうか。

あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明することさえ未だしていない、と(笑)。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme,。我々の実践は何と不毛なことか!(Lacan, Le Seminaire XXIII, Le Sinthome,11, 1977)

ーーああ、「父錯者」たちは何と悲しい輩か!


【シニフィアンはそれ自身に一致しない】

さて古典的な?ラカンに戻れば、言語・商品の「価値」は、それ自身と一致しない。

すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(徴示)することができないことである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.(Lacan, S.14)

ーーたとえば〈私〉というシニフィアンは、「この私」に一致しない。だから人は永遠に話し続ける。

ヘーゲルが何度も繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということである。

より情動に訴える言い方をするなら、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。

前期ラカンは次のように言うのを好んだ、私は話しているのではない。私は言語によって話されている、と。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。すなわち、主体が「聖餐式における全質変化 transubstantiation」のために支払わなければならない代価。ダイレクトな動物的生の代理人であることから、パッションの生気から引き離された話す主体への移行である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

※マルクスのフェティッシュをめぐる叙述( 『資本論』第1篇第四節「商品の物神的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)のいくらかは、「芸術作品とフェティシズム Fetischismus」を参照。


2016年9月20日火曜日

基本版:現実界と享楽の定義

慣用上、表題を「現実界と享楽の定義」としたが、ラカンの教えには「定義」などというものはない。「メタランゲージはない」。これは「大他者の大他者はない」ということでもある。

Ce que nous formulons à dire qu'il n'y a pas de métalangage qui puisse être parlé, plus aphoristiquement : qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre..(LACAN,SUBVERSION DU SUJET ET DIALECTIQUE DU DÉSIR)

ようはラカン理論を支えるものはなにもない。すなわち「定義」=メタ言語はない。ただしメタ言語は外立する。《ディスクールによって位置づけられた言表行為は真理に外立する[ex-siste」。》(Lacan, L'étourdit, 1973)

もちろんこれはラカン理論に限らない、《どのような論理学も、命題論理学でさえ、自らの支えと頼れるような「メタ言語はない」(それぞれの論理には固有の愚劣さが残る)》。(同上、エトゥルディ)

ーー外立する[ex-siste」をめぐっては以下の文を読めばわかるだろう。

かつまた以下の文は、何人かの注釈者による「現実界」と「享楽」の定義めいたものに過ぎず、異なった解釈があるのはいうまでもない。

 …………

【現実界】

現実界 The Real は、象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立が象徴界自体に内在的なものであるという点、内部から象徴界を掘り崩すという点にある。すなわち、現実界は象徴界の非全体 pas-tout である。一つの現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからである。

存在(現実) [being (reality)] があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためである。なぜなら、現実界は形式化の行き詰りだから。この命題は、完全な「観念論者」的重みを与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり躓いたりするというだけではない。現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 現実界は、外部の例外ではなく、形式化の非全体 pas-tout 以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

《物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。それは自分の顔のようなものだ》(柄谷行人→ 「言い得ぬもの」はアンチノミーの場にあり、何ら神秘的な意味合いはない

…………

・現実界は快原理の障害(物)である le réel, à savoir l'obstacle au principe du plaisir (ラカン、S.11)

・現実界は見せかけのなかに穴を開けるものである。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(S.18)

・現実界とは形式化の袋小路である。 Le reel est un impasse de formalization(S.20)

・現実界 [ le réel ] は外立 [ ex-sistence]である。(Séminaire (S.22)

・現実界は全きゼロの側に探し求められるべきである。Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu(S.23)

我々はラカンの断言「象徴的大他者の大他者はない」を思い起こす必要がある。この意味は何よりもまずなによりも、象徴的大他者はどんな〈他〉の外部の支え(〈父の名〉の普遍的法)によっても正当化されないということであり、象徴界が非全体 pas-tout である限り、象徴界に関するリアルな〈他者性〉はもはやあり得ないことである。

言い換えれば、倫理のセミネールVII に反して、最後のラカンにとっては、「根源的な〈一者〉は存在しない」ーー、それは象徴界によって原初に「殺された」のである。すなわち、「純粋な」根源的〈リアル〉はない(真の現実界はない)。象徴界の〈リアル〉Real-of-the-Symbolic の次元を超えた現実界はない。すなわち、象徴界に(想像界に接合しつつ)「穴を開ける」現実界の残余の側面を超えた現実界はない。

さらに私は強調しなければならない。ラカンにとって、「「根源的な〈一者〉」ーー真の現実界ーーは「非一」not-one である。まさにそれが《「一」として数えられる》ことが出来ない限りで。すなわち、現実界はゼロに相当する。セミネールXXIIIの鍵となる一節にて、ラカンは指摘している、《現実界は全きゼロの側に探し求められなければならない》と。というのは、《燃えている火(「渦巻く」享楽の蜃気楼)はたんに現実界の仮面》なのだから、と。(S.23 Le sinthome,)

我々はこのゼロを遡及的にのみ考えうる。「まやかしのfake」象徴的/想像的〈一者〉(ラカンが見せかけ semblant と呼んだものだ)の立場からのみ。(…)ゼロは全く何物でもない。しかし「まやかしの」〈一者〉の限定された観点からのみの何かである。モノ自体は無-物であるとラカンは言う。それは l'achoseだと。(ラカンは、l'achose を l'insub-stanceと同じものとしている。(S.17)(ロレンツォ・キエーザ、2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、私訳)


…………

 【享楽 JOUISSANCE】

では正確に、享楽概念は何を意味するのだろう? ラカンは決してはっきりとは定義しない。ただ漠然と示唆するだけだ。この不明瞭さは故意のものである。ラカンにとって、享楽は定義上、定義されない。それは象徴化を逃れるものだから(Lacan, S.17)。もっともフロイトにも類似の概念を見出せないではないが。快原則の彼岸についての叙述に、ラカンは享楽の考え方の示唆を見出している。快原則の「彼岸」(jenseits) に何かがあるに相違ない。フロイトはそう結論する。…奇妙な反復があるのだ。奇妙なというのは、反復されるものが、快と呼ばれるものでは必ずしもないからだ。実際、享楽は快の反対物かもしれない。すなわち、"Unlust" あるいは" déplaisir"である(S.17)。 (Paul Verhaeghe, Enjoyment and Impossibility: Lacan's Revision of the Oedipus Complex,2006,私訳)

《――享楽 Lust はあまりにも富んでいるゆえに、苦痛を渇望する。地獄を、憎悪を、屈辱を、不具を、一口にいえば世界を渇望する、――この世界がどういうものであるかは、おまえたちの知っているとおりだ。》(『ツァラトゥストラ』)手塚富雄訳、ただし悦楽 Lust を享楽に変更)

Lustgewinn(快の獲得)は、フロイトの最初の概念的遭遇、--後に快原理の彼方、反復強迫に位置されるものとの遭遇である。そして、精神分析に M–C–Mʹ(貨幣– 商品–貨幣'[貨幣+剰余価値])と同等のものを導入した。(Samo Tomšič,The Capitalist Unconscious,2014)ーー「快の獲得 Lustgewinn、剰余価値 Mehrwert、剰余享楽 plus-de-jouir」)

享楽の現実界とは、言語の外部に単純にあるものどころか(現実界は、むしろ言語に関して「外密 extimité」である)、言語のなかで象徴化に抵抗する何かであり、言語のなかに異物の核として居残ったものである。現実界は、裂け目、切れ目、隙間、非一貫性、不可能性として現れる。《私はどの哲学者にも挑んでいる。シニフィアンの出現と享楽が存在にかかわる仕方とのあいだにある関係を、この今確認するために。…どの哲学も、言わせてもらえば、今日、我々に出会えない。哀れにも流産した哲学のオタクどもThe wretched aborted freaks of philosophy(仏原文 ces misérables avortons de philosophie) 。我々はその哲学を後ろに引き摺っているのだ、前世紀(19世紀)の初めから、ボロボロになった習慣として。あの哲学オタクとは、むしろこの問いに遭遇しないようにその周りを踊る方法にすぎない。この問いとは、真理についての唯一の問いである。それは、死の欲動と呼ばれるもの、フロイトによって名付けられたもの、享楽の原マゾヒズム…。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。》(Lacan,S.13: L'objet de la psychanalyse)(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

※註:「外立 ex-sistence」≒「外密 extimité」

・私の最も内にある親密な外部、モノ=対象a としての外密。《extériorité intime, cette extimité qui est la Chose》(ラカン、S.7)

・外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。外密は、親密な〈他〉である。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité

・Fremdkörper(異物)は内部にあるが、この内部の異者である。現実界は、分節化された象徴界の内部(非全体pas-tout)に外立 ex-sistence する。(Paul Verhaeghe、2001,PDF)

享楽自体の地位は、ある意味で、二重化された見せかけ semblance の地位である。享楽はそれ自体としては存在しない。享楽は象徴的過程、そこに内在する非一貫性と反作用の過程の残余あるいは生産物として、ただ己れを主張するだけである。言い換えれば、象徴的見せかけ semblances は、ある揺るぎない実体的な現実界自体に関する見せかけではない。この現実界は(ラカン自身が定式化しているように)、ただ象徴化の袋小路を通してのみ識別できる。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)
享楽は「苦痛のなかの快 pleasure in pain」である。もっとはっきり言えば、享楽とは対象aの享楽と等しい。対象a は、象徴界に穴を引き裂く現実界の残留物である。大他者のなかのリアルな穴real hole としての対象aは、次の二つ、すなわち剰余-残余のリアルの現前としての穴、そして全体のリアル Whole Real の欠如(原初の現実界 primordial Real は、決して最初の場には存在しない)、すなわち享楽不在としての穴である。

リアル real な残余のこの現前は、実際のところ、何を構成しているのか? 最も純粋には、剰余享楽(部分欲動)としての「a」の享楽とは、享楽欠如を享楽することのみを意味する。というには、享楽するものは他になにもないのだから。(ロレンツォ・キエーザ、2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、私訳)

※註:「苦痛のなかの快」→「Schmerzlust 苦痛のなかの快」

……この女性的マゾヒズムは、原初の、性的(催情的) erotogenicマゾヒズム、苦痛のなかの快である。Der beschriebene feminine Masochismus ruht ganz auf dem primären, erogenen, der Schmerzlust, (フロイト『マゾヒズムの経済的問題』1924 )

《ニューヨークには「私どもは奴隷です」と呼ばれる団体があって、人のアパートの部屋を無料で掃除し、その家の主婦に乱暴に扱われたいという人を提供している。この団体は、掃除をする人を広告を通して集める(その謳い文句は「隷従そのものが報酬です」である)、応募してくる人の大半が,高い報酬を得ている重役や医者や弁護士で,彼らは動機を聞かれると,いつも責任を負っていることがいかに気分が悪いかを力説する――乱暴に命令されて仕事をし、どなりつけられることをこよなく楽しむのだ。》(ジジェク『サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性』)




ーー享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌から。

享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「〈他者〉の享楽  la jouissance de l'Autre 」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者(異物)である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の〈他者〉、まさに同じ表現(「〈他者〉の享楽  la jouissance de l'Autre 」)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる〈他者〉the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、〈他者〉の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに混淆があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての〈他者〉を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる〈他者〉the (m)Otherとしての〈他者〉があり、シニフィアンの媒介として享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一〈他者〉から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2009、私訳,PDF

《他者〉、それは身体である!L'Autre, …c'est le corps ! 》(S.14)

ーー前期ラカンのように想像的他者でないことに注意(参照:ラカンの身体概念の移行)

※註:《我々のリアルな有機体は、最も親密な異者(異物)》
→ 《我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger 》(ラカン、S.23)= 異物 Fremdkörper (フロイト、1893ーー基本的なトラウマの定義)

すべてが見せかけではない。ひとつの現実界がある。社会的紐帯の現実界は、性関係の不在であり、無意識の現実界は話す身体である。tout n'est pas semblant, il y a un réel. Le réel du lien social, c'est l'inexistence du rapport sexuel. Le réel de l'inconscient, c'est le corps parlant. (ミレール『無意識と話す身体』2014、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER

※註:《話す身体 le corps parlant》


人は、ファルス享楽を超えても、いまだ性関係はない。というのは、ファルス享楽の彼方には、ジェンダーの差異はなく、《ファルスの彼方には Au-delà du phallus…身体の享楽 la jouissance du corps》(S.20)があるだけだから。

私はこれを次のように解釈する。すなわち、ファルスを超えた男と女とのあいだの関係は、主体と身体の享楽とのあいだの関係、あるいは、ファルス享楽と他の享楽とのあいだの関係とと同じものになる、と。

しかし、この「彼方」はそれ自体、目的地ではない。逆に、これに対する主体の最初の反応は、不安でありうる。そして、ファルス享楽は、有機体としての身体の享楽に対する防衛として理解されなければならない。事実、この享楽の形式は、象徴界を離れることを意味する。したがって、消滅、すなわち、主体の死である。《死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない》 [le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance] (Séminaire, XVII)。したがって、これは死の欲動と関連している。(Paul Verhaeghe, Subject and Body. Lacan's Struggle with the Real. 2001,私訳)

…………

【享楽欠如の享楽】

ラカンの最初の教えは、存在欠如 manque-à-être と存在欲望 désir d'être を基礎としている。それは解釈システム、言わば承認 reconnaissance の解釈を指示した。(…)しかし、欲望ではなくむしろ欲望の原因を引き受ける別の方法がある。それは、防衛としての欲望、存在する existe ものに対しての防衛としての存在欠如を扱う解釈である。では、存在欠如であるところの欲望に対して、何が存在 existeするのか。それはフロイトが欲動 pulsion と呼んだもの、ラカンが享楽 jouissance と名付けたものである。(ミレール、2011,L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain millerーー「欲動と享楽の相違

コレット・ソレールも。後期ラカンを、存在欠如 manque à être から享楽欠如 manque à jouir への移行としている(参照)。

欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 manque à jouir です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象」と呼んだもの、ラカンが欠如しているものとしての「対象a」と呼んだものです。それにもかかわらず、複合的ではあるけれど、人は享楽欠如を楽しむことが可能です on peut jouir du manque à jouir。それはラカンによって提供されたマゾヒズムの形式のひとつです。(Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », Brésil, 10/09/2013ーー基本版:現代ラカン派の考え方

※やや難解版→ 人間の根源的な三つの次元:享楽・不安・欲望


【享楽欠如の享楽=剰余享楽】

まさに享楽の喪失が、その自身の享楽、剰余享楽(plus‐de‐jouir)を生み出す。というのは享楽は、いつも常に喪われたものであると同時に、それから決して免れる得ないものだからだ。フロイトが反復強迫と呼んだものは、この現実界の根源的に曖昧な地位に根ざしている。それ自身を反復するものは、現実界自体である。それは最初から喪われており、何度も何度もしつこく回帰を繰り返す。 (ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)
……問題は、原初の享楽の残余は何かということだ。ふたたびラカンは曖昧な表現で答える、「剰余享楽le plus-de-jouir」と。仏語では、これを二つの仕方で理解され得る、「もはや享楽しないnot enjoying any more」と「もっと享楽をmore of the enjoyment」である。防御的なエラボレーションの後に、主体にとって残っている享楽は、原初の形式未満の異なったものであり、決して十分に満足を与えない。(ポール・バーハウ、new studies of old villains,2009)

…………

もうおわかりのように、途中に貼り付けた途轍もなく豊かな示唆をふくむGIFーー肛門や口唇欲動だけでなく眼差し、声の欲動までにも思いを馳せさせる画像が以上のまとめ文の臍である・・・

ーー欲動は《享楽の漂流 la dérive de la jouissance》(Lacan,S.20)である。

享楽 jouissance、それは欲望に応えるもの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。« la jouissance ce n’est pas ce qui répond au désir (le satisfait), mais ce qui le surprend, l’excède, le déroute, le dérive. 》このように主体を踏み迷わせうるものを適切に言いあらわすことばは、神秘主義者たちにたずねるほかない。たとえばライスブルックのことば、「私が精神の陶酔と呼ぶものは、享楽が、欲望によって垣間見られていた可能性を越えてしまう、あの状態である。」(『彼自身によるロラン・バルト』)

…………

【付記】

ーー私には享楽などない、と考える人版。

ラカンの鍵となる区分け、快楽 (Lust, plaisir) と享楽 (Geniessen, jouissance) ……。「快原理の彼岸」にあるものは享楽自体、欲動それ自体である。享楽の基礎的パラドックスは、不可能であると同時に避けられらないことだ。それは決して十分に獲得されず常に欠けている。しかし同時に決して享楽から免れ得ない。享楽のどんな断念も、断念の享楽を生む。欲望することのどんな障害も、障害への欲望を生む。等々。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)
あなたが義務という目的のために己の義務を果たしていると考えているとき、密かにわれわれは知っている、あなたはその義務をある個人的な倒錯した享楽のためにしていることを。法の私心のない(公平な)観点はでっち上げである。というのは私的な病理がその裏にあるのだから。例えば義務感にて、善のため、生徒を威嚇する教師は、密かに、生徒を威嚇することを享楽している。 (『ジジェク自身によるジジェク』2004)



2016年8月13日土曜日

マルクスの C-M-C / M–C–Mʹ と ラカンの Φ/S(Ⱥ)

本源的に抑圧されているものは、常に女性的なるものではないかと疑われる。(Freud,  25. Mai 1897,Draft M)
抑圧は過度に強い対立的観念の構築によってではなく、境界的観念(表象) の激化によって起こる。(Freud, I January 1896,Draft K)

『夢判断』1900 以前のフロイトがスゴイと言われることがしばしばあるのだが、 上の二文というのは実にスゴイ・・・

順不同で「境界的観念(表象)Grenzvorstellung」と「女性的なるもの」に注目したい。

まず表象 vorstellung とはラカン派的にはシニフィアンのことである。

そしてラカン派にとっての境界シニフィアンは、大他者の非全体 pas-tout(非一貫性)のシニフィアンS(Ⱥ)である。

Ⱥは、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場のなかの欠如、つまり穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳ーー「欠如 manqué から穴 trou へ(大他者の応答 réponse de l'Autre から現実界の応答 réponse du réel へ」)

本源的に抑圧されているもの=女性的なもののにおける「女性的なもの」もしかり。大他者(象徴界)のなかに「女 La Femme」を表象するシニフィアンはない、すなわち「女は存在しない (La Femme n'existe pas)」。これは S(Ⱥ) と表示される。

ちなみに、S(Ⱥ) と Φ (ファルスのシニフィアン)の相違とは、非全体の論理/例外の論理のシニフィアンの相違である。この相違とは、カントの無限判断/否定判断、後期ウィトゲンシュタイン/前期ウィトゲンシュタイン(家族的類似性/語りえぬものは沈黙)にもかかわると(ラカン派内部では)言われる。

この文脈に則れば、本源的に抑圧されているものは、S(Ⱥ) であり、抑圧されているものの回帰は、S(Ⱥ) が回帰する。象徴界の非一貫性が回帰する、と言ってもよい。

抑圧されたものの回帰と抑圧とは同じものであるということには驚かないでしょうね? Cela ne vous étonne pas, …, que le retour du refoulé et le refoulement soient la même chose ? (ラカン、S.1)

より正確に言えば次のようなことになる。

ヒステリーの抑圧は、終わりのない循環的過程として機能する。どの抑圧もその抑圧をもってそれ自体の失敗を実現する。すなわち、抑圧されたものの回帰をもたらし、代わりの新しい抑圧を必要とする。(…)

フロイトは三つの論文にてこのような動きを叙述した。「シュレーバー研究」1911、『抑圧』1915、『無意識』1915である。(ヴェルハーゲ 1999,DOES THE WOMAN EXIST? PAUL VERHAEGHE ,PDF

※すこし後に、『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』、すなわちシュレーバー研究の記述を抜き出すので参照のこと。

…………

で、やっぱり柄谷行人もスゴイんじゃないか。とくに1978年の柄谷とは1890年代のフロイトと同様、30代の柄谷だ・・・

フロイトは、世界宗教を「抑圧されたものの回帰」とみなす。私はそれに同意する。しかし、抑圧されたものは「原父」のようなものではなく、いわば「社会的なもの」である。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年ーー第三部 世界宗教をめぐって、p.242)
マルクスが、社会的関係が貨幣形態によって隠蔽されるというのは、社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係が、対称的であり且つ合理的な根拠をもつかのようにみなされることを意味している。物象化とは、このことを意味する。それは、「人間と人間の関係が物と物と物の関係としてあらわれる」とか、関係が実体化されることを意味するのではない。(……)

くりかえしていえば、マルクスは、価値形態、交換関係の非対称性が経済学において隠蔽されていることを、指摘したのである。同じことが、言語学についてもいえるだろう。それは、いわば、教えるー学ぶ関係の非対称性を隠蔽している。非対称的な関係を隠蔽するということは、関係を、あるいは他者を排除することと同じである。それゆえに、言語学は、ヤコブソンがそうであるように、古典(新古典)経済学と同じ交換のモデル、たとえばメッセージ(商品)-コード(貨幣)-メッセージ(商品)というモデルから出発している。それは、共同体のなかでの交換のみをみることである。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』1978年、P.17)

原父殺し=言語による物の殺害(フロイト『モーセと一神教』)」で記したことの要点を抜き出せば、次の通り。

「対称的であり且つ合理的な根拠」/「社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係」とは、「メッセージ(商品)-コード(貨幣)-メッセージ(商品)」/「コード(貨幣)-メッセージ(商品)-コード(貨幣)」である(C-M-C/M–C–Mʹ)。

マルクスがC-M-C(商品-貨幣-商品)と呼んだもの、すなわち別の商品を買うために或る商品(労働力商品も含む)を貨幣に換えるという閉じられた交換ーーその機能は、交換過程の「自然な」基礎を提供するーーは究極的に虚構である。(ジジェク、 Slavoj Žižek – Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledge,2016ーー快の獲得 Lustgewinn、剰余価値 Mehrwert、剰余享楽 plus-de-jouir)
Lustgewinn(快の獲得)は、フロイトの最初の概念的遭遇、--後に快原理の彼方、反復強迫に位置されるものとの遭遇である。そして、精神分析に M–C–Mʹ(貨幣– 商品–貨幣'[貨幣+剰余価値])と同等のものを導入した。》(Samo Tomšič,The Capitalist Unconscious,2014)

このC-M-C/M–C–Mʹ とは、あきらかにΦ /S(Ⱥ) 、つまり、例外の論理/非全体の論理にかかわる(閉じられたシステム/開放システム)。

抑圧されたものの回帰とは、S(Ⱥ)が回帰する(もちろん通常の意味での「抑圧されたもの」とは別に、である)。そして、S(Ⱥ) とは原抑圧(原固着)にかかわる。

上にミレールによるS(Ⱥ) の定義を掲げたが、前期ラカンにとって、S(Ⱥ) は「大他者のなかの欠如のシニフィアン(Le signifiant du manque dans l'Autre)」だった。だが、これではファルス Φ と区別できない。

後期ラカンのΦ と S(Ⱥ) の定義とは次の通り。

・S(Ⱥ) は大他者の非一貫性(無限判断)のシニフィアン
・Φは大他者の欠如(例外の論理=否定判断)のシニフィアン

S(Ⱥ)を穴(ブラックホール)と呼び、Φを欠如と呼ぶ場合がある(参照:欠如 manqué から穴 trou へ(大他者の応答 réponse de l'Autre から現実界の応答 réponse du réel へ))。

柄谷行人は、意図してか否かは知らぬが、マルクスの価値形態論とブリュメールの説明の文脈において、「穴」という表現を使っている。

マルクスは『資本論』においていっている。貨幣が一商品であることを見ることはたやすいが、問題は、一商品がなぜいかにして貨幣となるかを明らかにすることだ、と。彼がポナパルドについていうのも同じことだ。ポナパルドに「痛烈にして才気あふれる悪口をあびせかけた」ヴィクトル・ユーゴーに対して、マルクスは、「私は平凡奇怪な一人物をして英雄の役割を演ずることをえせしめた情勢と事件とを、フランスの階級闘争がどんな風につくりだしていったかということをしめす」と書いている(『ブリュメール一八日』「第二版への序文」)。ユゴーのような批判を幾度くりかえしても、それは貨幣がただの紙きれだというのと同じく、何の批判にもならない。とはいえ、マルクスがいう謎は、たんに「階級闘争」というだけでも明らかにはならない。代表制あるいは言説の機構が自立してあり、「階級」はそのような機構を通してしか意識化されないということ、さらに、このシステムには一つの穴があるということ、そこに、ポナパルドを皇帝たらしめた謎がひそんでいるのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001,p.222)

さて本題に戻る。

「抑圧」は三つの段階に分けられる。

①第一の段階は、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている「固着」である。(…)

②「正式の抑圧(後期抑圧)」の段階は、ーーこの段階は、精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーー実際のところ既に抑圧の第二段階である。(… )

③第三段階は、病理現象として最も重要なものだが、その現象は、抑圧の失敗、侵入、「抑圧されたものの回帰」である。この侵入とは「固着」点から始まる。そしてその点へのリビドー的展開の退行を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911年、摘要)

《Als dritte, für die pathologischen Phänomene bedeutsamste Phase ist die des Mißlingens der Verdrängung, des Durchbruchs, der Wiederkehr des Verdrängten anzuführen. Dieser Durchbruch erfolgt von der Stelle der Fixierung her und hat eine Regression der Libidoentwicklung bis zu dieser Stelle zum Inhalte.》(FREUD,Psychoanalytische Bemerkungen Uber einen autobiographisch beschriebenen Fall von Paranoia1911)

①の固着とは、原抑圧のことである(参照:原抑圧・原固着・原刻印・サントーム)。そして③を読めば、抑圧されたものの回帰は原抑圧=原固着にかかわることがわかる(すくなくともこの時点のフロイトはそう考えていた)。

くり返せば、抑圧されたものの回帰とは、S(Ⱥ) 、すなわち象徴界の非一貫性が回帰する。柄谷行人1978の言い方なら、マルクスのいう社会的なもの、《すなわち無根拠であり非対称的な交換関係》が回帰する。

ラカンのいう「真理の回帰」とはこのことである。それは知の裂け目のなかに表象される。

精神分析の誕生以前にさえ、症状と呼ばれる次元が導入されているのを観察しないでいられるのは難しい。症状は、真理の回帰 le retour de la vérité をある知の裂け目のなかに表象するものとしてはっきり表現されている。(……)この意味で、この次元は、マルクスによる批判のなかに顕著に識別しうる、仮に明示的に示されていなくても。.(Lacan, « Du sujet enfin en question », Écrits,,1966, p. 234.) à n'y être pas explicitée, est hautement différenciée dans la critique de Marx.(Lacan, « Du sujet enfin en question », Écrits,,1966, p. 234.ーー抑圧は禁圧に先立つ

極東の島国でも現在「抑圧されたものの回帰」が起こっているのは、ミナサンの知る通り。

いわゆる「民主主義の危機」が訪れるのは、民衆が自身の力を信じなくなったときではない。逆に、民衆に代わって知識を蓄え、指針を示してくれると想定されたエリートを信用しなくなったときだ。それはつまり、民衆が「(真の)王座は空である」と知ることにともなう不安を抱くときである。今決断は本当に民衆にある。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』2009)

たとえば、「戦後レジームからの脱却」という安倍晋三のくり返す標語の「真の意味」は、戦前の回帰である、とされることがあるだろう。

安倍政権は、経済政策のアベノミクスが「富国」を、今回の特定秘密保護法や、国家安全保障会議(日本版NSC)が「強兵」を担い、明治時代の「富国強兵」を目指しているように見えます。この両輪で事実上の憲法改正を狙い、大日本帝国を取り戻そうとしているかのようです。(浜矩子・同志社大院教授

だがここでの文脈では、それは「後期抑圧」が回帰しているという限定的解釈の範囲を出ない(シュレーバー症例の引用の②)。ようするに、それは潜在思考の回帰にすぎない。すなわち単に前意識的なものの回帰である。

フロイトは絶えず強調している。潜在夢思考のなかには「無意識」的なものは何もない、と。潜在夢思考は、日常の共通言語の統語法のなかで分節化されうる全く「正常な」思想である。トポロジー的には、意識・前意識のシステムに属する。主体は通常それを知っている。過度に知っているとさえ言える。潜在思考はいつも彼をしつこく悩ます…

構造は常に三重である。すなわち、「顕在夢内容」・「潜在夢内容あるいは夢思考」・「夢のなかで分節化される無意識の欲望」。この欲望は自らを夢に結びつける。潜在思考と顕在テキストとのあいだの内的空間のなかに自らを挿し入れる。したがって、無意識の欲望は潜在思考と比べて「より隠された、より深い」ものではない。それは、断固として「より表面にある」。(…)

言い換えれば、無意識の欲望の唯一の場は、「夢」の形式のなかにある。無意識の欲望は、「夢の仕事」のなか、「潜在内容」の分節化のなかに、自らをはっきりと表現する。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989、手元に邦訳がないので私訳ーーフロイトとマルクスにおける「形式」

社会的次元における原抑圧的なものの回帰ーー真の無意識的なものの回帰とは、《無根拠であり非対称的な交換関係》の回帰であり、こちらが根源的な回帰現象である。

…………

※付記

フロイトは「システム無意識」/「システム前意識+意識」の区分けをしている(『無意識』1915)。

①System Unbewußt (Ubw)- システム無意識(Ucs) 
②System Vorbewußt (Vbw)- システム前意識(Pcs) 
③System Bewußt (Bw) - システム意識(Cs)

との三つの区分はよく知られている。だが『無意識』論文では、①/「②+③」という区分けが強調されている。

「②+③」は「力動的無意識」とも呼ばれる。この区分の記述がある『無意識』論文の第四章の表題は「IV. Topik und Dynamik der Verdrängung (抑圧の局所性と力動性)」であり、そのためそう呼ばれるのだろう。

システム無意識は原抑圧にかかわり、力動的無意識は(主に)抑圧にかかわる。

フロイトは、「システム無意識あるいは原抑圧」と「力動的無意識あるいは抑圧された無意識」を区別した。

システム無意識は欲動の核の身体への刻印であり、欲動衝迫の形式における要求過程化である。ラカン的観点からは、まずは過程化の失敗の徴、すなわち最終的象徴化の失敗である。

他方、力動的無意識は、「誤った結びつき eine falsche Verkniipfung」のすべてを含んでいる。すなわち、原初の欲動衝迫とそれに伴う防衛的エラヴォレーションを表象する二次的な試みである。言い換えれば症状である。

フロイトはこれをAbkömmling des Unbewussten(無意識の後裔)と呼んだ。これらは欲動の核が意識に至ろうとする試みである。この理由で、ラカンにとって、「力動的あるいは抑圧された無意識」は無意識の形成と等価である。力動的局面は症状の部分はいかに常に意識的であるかに関係する、ーー実に口滑りは声に出されて話されるーー。しかし同時に無意識のレイヤーも含んでいる。(ヴェルハーゲ、2004、On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics)