ーーPaul Verhaeghe, (2001). Mind your Body & Lacan´s Answer to a Classical Deadlock. In: P. Verhaeghe, Beyond Gender. From Subject to Drive,PDFより私訳
【三つの身体】
《L'Autre、c'est le corps ! (大他者とは身体のことである)》(1967 Le Seminaire XIV)
【三種類のエイリアン】
※参照:「話す存在 l'être parlant / 話す身体Le corps parlant」
sujet du désir(欲望の主体) / sujet de la pulsion (欲動の主体)
sujet du désir(欲望の主体) / sujet du corps(身体の主体)
ーーただし、これらを単純に二項対立としてみてはならない。
前者(欲望の主体)の非全体 pas tout (非一貫性)の領域内部に外立するもの ex-sistence が後者(身体の(原)主体)である。それはファルス享楽 la jouissance phallique の内部に外立する他の享楽 l'autre jouissance と言い換えてもよい。
ところでジジェク組(あるいは哲学的ラカン派)は、超越論的享楽ということを言っている。他の享楽とは彼方に存在するものではなく、ファルス享楽のアンチノミー(非一貫性)の内部に裂け目として現われるという議論だ(参照)。
このあたりが、ジジェク組が臨床的ラカン派のヴェルハーゲの議論(あるいはその表現の仕方)に異議を呈するところでもある。
ロラン・バルトの享楽の捉え方は、ほぼジジェク組の観点に近い、とわたくしは思う。
《…« la dérive » pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. 》(ラカン、アンコール)
ーーフロイトの欲動 Trieb を享楽の漂流」と翻訳する
たとえば、François Balmès は次のように言う。
これは次ぎのように言い換えることができる。
ーー現実はファルス享楽によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた身体の享楽である。そして身体の享楽(他の享楽)は、このファルス享楽の空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する、と。
ーーファルス享楽という幻想は、身体の享楽の顰め面である。
これはアルトーが「人間に器官なき身体 un corps sans organes を作ってやるなら、人間をそのあらゆる自動性 automatisme から解放してその真の自由にもどしてやることになるだろう」といったことにもかかわる。
ラカンはセミネール11で、アリストテレス用語の、automaton (αủτoματov) versus tuchè (τuχη) を取り上げているが、前者がファルス享楽、後者が身体の享楽でありうる。
※参考
《テクストの快楽の美学を想像することが可能なら、その中に声を挙げるエクリチュールも加えるべきであろう。この声のエクリチュール(言〔パロール〕とは全然違う)は実践できない。しかし、アルトーが勧め、ソレルスが望んでいるのは多分これなのだ。あたかも実際に存在するかのように、それについて述べてみよう。……》(ロラン・バルト『テクストの快楽』ーーBernarda Fink の「声の肌理」)
…………
以下、上記ヴェルハーゲの詳述化箇所。
【イマジネールな身体からの移行】
(divided) subject versus organism
versus
phallic body
【トポロジーの裏表】
《フロイトの無意識(…)、それが関わるのは、我々に異物である身体》である→「我々にエイリアンである身体」
(フィンク,1995 は、S(Ⱥ)=S(a) としつつ、原初の喪失Ⱥのシニフィアンとしており、このȺのある側面がゾーエーである)。
【欲動 (2) 】
◆参考(ファルスΦと対象aの相違、あるいは二重の欠如)
《ファルスは対象 a の一連の形象化における最後のものである。それは目につきやすい想 像的な特徴を発揮する。…ファルスはたんに対象 a の一つの形象ーー他の形象のなか のひとつではない。それは特別の地位を負っている。》(Richard Boothby , Freud as Philosopher [2001]).
《ファルスは対象ではなく、他の源泉、すなわち対象 a から来る享楽を統制する事例 instance である。これらの享楽は、ファルスのシニフィアンによって解釈されることを通して統制され、ファルスの快楽に変わる。構造的に、この象徴化は不完全のままである。対象 a は、象徴化に抵抗する現実界の部分である。》(Verhaeghe, P. & Declercq, F. (2003). Lacan's analytical goal: "Le Sinthome" or the feminine way)
【主体と有機体の対立のファルス化の不幸】
《ファルスの彼方には Au-delà du phallus…身体の享楽 la jouissance du corps》(S.20)がある。
ーーこの身体の享楽は、「他の享楽」 l'autre jouissanceでもある、ーー「大他者の享楽 」la jouissance de l'Autreとは異なることに注意。英語圏では、another jouissance とされることもあるように、ファルス享楽とは「別の」享楽という意味としてよいだろう。
ラカン(1) は、象徴界と想像界とのあいだの対立に関する。象徴界は(法則として)予知可能な仕方で、身体を決定づける。この身体は、効果以外の何ものでもない。それは身体的な表層として理解されうる。
ラカン(2) は、結合された象徴界・想像界の原因としての現実界に焦点が絞られる。すなわち、身体の現実界は、有機体、あるいは欲動として理解されうる。
ラカン (3) は、この(2)の対立を、享楽の用語にて、再び取り上げる。すなわち、「ファルス享楽」la jouissance phallique 対「身体の享楽」 la jouissance du corpsである(参照)。
ラカンの展開・転回における三種類の身体は、次のように言い表しうる。
(1) 私は、大他者の/にとっての for/of the Other 、「ひとつの身体」a body を持っている。
(2)大他者は、「ひとつの身体」a body に駆り立てられる。「ひとつの身体」とは「身体」the body ではない。
(3) 「身体」the body とは、大他者である。
【三種類のエイリアン】
ジジェクの用語から…借用すれば、この三種類の身体は、次のように言い換えうる。
(1) 我々に入り込む外部のエイリアンがいる。
(2) 我々の内部には、我々を決定づけるエイリアンがいる。
(3) エイリアン自体がいる。
(…)つけ加えておかねばならない。後期ラカンの理論は以前の理論にとって代わるものではないことを。そうではなく、遡及的(フロイトの nachträglich)な仕方での、再詳述化である。
ラカンの進化の最後において、我々は、絶えず分割される主体と身体の大他者とのあいだの対立に到る。これがラカンの「身体の主体」における思考である。
※参照:「話す存在 l'être parlant / 話す身体Le corps parlant」
sujet du désir(欲望の主体) / sujet de la pulsion (欲動の主体)
sujet du désir(欲望の主体) / sujet du corps(身体の主体)
ーーただし、これらを単純に二項対立としてみてはならない。
前者(欲望の主体)の非全体 pas tout (非一貫性)の領域内部に外立するもの ex-sistence が後者(身体の(原)主体)である。それはファルス享楽 la jouissance phallique の内部に外立する他の享楽 l'autre jouissance と言い換えてもよい。
ところでジジェク組(あるいは哲学的ラカン派)は、超越論的享楽ということを言っている。他の享楽とは彼方に存在するものではなく、ファルス享楽のアンチノミー(非一貫性)の内部に裂け目として現われるという議論だ(参照)。
このあたりが、ジジェク組が臨床的ラカン派のヴェルハーゲの議論(あるいはその表現の仕方)に異議を呈するところでもある。
ロラン・バルトの享楽の捉え方は、ほぼジジェク組の観点に近い、とわたくしは思う。
享楽 jouissance、それは欲望に応えるもの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。[ la jouissance ce n’est pas ce qui répond au désir (le satisfait), mais ce qui le surprend, l’excède, le déroute, le dérive.] (『彼自身によるロラン・バルト』)
《…« la dérive » pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. 》(ラカン、アンコール)
ーーフロイトの欲動 Trieb を享楽の漂流」と翻訳する
たとえば、François Balmès は次のように言う。
現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être)
これは次ぎのように言い換えることができる。
ーー現実はファルス享楽によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた身体の享楽である。そして身体の享楽(他の享楽)は、このファルス享楽の空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する、と。
じつは、この世界は思考を支えるファンタスムでしかない。それもひとつの「現実 réalité」には違いないかもしれないが、現実界のしかめ面 grimace du réel として理解されるべき現実である。[…alors qu'il(monde) n'est que le fantasme dont se soutient une pensée, « réalité » sans doute, mais à entendre comme grimace du réel.](ラカン、テレヴィジョン)
ーーファルス享楽という幻想は、身体の享楽の顰め面である。
これはアルトーが「人間に器官なき身体 un corps sans organes を作ってやるなら、人間をそのあらゆる自動性 automatisme から解放してその真の自由にもどしてやることになるだろう」といったことにもかかわる。
ラカンはセミネール11で、アリストテレス用語の、automaton (αủτoματov) versus tuchè (τuχη) を取り上げているが、前者がファルス享楽、後者が身体の享楽でありうる。
アルトーにとって、ファルス享楽は satis-fous(マヌケ満足=満抜け)であり、maison de chair close (閉ざされた肉塊の家)、すなわち淫売窟だ。
その先には、心の娘 filles de cœur (来るべき娘 filles-à-venir 、来るべき身体 corps-à-venir)がある。これがラカンの女性の享楽 La jouissance féminine(身体の享楽la jouissance du corps)であるだろう・・・
「私の内部の夜の身体を拡張すること」(dilater le corps de ma nuit interne)(アルトー)
※参考
《テクストの快楽の美学を想像することが可能なら、その中に声を挙げるエクリチュールも加えるべきであろう。この声のエクリチュール(言〔パロール〕とは全然違う)は実践できない。しかし、アルトーが勧め、ソレルスが望んでいるのは多分これなのだ。あたかも実際に存在するかのように、それについて述べてみよう。……》(ロラン・バルト『テクストの快楽』ーーBernarda Fink の「声の肌理」)
…………
以下、上記ヴェルハーゲの詳述化箇所。
【イマジネールな身体からの移行】
まず、広く受け入れられたラカン読解がある。身体とは象徴界の効果にすぎないという読解だ。すなわち、身体は、大他者によって、我々にシニフィエされる。身体はシニフィエである、ーーこれが意味するのは、身体は「想像化された身体」ということであり、その身体の自覚と「自己」意識は、鏡像段階によってのみ生じるということだ。この意識は、つねに偽物であり、疎外され、元来のものではない。というのは、それは大他者によって与えられたものだから。大他者の眼差しを通した「理想自我」と「自我理想」とのあいだの関係は、次には、大他者の言葉を通して、ふたたび取り上げられる。それは主体とそれ自身とのあいだの絶えず増大する距離を設置する。すなわち、絶え間なく現前する内的分割である。
しかし、我々がラカンの全仕事を研究するなら、主体と身体とのあいだには遥かに複雑した関係があることを見出す。それは、プシュケー(魂)とソーマ(肉体)とのあいだの古典的対立とは全く異なったものだ。ラカンの対立とは、「私」と「有機体としての身体」とのあいだの対立であり、そして、これがさらに導き出すのは、「分割された主体」と「性化された、すなわちファルス化された身体」との対立である。
(divided) subject versus organism
versus
phallic body
【トポロジーの裏表】
この二重の対立は、双方向の決定性をもっている。すなわち、一方が他方を引き起こす、すると交代に、他方が最初の一方を決定する。この基礎には、欲動がある。そしてーーこの二重の構造の観点において--、この基礎は二度発生する。ラカンは何度も繰り返して、この二重構造に言及した。それは、無意識・欲動・主体のあいだのトポロジー的相同性を扱うときだ。
《フロイトの無意識(…)、それが関わるのは、我々に異物である身体》である→「我々にエイリアンである身体」
《(...) l'inconscient n'a rien à faire avec le fait qu'on ignore des tas de choses quan qu'on sait est d'une toute autre nature. On sait des choses qui relèvent du signifiant. (...) Mais l'inconscient de Freud (...) c'est le rapport qu'il y a entre un corps qui nous est étranger et quelque chose qui fait cercle, voire droite infinie - qui de toutes façons sont l'un à l'autre équivalents - quelque chose qui est l'inconscient."》(Seminar XXIII, Joyce - le sinthome, lesson of 11th May 1976;
→「異物としての身体 Fremdkörper」
ーー最晩年のラカンが、初期フロイト概念に戻ったことに驚くべきだろう。
ヴェルハーゲ、2001に戻る。
【epistemo-somatic の裂け目】
【欲動 (1) 】
《…l'expérience psychanalytique, et le plus simplement à partir de ceci, qu'il y a un usage du signifiant qui peut se définir de partir essentiellement du clivage d'un signifiant Maître avec ce corps justement dont nous venons de parler, ce corps perdu par l'esclave, pour qu'il ne devienne rien d'autre que celui où s'inscrivent tous les autres signifiants.》 (Le Séminaire, livre XVII)
この永遠の生ゾーエー Zoë /個人の生ビオス Bios をめぐるヴェルハーゲの議論は異論もあるだろう。彼は、上のセミネールⅩⅦの議論以外にも、セミネールⅩⅠののラメラの神話にも依拠しており、そこにある vie immortelle(不死の生)の喪失をゾーエーの喪失としている。それは、フロイトがいわば曖昧なままやり過ごしたオットー・ランクの「幸福な子宮内生活」の喪失にも関係する。
→「異物としての身体 Fremdkörper」
心的外傷、ないしその想起は、Fremdkörper異物ーーそれは、体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』の予備報告、1893年)
ーー最晩年のラカンが、初期フロイト概念に戻ったことに驚くべきだろう。
われわれがずっと以前から信じている比喩では、症状をある異物 Fremdkörper と比較して、この異物は、それが埋没した組織の中で、たえず刺激現象や反応現象を起こしつづけていると考えた。もっとも症状が形成されると、好ましからぬ欲動衝拍 Triebregung にたいする防衛の闘いは終結してしまうこともある。われわれの見るかぎりでは、それはヒステリーの転換でいちばん可能なことだが、一般には異なった経過をとる。つまり、最初の抑圧作用についで、ながながと終りのない余波がつづき、欲動衝拍 Triebregung にたいする闘いは、症状にたいする闘いとなってつづくのである。(フロイト『制止、症状、不安』1926、旧訳フロイト著作集6 p327-328 からだが、一部訳語などを変更)
ヴェルハーゲ、2001に戻る。
【epistemo-somatic の裂け目】
いずれの場合も、トポロジー的な境界構造がある。開閉の動きに沿ったーーその動きのなかには何かが喪われているーーートポロジー構造である。「二重」という意味は、我々は三つの主要な特質、欲動・無意識・主体に二度遭遇しなければならないという事実だ。…二度なのだ。古典的 psyche-soma(魂-肉体)の分割と比べて、我々がここで出逢うのは、epistemo-somatic (認識論的-〔漂流する〕身体的なもの)の裂け目である。
【欲動 (1) 】
私は、欲動 (1) を「原欲動」・エロスとタナトス欲動と考える。それは、永遠の生 Zoë と個人の生 Bios とのあいだの境界にある。付随した「原無意識」は、フロイトの「我々の存在の核」Kern unseres Wesen 、あるいは「菌糸体」myceliumである。それは決して表象されえない。しかし固着過程を通して、背後に居残っている。フロイトはこれを「原抑圧」と呼んだ。
フロイトの「核」 は、ラカンの欲動の現実界、対象a である。最初の疎外過程における主体化は、この核への応答として、鏡像段階にて起こる。結果として、いまだ性的・ジェンダー的でない「私」が現れる(鏡像段階においてはファルスは欠けている)。そして、これが最初の主人のシニフィアン S1 である。それは、m'être/maître à moi-même (私自身であること、私自身に属すること、私自身の主人であること)の試みがなされる手段としての主人のシニフィアンである。このシニフィアンは、存在と話す存在とのあいだの裂け目の架け橋を渡す試みの部分として出現する。しかし、これはただ裂け目を確認することに奉仕するだけだ。したがって、この「原シンボル」はまた、(原)主体の消滅の残余として奉仕する「墓・埋葬地」でもある。
《…l'expérience psychanalytique, et le plus simplement à partir de ceci, qu'il y a un usage du signifiant qui peut se définir de partir essentiellement du clivage d'un signifiant Maître avec ce corps justement dont nous venons de parler, ce corps perdu par l'esclave, pour qu'il ne devienne rien d'autre que celui où s'inscrivent tous les autres signifiants.》 (Le Séminaire, livre XVII)
この永遠の生ゾーエー Zoë /個人の生ビオス Bios をめぐるヴェルハーゲの議論は異論もあるだろう。彼は、上のセミネールⅩⅦの議論以外にも、セミネールⅩⅠののラメラの神話にも依拠しており、そこにある vie immortelle(不死の生)の喪失をゾーエーの喪失としている。それは、フロイトがいわば曖昧なままやり過ごしたオットー・ランクの「幸福な子宮内生活」の喪失にも関係する。
(フィンク,1995 は、S(Ⱥ)=S(a) としつつ、原初の喪失Ⱥのシニフィアンとしており、このȺのある側面がゾーエーである)。
【欲動 (2) 】
私は、欲動 (2) を二次欲動と考える。これは部分欲動であり、欲動 (1) を遡及的、フロイトの nachträgliche 的な仕方で、象徴界を通して再練磨 re-elaborate したものである。したがって、「ファルス」と「ファルスの彼方に横たわるもの」とのあいだの境界で作用する。これに付随した無意識は、無意識の形成物- les formations de l'inconscient -を構成する。それは、絶え間ない「後期抑圧」 Nachdrängung の効果である。結果として、主体が前面に現れる、大他者のシニフィアンによって分割され、疎外された形で。
この二番目の主体化は、エディプスコンプレックス以外の何ものでもない– “où se decide l'assompion du sexe”、それを通して、主体は、ジェンダー化した主体となる。大他者に起因がある主体である。このレヴェルにおける最初のシンボルは、ファルスだ。すなわち、対象a が消滅した印である。
◆参考(ファルスΦと対象aの相違、あるいは二重の欠如)
《ファルスは対象 a の一連の形象化における最後のものである。それは目につきやすい想 像的な特徴を発揮する。…ファルスはたんに対象 a の一つの形象ーー他の形象のなか のひとつではない。それは特別の地位を負っている。》(Richard Boothby , Freud as Philosopher [2001]).
《ファルスは対象ではなく、他の源泉、すなわち対象 a から来る享楽を統制する事例 instance である。これらの享楽は、ファルスのシニフィアンによって解釈されることを通して統制され、ファルスの快楽に変わる。構造的に、この象徴化は不完全のままである。対象 a は、象徴化に抵抗する現実界の部分である。》(Verhaeghe, P. & Declercq, F. (2003). Lacan's analytical goal: "Le Sinthome" or the feminine way)
【主体と有機体の対立のファルス化の不幸】
主体と有機体との元来の裂け目は、主体と身体(男性、あるいは女性の身体)との裂け目のなかで反復される。この段階において、我々が持つ「身体」は、構成されたものであり、ジェンダーアイデンティティの衣裳を纏ったものだ。…このジェンダーアイデンティティは大他者のシニフィアンに起源があり、人を欺くものだ。事実、人が期待し望む男性-女性の相違は、唯一、ファルス的アイデンティティの観点でのみ与えられている。すなわち、ファルス(+)、あるいはファルス(-)の印である。この意味で、二つのジェンダーのあいだには性関係はない。
この一連の論究は、とても重要な想定から成り立っている。すなわち、ジェンダーアイデンティティは二次的なもの、防衛的でさえある構築物である。主体と有機体とのあいだの元来の裂け目・切れ目・裂開は、外部化され、したがって、男性-女性の二項によって練り上げられる。ここでの男性と女性は、ファルス的男性と去勢された女性、ファリック・プラスとファリック・マイナスとして理解されねばならない。二つの性のあいだに関係があると仮定しても、それは決して性関係ではなく、たんにファルス関係である。しかしながら、女性性はファルス的解釈に還元できない。女性性は、同時にファルス的であり、かつファルスの彼方にある。ファルスの彼方とは、「他の」と呼ばれうる何か、他の享楽である。
「存在」と「大他者」とのあいだ・存在と意味とのあいだの裂け目は、女と男とのあいだの裂け目において、まさに同じ効果をもって反復される。主体が言語の大他者の内部から身体に到ろうとしても、決して成功しない。この裂け目には、架け橋を渡しえない。というのは、言語によって構造的に設置されている裂け目だから。……(ヴェルハーゲ、2001)
《ファルスの彼方には Au-delà du phallus…身体の享楽 la jouissance du corps》(S.20)がある。
ーーこの身体の享楽は、「他の享楽」 l'autre jouissanceでもある、ーー「大他者の享楽 」la jouissance de l'Autreとは異なることに注意。英語圏では、another jouissance とされることもあるように、ファルス享楽とは「別の」享楽という意味としてよいだろう。
かつまた、「他の享楽」とは、「女性の享楽」 La jouissance féminine とも呼ばれるが、それは解剖学的な「女性」の享楽とはあまり関係がない。実際は、(a)sexuée とされている。
とはいえ、ラカンの「他の性」は、どう捉えるべきか、“« l'Autre sexe », et je commentais : « du corps qui le symbolise ».”(S.20)。ーーやはり「身体」にかかわるのだ。
だがそのとき「(大他者の)身体の享楽 la jouissance du corps de l'Autre」とは何か。
Patrick Valas版(Staferla版)のアンコールには次のコメントがついている。
ーー真の喪われた享楽 « vraie » jouissance (perdue)?
「存在しないが機能するもの」とは、レヴィ=ストロースの浮遊するシニフィアン、ゼロ記号、ゼロシニフィアンの定義でもある(参照)。
La jouissance phallique n'aboutit pas à la vérité, à la jouissance du corps de l'Autre→ la « vraie » jouissance (perdue)].
ーー真の喪われた享楽 « vraie » jouissance (perdue)?
ジジェクは、存在しないが機能するものとして、「他の享楽」を語っている。
ファルスのシニフィアンとは、その現前・不在が、男 man と女 woman を区別する機能でない。性別化の式において、それはどちら側(男性側 masculine と女性側 feminine)にも機能する。どちらの場合も、S と J (話す主体と享楽)とのあいだの不可能な関係(非関係)の作因子として作用する。ーーファルスのシニフィアンとは、象徴秩序に受け入れられた存在、つまり「話す存在」にアクセス可能な享楽を表す。
したがって、ひとつの性と、(プラスアルファの)それに抵抗する非全体しかないの同じように、ファルス享楽と、プラスアルファのそれに抵抗する X しかない。もっとも、正しく言うなら、その X は存在しない。というのは、《ファルス的でない享楽はない[ il n'y en a pas d'autre que la jouissance phallique]》(S.20)から。この理由で、ラカンが謎めいた幽霊的「他の享楽」を語ったとき、彼はそれを存在しないが機能する何ものかとして扱った。(ZIZEK.LESS THAN NOTHING、2012,私訳ーーS(Ⱥ) とΦ の相違(性別化の式)、あるいは Lⱥ Femme)
「存在しないが機能するもの」とは、レヴィ=ストロースの浮遊するシニフィアン、ゼロ記号、ゼロシニフィアンの定義でもある(参照)。
われわれは、マナ型に属する諸概念は、たしかにそれらが存在しうる数ほどに多様であるけれども、それらをそのもっとも一般的な機能において考察するならば(すでに見たように、この機能は、われわれの精神状態のなかでもわれわれの社会形態のなかでも消滅してはいない)、まさしく一切の完結した思惟によって利用されるところの(しかしまた、すべての芸術、すべての詩、すべての神話的・美的創造の保証であるところの)かの「浮遊するシニフィアン(signifiant flottant)」を表象していると考えている。 (レヴィ=ストロース『マルセル・モース著作集への序文』ーーバルトとマナ(浮遊するシニフィアン signifiant flottant))