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2016年1月28日木曜日

融合と分離、愛と闘争、 Zoë とBios(永遠の生と個人の生)

人類の共同生活は、外部からの苦難によって生まれた労働への強制と、愛の力 ――男性の側からいえば性欲の対象である女性を、そして、女性の側からいえば自分の分身である子供を、手許にとどめておこうとする愛の力 ――という二重の楔によって生まれたのだ。すなわち、エロス(愛)とアナンケ(宿命)は、人間文化の生みの親ともなったのだ。(フロイト『文化への不満』1930)
エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的本能、エロスと破壊と同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)

フロイトのエロスとタナトスは種々の解釈がある(参照:フロイトの欲動二元論と一元論をめぐって)。今でも誰もはっきり自信をもってこうだといっている論者は専門家でもない筈だ。一般の人ならなおさらそうであり、エロスとタナトスをなんとなく愛と死と思っているにちがいないし、それも当然だ。フロイト自身、タナトスを死の欲動としているし、エロスは上に見たように愛である。

だが、タナトスについては、最晩年、上のように言い換えている。宿命、あるいは闘争と。

ほかにもラカン解釈をへて、ジジェクは、タナトスを「死なない」衝動(≒欲動)としている。

フロイトの「死の欲動」(……)。ここで忘れてはならないのは「死の欲動」は、逆説的に、その正反対のものを指すフロイト的な呼称だということである。精神分析における死の欲動とは、不滅性、生の不気味な過剰、生と死、生成と腐敗という(生物的な)循環を超えて生き続ける「死なない」衝動である。フロイトにとって、死の欲動とはいわゆる「反復強迫」とは同じものである。反復強迫とは、過去の辛い経験を繰り返したいという不気味な衝動であり、この衝動は、その衝動を抱いている生体の自然な限界を超えて、その生体が死んだ後まで生き続けるようにみえる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

ドゥルーズならこうだ。

根源と根源を越えたところで快感原則に先行している反復は、いまや倒置されたかたちで体験され、その原則に従属する(あらかじめ獲得した、あるいは獲得すべき快感との関連で反復は行われる)。超越論的探求の結果明らかにされるものは、エロスは経験的な快感原則の創設を可能にするが、また、いかなる場合もタナトスを必然的に引きずっていくということである。エロスもタナトスも、与件たること、あるいは具体的経験たることはありえない。体験のうちに与件として示されるものは、両者の結合関係ばかりである。――エロスの役割は、タナトスのエネルギーを結びつけ、その結合を〈エス〉のうちで快感原則に従属せしむることにあるからである。それ故、エロスはタナトス以上に与件として示されるものではないにもかかわらず、すくなくともその声をあたりに響かせ、現実に顕著な影響を及ぼすものなのだ。だが、エロスに担われて表面まで導かれる底知れぬ深淵としてのタナトスは、本質的に口を閉ざしている。それだけに恐るるに足るものなのだ。だからこそ、フランス語では、この超越論的沈黙する審級を指し示すのに〈本能〉、死の本能という言葉をとっておくべきだと思われたのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』)
まさしくエロスこそが、おのれ自身を循環として、あるいは循環のエレメントとして生きるのであって、それに対立する他のエレメントは記憶の底にある〈タナトス〉でしかありえず、それらの両者は、愛と憎しみ、構築と破壊として、引力と斥力として組み合わされるているのである。(『差異と反復』

口を閉ざしたタナトスという掌の上を、エロスが、タナトスの指令と快原理に従って、タナトスの影を帯びつつ反復し動き回るというわけだ。

フロイトには、Triebmischung(エロスとタナトスの欲動融合)と言う概念があるが、ドゥルーズやジジェク解釈では、この二つの欲動の融合の仕方が、タナトスという主人に従うエロスという手下という形になっている。

ところで、わたくしが最近依拠することの多いポール・ヴェルハーゲは次ぎのように言っている。

生の欲動 Eros は、融合と統一の状態への回帰を目指す。エロスは、分離した要素を結びつけることによって、これをする。それは、緊張(不安)の増加をもたらす。逆に、タナトスは、分離の状態への回帰を目指す。死の欲動 death drive は、結びついた要素のあいだのすべての結合を破壊することによって、これをする。それは、すべての緊張の低減をもたらす。もし、必要なら、ゼロ度まで。その意味は、事実上、死である。

ラカン理論は、この「生と死の問い」の言い直しを可能にさせてくれる。生の欲動は、「他の享楽」を目指す。結果として、大他者のなかに主体は消滅する。したがって、分離した存在としての主体の死をもたらす。死の欲動は「ファルス享楽」を目指す。それを通して、主体は大他者から己を分離する。したがって、この大他者から独立して、孤立した存在としての歩みを進める。このラカンの読解においては、生と死の概念は、ひどく相関的(親戚関係にある relative)である。すなわち、フロイトの生の欲動は、主体の死、主体の消滅を意味する。フロイトの死の欲動は、主体の生の継続を意味する。(ポール・ヴェルハーゲ、Obsessional Neurosis. The Quest for Isolation 、2001).

これは、ジジェクやドゥルーズとは、一見したところ、大きな違いがある。ヴェルハーゲは、死の欲動は、ファルス享楽(快原則)を目指して、主体の生の継続を生むと言っている。他方、エロスは大他者のなかに消滅、つまり主体の死を生むとしている。

これはフロイトの「三人の女」のヴァリエーションである。フロイトのシェイクスピア小論『小箱選びのモティーフ』にはこうある。

ここに描かれている三人の女たちは、生む女、性的対象としての女、破壊者としての女であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係なのだ。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身と、男が母の像を標準として選ぶ愛人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『小箱選びのモティーフ』,1913)

この母なる大地に回帰することが、(ヴェルハーゲ解釈では)究極のエロスということになる。

ところで、ドゥルーズ自身、このフロイトの三人の女をめぐって次ぎのように言っている。

マゾッホによる三人の女性は、母性的なるものの基本的イメージに符号している。すなわちまず原始的で、子宮としてあり古代ギリシャの娼妓を思わせる母親、不潔な下水溝や沼沢地を思わせる母親がある。―――それから、愛を与える女のイメージとしてのエディプス的な母親、つまりあるいは犠牲者として、あるいは共犯者としてサディストの父親と関係を結ぶことになろう女がある。―――だがその中間に、口唇的な母親がいる。ロシアの草原を思わせ、豊かな滋養をさずけ、死をもたらす母親である。(……)滋養をさずけ、しかも無言であることによって、彼女は他を圧する……。彼女は最終的な勝利者となる。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』)

子宮としての母親/エディプス的母親/死をもたらす母親とは、母それ自身/愛人/母なる大地というフロイトの解釈とほとんど異なるところはない。ドゥルーズの解釈なら、この死をもたらす口唇的な母親に回帰することは、エロスなのだろうか、タナトスなのだろうか。《エロスに担われて表面まで導かれる底知れぬ深淵としてのタナトス》という文節からは、タナトスと解釈せざるをえない。


ヴェルハーゲに戻れば、彼のいう(究極の)エロスとは、母なる大地という死の女神に抱きとられることである。そしてそれが、ラカンの享楽の対立軸、「ファルス享楽/ファルスを超えた享楽(他の享楽)」の後者だとしている。彼曰く、《生の欲動は、「他の享楽」を目指す》。

ほかにも彼は、別の論で、次ぎのように言っている。

フロイトのタナトス欲動は、〈他〉のなかの消滅に対抗して個の生の継続を確保する。このように解釈したら、死の欲動は、ビオス欲動である。ビオスBiosとは古代ギリシアの個の生の名である。それは死にいたるが、また個がどのように彼もしくは彼女自身の生を処するかにかかわる。ゾーエー Zoëは、逆に、永遠の生それ自体である。限定されたビオスを貫く縫い糸であり、個別的なものが消滅しても、ゾーエーは破壊されない。このように読めば、フロイトのエロスはゾーエー欲動であり、タナトスはビオス欲動である。(Paul Verhaeghe、Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender、2004)

ここでヴェルハーゲが依拠するカール・ケレーニイの記述を抜き出せばつぎの通り。

ゾーエーはすべての個々のビオスをビーズのようにつないでいる糸のようなものである。そしてこの糸はビオスとは異なり、ただ永遠のものとして考えられるのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス,破壊されざる生の根源像(Dionysos.Urbilddesunzerst・rbarenLebens)』1976)

「ディオニューソス,破壊されざる生」と出てきたので、ニーチェにもすこしだけ顔出し願おう、

――いっさいのことが、新たにあらんことを、永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを、おまえたちは欲したのだ。おお、おまえたちは世界をそういうものとして愛したのだ、――(ニーチェ『ツァラトゥストラ』酔歌 )

さて、これらから読み取れるのは、ヴェルハーゲは、ラカンのいう「永遠の生」をゾーエー=究極のエロスとしていることだ、《永遠の生の喪失は、ひどく逆説的だが、性的存在としての出産の刻限に失われる》(ラカン「セミネールⅩⅠ」)。永遠の生とは、ラカン的には、不可能な享楽、究極の享楽であり、ヴェルハーゲは、この享楽をエロスとしていることになる(この不可能な享楽 jouissance impossible と、剰余享楽plus‐de‐jouir とはまったく異なるものであることに注意。剰余享楽とは、享楽の喪失から生み出される対象aである)。

もうすこしヴェルハーゲの文を引こう。

まず我々は、性的に差異化された生の出現を生誕時に形成する。これが意味するのは、永遠の生ゾーエー Zoë の喪失である。ゾーエーは、個人の生ビオス Bios にとっての誘引力として機能し、ビオスはゾーエーに回帰しようとする。この回帰の代価は、個人の生の喪失である。これはもうひとつの傾向を生むだろう。それは、ゾーエーから逃げ出す反対方向の促しである。通常の解決法は、原初の問題をくり返すこと、たとえば相互作用を維持することだ。事実、ビオスは、性的再生産を通して、ゾーエーに参加しようとする。それは原初の喪失の反復を伴う。Paul Verhaeghe,2004)

《ビオスは、性的再生産を通して、ゾーエーに参加しようとする》とは、ヴェルハーゲ解釈に則れば、タナトスは、性的再生産を通して、エロスに参加しようとする、とできる。かつまた、ファルス享楽は、性的再生産を通して、他の享楽(ファルスの彼岸の享楽)に参加しようとする、ともできる。

ここで、欲動=死の欲動をめぐり、ラカンは次ぎのように言っていることを思い出しておこう、《……Trieb, la dérive de la jouissance.》(LACAN,Encore)。享楽からの逸脱(漂流)が、欲動である。このフレーズを、「死の欲動は原初のエロス(永遠の生)からの彷徨いだ」とすることができるなら、ヴェルハーゲの解釈と合致する。

いずれにせよ、これは、ドゥルーズやジジェク解釈とは(すくなくとも一見)正反対である。おそらくジジェクならマラブー批判と同様なことを言うのではないか。

マラブーがフロイトとユングを対照させて、ユングの(脱性化された)リビドーの一元論に対してフロイトの欲動の二元論を強調したとき、彼女は決定的なパラドックスを見ないで済ませてしまっている。すなわち、フロイトが欲動の二元論に頼ったまさにその時なのだ、フロイトが最もユング主義者であったのは。そこでは原始的な陰陽観の前近代的で根拠のないアゴニズムに退行してしまっている。(SLAVOJ ZIZEK. DESCARTES AND THEPOST-TRAUMATIC SUBJECT

もし、この三人の解釈を無理やり結びつけるなら、次のようなことになるのではないか。


   
      エロス(快原理)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
 タナトス(永遠の反復運動=剰余享楽)
   ーーーーーーーーーーーーー

   究極のエロス(不可能な享楽)



すなわち、ドゥルーズ、ジジェクの釈迦の掌であるタナトス(分母)とその上であばれる猿エロス(分子)の関係は、分母そのものが、究極のエロス=ゾーエーに支えられている、と。

いまこう記して思い出したが、臨床的ラカン派であるヴェルハーゲは次ぎの文で、哲学的ラカン派の読みを批判しているように読めないでもない。

セミネールXVIIでは、享楽の喪失を引き起こすシニフィアンの導入がある。それは一見、ラカンの以前の立場の転倒にようにみえる。が、私の読解では、そうではない。シニフィアンによって引き起こされたこの喪失は、性的生の導入によって引き起こされた喪失の上に重なるものだ。それは、この原初の喪失の別の反復iterationだけではなく、この喪失への応答を練りあげる試みである。

この応答の試みは、構造的な理由で、失敗せざるをえない。それゆえ、必然的に「もっとencore」、ーーフロイトの反復強迫である。他の場所で(“BEYOND GENDER. From subject to drive ”2002)、私はこれを、絶えまないしかしつねに失敗する循環運動として叙述した。それは、原初の原因が原初の喪失(永遠の生の喪失)であるというはずみ車flywheelの動きなのであり、原初の喪失は継続して不可能な関係を反復する。それはそのたびごとに異なったレヴェル(有機体-身体、身体的イマーゴ-自我、自我-主体、男-女)での反復である。その上、この喪失はたんに一つの喪失ではない。シニフィアンの導入は喪失とならんで獲得をもたらす。それはさらに別の多義的な表現plus-de-jouirによって完全に表現されている。

ラカンはこの剰余享楽plus-de-jouirをマルクスの「剰余価値」概念と結びつける。剰余価値の獲得は、喪失のために必然的に生じる反復と密接な関係がある。これは既に、いかに曖昧な獲得かということを示している。どこかほかの場所、原初の享楽とは異なった場所にある享楽だからだ。マルクスと比較するのは、偶然の一致ではない。というのは、この「どこかほかの場所」は、文化と産業の生産物にかかわるからだ。それは我々に(常に)一時的で部分的な満足のみを供給する。

生産物として、それらは享楽の喪失の効果であり、かつこの喪失への応答である。この意味で、それらは剰余享楽plus-de-jouirとして我々に与えられる。ラカンはこれに「享楽の欠片 les lichettes de la jouissance」という名を与えている。このように、ラカンはマルクス概念「剰余価値」にきわめて接近している。それは使用されなければならないだけでなく、浪費さえされなければならない。(Enjoyment and Impossibility: Lacan's Revision of the Oedipus Complex,2006ーー「二重に重なる享楽の喪失(Paul Verhaeghe)」)

…………

先ずはわたくしにとって、ヴェルハーゲの観点ーーフロイトの原点に戻ったそれーーが、とてもおもしろいのは、次のような説明に使えることだ。

ヨーロッパ共同体が統合に向えば向かうほど、分離や独立のナショナリズムの衝動が芽生える。(ポール・ヴェルハーゲ、1998)

人びとや国家が融合(エロス)を目指せば目指すほど、分離と闘争(アナンケ)の破壊衝動が生じるという事態は、今この現在もわれわれは目にすることができるだろう。

国家が融合(エロス)に向かえば、各民族の個性(生活様式、文化等)は消滅(死)に向かう。われわれはそれにはたえられない。だから融合を破壊する方向(タナトス)に向かい、各々の民族として生きる方向を目指す。

さらには、より日常的なわれわれの社会活動面においても、エロス(同一化)とタナトス(差異化)ということがいえる。

人間の社会的欲望には、他人を模倣して他人と同一の存在であると認めてもらいたい模倣への欲望と、他人との差異を際立たせ自己の独自性を認めてもらいたい差異化への欲望とのふたつがあるのである。(岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』)

…………

ヴェルハーゲは、2009年の時点でも見解を変更する様子はない。

エロスとタナトスの二つの欲動は、全く反対の目的を目指す。一方で、融合することが、フロイトがエロスと呼んだものであり、分離することがタナトスである。そしてそれぞれ独自の快を持っている。この観点から、我々はなぜ「とことんまでall the way」行かないのかという我々の問いへの答えを示唆しうる。

まず最初に二つの相克する方向のせいであり、第二にどの方向も主体にとって堪え難い最終的な代償があるせいである。

タナトス欲動は理解するのに簡単だろう。それは解放とゼロテンションにむけて励む。それは最終段階としての死、そして死に向かった強烈な踏み台としてのオーガズムである。フロイトにとって、タナトスの目標とは分離であり、より大きな統一体からより小さな断片への絶え間ない分裂である。主体の水準において、これが意味するのは、他者からの分離であり、強化された個人的特性ーー私はここにいる、独立した人間として存在する、である。

エロスの目標は全く反対だ。それは融合であり、異なった要素を統合して、より大きな全体とすることである。そこでは個々の要素は、その個人的特性を失う傾向にある。生は、絶えず増大する緊張の集合体であり、それは純粋な享楽である。もっとも個人にとってはそうではない。個人は集合体へと消滅してしまう。個人はこの消滅をきわめて怖れることになる。

単独でタナトス欲動に従えば、我々は孤立して最終的には死ぬ。もっぱらエロス欲動に従えば、同様に我々は消滅する。今度はより大きな統合に飲み込まれるのだ。どちらもそれぞれ固有の享楽がある。どの人間も彼(女)自身の道の地図を作らねばならない。フロイトは、標準的な環境においては、二つの欲動は混ぜ合わされ(欲動融合Triebmischung)、各個人の人生において絶え間なく変化するカクテルだと言う。

ラカンはこのフロイトの論拠を引き継ぐ。享楽と死はきわめて近いものだ。享楽への道は、死への道である(Lacan, [1969-70], p. 18)。享楽それ自体、生きている主体には不可能である。というのはそれは自身の死を意味するのだから。唯一残された可能性は遠回りの道筋を取ることだ。目的地への到達を可能なかぎり遠くに延期してその道筋を行ったり来たりすることである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains、2009)