マナは神秘的であるのみならず、次元の異なったなにものかでもある。要するにマナは、まず第一にある種の作用、つまり共感的な存在の相互間に生み出される遠隔の霊的作用である。それはまた同時に、重さのない伝達可能な、そして自ら拡散する一種のエーテルである。(マルセル・モース『社会学と人類学 (1)』)
われわれは、マナ型に属する諸概念は、たしかにそれらが存在しうる数ほどに多様であるけれども、それらをそのもっとも一般的な機能において考察するならば(すでに見たように、この機能は、われわれの精神状態のなかでもわれわれの社会形態のなかでも消滅してはいない)、まさしく一切の完結した思惟によって利用されるところの(しかしまた、すべての芸術、すべての詩、すべての神話的・美的創造の保証であるところの)かの「浮遊するシニフィアン(signifiant flottant)」を表象していると考えている。 (レヴィ=ストロース『マルセル・モース著作集への序文』)
ーーと二つの文を並べたが、レヴィ=ストロースはモースの「マナ」概念を参照しつつも、より形式的に捉えつつ、「浮遊するシニフィアン(signifiant flottant)」と言っている(いくらかのモース批判もあったはずだが、詳しいことは知らない)。
これはラカンによって、(まずは)「ポワン・ド・キャピトン point de capiton」(クッションの綴じ目)と言い換えられ、その後、ミレール=ラカンによって「縫合 Suture」概念が前面に出る。
これらは、ファルス、主人のシニフィアン、サントーム概念などにもかかわる(ジジェク2012にその詳細の説明があるが、そのうち訳して掲げるかもしれない。今日は歯痛で訳す気にならない。文章のパッチワーク程度が関の山だ)。
ミレールにとって、縫合は、Σ(サントーム)である。ジジェクにとっては、ファルスのシニフィアンΦ、S(Ⱥ)ーー「他」の/なかの欠如のシニフィアン・「他」の非一貫性のシニフィアンーーが、主人のシニフィアン S1であり、シニフィアン「一」 l'Un-signifiant」である。
「一」自体が、厳密な意味での、非一貫性を生む。「一」がなければ、たんに平坦な・平凡な「多」multiplicity があるだけだ。「一」は、元来から、(自己)分割のシニフィアンであり、究極の補足あるいは過剰である。先行して存在する現実界を再徴付けのために、「一」はそれ自身から己を分割し、それ自身との非合致 non‐coincidence を導入する。
結果として、事態をいっそうラディカル化するなら、主人のシニフィアンとしてのラカンの「一」は、厳密な意味で、それ自身の不可能性のシニフィアンである。ラカンはこれを明瞭化している。それは彼が、どの「一」、どの「主人のシニフィアン 」S1も、同時に S(Ⱥ)ーー「他」の/なかの欠如のシニフィアン・「他」の非一貫性のシニフィアンーーだと強調したときだ。したがって、「一」がそれ自身と決して十全には合致しないから、「他」がある、というだけではない。「他」が棒線を引かれている barred・欠如している・非一貫的であるから、「一」がある(ラカンの Y a d'l'Un)ということだ。〔ジジェク、2012、私訳ーー「ゼロと縫合 Suture」)
ジジェク解釈のサントームΣはどうか。
主人のシニフィアンは、無意識のサントーム、享楽の暗号である。主体はそのシニフィアンに、知らないままで主体化されている。(ジジェク『パララックス・ヴュー』2006ーー父の名、Φ、S1、S(Ⱥ)、Σをめぐって)
ジジェク解釈では、ラカンによる「マナ」のラディカル化により、これらがすべて浮遊するシニフィアン、非意味のシニフィアン(ドゥルーズ)と相同性をもつ、としている。
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が、ここでは、それらに触れず、ロラン・バルトのマナをめぐる叙述を掲げるのみにする。
言語活動の生き物として、作家はいつもフィクションの(特殊語法の〔パレル〕)戦争に巻き込まれている。しかし、彼を成立たせている言語活動(エクリチュール)はいつも場所の外にある(アトピックである)から、彼は、そこでは、いつも玩具でしかない。多義的(エクリチュールの初歩段階)であるというだけで、文字のパロールの戦闘参加は始めから怪しい。作家はいつも体系の盲点にあって、漂流している。それはジョーカーであり、マナであり、ゼロ度であり、ブリッジのダミー、つまり、意味に(競技に)必要ではあるが、固定した意味は失われているものである。彼の位置、彼の(交換)価値は、歴史の動きや戦術によって変わる。彼には、すべて、および/あるいは 無が要求される。彼自身は交換の外にあって、利益ゼロ、無所得禅の中に没入する。単語の倒錯的な悦楽以外には何も得ようとせずに(しかし、悦楽は決して獲得ではない。悦楽と悟り、忘我の間に、距離はない)。逆説。すなわち、(悦楽によって死の無償性に接近する)エクリチュールのこの無償性を作家は沈黙させる。彼は体を引き締め、筋肉を堅くし、漂流を否定し、悦楽を抑える。イデオロギーの抑圧とリビドーの抑圧(もちろん、知識人が自分自身に、自分自身の言語活動に加える抑圧)の双方と同時に戦う作家は非常に少ない。 (ロラン・バルト『テクストの快楽』)
マナとしての語
ひとりの著作者の語彙系の中には、つねにひとつ、マナとしての語の存在する必要があるのではないか。その語の意味作用、燃えさかり、多様な形をもち、補足できず、ほとんど神聖であり、その語から人は、それによって何にでも応えることができる、という錯覚を与えられる。その語は、中心はずれでもなければ、中心的でもない。それはみずから動くことなく、しかも運ばれ、漂流し、決して《仕切りの中にはめ込まれる》ことなく、つねに《アトピック》であり(どんなトピカからも逃れ)、残余であると同時に追加であり、ありとあらゆる記号内容をまとめて代表する記号表現である。その語は彼の仕事の中に徐々に姿をあらわした。それははじめのうち、“真理”の審級(“歴史”のそれ)において覆い隠されていた。次には“妥当性”の審級(体系と構造のそれ)において覆い隠された。が、今、それは開花している。その、マナとしての語、それは「身体」という語である。 (『彼自身によるロラン・バルト』)
悦楽 jouissance とは、享楽とも訳される。かつまた「漂流 dérive」という語にかかわり、身体 corps ともかかわる(参照:L'Autre、c'est le corps ! )。 バルトにとって、「浮遊するシニフィアン」とは、「漂流するシニフィアン」であり、これがマナである(おそらく、ラカンの「波打ち際 littorale」概念も漂流にかかわるだろう)。前回、「マークつきの空虚」も、バルトにとって、マナであるだろうことを見た。
・・・・・《欲動》は、わたしたちにとって、心的なものと身体的なものとの境界概念 ein Grenz-begriff として、つまり肉体内部から生じて心に到達する心的代表 psychischer Repräsentanz として、肉体的なものとの関連の結果として心的なものに課された作業要求の尺度として立ち現われる。(フロイト『欲動および欲動の運命』1915)
フロイトのいう欲動 der Trieb を、ただちに本能 der Instinkt の概念に重ね合わせることはできない。本能とは『遺伝によって固定されたその種に特徴的な行動を示すための概念』であり、欲動とはそのような本能からのずれ、逸脱、漂流 dériveだからである(ラカン、セミネールⅩⅩアンコール.)
ーーということについては、「漂流(出現ー消滅)する女たち」にいくらかのメモがある。
わたくしは、上の文章群から、mana = S(Ⱥ) としたいのだが、ネット上にある英文、仏文では誰もそういっているのに当らないので、何かの間違えだろう。
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最後に注意しておくが、バルトの捉え方が、ラカンと同じとは限らない。
たとえば、ラカンのセミネールⅩⅣには次のような文がある。
……signifiant de A barré S(Ⱥ), à savoir la disjonction de la jouissance et du corps (p.197)
この時期の「身体 corps」、あるいは、この文脈での身体ーーマゾヒズムをラカンはこの前文で語っているーーをどう捉えるかにもよるが(ラカンには三つの身体がある)、言葉面だけをみれば、バルトの言い方とは合致しない。