…………
《ラカンについての私の初期の仕事は、父の名、S(Ⱥ)、Φ、S1などのあいだの「真の区別」を把握することにひどく関心があった。それらの多様な意味と使用法に苦しんだのだ。…ここでは、反対に、それぞれの異なった文脈にとってフィットするようにそれらを解釈した》という意味のことを「あとがき」で書いているのは、“THE LACANIAN SUBJECT BETWEEN LANGUAGE AND JOUISSANCE”(1995) の Bruce Finkである(邦訳名『後期ラカン入門: ラカン的主体について』ブルース・フィンク 2013)。
フィンクが正直にいっているのは、父の名、S(Ⱥ)(斜線を引かれた〈他者〉のシニフィアン)、Φ(象徴的ファルス)、S1(主人のシニフィアン)はときに区別がつきがたいということだ。
たとえば、ラカンのセミネールXVII(精神分析の裏面)の英訳のいくつかの解説論文のひとつである、enjoyment and impossibility by Paul Verhaeghe2006にはこうある。
(セミネールⅩⅦは)この点で、ラカンは重要なニュアンスを加えている。それによって、父の名にかんする彼の以前の理論を相当に変化させている。主人のシニフィアンはどんなシニフィアンによっても生みだされうる(p144)。このニュアンスは「父の名」の理論の進化のタームで理解されうる。それは「父の諸名」へ、最後には、主人の例証によってS1として生みださる限り、どんなシニフィアンにでも(その資格がある)、となる(p101)。はっきりしているのは、我々は「父の名」という例外的なシニフィアンから長い道のりを経たということだ。
ここに書かれているのは、すくなくともセミネールⅩⅦの時点で、S1(主人のシニフィアン)=父の名となったということだ。ラカンが「〈他者〉の〈他者〉はいない」と言ったのは、まずはセミネールⅥ(1958-1959)だが、その前のセミネールⅤでは、「他者の他者は存在する」ーー直接にはこうではないが明らかにそう捉えられうる表現をしているようだ。
セミネールV(1957‒1958)は、議論の余地なく、「〈他者〉の「他者〉は存在する」という仮定のもとに、父の隠喩の機能を導入している。ラカン曰く、《分析の経験が我々に示してくれるのは、〈他者〉にかんする〈他者〉Other with respect to the Otherによって提供される背景[arrière-plan] の必須性である。それなくしては、言語の世界は自らを分節化できない》。
一年もたたないうちに、今度はセミネールVIで、躊躇なく宣言することになる、《〈他者〉の〈他者〉はない…シニフィアンのどんな表明の具体的な成り行きconsequenceを支えるシニフィアンは存在しない》(=メタランゲージは存在しない:訳者)。(Lorenzo Chiesa『Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan』 2007)
これは、たとえばヴェルハーゲのような記述を暗に批判しているといってよいだろう。
……この変貌の波紋は、ラカンのその後の仕事全体を通して、轟き続けた。まさに最後まで、絶え間なく寄せてはかえす波のように。実に理論の最も本質的なメッセージは、どの理論も決して完璧ではないということだ。循環する論述によって組み立てられた閉じられたシステム、それを我々はフロイトとラカンとともに以前は見出した(原父や父の名によって保証される父、逆も同様)。だがそれは一撃で破棄された。(PAUL VERHAEGHE,の『New studies of old villains』2009ーー二重に重なる享楽の喪失(Paul Verhaeghe))
いずれにせよ、50年代半ばのラカンにとっては、父の名はあった(「〈他者〉の「他者〉は存在する」とは、象徴的〈他者〉を支える至高の存在がある、という意味である)。60年前後以降のラカンにとっては父の名はない。とすれば50年代と60年以降の用語の意味は異なってくるのだが、ラカンはそれを説明することは稀だ。
60年以降についても同様であり、セミネールⅩⅦやⅩⅩでの転回、さらにⅩⅩⅢの「サントーム」のセミネールでのサントームΣ概念、これでさえ主人のシニフィアンや父の名との正確な区別がつき難くなるときがある。
父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ。(Thomas Svolos“ Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant”2008)
主人のシニフィアンは、無意識のサントーム、享楽の暗号である。主体はそのシニフィアンに、知らないままで主体化されている。(ジジェク『パララックス・ヴュー』2006)
ほかにもジジェクは、最近、別に“phallic Master‐Signifier ”(2012)という表現を連発している。
これは象徴的ファルスΦと主人のシニフィアンS1を同じものと扱っているとしてよいだろう。とすれば、後期ラカンにとって、場合によっては、父の名=Φ=S1ということになったとして、-ーーさらにつけ加えて父の名=S(Ⱥ)=Σーーなどとすることは、わたくしは遠慮深いタチなので書かないでおく。
そんなことをするより、「誠実な」フィンクの文章を読むほうがいい(THE LACANIAN SUBJECTよりの私訳)。
S(Ⱥ) ーー〈他者〉のなかの欠如のシニフィアン。〈他者〉は構造的に不完全であるので、欠如は〈他者〉の固有の特徴である。しかし、その欠如はつねに主体に明白であるわけではないし、明白であるときでさえ、つねに名づけ得ない。ここで我々はその欠如を名付けるシニフィアンをもつ。それは、全ての象徴秩序、全ての他のシニフィアン (S2)の「錨を留める点anchoring point 」であり、しかし精神病においては(父の名として)排除されている。女の構造のラカンの議論においては、それは、言語の物質性もしくは実体により関係(そしてsignifiernessとしての対象aに関係)があるようにみえる。(Fink,1995)
ーーsignifiernessとはラカンのsignifianceのフィンクによる訳語で、たとえばアンコールにて、l’être de la signifianceという形で使用されている(シニフィアンの実体? なんという美しいパラドックス! と記すのは、ポール・ヴェルハーゲ2002だ)。
これは(S(Ⱥ) )はS(a)と書けるかもしれない。注意しておこう、少なくともラカンがS(Ⱥ) について言ったことの一つは、私の解釈を立証しないかもしれないことを。《S1とS2はまさに私が分裂したAによって示したものである。それは分離シニフィアンS(Ⱥ)に作り変えたものである。S1 and S2 are precisely what I designate by the divided A, which I make into a separate signifier, S(Ⱥ)》(Seminar XXIV, May 10, 1977)。
この引用が少なくともはっきりさせてくれるのは、S(Ⱥ)は、この時点でのラカンの思考において、分裂した或いは斜線を引かれた〈他者〉、すなわち不完全としての〈他者〉であることを示していることだ。しかしながら、それが、欠如する或いは欲望するものとしての〈他者〉のシニフィアンと S(Ⱥ) を同じものだとする限り、〈他者〉の欲望のシニフィアンにかかわる。それを、私は提案するのだが、S(a)と書きうる、と。とはいえ、このように言うなら、ファルス(Φ)とも同じでありうる。他方、私の感覚では、ここで問われているのは、喪われたものとしての母なる〈他者〉の欲望mOther's desire as lost、あるいは喪われた母-子の統合である。(Fink,1995)
上の文で、S(Ⱥ)をS(a)とするフィンクの見解は、ここでの議論からいったん外すーーこれはȺ=aとすることでもあり、「喪われた母-子の統合」=原トラウマとすれば、ある意味で当然の帰結だーー。ここではラカンのセミネール XXIVの言葉に注目しよう。それを読めば、フィンクのいうとおり、S(Ⱥ)とは象徴的ファルスと同じものとなる。しかもこの見解は1977年に表明されており、最晩年のラカンとしてよいだろう。
なぜ、S(Ⱥ)=象徴的ファルスΦとなりうるかについては、「「波打ち際littorale」と「横棒としての象徴的ファルスΦ」」を見よ。
…………
以下、小笠原晋也氏のツイッターセミネールから抜き出せばかくの如し。
①S1 は,或る意味で「父の名」です.「父の名」の概念は S1 に尽きるわけではありませんが.
②…その意味においては S1 は signifiant Φ と等価です.(……)しかし,父の名の概念は S1 に尽きるわけではありません.
③父の名の概念の最も基本的な定義は「徴象の機能の支え」 « support de la fonction symbolique » です.1953 年のローマ講演におけるこの fonction symbolique という表現は,fonction de la paroleの言い換えです.fonction de la parole はローマ講演のタイトルの含まれている表現です.
④……そのような父の名は,signifiant と signifié とを相互につなぎとめておく point de capiton と同じです.point de capiton とは,マットレスやクッションのなかの詰め物がずれて,かたよってしまわないように,表面の布地と詰め物とをつなぎとめておく縫い目です.表面の布地は signifiant, 中の詰め物は signifié に相当します.
⑤1972 年のテクスト Étourdit においては,父の名は réel なもの,つまり不可能なもの,書かれぬことをやめないものとして言及されています.しかし,1973-74 年の Séminaire, Les non-dupes errent において,新たな展開が為されます.
⑥父の名と φ barré とは等価である.Nom-du-Père ≡ φ barré
Freud が死の本能と呼んだものは,我々の学素では φ barré です
⑦1973-74 年の Séminaire Les non-dupes errent において Lacan は,父の名との関連において nomination の概念を提示します.nomination は「命名」だけでなく「任命」です.つまり,nomination は destitution 「罷免」の逆です.罷免と分離に次いで,φ に新たな名 a を与えること.それは,無からの創造としての sinthome :症状,聖状,聖人の概念へとつながって行きます.
①において、S1=父の名
②において、S1=象徴的ファルスΦ
③④において、父の名=象徴的ファルスΦ
⑤⑥において、父の名=死の欲動
⑦において、父の名=サントームΣ
死の欲動は、フィンク見解の「喪われた母-子の統合」S(Ⱥ)とすれば(本来Ⱥーー《Ⱥutre は,抹消されたファロス φ barré と等価です、そして,実在的なものとしての父の名は,φ barré にほかなりません》(小笠原)ーー、あるいはフィンクのS(a)を想起するならaとすべきだろうが、ここでは精密さをはぶいて記すれば)、
最後にこう記しておこう、騙されない者は間違える、と。
les non‐dupes errent(騙されない者は間違える)は、le‐Nom‐du‐Père(父の名)と同じ発音である。
とはいえ肝腎なのは、人はどのレヴェルで「父の名」に騙されるか、である。
(そのうち続く)
→ S(Ⱥ) とΦ の相違(性別化の式)、あるいは Lⱥ Femme
②において、S1=象徴的ファルスΦ
③④において、父の名=象徴的ファルスΦ
⑤⑥において、父の名=死の欲動
⑦において、父の名=サントームΣ
小笠原解釈でも、父の名=S1=Φ=S(Ⱥ)=Σとなる・・・
ーーもちろんこれは半ばジョークであるが、半ばはマジメである。
要するに、フィンクの言う通り、それぞれの文脈において、ラカンが何をいいたいのかを摑むことが大切なのだが、ラカンのマテームの意味内容の変遷の把握は、それなりに「すぐれた」ラカン研究者でもかくの如く「混乱」を極めている。とすれば、マテームを利用するのは、ただひたすらいっそうの混乱を招くだけではないか?
最後にこう記しておこう、騙されない者は間違える、と。
les non‐dupes errent(騙されない者は間違える)は、le‐Nom‐du‐Père(父の名)と同じ発音である。
とはいえ肝腎なのは、人はどのレヴェルで「父の名」に騙されるか、である。
(そのうち続く)
→ S(Ⱥ) とΦ の相違(性別化の式)、あるいは Lⱥ Femme