このブログを検索

2016年2月21日日曜日

クッションの綴じ目と社会的縫合

バルトとマナ(浮遊するシニフィアン signifiant flottant)」の捕捉(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012より私訳)

…………


【自己再帰的シニフィアン】

……しかし、不在自体が、現前として或いはポジティブな事実として機能するならーー例えば、女のペニスの欠如自体が「奇妙な事件」ならーー、現前(男のペニスの所有)もまた、その(可能なる)不在の背景に対してのみ生じうる。しかし、正確に言って、どのように? ここで、我々は、徴示的審級 signifying order への自己再帰性 self‐reflexivity を導入する必要がある。すなわち、ひとつのシニフィアンのアイデンティティは、一連の構成的差異以外の何ものでもないのなら、すべての徴示的連鎖は、一つの再帰的シニフィアンによって補充されなければならないーー「縫合 suture」されなければならない--。この再帰的シニフィアン自体は、いかなる確定した意味もない(シニフィエされることはない)。というのは、それは、意味の現前自体、その不在に対立したものとしての意味の現前の代わり「のみ」を表すからだ。


【マナと過剰シニフィアン】

そのような一つのシニフィアンの必要性を最初に全面的に詳述したのは、レヴィ=ストロースだった。それは、彼の有名な「マナ」解釈である。彼の成果は、神話や魔術の非合理的コノテーションを厳密な象徴的機能に還元して、マナを脱神秘化することだった。

レヴィ=ストロースの出発点は、定義上、意味の担い手としての言語は、全地平を覆いつつ、一度に発生するというものだ。《動物の生の上昇のなか、その不意の登場の瞬間と環境がいかなるものであれ、言語は唯一、突如一斉に現れうる。物が漸次に意味し始めたなどということはあり得ない》(レヴィ=ストロース『マルセル・モース著作集への序文』)。

しかしながら、この突如の出現は、シニフィアンとシニフィエの二つの秩序のあいだに不均衡を導入する。というのは、徴示する(シニフィアン化する)ネットワークは有限であり、シニフィエ全体の無限の領野を充分には覆い尽くせえないから。このように、《…人間はその出発から、シニフィエにいかに割り当てるかに当惑しつつ…、シニフィアン-全体性を配置する。

二つのあいだには、常に非等価性、あるいは「不適応」がある。この不適合、零れ落ちるものは、神の了解 divine understanding のみが吸収しうる。これが、諸シニフィエの領野に関して、一つのシニフィアン-過剰を生み出す…。

ゆえに、人間は、世界を理解しようとする試みにおいて、意味作用の剰余を常に処理している…。一つの補充配給の分配(ゼロシニフィアン)が、次のことを請け合うために断然必要なのだ。すなわち、全体として、利用できるシニフィアンと配置されたシニフィエが、相互補完性の関係のなかにあり続けるために。相互補完性とは、象徴的思考運動のまさに条件である。》(同、レヴィ=ストロース)

このように、すべてのシニフィアン化 signifying 領野は、補充のゼロシニフィアンによって「縫合」される。《ゼロの象徴的価値、すなわち、補充の象徴的内容の必然性(必要性)を徴付ける記号、シニフィエが既に含有するものの上に覆い被さるもの》(同、レヴィ=ストロース)。


【純粋状態におけるシンボル=浮遊するシニフィアン】

このシニフィアンは、「純粋状態におけるシンボル a symbol in its pure state」である。どんな確定した意味も欠如しており、意味の不在と対照的に、意味の現前自体を表す。さらにいっそう弁証法的捻りを加えるなら、意味自体を表すこの補充シニフィアンの顕現の様相は、「非意味」である(ドゥルーズが『意味の論理学』でこの要点を展開したように)。こうして、マナのような概念は、《あらゆる有限の思考から逃れ去る「浮遊するシニフィアン」以外のなにものでもないものを表象する》(同、レヴィ=ストロース)。


【マナ=詩的過剰】

ここで最初に注意することは、レヴィ=ストロースは、科学的ポジティヴィズムに取り組んでいることだ。彼はマナの必然性を基礎づける。我々の言語の束縛と無限の現実とのあいだの裂け目のなかに、である。初期バディウやアルチュセールのように、レヴィ=ストロースは、縫合化要素の必要を生み出す欠如の弁証法から、科学を遮断する。

レヴィ=ストロースにとって、マナは「詩的 poetic」過剰を表す。それは、我々の無限の苦境の束縛を埋め合わせる。他方、科学の奮闘は、まさにマナを宙吊りにし、直接的な程よい知を提供することだ。

アルチュセールに従って、人は主張することができる。マナは、イデオロギーの基礎的作動因子だと。それは、我々の知の欠如を、言語を超えた「意味」の剰余のイマジナリーな経験へとひっくり返す。


【マナのラディカル化】

正当的な「縫合」に向かう次のステップは、三つの相互連関的な取り組みで構成される。

①マナの普遍化(ゼロシニフィアンは、単にイデオロギーの徴ではなく、全てのシニフィアン化構造の特徴である)。

②マナの主体化(シニフィアンの連鎖への主体の刻印の点として、マナを再定義すること)。

③マナの時間化(経験的ではなく論理的な時間性(一時性 temporality)、まさにシニフィアン構造へと刻印されるものとして)。
ジジェク注)レヴィ=ストロースにとって、象徴的構造は、構造のあらゆる可能な置換の「非一時的 atemporal 」母胎である。他方、ラディカル化されたマナは、構造のなかに、還元不能の「一時性 temporality」を導入する。他方、「浮遊する」ゼロシニフィアンは、「一」と「ゼロ」とのあいだ、存在と非存在とのあいだ、言語を絶した意味の充満と非意味とのあいだの、終わりなき揺れ動きである。これは、フロイトが反復性強迫とよぶものの最も基本的形式 formulaだ。


【ラカンのクッションの綴じ目と縫合】

…この三つの取り組みーーマナから「縫合」への決定的ステップーーは、ラカンによって、漸進的に成し遂げられた。始まりは、「ポワン・ド・キャピトン point de capiton」(クッションの綴じ目)概念の分節化だった。これは明らかに、「縫合」への明瞭な参照である。

レヴィ=ストロースにおけるように、「クッションの綴じ目」は、二つの領野、すなわちシニフィアンとシニフィエの領野を縫合する。ラカンは正確に言っている、《シニフィアンはシニフィエのなかに落ち入る》と。

※ジジェクは、“the signifier falls into the signified.”と記しているが、引用元の記載はない。

ただし、ラカンのセミネール20に次の表現はある。《il y a du signifiant qui s'injecte dans le signifié》

il y a du signifiant qui passe sous la barre. S'il n'y avait pas de barre vous ne pourriez pas voir qu'il y a du signifiant qui s'injecte dans le signifié

(フィンク英訳)
Were it not for this bar above which there are signifiers that pass, you could not see that signifiers are injected into the signified.

(フィンク注)
Lacan's French here, vous ne pourriez pas voir qu'il y a du signifiant qui s'injecte dans le signifié, is rendered a bit odd because Lacan doesn't say a signifier or several signifiers, but rather some signifier, in the sense un which we speak in Enghsh about "some bread" or "some water," in other words, as an unquantifiable substance. Here, signifier is injected into the signified, apparently like fuel is injected into an engine.

ーーー「シニフィアンがシニフィエのなかに投入される」とは、見たところ、「ガソリンがエンジンのなかに投入される」というようなものだ、とされている。


【名前による縫合】

《シニフィアンはシニフィエのなかに落ち入る》とは、正確な意味において、名前が、それが指し示す対象に含まれるということだ。ーーシニフィアンはシニフィエのなかに割り込まなければならない has to intervene into 、意味のまとまり unity の劇が上演されるためには。特徴や属性の多様性をたった一つの対象のなかに統合するunites ものは、究極的には、その名前である。

この理由で、どの名前も究極的にはトートロジカルである。例えば、「薔薇」は一連の属性をもった対象だ。しかし、これらの属性すべてのをひとまとめにするのは、名前自身である。

ーーここでジジェクが言っていることは、フレーゲのゼロ、「一」の定義(あるいはゼロから「一」への移行におそらくかかわる(参照:ゼロと縫合 Suture)。

かつまた、微妙な定義の相違を無視すれば、バディウの l'Un n'est pas と compte-pour-un にかかわる(参照:“Badiou, L'être et l'événement”)。

そして、バディウの概念は、ラカンのシニフィアン「一」 l'Un-signifiant(主人のシニフィアンS1)、「一の徴」trait unaire (フロイトの「ein einziger Zug」)に起源がある(参照:Count-as-one, Forming-into-one, Unary Trait, S1 by Lorenzo Chiesa、PDF)。

ジジェクの同じ書の別の箇所(現前と再現前(表象))をめぐる文を抜き出せば、次ぎのような説明がなされている。

「一」自体が、厳密な意味での、非一貫性を生む。「一」がなければ、たんに平坦な・平凡な「多」multiplicity があるだけだ。「一」は、元来から、(自己)分割のシニフィアンであり、究極の補足あるいは過剰である。先行して存在する現実界を再徴付けのために、「一」はそれ自身から己を分割し、それ自身との非合致 non‐coincidence を導入する。

結果として、事態をいっそうラディカル化するなら、主人のシニフィアンとしてのラカンの「一」は、厳密な意味で、それ自身の不可能性のシニフィアンである。ラカンはこれを明瞭化している。それは彼が、どの「一」、どの「主人のシニフィアン 」S1も、同時に S(Ⱥ)ーー「他」の/なかの欠如のシニフィアン・「他」の非一貫性のシニフィアンーーだと強調したときだ。したがって、「一」がそれ自身と決して十全には合致しないから、「他」がある、というだけではない。「他」が棒線を引かれている barred・欠如している・非一貫的であるから、「一」がある(ラカンの Y a d'l'Un)ということだ。〔ジジェク、2012、私訳)

ーーこの文にかかわる核心は、ジュパンチッチのバディウ論([現前と再現前])である(Alenka Zupancic、The Fifth Condition”、2004、PDF)。いくらかの私訳は「反復されることになる最初の「真理」などは、ありはしない?」の後半を見よ。

ジジェクの縫合にかかわる説明は、この後もまだ長々続くが、ここでは、次の文だけを抽出して掲げておく。


【主人のシニフィアンの縫合と新しい階調】


〈主人のシニフィアン〉とは何だろう?社会的崩壊の混乱状況を想像してみよう。そこでは、結合力のあるイデオロギーの力はその効果を失っている。そのような状況では、〈主人〉は新しいシニフィアンを発明する人物だ。そのシニフィアンとは、名高い「縫い合わせ点quilting point」、すなわち、状況をふたたび安定化させ、判読可能にするものである。(……)〈主人〉は新しいポジティヴな内容をつけ加えるわけではまったくない。――彼はたんにシニフィアンをつけ加えるだけだが、突如として無秩序は秩序、ランボーが言ったような「新しいハーモニー」に変ずるのだ。(ジジェク、2012,私訳(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳ーー「あらゆるものを包みこむ「名前」による新しい階調」)

ーージジェクはここでランボーの詩「A une raison」に触れている(ラカンの『アンコール』に引用がある)。

Un coup de ton doigt sur le tambour décharge tous les sons et commence la nouvelle harmonie.(君の指先が太鼓をひと弾きすれば、音という音は放たれ、新しい階調が始まる)

要は、ラカンやジジェクの、マナのラディカル化とは、主人のシニフィアンS1やサントームΣの縫合機能へと展開されてゆく。そして、資本の論理(市場原理主義)社会の(倫理的)崩壊状況に対抗するための社会的縫合機能として、マナ、あるいは浮遊するシニフィアンを捉えなおそうとしている。

このあたりのことは、何もラカン派でなくても、無意識的にであれ、気づかれている。

日本でも、辺見庸がしきりにいう「言葉を探そう」とは、この文脈で(も)捉えられる。

小泉義之ならこう言う(ラカン派的観点ーー少なくともセミネールⅥ以降の「大他者の大他者はいない」Ⱥのラカン(参照)ーーからは、超越的シニフィアンではなく、超越論的シニフィアンだが)。

仮に既成政党をガラガラポンするにしても、そのためには、既成政党を少しばかり越え出 る大義が必要である。外部注入が必要である。超越的シニフィアン、空白の玉座、空虚な シニフィアンが必須である。(「皺のない言葉」(アンドレ・ブルトン)


松浦寿輝は、戦前の「国体」概念を《シニフィエの空虚それ自体によって初めて有効に機能しうるシニフィアン》(松浦寿輝『国体論』)としているが、善悪は別にして、この「国体」という名もゼロシニフィアン(社会的縫合)の機能をもっていた、とすることができる。

現在、右翼側からのそれに近似したものは、「戦後レジームからの脱却」であり、左翼側からは、たとえば「世界共和国」(柄谷行人)だろう。

そもそもドゥルーズの「概念の創造」も、ラディカル化された「マナ」、あるいは「縫合」でありうる。

・単純な概念とは存在しない。あらゆる概念は、いくつかの合成要素をもち、それらによって定義される。

・あらゆる概念は少なくとも二重のものであり、あるいは三重、四 重等々である。一切の合成要素をそなえた概念と言うものもまた存 在しない。

・古代の哲学者たちは、自分たちの概念の創造をおこなったのであって、わた したちの時代の批評家や歴史家のように骨のすすを落とし、骨にぞうきんをか けるだけで満足するようなことはいささかもなかったのだ。(ドゥルーズ&ガタリ『哲学とは何か』)

…………

ジジェクによる主人のシニフィアン解釈詳細は、「ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」(ジジェク)」を参照のこと。たとえば、上に掲げたランボーの「新しい階調」解釈のヴァリエーションとして次のような文がある。

主人のシニフィアンとはなにか? 記念すべき第二次世界大戦の最後の段階で、ウィンストン・チャーチルは政治的決定の謎を熟考した。専門家たち(経済的な、また軍事的な分析家、心理学者、気象学者…)は多様かつ念入りで洗練された分析を提供する。誰かが引き受けなければならない、シンプルで、まさにその理由で、最も難しい行為を。この複合的な多数的なもの multitude を置換しなければならない。多数的なものにおいては、どの一つの理屈にとってもそれに反する二つの理屈があり、逆もまたそうだ。それをシンプルな「イエス」あるいは「ノー」ーー攻撃しよう、いや待ちつづけよう…ーーに変換しなければならない。

理屈に全的には基礎づけられえない振舞いが主人の振舞いである。このように、主人の言説は、S2 と S1 のあいだの裂け目、「ふつうの」シニフィアンの連鎖と「法外の」主人のシニフィアンとのあいだのギャップに依拠する。〔ジジェク、2006)